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[53834] City Lights 投稿者:なすのせせ 投稿日:2011/03/03(Thu) 01:02  

> Charlie Chaplin - City Lights
> http://www.youtube.com/watch?v=C_vqnySNhQ0&feature=BF&list=QL&index=50
>
> ソレガシはこの短い詩的な一コマが好きで泣かされます。

この映画も覚えています。どこで誰と観たのか、覚えていないのですが。
そうそう「詩的」というのはこういうものですね。純粋、純情、この男の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいような人間がうじゃうじゃうじゃいるなぁ……。

> > 花粉症我が鼻孔の狭き門
>
> わがことならずもみにつまされます。もっともそれがしの鼻孔は丸くてでかいので決して狭き門ではなく、酸素も花粉も埃も吸い込み放題なので、鼻くそがたまりやすく・・・にもかかわらずか、はたまた、それゆえにか、花粉症にはならぬ、

この季節だけ、その鼻を貸して欲しい。代わりに花をあげるから。
今年の花粉は多いので、症状も幾分重症。


[53833] あのへんは美人の産地らしいが、だうも、調子がでん。。Re:[53832] した次第。Re:[53824] 暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/03/01(Tue) 19:53  

りとれねちANNEX−Ω   訪問者数:2349713(今日:347/昨日:411)2011/03/01(Tue) 18:32

Momoe Yamaguchi 山口百恵Sayonaranno Mukoogawa さよならの向う側
http://www.youtube.com/watch?v=jbo2aQd-dAM

in tears, very emotionalといえばこれに極まりますね。まうとっくに成人した甥っ子の幼稚園運動会の父兄会で・・・

> ためわおまANNEX−Ω   訪問者数:2349695(今日:329/昨日:411)2011/03/01(Tue) 17:28
>
> Celine Dion - Alone (in tears, very emotional)
> http://www.youtube.com/watch?v=diQpMjq-lhQ&feature=BF&list=QL&index=21
>
> 木村のこころの病理よりもやっぱす、こっちとか、キルケゴールのはうが、いろいろと俳句のネタにはなりますの。残念ながら日本語訳ぢゃくなて中国語のやうですが、うむ、七言絶句になるやもしらんわの。
>
> > るらほうよANNEX−Ω   訪問者数:2348195(今日:131/昨日:592)2011/02/26(Sat) 08:45
> >
> > The Power of Love by Andrea Bocelli
> > http://www.youtube.com/watch?v=Esq0U_lvgsA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=11
> >
> > これは
> >
> > Celine Dion The Power Of Love Lyrics
> > http://www.youtube.com/watch?v=9BHoj8uFdr8&feature=BF&list=QL&index=6
> >
> > も、うたっておって、甲乙つけがたいいあじわいではるが、ソレガシはやっぱす男であるからすて、Andrea Bocelliのはうがええが、可愛さではやっぱすCeline Dionか。
> >
> > あの、けさの夢、それに無意識につけた土器、それらをあわしてもあわせんでも、あの神社がどこに神社であったか、おぼろげながら無意識から意識にのぼってきたので、書きたいのですが、
>
> あれは、たしかに、羽生神社ぢゃわの。木曾義仲が京にのぼるに願をかけた名社。それへ石動山の修験の先達の娘にして郷土史家にしてなかなかの美形して人体実験の犠牲を自らかってでて脚が不自由な女医さんが案内してくれて、なぬせ、富山の優秀な連中はみんな加賀に連れ去れる、拉致ではあらへんやろが、富山の地元におかんで、金大付属へ拉致され、ま、拉致された娘と神社の息子が同級生で、それがまたソレガシの同級生で、ふんでも、のんびりしとって、同級生の神主は、名社といえども、田舎では、神主だけぢゃあ、ヒマなんか、県庁のお偉いさんになっておって、神社はでっかい木造の社屋が伽藍堂で・・そっから降りて、別の丘で夕日を眺めながらソフトクリームを食えば、とんびが狙って襲い掛かる物騒な・・・

とくに能登半島はやばい。

> > なぬせ、足腰たたぬものがやっと立つようやうになってもまだまだなので、介護車にのっけて都心まで走らねばいかん、暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・

ふんで、あの辺は同級だらけでかの帝京の院長がなくなって、残る親友が富山医科薬科の教授で、自分の問う女房、うむ、奥さんは首都圏の自宅ににおきざりで単身赴任なんは、私学でも官学でも同じであるが、糖尿病闘病記を公開して幽冥ならず有名なもんも官舎におって、ソレガシの旅先の宿の女房役を買ってでてくれたもんの、御師の一人娘の女医さんちが気にってなんもせぬちう約束ゆえ上膳据膳でソレガシはなんもせんで長逗留を決め込み、女房役の教授殿、これはもちろん男ですが、やきもきで、ぢゃあ、みんなでカラオケちうことで、絹の工場跡地の洒落た和食レストランから女医さんの従姉妹のスナックへ梯子して、女医さん宅からソレガシが拉致されやっと富山医科薬科の官舎へ収容されたあんときの昔の一句です。

囀りや古墳の丘の医科薬科

ほんまにでっかい古墳の丘の上に建っているんどす、富山医科薬科は。

それにしても、研究室で俺のナンバー1の助手だ、と紹介された女史の美人度にもびっくらこえて・・あのへん、越前は、その前後、すなわち、越前、越後、さらには、越後のさきの秋田は越の国ではあらへんやろがあっこらへんから津軽半島、竜飛まんで、美人の産地がずらりとならぶ。でも、糖尿病ぢゃあね〜・・・・。

ところで・・ヒマにまかせて・・

《神武天皇にはじまる日本の天皇は、雄略天皇、武烈天皇という二代の暴虐によって、皇統は断絶の危機に直面する。その時、天皇の血を受け継いだ人としてさがしだされてきたのが、越の国出身の継体天皇であった。越の国のルーツは、長江流域からの越人の国の ...》

《越国出身の継体天皇の血筋が朝廷を支配したことを考えると、越国の分割方法である「前中後」こそが朝廷の基本ルールのはずである。事実、後に明治になって奥州を分割した時にも前中後を使っている。 だから上下分割は継体朝がやったことではないだろう。 ...》

うんぬん

> > 風光る街をゆかばや気分一新
>
> 風光る街をゆきなば気分暗転

すっかす下手な句だ

> した次第。

万葉の春旅をするなら越の国

だうも、調子がでん。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53832] した次第。Re:[53824] 暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/03/01(Tue) 18:12  

ためわおまANNEX−Ω   訪問者数:2349695(今日:329/昨日:411)2011/03/01(Tue) 17:28

Celine Dion - Alone (in tears, very emotional)
http://www.youtube.com/watch?v=diQpMjq-lhQ&feature=BF&list=QL&index=21

木村のこころの病理よりもやっぱす、こっちとか、キルケゴールのはうが、いろいろと俳句のネタにはなりますの。残念ながら日本語訳ぢゃくなて中国語のやうですが、うむ、七言絶句になるやもしらんわの。

> るらほうよANNEX−Ω   訪問者数:2348195(今日:131/昨日:592)2011/02/26(Sat) 08:45
>
> The Power of Love by Andrea Bocelli
> http://www.youtube.com/watch?v=Esq0U_lvgsA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=11
>
> これは
>
> Celine Dion The Power Of Love Lyrics
> http://www.youtube.com/watch?v=9BHoj8uFdr8&feature=BF&list=QL&index=6
>
> も、うたっておって、甲乙つけがたいいあじわいではるが、ソレガシはやっぱす男であるからすて、Andrea Bocelliのはうがええが、可愛さではやっぱすCeline Dionか。
>
> あの、けさの夢、それに無意識につけた土器、それらをあわしてもあわせんでも、あの神社がどこに神社であったか、おぼろげながら無意識から意識にのぼってきたので、書きたいのですが、

あれは、たしかに、羽生神社ぢゃわの。木曾義仲が京にのぼるに願をかけた名社。それへ石動山の修験の先達の娘にして郷土史家にしてなかなかの美形して人体実験の犠牲を自らかってでて脚が不自由な女医さんが案内してくれて、なぬせ、富山の優秀な連中はみんな加賀に連れ去れる、拉致ではあらへんやろが、富山の地元におかんで、金大付属へ拉致され、ま、拉致された娘と神社の息子が同級生で、それがまたソレガシの同級生で、ふんでも、のんびりしとって、同級生の神主は、名社といえども、田舎では、神主だけぢゃあ、ヒマなんか、県庁のお偉いさんになっておって、神社はでっかい木造の社屋が伽藍堂で・・そっから降りて、別の丘で夕日を眺めながらソフトクリームを食えば、とんびが狙って襲い掛かる物騒な・・・


> なぬせ、足腰たたぬものがやっと立つようやうになってもまだまだなので、介護車にのっけて都心まで走らねばいかん、暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・
>
> 風光る街をゆかばや気分一新

風光る街をゆきなば気分暗転

した次第。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53831] リアルな個的身体的生命とアクチャルな生命一般が相接した界面に、そのつどの私のアクチャルな個別性と主観性の意識が生起する。Re:[53826] リアルなモノの次元ではないアクチャルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチャリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、二度現れてくるのはどういうことだろう。Re:[53820] 愛は死にますか 心は死にますか・・Re:[53819] いつも何度でも〜その2/2.Re:[53818] いつも何度でも〜その1/2.Re:[53817] [53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/03/01(Tue) 16:33  

ぬみあつをANNEX−Ω   訪問者数:2349654(今日:288/昨日:411)2011/03/01(Tue) 15:48

YOU ARE LOVE(訳詞付) - Janis Ian
http://www.youtube.com/watch?v=9HEbdkpboOI&feature=BF&list=QL&index=53

> えれふえふANNEX−Ω   訪問者数:2348594(今日:97/昨日:433)2011/02/27(Sun) 04:57
>
> Title is unknown (タイトル不明)Please tell me.
> http://www.youtube.com/watch?v=hQJA8StCKDk&feature=autoplay&list=QL&index=6&playnext=4
>
> > とときうめANNEX−Ω   訪問者数:2347774(今日:302/昨日:476)2011/02/25(Fri) 10:53
> >
> > 尊き梅か、ととうめきか。いまさ銀行へいってもったらまるでホッパーへの死の行進のごとくの行列でそのひとりひとりが機械をまえにあちらこちらの通帳へ金を分配している背はまるまりまるで人間がロボット化されちょる風景にぞっとして帰ってきますた。
>
> これは観た事そのままですが、いろんなもんが重なっています。曰く、組織、機構、観念、概念、論理、つまりひとがつくりだしたものにひとが使役されちょる景色なんですね。さういうもんが、まあ、普通、さういうあり方にんらざるをえない、世の中は、世間は、社会は、人間はさういうもんだ、ちうあきらめ、あるいは、自己説得、あるいは、無自覚、あるいは、頽落、没落のありよう。どこにもみられる景色で、自己、あるいは、他者の作り出した幻想、あるいは、仮説、あるいは、それらに基づく診断、あるいは、機構、にそのまま落ち込んでしまう、さういう風景にも通じますね。
>
> > http://www.fukuchan.ac/music/j-folk3/sakimorinouta.html
> >
> > 防人の詩
> >
> > さだまさし 作詞/作曲

とはいえ・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A9%A9

歌詩は『万葉集』第16巻第3852番に基づいて作られている。

鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ
大意:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。

> > おしえてください
> > この世に生きとし生けるものの
> > すべての生命に 限りがあるのならば
> > 海は死にますか 山は死にますか
> > 風はどうですか 空もそうですか
> > おしえてください
> > 私は時折 苦しみについて考えます
> > 誰もが等しく抱いた悲しみについて
> > 生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
> > 病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
> > いまの自分と
> >
> >
> > 答えてください
> > この世のありとあらゆるものの
> > すべての生命に約束があるのなら
> > 春は死にますか 秋は死にますか
> > 夏が去る様に 冬が来る様に
> > みんな逝くのですか
> > わずかな生命のきらめきを 信じていいですか
> > 言葉で見えない 望みといったものを
> > 去る人があれば 来る人もあって
> > 欠けてゆく月も やがて満ちて来る
> > なりわいの中で
> >
> >
> > おしえてください
> > この世に生きとし生けるものの
> > すべての生命に限りがあるのならば
> > 海は死にますか 山は死にますか
> > 春は死にますか 秋は死にますか
> > 愛は死にますか 心は死にますか
> > 私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか
> >
> >
> > 海は死にますか 山は死にますか
> > 春は死にますか 秋は死にますか
> > 愛は死にますか 心は死にますか
> > 私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか
> >
> > > なもそせんANNEX−Ω   訪問者数:2347715(今日:243/昨日:476)2011/02/25(Fri) 08:24
> > >
> > > Nataliya Gudziy-Sakimorinouta ナターシャ・グジー 防人の詩
> > > http://www.youtube.com/watch?v=vpb-YwyUXx8&feature=BF&list=QL&index=2
>
> > > > ひとそれぞれの原体験、記憶の数多(あまた)なる多様性のなかでも、それを範疇として括っていけば、いろいろに整理できるわけであって・・・数多なる人々に共通の原体験、記憶ちうもんもあれば、個別の独自のもんもある。ことこの共通のものであっても、先に申し述べたやうにその意味づけは人様々であると同時に時代によっても様々ですから、一概に他者の共感を期待しても失望するでせうね。個々の体験、記憶においてはなおさら・・
> > > >
> > > > それでも、そういう体験や記憶をある種、ジャンヌエルシュ的にいえば、論理的強姦で、無理やり構造化してしますむきもなきしもあらずで、そのへんのところをちょっと紹介しますが・・
> > >
> > > これは、下記の木村の言説をふくめて舌足らずだったのかもしれませんが、仮説の検証というのは、ここでも過去に何度か言及している、メカニカルな機械論的精神分析、機械論的医学のありようのことで、そこで用いられている各種のメカニカルな概念と機械論的な機作、作動の仮説、さういうもん、たとえば、原風景というと、フロイト的には、特殊な風景をさしているのですが、
>
> 原風景だったか原光景だったか原体験だったか・・・
>
> > > さういう特殊な風景の特殊な作用の仮説、その特殊さを意識して、原体験といってみたのですが、原体験にするとこの特殊な仮説のありようもぼやけてしまうかもしれませんが、原風景にしても、リピドやエスというコンセプト、そういうものが発動する機作、やうは、幼児時のトラウマ、心の傷が、後年の人生を支配するというような構図そのもののありよう、これはひとつの有効な仮説ではあっても、人間の命、生活のすべてではありえない、ちうことにも思いを致さねば、人間はあたかも、幼児期にプログラミングされたロボットめいてきますし、おなじことを精神なら身体医学の分子生物学的機械論の仮説でいえば、親から、祖先から、はたまた進化論的さまざまな生き物から引き継いだDNAが現に此処に個々に存在している人間の命、生活を支配するというやうな、まあ、いってみれば、極論の論者もいるわけで、それが極論とされずに、生物学的精神身体医学では実体論的、物質的な、はてまた分析的薬事的医学の検証をへて、ひとをものやメカニカルな機械論的な構造、機構に還元してしまう、その怖さ。
> > >
> > > これは、フロイトの機械論的精神分析で、いろいろな仮説で、治療をすすめていく、その中で、この仮説ゆえに、そこに逃げ込んで自己正当化をしまう、つまりそういう仮説、トラウマとか、その発動、それを乗り越えるために、さういう仮説にもとづいて分析しているにもかかわらず、分析されたその気づきが、それを乗り越える方向へむかないで、それに落ち込んでしまう、さういう患者をフロイトは分析治療することを拒んだ、この拒んだことへの反論も多々あり、いろいろな分析流派や、精神分析そのものを評価しつつもその限界を乗り越えようとするものもあらわれたわけで、機械論的精神医学に対して、人間学的精神医学というのは、そういう仕分けでいわれるものですから、
>
> さうであったか?さうでなかったか?
>
> > > 精神病とか精神分析とか精神医学という疑念
>
> 概念の疑念
>
> > > の歴史的な検証も必要なわけで、そこは通常の医療機関では、素通りで、患者も医師にいわれたこと、あるいは、いろんなところで説明されていることを鵜呑みにしがちなんですが、さういう現代文明の鎖につながれて呻吟すりょりは、それを解き放つ、洗脳と思い込みに専横されない、自由さ、さういうもんも見につければ、ある仮説だけでひとを診ることも試すことも、できないわけで・・・
> > >
> > > やうは、いいたいことは、トラウマやDNAがひとを支配するというような単純な構図では、なんでひとは日々の今現在を生きているのか、ちうもっとも基本的な問いにも答えられないわけで、機械論的人間解釈は、機械論的文明においては好都合で普及していますが、ゆえに、人間は、人間性は、疎外されている、機械論的恋愛においては恋も愛も疎外されてしまうのと同じことですね。
>
> 世間でもっともマルクス主義的な存在は、経団連である。
>
> 人間疎外からの解放ではなく反対に頽落への促進機構。
>
> 財務金融産業経済諸省庁も同じ穴のむじな。そこに寄生する政党も・・
>
> ある主義的論理、理屈が蔓延すると、あたかも、犯罪者の犯罪手口が世に知られるやうになると、犯罪を防止するのではのうて、その手口を乱用して犯罪をより功名に遂行するために論理、理屈、が利用されるやうなものだ。
>
> 論理、倫理の倒錯はどこにでもある。
>
> > > > --------------------------------------------------------------------------------
> > > > [53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12
> >
> >
> > > > > > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円
> >
> > > > 「p103
> > > >
> > > > ・・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。・・・われを排列しおきてジン界(儘の人偏のない字、探している間にシステムダウンして返事がおくれてしまったのですが)とせり。このジン界の頭頭物物を時時なるとチョ見(チョはちょっとでてこないのですが、老眼でよく細部が見えぬ、虚の並をとって亜にしたものを左偏にして右のつくりに見とかく)すべし。・・・われを排列して、われこれを見るべし。自己の時なる道理、それかくのごとし。・・・云々。要をとりていはば、ジン界にあらゆるジン有は、つらなりながら時時なり。有時なるによって吾有時なり・・・」
> > > >
> > > > このあと現代訳がのっていますが、それは、まあ、言い尽くされた感もある存在は時間であるというのにすぎませんで、道元のこの有時では、単に存在と一括り、それも西洋哲学、西洋精神医学の範疇、規範だけで間に合う謂いではないので、わざわざ、古語文を挙げたわけで、この時時、排列、われの有りようには、それこそ、つらなりながら爺、ああ、時時である、つまり胎児、幼児、子供、少年少女、青年乙女、成人、初老、古稀、白寿、まあ、あらゆる現体験、記憶、はたまた幻想さえのつらなりの味わいがあるのであって、巷のわかったぼくちゃんどもハイデッガーの「存在と時間」うんぬんくぬんちうことで片付けられない食み出したもんがあるのは、仏教においては意識のありようも単純な西洋無意識を幾層にも観ているのですから、さういう唯識的な見識もこの有時にあることを見逃してならないと思うのですが、それはさておき、さういうもんから説き起こして、木村は「時間の生き方の三類型」に及び、さらには「W 生命論と精神病理学」の「ゾーエーとビオス」のなかで・・
> > > >
> > > > p121
> > > > 「古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語をもっていた。・・・「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。生物学のバイオ、伝記のバイオグラフィーという場合のバイオの語源・・・
> > > >
> > > > 「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態つぃての生命だという。(引用者註:これは木村が神話学者カール・ケレーニーの説に言及している。)ゾーロジー動物学、zooズー動物園はゾーエーから来ているのだが、残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。・・・
> > > >
> > > > 私たちが臨床の場面でさしあたり出会うのは、生命の意味であれ生活の意味であれ、個々の患者のビオスである。
> > > >
> > > > 生物学的精神医学は生命としてのビオスを扱うし、生活史を重視する人間学的精神医学や力動精神医学、生活療法や社会復帰治療では生活としてのビオスが中心になる。
> > > >
> > > > しかしいずれにしてもこのビオスは、生命としてあれ生活としてであれ、それ自体無限定のゾーエーが個々の患者の身体に宿ることによってはじめて実現しているものである。
> > > >
> > > > ゾーエーそれ自体は無限定で輪郭をもっていないから、それを対象的に認識したり識別したりすることができない。しかしそれは、対照的な認識や識別とは違った仕方で、もっと直接的に経験することができる。それはゾーエーが、無限定であrがゆえに無人称であり、私ひとりの生命ではなく同時に他の生命体の生命でもあるからにほかならない。
> > > >
> > > > 患者と治療関係のなかで出会っているとき、私たちは患者とのあいだに、だれひとり否定することのできない一体感、連帯感のようなものを感じることがある。これはけっして私の主観的な思い込みのようなものではない。
> > > >
> > > > 精神分析ならこれを治療者と患者のそれぞれのビオス(生活史)に還元して「転移」と言うことになるのだが、これは実はビオスの問題ではない。本質的にはゾーエーそのものの非対称的で直接的な経験なのである。」
> > > >
> > > > このフロイトなどが忌諱した「転移」をかういう風にとらえなおす見識はまことにインテレサントなものがあって、これはいってもれはなぬも「転移」ばかりでのうて、「投影」でもおなじことであるからして、治療者と患者関係を持ち出すまでもなく、恋愛そのものの根源はゾーエーであって、それがビオスとして個々の生命と生活を形成すると解すれば、日常茶飯事のことである、恋愛は金輪際ごめんちう男女を除いて・・
> > > >
> > > > この考え方は、まあ、いろいろ多様な言語的対応、概念的な多様な展開も可能ですから、またやってみることして、さきのセンズルことも詮ずれば所詮、ゾーエーのビオス的発動ちうことでせうね。
> > > >
> > > > それはともかくも・・
>
> 事故前の施術中に読み継いだ幾許かを引用しておきませう。
>
> p135
> 「私はいまここで一個の身体として生きている。この事実は、私以外の多数の人間が、あるいはまた人間以外の無数の生物が私の周囲に生きているという事実と同様、私の主観によっては動かすことのできない客観的なリアリティである。
>
> 私が他のすべての人間や生物と同様、いつかはかならず死ぬというのも、同じく客観的リアリティである。そのかぎりにおいて、私は他のすべての人間や生物と同じ意味での一個の生命を与えられている。・・・固有名が与えられた人が、あるいは生物体が、<たまたまいまここに>存在するということである。そしてその生命とは、受胎から死亡までの一定期間、この生物体に観察される生物学的活動の標識である。
>
> しかし私は・・これとはまったく違った意味での私自身の生命を生きてもいる。私は自分がいまここに私自身として生きているというアクチャルな事実を、何か非常に特別なこととして感じている。それは・・・固有名詞では到底表示できないもっと別の固有性の感覚、そもそも何らかの標識を媒介して公共的に表示したり、それによって他人と共有したりすることの不可能な、<絶対的な単独性>の感覚である。そしてこの単独性、このもっとも厳密な意味での個別性の感覚は、私が私の死を意識することにおいて極限にまで高まる。
>
> 私の死は絶対に私自身に属する出来事であって、他人による代理は不可能である。公共的な他者に開かれていないおいう意味で、この交換不可能な単独性をおびた私の存在の意識は主観性の極限にあると言ってよい。
>
> ・・・この主観的でアクチャルな存在の意識は、しかしながらけっして私ひとりの孤独な生命の感覚として閉塞しているわけではない。
>
> 私はむしろこのアクチャルな生命感をチャンネルとして、原理的には無限に多くの他者たち、あるいは生きとし生けるものすべてとのあいだに開かれた連帯感を感じとっている。
>
> それがディオニソス的ゾーエーの世界に通じるものであること、この意味でも「生命」が四十億年前の生命発生以来現在にいたるまで、死による断絶をしらず、アポロン的ビオスの栄枯盛衰をよそに連綿として続いてきているものである・・・・
>
> リアルなモノの次元ではないアクチャルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチャリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、二度現れてくるのはどういうことだろう。」

p137〜
「私たちは親から生まれ、一個の身体として発生したそのときに、ゾーエー的な無窮の生命を私の身体に引き受けることになる。私は自分が個としての有限な生命を生きることを通じて、無限の生命一般との関係に参入することになる。この関係は、一方では私自身の生命の根拠との関係であると同時に、他方では私と同様にゾーエー的生命に参与している他の生命体との、とりわけ他人たちとの根底的な−−−根拠を通じての−−−関係でもある。そしてこの関係は私が自分の個的生命を終えるまで続く。つまりこの関係は私の内面の歴史、私の「内的生活史」構成する素材となっている。この歴史は、私の身体という他人と交換することの不可能な唯一無比の場所で展開される歴史であって、その実質をなしているそのつどの関係と同様、絶対的に私自身のみにかかわる、私的(プライヴェイト)な出来事である。・・・ただこの純粋に私的な人生の意味が、私の人生全体に他人と共有不可能な固有性と単独性を与えている。

このように考えると、私の主観的な個別性、死の意識において極限に達する私のアクチャルな個別性は、個的な身体的生命の側の事象でも種的で非身体的な生命一般の事象でもない。それは個的な生命体がその根底にある生命一般とつねに関わりあい、この生命の根拠をみずからの個的生命のなかへ受け入れている、この関係そのものとして生起する事象なのである。リアルな個的身体的生命とアクチャルな生命一般が相接した界面に、そのつどの私のアクチャルな個別性と主観性の意識が生起する。」

> > > > 春騒や人は誰でも所詮釈迦
> >
> > 畢竟、究極のナルシストは釈迦でありキリストであり、あっこまで徹底的に愛に溺れれば、天上天下唯我独尊、神の愛を一身にあつめて復活ですね。

15時丁度に降り出した小雨に打たれずに脚仕舞い40kmの朔弥生。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53830] わがことならずもみにつまされます。Re:[53829] Modern Times 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/28(Mon) 17:19  

しんいんれANNEX−Ω   訪問者数:2349257(今日:302/昨日:458)2011/02/28(Mon) 17:03

Charlie Chaplin - City Lights
http://www.youtube.com/watch?v=C_vqnySNhQ0&feature=BF&list=QL&index=50

ソレガシはこの短い詩的な一コマが好きで泣かされます。

> Modern Times
> http://www.youtube.com/watch?v=IjarLbD9r30&feature=related
>
> チャップリンのこの映画、いつ観たのか?記憶すらないけれど、このシーンだけは今でも覚えている。機械化による人間性の喪失を見事にえがいているね。

はい、それもかのピンクフロイトのベルトコンベアでホッパーから落ち込んで挽肉ソーセージになる生徒たちの、諧謔があるとはいえ、救いのない画像からくらべれば、どんだけ、ベルトコンベアも歯車も逆回転して巻き込まれたもんがでてくるちうこの笑いに笑いを超えた救いが感じられますね。

歴史の歯車も、なぬもかも、あのリニアに規定された時間ちうもんは、一方通行で、不可逆的なもんとされちょる世間で、なんと人間のこころと表現の自由さよ♪

時間は人生なり、といわれちょる時間性のなかの本来の人間性を取り戻した、さういう一幅ですね。

> 花粉症我が鼻孔の狭き門

わがことならずもみにつまされます。もっともそれがしの鼻孔は丸くてでかいので決して狭き門ではなく、酸素も花粉も埃も吸い込み放題なので、鼻くそがたまりやすく・・・にもかかわらずか、はたまた、それゆえにか、花粉症にはならぬ、ず〜ず〜しさがあるのですが・・繊細なひとは繊細なんですね。


やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53829] Modern Times 投稿者:なすのせせ 投稿日:2011/02/28(Mon) 15:59  

Modern Times
http://www.youtube.com/watch?v=IjarLbD9r30&feature=related

チャップリンのこの映画、いつ観たのか?記憶すらないけれど、このシーンだけは今でも覚えている。機械化による人間性の喪失を見事にえがいているね。

花粉症我が鼻孔の狭き門






[53828] ちったあ、世の中、偽善の明るさではない、まともな明るさへの貧者の一灯ならぬ富者も一灯、一報も燈せ・・・Re:[53827] 無題 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/28(Mon) 11:17  

もえやひはANNEX−Ω   訪問者数:2349000(今日:45/昨日:458)2011/02/228(Mon) 03:15

♪ Smile - Charlie Chaplin
http://www.youtube.com/watch?v=iu-rLA4POkI&feature=BF&list=QL&index=33

軒を滴る雨垂れの音で目が覚めて・・・・

> もかみひろANNEX−Ω   訪問者数:2348840(今日:343/昨日:433)2011/02/27(Sun) 16:27
>
> ヒデとロザンナ 愛は傷つきやすく
> http://www.youtube.com/watch?v=Gu8OqFn5h1U

これも画像では、♀♂とも活き活きとして滴るやうではあるが、だうも歌詞のほうは殺伐としちょるなあ、なんでこんなんUPしたんぢゃろ?ちう、真夜中も過ぎた早朝の反省をなせば、だうも、たすかに「愛は傷つきやすく」はあるんぢゃろけんどだからといって二人で死ぬとかに頽落しちまう、方向性、関心の持ちようが逆なんぢゃあるまいか、もっとも、死というのんは、かの木村もいうように、けっして他人に代理で死んでもらえものではないのんぢゃけん、アクチャリティの最たるもんであるが、畢竟、だからこそ愛ちうもんが、アクチャリティの最たるもん、ゾーエーたる命の永遠さから、個のバイオへ振れ切った挙句の死なのかもしらん、ちう屁理屈の理屈も、まあ、哲学的にも精神医学的にもあるんであらうし、そういうものの見方をするってと、だうもこの歌の殺伐さと、甘さもみえてきて、例の、実存における関心のもちよう、関心のありかた、関心の方向性の問題の幾許かも、みえてきて・・・

> 誰某の浮名流れて飛花落花


この句もろくなもんぢゃない。関心の方向性が、だうも世間の噂話に流れておって、飛花落花がこれぢゃあ、泣くわね、ちうことで・・

> 土山宮ヶ瀬三井城山高尾、並木ビックマック200円+120小珈琲飲み放題で134km、今月は史上最低で1500km前後で脚仕舞か。ま、秘花はともかく飛花落花にはまだ早いし、梅は腐花落花の風情で、ちょっと飛花落花とはいえぬ。それにしても、彼女を怪我させて謹慎中の彼氏のなんと多いことか。

これも、ろくな記録ぢゃあ、ありません。もっとも旦那を怪我させて謹慎中の奥さんもいるやうですが・・

> それぞれの春や愛情物語

これも句としてはろくなもんぢゃないけんど、物語のありようとしては確かに歌それぞれで、ひとそれぞれで、でも、いったいに愛情とは、なにを希求をするんであらうか?

キルケーゴールは劇場通いが盛んで「笑劇」を愛したやうで、そのことは「反復」になかでも詳しく論じられていますが、上掲の「スマイル」のチャップリンの映画のラストシーンもありましたので・・・

Smile, Charlie Chaplin , Modern Times, 1936
http://www.youtube.com/watch?v=Ps6ck1ejoAw&feature=BF&list=QL&index=27

やっぱり、名曲なんでせうね。

歌詞のいちいちをみていって・・・・

Lyrics:

Smile though your heart is aching
Smile even though its breaking
When there are clouds in the sky, you'll get by
If you smile with your fear and sorrow
Smile and maybe tomorrow
You'll find that life is still worthwhile

If you just
Light up your face with gladness
Hide every trace of sadness
Although a tear may be ever so near
That's the time you must keep on trying
Smile, what's the use of crying?
You'll find that life is still worthwhile

If you just
Smile though your heart is aching
Smile even though its breaking
When there are clouds in the sky, you'll get by
If you smile through your fear and sorrow
Smile and maybe tomorrow
You'll find that life is still worthwhile
If you just smile

that's the time you must keep on trying
Smile, what's the use of crying?
You'll find that life is still worthwhile
If you just smile

まさに、これは市川の身体論や、木村の心の病理で論じられまでもなく、古来のひとの知恵であって、心身密接不可分のそのありようを、いわば明るい方向に使う知恵ですね。

さういうえば、むっかし掲載したナットキンコールの別の歌の画面にも、この一節が流れておって・・・

Smile and maybe tomorrow
You'll find that life is still worthwhile
If you just smile

でしたか、彼もこの言葉を座右の銘にして、あのでかい口でわらっていたんでしょうし、チャップリンはそのおちょぼ口をさらぬすぼめて・・・

ちうやうな追想にふけっていたら、突然、ケータイがなって、かかってきてほしい人からは電話はこんで、だうでもええ保険屋の電話であらうと、雨垂れの中の住まいのスマイル・・・

が一転すて、怒りの形相になってしまったんですね。いつもことですが、んったく、保険屋ちうのんは、自分勝手の資本主義の人間疎外のビジネスの権化めいておって、ひとのことを根掘り葉掘り調べるために、親切を装って、だうでもええことをネタに頻繁に他人の迷惑も考えずにてめえの業務時間中に電話をかけてくる、商売だから、まあ、大目にみませう、ちうても、

相手さんのところは留守番電話ででなかったのえ、また出たらご連絡しますが、ところで、今回の事故車の名義はしかじか、運転者はかくかくで、ちがっていますが、主たる使用者は名義者ではないんですか?

かういうような電話ね。あげくに・・

お車の駐車場は、どちらに?

ちうところで、もう、堪忍袋の緒が切れて、お嬢さん、お嬢さんの上司をだしなさい、ちうことで、課長をさんざん絞ってあげたところです。

世はなべて、愛のありようも、行政のありようも、保険のありようも、医学も科学も、哲学もほんらいのあるべきやうから、逆方向に頽落しがちなもんであって、そこんところを滔滔と云うよりか捲くし立てて、課長ちうば30代、40代であらうが、30代、40代にノイローゼが増えて、就職もままならず、自殺者が社会問題になっちょるという昨今のNHKのあの特集報道、その報道ですら、さういう中年ノイローゼ自殺者の問題を、あるいは新卒の就職難の問題を、すべて金でポーズをつくってマヤカシをやるかの政策のお先棒の役割もNHKにおいてはマルミエですが、その根っこにあるもの、すべてのインテレサントな現象、問題に取り組むその関心の持ちようの方向性、そこがないがしろにされて、保険屋も政府も病院も学校も家庭も法律も、みんな、金の亡者で、ないかとポーズをしながら、てめえの利益だけに汲々としちょるその偽善ぶりの被害者があの自殺者の群れであって、てめえらの日々の業務、刻々の偽善が、犠牲者をも作り出していることにも、思いを致して、ちったあ、世の中、偽善の明るさではない、まともな明るさへの貧者の一灯ならぬ富者も一灯、一報も燈せ・・・うんぬんで1時間以上を費やして、自らの舌頭の饒舌とはいえうんざりした次第でございます。

本日は終日の雨のよし、0kmで、2011年2月は1479kmで二月尽、嗚呼。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53827] 無題 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/27(Sun) 16:44  

もかみひろANNEX−Ω   訪問者数:2348840(今日:343/昨日:433)2011/02/27(Sun) 16:27

ヒデとロザンナ 愛は傷つきやすく
http://www.youtube.com/watch?v=Gu8OqFn5h1U

誰某の浮名流れて飛花落花

土山宮ヶ瀬三井城山高尾、並木ビックマック200円+120小珈琲飲み放題で134km、今月は史上最低で1500km前後で脚仕舞か。ま、秘花はともかく飛花落花にはまだ早いし、梅は腐花落花の風情で、ちょっと飛花落花とはいえぬ。それにしても、彼女を怪我させて謹慎中の彼氏のなんと多いことか。

それぞれの春や愛情物語

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53826] リアルなモノの次元ではないアクチャルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチャリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、二度現れてくるのはどういうことだろう。Re:[53820] 愛は死にますか 心は死にますか・・Re:[53819] いつも何度でも〜その2/2.Re:[53818] いつも何度でも〜その1/2.Re:[53817] [53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/27(Sun) 07:12  

えれふえふANNEX−Ω   訪問者数:2348594(今日:97/昨日:433)2011/02/27(Sun) 04:57

Title is unknown (タイトル不明)Please tell me.
http://www.youtube.com/watch?v=hQJA8StCKDk&feature=autoplay&list=QL&index=6&playnext=4

> とときうめANNEX−Ω   訪問者数:2347774(今日:302/昨日:476)2011/02/25(Fri) 10:53
>
> 尊き梅か、ととうめきか。いまさ銀行へいってもったらまるでホッパーへの死の行進のごとくの行列でそのひとりひとりが機械をまえにあちらこちらの通帳へ金を分配している背はまるまりまるで人間がロボット化されちょる風景にぞっとして帰ってきますた。

これは観た事そのままですが、いろんなもんが重なっています。曰く、組織、機構、観念、概念、論理、つまりひとがつくりだしたものにひとが使役されちょる景色なんですね。さういうもんが、まあ、普通、さういうあり方にんらざるをえない、世の中は、世間は、社会は、人間はさういうもんだ、ちうあきらめ、あるいは、自己説得、あるいは、無自覚、あるいは、頽落、没落のありよう。どこにもみられる景色で、自己、あるいは、他者の作り出した幻想、あるいは、仮説、あるいは、それらに基づく診断、あるいは、機構、にそのまま落ち込んでしまう、さういう風景にも通じますね。


> http://www.fukuchan.ac/music/j-folk3/sakimorinouta.html
>
>
> 防人の詩
>
>
> さだまさし 作詞/作曲
>
>
> おしえてください
> この世に生きとし生けるものの
> すべての生命に 限りがあるのならば
> 海は死にますか 山は死にますか
> 風はどうですか 空もそうですか
> おしえてください
> 私は時折 苦しみについて考えます
> 誰もが等しく抱いた悲しみについて
> 生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
> 病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
> いまの自分と
>
>
> 答えてください
> この世のありとあらゆるものの
> すべての生命に約束があるのなら
> 春は死にますか 秋は死にますか
> 夏が去る様に 冬が来る様に
> みんな逝くのですか
> わずかな生命のきらめきを 信じていいですか
> 言葉で見えない 望みといったものを
> 去る人があれば 来る人もあって
> 欠けてゆく月も やがて満ちて来る
> なりわいの中で
>
>
> おしえてください
> この世に生きとし生けるものの
> すべての生命に限りがあるのならば
> 海は死にますか 山は死にますか
> 春は死にますか 秋は死にますか
> 愛は死にますか 心は死にますか
> 私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか
>
>
> 海は死にますか 山は死にますか
> 春は死にますか 秋は死にますか
> 愛は死にますか 心は死にますか
> 私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか
>
> > なもそせんANNEX−Ω   訪問者数:2347715(今日:243/昨日:476)2011/02/25(Fri) 08:24
> >
> > Nataliya Gudziy-Sakimorinouta ナターシャ・グジー 防人の詩
> > http://www.youtube.com/watch?v=vpb-YwyUXx8&feature=BF&list=QL&index=2

> > > ひとそれぞれの原体験、記憶の数多(あまた)なる多様性のなかでも、それを範疇として括っていけば、いろいろに整理できるわけであって・・・数多なる人々に共通の原体験、記憶ちうもんもあれば、個別の独自のもんもある。ことこの共通のものであっても、先に申し述べたやうにその意味づけは人様々であると同時に時代によっても様々ですから、一概に他者の共感を期待しても失望するでせうね。個々の体験、記憶においてはなおさら・・
> > >
> > > それでも、そういう体験や記憶をある種、ジャンヌエルシュ的にいえば、論理的強姦で、無理やり構造化してしますむきもなきしもあらずで、そのへんのところをちょっと紹介しますが・・
> >
> > これは、下記の木村の言説をふくめて舌足らずだったのかもしれませんが、仮説の検証というのは、ここでも過去に何度か言及している、メカニカルな機械論的精神分析、機械論的医学のありようのことで、そこで用いられている各種のメカニカルな概念と機械論的な機作、作動の仮説、さういうもん、たとえば、原風景というと、フロイト的には、特殊な風景をさしているのですが、

原風景だったか原光景だったか原体験だったか・・・

> > さういう特殊な風景の特殊な作用の仮説、その特殊さを意識して、原体験といってみたのですが、原体験にするとこの特殊な仮説のありようもぼやけてしまうかもしれませんが、原風景にしても、リピドやエスというコンセプト、そういうものが発動する機作、やうは、幼児時のトラウマ、心の傷が、後年の人生を支配するというような構図そのもののありよう、これはひとつの有効な仮説ではあっても、人間の命、生活のすべてではありえない、ちうことにも思いを致さねば、人間はあたかも、幼児期にプログラミングされたロボットめいてきますし、おなじことを精神なら身体医学の分子生物学的機械論の仮説でいえば、親から、祖先から、はたまた進化論的さまざまな生き物から引き継いだDNAが現に此処に個々に存在している人間の命、生活を支配するというやうな、まあ、いってみれば、極論の論者もいるわけで、それが極論とされずに、生物学的精神身体医学では実体論的、物質的な、はてまた分析的薬事的医学の検証をへて、ひとをものやメカニカルな機械論的な構造、機構に還元してしまう、その怖さ。
> >
> > これは、フロイトの機械論的精神分析で、いろいろな仮説で、治療をすすめていく、その中で、この仮説ゆえに、そこに逃げ込んで自己正当化をしまう、つまりそういう仮説、トラウマとか、その発動、それを乗り越えるために、さういう仮説にもとづいて分析しているにもかかわらず、分析されたその気づきが、それを乗り越える方向へむかないで、それに落ち込んでしまう、さういう患者をフロイトは分析治療することを拒んだ、この拒んだことへの反論も多々あり、いろいろな分析流派や、精神分析そのものを評価しつつもその限界を乗り越えようとするものもあらわれたわけで、機械論的精神医学に対して、人間学的精神医学というのは、そういう仕分けでいわれるものですから、

さうであったか?さうでなかったか?

> > 精神病とか精神分析とか精神医学という疑念

概念の疑念

> > の歴史的な検証も必要なわけで、そこは通常の医療機関では、素通りで、患者も医師にいわれたこと、あるいは、いろんなところで説明されていることを鵜呑みにしがちなんですが、さういう現代文明の鎖につながれて呻吟すりょりは、それを解き放つ、洗脳と思い込みに専横されない、自由さ、さういうもんも見につければ、ある仮説だけでひとを診ることも試すことも、できないわけで・・・
> >
> > やうは、いいたいことは、トラウマやDNAがひとを支配するというような単純な構図では、なんでひとは日々の今現在を生きているのか、ちうもっとも基本的な問いにも答えられないわけで、機械論的人間解釈は、機械論的文明においては好都合で普及していますが、ゆえに、人間は、人間性は、疎外されている、機械論的恋愛においては恋も愛も疎外されてしまうのと同じことですね。

世間でもっともマルクス主義的な存在は、経団連である。

人間疎外からの解放ではなく反対に頽落への促進機構。

財務金融産業経済諸省庁も同じ穴のむじな。そこに寄生する政党も・・

ある主義的論理、理屈が蔓延すると、あたかも、犯罪者の犯罪手口が世に知られるやうになると、犯罪を防止するのではのうて、その手口を乱用して犯罪をより功名に遂行するために論理、理屈、が利用されるやうなものだ。

論理、倫理の倒錯はどこにでもある。

> > > --------------------------------------------------------------------------------
> > > [53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12
>
>
> > > > > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円
>
> > > 「p103
> > >
> > > ・・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。・・・われを排列しおきてジン界(儘の人偏のない字、探している間にシステムダウンして返事がおくれてしまったのですが)とせり。このジン界の頭頭物物を時時なるとチョ見(チョはちょっとでてこないのですが、老眼でよく細部が見えぬ、虚の並をとって亜にしたものを左偏にして右のつくりに見とかく)すべし。・・・われを排列して、われこれを見るべし。自己の時なる道理、それかくのごとし。・・・云々。要をとりていはば、ジン界にあらゆるジン有は、つらなりながら時時なり。有時なるによって吾有時なり・・・」
> > >
> > > このあと現代訳がのっていますが、それは、まあ、言い尽くされた感もある存在は時間であるというのにすぎませんで、道元のこの有時では、単に存在と一括り、それも西洋哲学、西洋精神医学の範疇、規範だけで間に合う謂いではないので、わざわざ、古語文を挙げたわけで、この時時、排列、われの有りようには、それこそ、つらなりながら爺、ああ、時時である、つまり胎児、幼児、子供、少年少女、青年乙女、成人、初老、古稀、白寿、まあ、あらゆる現体験、記憶、はたまた幻想さえのつらなりの味わいがあるのであって、巷のわかったぼくちゃんどもハイデッガーの「存在と時間」うんぬんくぬんちうことで片付けられない食み出したもんがあるのは、仏教においては意識のありようも単純な西洋無意識を幾層にも観ているのですから、さういう唯識的な見識もこの有時にあることを見逃してならないと思うのですが、それはさておき、さういうもんから説き起こして、木村は「時間の生き方の三類型」に及び、さらには「W 生命論と精神病理学」の「ゾーエーとビオス」のなかで・・
> > >
> > > p121
> > >
> > > 「古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語をもっていた。・・・「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。生物学のバイオ、伝記のバイオグラフィーという場合のバイオの語源・・・
> > >
> > > 「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態つぃての生命だという。(引用者註:これは木村が神話学者カール・ケレーニーの説に言及している。)ゾーロジー動物学、zooズー動物園はゾーエーから来ているのだが、残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。・・・
> > >
> > > 私たちが臨床の場面でさしあたり出会うのは、生命の意味であれ生活の意味であれ、個々の患者のビオスである。
> > >
> > > 生物学的精神医学は生命としてのビオスを扱うし、生活史を重視する人間学的精神医学や力動精神医学、生活療法や社会復帰治療では生活としてのビオスが中心になる。
> > >
> > > しかしいずれにしてもこのビオスは、生命としてあれ生活としてであれ、それ自体無限定のゾーエーが個々の患者の身体に宿ることによってはじめて実現しているものである。
> > >
> > > ゾーエーそれ自体は無限定で輪郭をもっていないから、それを対象的に認識したり識別したりすることができない。しかしそれは、対照的な認識や識別とは違った仕方で、もっと直接的に経験することができる。それはゾーエーが、無限定であrがゆえに無人称であり、私ひとりの生命ではなく同時に他の生命体の生命でもあるからにほかならない。
> > >
> > > 患者と治療関係のなかで出会っているとき、私たちは患者とのあいだに、だれひとり否定することのできない一体感、連帯感のようなものを感じることがある。これはけっして私の主観的な思い込みのようなものではない。
> > >
> > > 精神分析ならこれを治療者と患者のそれぞれのビオス(生活史)に還元して「転移」と言うことになるのだが、これは実はビオスの問題ではない。本質的にはゾーエーそのものの非対称的で直接的な経験なのである。」
> > >
> > > このフロイトなどが忌諱した「転移」をかういう風にとらえなおす見識はまことにインテレサントなものがあって、これはいってもれはなぬも「転移」ばかりでのうて、「投影」でもおなじことであるからして、治療者と患者関係を持ち出すまでもなく、恋愛そのものの根源はゾーエーであって、それがビオスとして個々の生命と生活を形成すると解すれば、日常茶飯事のことである、恋愛は金輪際ごめんちう男女を除いて・・
> > >
> > > この考え方は、まあ、いろいろ多様な言語的対応、概念的な多様な展開も可能ですから、またやってみることして、さきのセンズルことも詮ずれば所詮、ゾーエーのビオス的発動ちうことでせうね。
> > >
> > > それはともかくも・・

事故前の施術中に読み継いだ幾許かを引用しておきませう。

p135

「私はいまここで一個の身体として生きている。この事実は、私以外の多数の人間が、あるいはまた人間以外の無数の生物が私の周囲に生きているという事実と同様、私の主観によっては動かすことのできない客観的なリアリティである。

私が他のすべての人間や生物と同様、いつかはかならず死ぬというのも、同じく客観的リアリティである。そのかぎりにおいて、私は他のすべての人間や生物と同じ意味での一個の生命を与えられている。・・・固有名が与えられた人が、あるいは生物体が、<たまたまいまここに>存在するということである。そしてその生命とは、受胎から死亡までの一定期間、この生物体に観察される生物学的活動の標識である。

しかし私は・・これとはまったく違った意味での私自身の生命を生きてもいる。私は自分がいまここに私自身として生きているというアクチャルな事実を、何か非常に特別なこととして感じている。それは・・・固有名詞では到底表示できないもっと別の固有性の感覚、そもそも何らかの標識を媒介して公共的に表示したり、それによって他人と共有したりすることの不可能な、<絶対的な単独性>の感覚である。そしてこの単独性、このもっとも厳密な意味での個別性の感覚は、私が私の死を意識することにおいて極限にまで高まる。

私の死は絶対に私自身に属する出来事であって、他人による代理は不可能である。公共的な他者に開かれていないおいう意味で、この交換不可能な単独性をおびた私の存在の意識は主観性の極限にあると言ってよい。

・・・この主観的でアクチャルな存在の意識は、しかしながらけっして私ひとりの孤独な生命の感覚として閉塞しているわけではない。

私はむしろこのアクチャルな生命感をチャンネルとして、原理的には無限に多くの他者たち、あるいは生きとし生けるものすべてとのあいだに開かれた連帯感を感じとっている。

それがディオニソス的ゾーエーの世界に通じるものであること、この意味でも「生命」が四十億年前の生命発生以来現在にいたるまで、死による断絶をしらず、アポロン的ビオスの栄枯盛衰をよそに連綿として続いてきているものである・・・・

リアルなモノの次元ではないアクチャルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチャリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、二度現れてくるのはどういうことだろう。」


> > > 春騒や人は誰でも所詮釈迦
>
> 畢竟、究極のナルシストは釈迦でありキリストであり、あっこまで徹底的に愛に溺れれば、天上天下唯我独尊、神の愛を一身にあつめて復活ですね。
>
> さて、花粉を一身に吸い込んで走りませう。春の陽気を探梅へ・・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53825] 事故りますた。Re:[53823] 出遭Re:[53822] 勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・Re:[53821] ここだけ訂正しますが 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/26(Sat) 19:23  

せるならんANNEX−Ω   訪問者数:2348375(今日:311/昨日:592)2011/02/26(Sat) 18:20

森進一  − 冬のリヴィエラ (1983.12.31)
http://www.youtube.com/watch?v=kge0imwRY0o

自転車ぢゃありませんが・・すっかすそれにすても予知能力が幾許かあるのであらうか?

> たむあせやANNEX−Ω   訪問者数:2348172(今日:108/昨日:592)2011/02/26(Sat) 07:38
>
> 土偶さ^ふぃんをしちょったらかういうのに出遭った。
>
> #39 恥ずかしい発見  −A shameful discovery was done−
> http://www.youtube.com/watch?v=OtmGUxGT8Q4&NR=1&feature=fvwp
>
> 大切な無駄毛残してなほ余寒
>
> > おねわいたANNEX−Ω   訪問者数:2348112(今日:48/昨日:592)2011/02/26(Sat) 03:23
> >
> > 土偶の世界:DOGU-The clay figure of ancient Japan
> > http://www.youtube.com/watch?v=hixCQ-926-Q
> >
> > ゆうべの21:21のなすのせせさんの記事も今初めてみるちうことは、それ以前にねてしまったソレガシ、3時にへんな夢を見てべつに焦りもしませんでしたが、ぬくぬくと起きだしてションベンをしてよもぎ大福を一個くって、タバコを一服して、はて?あの変な夢を誰にでもみれるここに書くべきかいなか、いなか、う〜む、田舎の光景の話からあらぬ方向に話題がながれていますが、ともかくも、ちょっと夢の象徴の数多を頭んなかで整理して振り分けも夢の意味が解せず、かといって、気にはなる夢で、ソレガシはファラオではありませんから、隣のイスラエルの奴隷の夢解釈をするイスラエルの神にまもられた奴隷をつれてこさせて解釈させるわけにもまいらず、さて、だうしたもんか、書いておかねば、永遠に忘れるであらう、嗚呼、さういえば、きのうバイクではしっているときに、二句、浮かんだ、それも大盛のトンカツ定食にコロッケも盛り合わせてもらって650円を食ってしまったら、もうわすれてでてこぬ、その忘れた句がこれが、忘れてみるとまことに秀句で、残念の極み、とくに、下五が、指を折れば8文字でしたが、擦過音、っ、ですね、それが一つと、ん、が二つで、これらの、つまった、っ、と、ん、は数えても数えなくてもええ、うむ。これは初心者むけには、ええ例題でもあるなあ、帰ったら是非書いておこう、と思いながら、春一番が吹いてたいへんだったでせう、ちうトンカツ屋の女将さんの会話に引きこまれて、放念してしまったのだ、だから、今の夢も、ああ、トンカツの話で忘れてしまう・・・
> >
> > なんだかしらぬ一人ベットに寝ていて、そこは寄宿舎か病院か、ひろい部屋で、窓の外は雨なんですね。体育の時間なんだが、雨だば無理だんべ、ちうことで、ベッドでうだうだしておったら、そのがらんどうの部屋に舎監のやうなもんが来て、授業が雨だから体育から歴史にかわって、体育館でやる、と告げてきたのですが、その歴史の時間ちうのんは、ずっとさぼりっぱなしで、なんだか、出て行くのも億劫だなあ、ということでうじうじベッドの枕元やシーツのうえの教科書とかお菓子を弄くっていると、突然光景は家になって、もう、おまえだけがたよりなんだよ、兄弟もみんなだめなんだから、おまえだけがたよりなんだよ、それでもおまえが立派に寄宿舎だか病院にはいって立派に稼いでくれるからなんとかやっていける、こんどはおまえのいるところにいってみたい、ああ、いつでもきてくれよ、でもあんなちっぽけなお手当てがたよりぢゃ・・・ちうところで、また光景は、その病室か寄宿舎の部屋にもどって寝ていると、また舎監めいた誰かきて、ちょっと健康保険だか傷害保険だか、なぬかを出しなさい、というので、ベッドのそばの小物入れからだして差し出すと、今日で君の保険はおしまいだから、明日からこないでください、というのですね。え!と驚いて、ベッドが飛び降りて、さて、かのいやな歴史の講義をしている体育館へ急ごうとすると、ホールに人が群れていて、だれも体育館へいった気配も行く気配もないのです。おかしいなとここに入るに世話になったひとを探したのだけれども、それがやなヤツで、現役時代に、多少のお付き合いはあった先輩に良く似ているやつなんだけれども、そのやつは、調子が良くてよく通産省の担当であったから、役所にいってくるとはいって、サボりにいってしまうやうなヤツで、口先では正論を唱える、それも役所の言い分の傘に着て、あれこれいうのですが、だうもへんなやつで、いわれたことにまきこまれてそのときはセットクされてもあとでだうしてこうなっちゃうの?といつも疑問に思う、それに人相も口が捻じ曲がっていて、一見理知的にはみえるが、こころがひねくれているんぢゃないかというやうなヤツで、そういうやつの世話で、ここにいれてもらっているのも、なんだか癪に障るのですが、ともかくも、家ぢゃあ、ああいう風にいっているし、今日突然、保険が終わって明日から来ないでくれといわれても、困るから、彼を探すのですが、彼がいない。それで、彼と同室のもんをとっ捕まえて、彼と連絡をとりたいといえば、彼はさっき出張にでかけたとそいついうので、そいつに出かけた先に連絡をなんとかとってくれないか、一身上の重大事なんだから、相談したいことがあると頼み込むとそいつがそそくさとどっかにきえてもどってきて、あちらも今手が離せない、とらちがあかないので、またベッドにもどってなんかしらんチンドン屋めいた衣装を着こんでまたホールにもどってくると、友人らが、大挙して群れていて、ああ、だんだん、記憶が不鮮明になっていく、その群れのなかにとびこんで、適当に誰かと肩を組むと、こっちむてというほうから、記念写真らしきもんをとられ、これはいったい何をしているの?と問えば、なんだ、昇進記念とか歓送会かと、なんだ、俺は関係ないんだ、と、場面がここでまたざっくりかわって、雨の街といっても、田舎をなんだかでっかいまるまっちい真っ黒なクルマを猛烈なスピードで走らせている、たぶんベントレーかジャガーなんでせうが、

これこれ、けふは昼にベントレーでもジャガーでもなかったけんど、真っ黒なまるまっちいベンツ2ドアのドアをボッコンとへっこますてすまった。なぬそろ、駐車場が悪い!ちうても手遅れで、足腰が立たぬもんが横にのっておったけん、階段のあるレストランは忌諱すて、一階でへえれるとこを物色しとったら、なぬか、380円で、ハンバーグちうようなのぼりののたっちょるイタリアンレストランが現われて、駐車場がねえ気配で見送ろうかとおもったら、あった、あった、あそこに、専用駐車場とある、ちうのんで、急遽そこに中途半端に鼻から突っ込んだケツは車道に一部食み出し、ちょっくら気にはなるもんの、長居するわけでもあらへんけん、ま、よかんべさ、ちうことで、店にへえり、ハンバーグ+ポークソテー+ソーセージ+スープ+大盛ごはん=580円(内税)と海老と浅蜊のペペロンチーノ=680円(内税)にフリードリンク@200円(内税)で、抹茶オレとか、アーモンドカフェオレとか、結構いけますなあ、カモミール+ペッパーミントも、なんぢゃらかんぢゃら、受付のお姉さんもそれなりの可愛さで、自転車ジャージのソレガシへの愛想もよく、おタバコなら、こちらの喫煙席もお使いくださいとか、席が禁煙と喫煙の二箇所にでけて、大いに気をよくしてでてきて、よろめく連れ合い、まあ、女房ですが、ちょっと駐車場から店まであるいたので、具合をききながら、左右のフェンダーミラーで後にクルマのおらへんことを確認してゆっくりのろのろとバックしたら、ドン!

なぬ?とはおもえど、ルームバックミラーに真っ黒いもんがうつっておる、左右のフェンダーミラーにもうつっておる。こりゃあ、ぶっけたわいのお、ちうことで、外にでて、みてみると、これがまるまっち真っ黒なベンツの2ドアクーペで、運転手の中年男の目つきも悪くなく、非難するするわけでもなく、驚いているわけでもなく、単に悲しげにこちらをみているんですね。ふんで、すんぐお詫びして、ぶっけた被害車をレストランの駐車場に移動してもらって、なぬせ、警察を呼ぶとあれこれ時間がかかって、折角の風光る土曜日に自転車ではしれなくなるから、ともかくも、保険で全部、全部+αもなおしますから、いま、保険屋に電話しますから、と・・・

保険屋曰く、お互いに時間がなければ、警察の証明がなくても対応しますので、詳しく情況を・・うんぬんで、ソレガシがまんずうんぬんして、やく15分くらいか、それから被害者からも話を聴きたいちうのんで、中年男に渡すと、突然切れだして、かういうことで時間をロスしているまに、よべば警察がくるんだから、おめえ、とは、彼の連れ合いの大年増の女に、すぐ110番しろ!

それで、まあ、保険屋の好意に聴取にも引き続き応えるには応えたのですが、警察が証明を出すとなれば、保険屋の聴取も簡単になり、5分ほどで電話がこちらにもどってきて、tもかく警察の証明があれば、保険屋も手が省けるうんぬんくんぬんで、もう、こりゃあ、ダメヂャ!

ふんで、信号のある交差点に、相手方の男女と、ソレガシが雁首ならべて、警察を待つのですが、待っても待ってもこない。中年男はだんだんいらだってきて、いったいこの辺は交番だらけなのに、なんでこんなに遅いんだ!

お急ぎですか?

ええ、病院へいくところで・・

はあ、どこかおわるいのですか?

家族が入院しているもんで・・

お住まいは?

○○山で、普段は環八なんですが、混んでいるので、こちらがわから今日はきたんだが・・・

うんがわるかった!申し訳ありません。

うむ。

○○山に、ほら、予約なしで北京ダックを食わせる中華料理屋あったでせう?

香味坊ですか?

さうさう、あっこへはよくいきましたよ。森真一、森正子と子だもたちにもときどきあいました。三回くらい・・・あのへんですよね。

ええ、ええ、でも森真一が住んでいたのはしらなかったなあ。

それから、そのドアの凹み、しっかり修理してくださいよ。ソレガシも同じタイプのだいぶ前のモデルにのっていましたあ、なぬすろ、ベンツの2ドアのドアは弱い、4ドアよりもガラスがでかいのに、ウィンドウモーターが相対的に弱いので、ちょっとしたゆがみのフリクションでガラスが上がらなくなって、何度往生したことか・・徹底的にyらせないとヤナセでも結構いい加減な調整で、あとでトラブルのもとになりますから、金に糸目はつけません、なんせ、保険屋負担なんだから、徹底的に・・・

はい、ありがとうございます。

とだんだん打ち解けてきて、でも、警察はまだこない。

いらいら、いらいら

(だからいったこっちゃない、警察を呼べば時間がかかる、とはいいませんが)、成城警察署からかしら、それとも・・・

そんでも、おそいなあ。

パトカーはネズミ捕りででっぱらっているんぢゃあ、ありませんか?

チャリンコですよ、チャリできますよ、警察は。

あ、さうなんですか?うちのはうぢゃ、パトカーが殺到してくるんんですが、チャリンコ同士の事故でも・・・

ここらへんは、絶対間違いなくチャリンコですよ、そこの公園のところにも、交番はあったし、そっこらぢゅうにあるのに、いったい・・・

もう、いらいらにつきあっていられませんから、木村の心の精神病理でも読むか、とは思えども、それも相手に誠意のない態度だから、ちょっとはなれて紫煙道に邁進しちょれば・・・

やっと、きたきた、遅い!

みれば、桜ヶ丘交番のステッカーを貼ったポリチャリにぷっくらした若い警官が息せき切ってでもあらへんけんど、それなりに急いできた風情であるからして、ソレガシはねぎらいの気持ちをこめて・・・

なんだ、すぐそこの桜ヶ丘からで、こんなに待たされて、おまわりさん、あんたも息を切らして、もうちったあ筋トレ、ママチャリ鍛錬せんばいけまへんわの。

すいません、でも、遅れたのぼくのせいぢゃないのです。110番から交番に連絡が来るのが遅かったので、かうやって、息せき切って駆けつけてきたのです。

にゃらば、手早く処理しましょう、こちらさんも病院へ急ぐ途中だし・・

つうことで、とんとんと事務的に処理して、物損だけだから、簡単で、ソレガシの介護車は若葉マークを貼ったオンボロマーク2ぢゃっけん、おもわりさんのお兄さんがバックで駐車場から出るのを、通るクルマを停めて、誘導で出させてくれる親切さで・・


> > ともかくもこの緊急事態を家に知らせねばならぬ、しかし悲しむぢゃろなあ、とおもいつつ、水しぶきを上げてすっとんでいくと、突然、直進すべき道からクルマがかってに右折したがごとくに、山へ登るやうな急坂の枝道にクルマが突っ込んでいって、どんどん登る、ちうようなもんではのうて、飛んで上がっていく、左右の雨はもう雪、ちうても雪がふっているわけでもなく、左右が汚い汚れた雪塊でそれをボディーで蹴散らしながらすっとんでいくそのバックミラーに一台のクルマがぴったりとくっついてのぼってくる、なんだかタクシーらしい屋根の上のランプもみえて、俺がこんなにぶっとばしているのになかなかやるタクシーだなと思ったら、その急坂の登りの先に突然、大木があらわれ、大木の奥になんだか古い大きな木造の家があって、だうもそこが終点のようではあるが、なんのようもこちらにはないので、さてどうするかとさらにちかづいてゆくと、大木の左にその大きな家の前に入る道があるようなので、そこに突っ込んでいくにも、左右のボディーは雪塊をガンガン擦ってのぽってみると、クルマが何台もとまっておって、砂利敷きの駐車場で、その右の一画、つまり、さっきの大木の幹に添ったところだけがクルマが通れそうな余裕があって、そこを抜ければ、その大きな家の大きな玄関前のようで、ま、えっか、ここっきゃいけぬぢゃけん、とクルマを進めると、その玄関前をすり抜けて大木をぐるっとまわって、また元来たあの急坂の道の天辺、おお、そこにかのタクシーがおって、俺のくるまが大木を廻って出てくるのを待っておったらしく、運転手がタクシーから降りて、旦那さん、気をつけてね、と叫ぶ、そのさきは、なんとお、ごろんごろんした大岩がいくつも急坂に下るその大木の出口、道の入口にある、でも、こちらもスピードがでているから、気をつけてといわれても、もう手遅れで気をつけようもないのですが、心もクルマも至って安定しておって、なんらの不安感も不安定感もなく、そのまんま、その大岩ゴロゴロの上にクルマが差し掛かると、ソレガシの眼はあたかも、クルマのバンパーについているかのごとく、我が今踏みゆく大岩のあれこれを眼前にできるのですが、左車輪は、まさに馬鹿でかい大岩に乗り、その大岩の果てるところの右側は小岩、その小岩に目出度く右車輪が乗り、その大小の裂目は目出度くクルマの腹の下を素通りで、がくがくどんどんがっくん、ともせずにまことにスムースに岩をバリヤ、ま、道ともいえぬ、岩ごろごろを超えてタクシーの運ちゃんが待っている急坂入口までいくと、その運ちゃんがにこにこしていて、お礼がてらここはどこ?と尋ねると、なんとか神社というのですが、たしかにその神社、むっかし来た事がある、下りゆく道のあちこちに異様なさまで、腹をこちらにむけて首を伸ばした大亀が、甲羅ならぬ大小屋を背に立っているし、龍がひっからまった剣も立っていたか、どうかはさだかならぬ、記憶がだんだんフェードアウトして、目が覚めてしまったわけで、なんだか、とても危険な夢の割には、一切の動悸もわくわくもなく汗も奇声ももちろんなく、淡々とこの危険な夢を乗り越えてきたやうなわけで・・・
> >
> > > > > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に>無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
> > > >
> > > > しかり。
> > > >
> > > > > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
> > > >
> > > > 他者が試される?
> > >
> > > >誰に?
> > >
> > > >私が他者を試すのですか?
> > >
> > > 「他者」とは、この場合においては、上記の詩人や作家や画家に対しての「他者」ですので「自分」のことです。自分の感性が試されるということです。以上です。
> >
> > はい、そうでしたか。ありがとう。
> >
> > だうも、ソレガシは勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・
>
> 親切が仇になりけり寒たまご

んったく、介護車を土曜日に出した己が親切、ちうても己が家族のことですから、親切もあたりまえといえばあたりまえで、そんでも、その好意で、声をかけて労わっておったら、このザマですから、この一句もまんざら、はずれではありませんでした。すっかす、寒たまご、の季語が生きるほどに、コロンブスの卵になるか、今後の栄養になるか、まあ、当事者次第でせうなあ。


やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53824] 暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/26(Sat) 08:54  

るらほうよANNEX−Ω   訪問者数:2348195(今日:131/昨日:592)2011/02/26(Sat) 08:45

The Power of Love by Andrea Bocelli
http://www.youtube.com/watch?v=Esq0U_lvgsA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=11

これは

Celine Dion The Power Of Love Lyrics
http://www.youtube.com/watch?v=9BHoj8uFdr8&feature=BF&list=QL&index=6

も、うたっておって、甲乙つけがたいいあじわいではるが、ソレガシはやっぱす男であるからすて、Andrea Bocelliのはうがええが、可愛さではやっぱすCeline Dionか。

あの、けさの夢、それに無意識につけた土器、それらをあわしてもあわせんでも、あの神社がどこに神社であったか、おぼろげながら無意識から意識にのぼってきたので、書きたいのですが、なぬせ、足腰たたぬものがやっと立つようやうになってもまだまだなので、介護車にのっけて都心まで走らねばいかん、暗い記事で心を暗くさせたまんではもうしわけないので・・

風光る街をゆかばや気分一新

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53823] 出遭Re:[53822] 勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・Re:[53821] ここだけ訂正しますが 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/26(Sat) 07:58  

たむあせやANNEX−Ω   訪問者数:2348172(今日:108/昨日:592)2011/02/26(Sat) 07:38

土偶さ^ふぃんをしちょったらかういうのに出遭った。

#39 恥ずかしい発見  −A shameful discovery was done−
http://www.youtube.com/watch?v=OtmGUxGT8Q4&NR=1&feature=fvwp

大切な無駄毛残してなほ余寒

> おねわいたANNEX−Ω   訪問者数:2348112(今日:48/昨日:592)2011/02/26(Sat) 03:23
>
> 土偶の世界:DOGU-The clay figure of ancient Japan
> http://www.youtube.com/watch?v=hixCQ-926-Q
>
> ゆうべの21:21のなすのせせさんの記事も今初めてみるちうことは、それ以前にねてしまったソレガシ、3時にへんな夢を見てべつに焦りもしませんでしたが、ぬくぬくと起きだしてションベンをしてよもぎ大福を一個くって、タバコを一服して、はて?あの変な夢を誰にでもみれるここに書くべきかいなか、いなか、う〜む、田舎の光景の話からあらぬ方向に話題がながれていますが、ともかくも、ちょっと夢の象徴の数多を頭んなかで整理して振り分けも夢の意味が解せず、かといって、気にはなる夢で、ソレガシはファラオではありませんから、隣のイスラエルの奴隷の夢解釈をするイスラエルの神にまもられた奴隷をつれてこさせて解釈させるわけにもまいらず、さて、だうしたもんか、書いておかねば、永遠に忘れるであらう、嗚呼、さういえば、きのうバイクではしっているときに、二句、浮かんだ、それも大盛のトンカツ定食にコロッケも盛り合わせてもらって650円を食ってしまったら、もうわすれてでてこぬ、その忘れた句がこれが、忘れてみるとまことに秀句で、残念の極み、とくに、下五が、指を折れば8文字でしたが、擦過音、っ、ですね、それが一つと、ん、が二つで、これらの、つまった、っ、と、ん、は数えても数えなくてもええ、うむ。これは初心者むけには、ええ例題でもあるなあ、帰ったら是非書いておこう、と思いながら、春一番が吹いてたいへんだったでせう、ちうトンカツ屋の女将さんの会話に引きこまれて、放念してしまったのだ、だから、今の夢も、ああ、トンカツの話で忘れてしまう・・・
>
> なんだかしらぬ一人ベットに寝ていて、そこは寄宿舎か病院か、ひろい部屋で、窓の外は雨なんですね。体育の時間なんだが、雨だば無理だんべ、ちうことで、ベッドでうだうだしておったら、そのがらんどうの部屋に舎監のやうなもんが来て、授業が雨だから体育から歴史にかわって、体育館でやる、と告げてきたのですが、その歴史の時間ちうのんは、ずっとさぼりっぱなしで、なんだか、出て行くのも億劫だなあ、ということでうじうじベッドの枕元やシーツのうえの教科書とかお菓子を弄くっていると、突然光景は家になって、もう、おまえだけがたよりなんだよ、兄弟もみんなだめなんだから、おまえだけがたよりなんだよ、それでもおまえが立派に寄宿舎だか病院にはいって立派に稼いでくれるからなんとかやっていける、こんどはおまえのいるところにいってみたい、ああ、いつでもきてくれよ、でもあんなちっぽけなお手当てがたよりぢゃ・・・ちうところで、また光景は、その病室か寄宿舎の部屋にもどって寝ていると、また舎監めいた誰かきて、ちょっと健康保険だか傷害保険だか、なぬかを出しなさい、というので、ベッドのそばの小物入れからだして差し出すと、今日で君の保険はおしまいだから、明日からこないでください、というのですね。え!と驚いて、ベッドが飛び降りて、さて、かのいやな歴史の講義をしている体育館へ急ごうとすると、ホールに人が群れていて、だれも体育館へいった気配も行く気配もないのです。おかしいなとここに入るに世話になったひとを探したのだけれども、それがやなヤツで、現役時代に、多少のお付き合いはあった先輩に良く似ているやつなんだけれども、そのやつは、調子が良くてよく通産省の担当であったから、役所にいってくるとはいって、サボりにいってしまうやうなヤツで、口先では正論を唱える、それも役所の言い分の傘に着て、あれこれいうのですが、だうもへんなやつで、いわれたことにまきこまれてそのときはセットクされてもあとでだうしてこうなっちゃうの?といつも疑問に思う、それに人相も口が捻じ曲がっていて、一見理知的にはみえるが、こころがひねくれているんぢゃないかというやうなヤツで、そういうやつの世話で、ここにいれてもらっているのも、なんだか癪に障るのですが、ともかくも、家ぢゃあ、ああいう風にいっているし、今日突然、保険が終わって明日から来ないでくれといわれても、困るから、彼を探すのですが、彼がいない。それで、彼と同室のもんをとっ捕まえて、彼と連絡をとりたいといえば、彼はさっき出張にでかけたとそいついうので、そいつに出かけた先に連絡をなんとかとってくれないか、一身上の重大事なんだから、相談したいことがあると頼み込むとそいつがそそくさとどっかにきえてもどってきて、あちらも今手が離せない、とらちがあかないので、またベッドにもどってなんかしらんチンドン屋めいた衣装を着こんでまたホールにもどってくると、友人らが、大挙して群れていて、ああ、だんだん、記憶が不鮮明になっていく、その群れのなかにとびこんで、適当に誰かと肩を組むと、こっちむてというほうから、記念写真らしきもんをとられ、これはいったい何をしているの?と問えば、なんだ、昇進記念とか歓送会かと、なんだ、俺は関係ないんだ、と、場面がここでまたざっくりかわって、雨の街といっても、田舎をなんだかでっかいまるまっちい真っ黒なクルマを猛烈なスピードで走らせている、たぶんベントレーかジャガーなんでせうが、ともかくもこの緊急事態を家に知らせねばならぬ、しかし悲しむぢゃろなあ、とおもいつつ、水しぶきを上げてすっとんでいくと、突然、直進すべき道からクルマがかってに右折したがごとくに、山へ登るやうな急坂の枝道にクルマが突っ込んでいって、どんどん登る、ちうようなもんではのうて、飛んで上がっていく、左右の雨はもう雪、ちうても雪がふっているわけでもなく、左右が汚い汚れた雪塊でそれをボディーで蹴散らしながらすっとんでいくそのバックミラーに一台のクルマがぴったりとくっついてのぼってくる、なんだかタクシーらしい屋根の上のランプもみえて、俺がこんなにぶっとばしているのになかなかやるタクシーだなと思ったら、その急坂の登りの先に突然、大木があらわれ、大木の奥になんだか古い大きな木造の家があって、だうもそこが終点のようではあるが、なんのようもこちらにはないので、さてどうするかとさらにちかづいてゆくと、大木の左にその大きな家の前に入る道があるようなので、そこに突っ込んでいくにも、左右のボディーは雪塊をガンガン擦ってのぽってみると、クルマが何台もとまっておって、砂利敷きの駐車場で、その右の一画、つまり、さっきの大木の幹に添ったところだけがクルマが通れそうな余裕があって、そこを抜ければ、その大きな家の大きな玄関前のようで、ま、えっか、ここっきゃいけぬぢゃけん、とクルマを進めると、その玄関前をすり抜けて大木をぐるっとまわって、また元来たあの急坂の道の天辺、おお、そこにかのタクシーがおって、俺のくるまが大木を廻って出てくるのを待っておったらしく、運転手がタクシーから降りて、旦那さん、気をつけてね、と叫ぶ、そのさきは、なんとお、ごろんごろんした大岩がいくつも急坂に下るその大木の出口、道の入口にある、でも、こちらもスピードがでているから、気をつけてといわれても、もう手遅れで気をつけようもないのですが、心もクルマも至って安定しておって、なんらの不安感も不安定感もなく、そのまんま、その大岩ゴロゴロの上にクルマが差し掛かると、ソレガシの眼はあたかも、クルマのバンパーについているかのごとく、我が今踏みゆく大岩のあれこれを眼前にできるのですが、左車輪は、まさに馬鹿でかい大岩に乗り、その大岩の果てるところの右側は小岩、その小岩に目出度く右車輪が乗り、その大小の裂目は目出度くクルマの腹の下を素通りで、がくがくどんどんがっくん、ともせずにまことにスムースに岩をバリヤ、ま、道ともいえぬ、岩ごろごろを超えてタクシーの運ちゃんが待っている急坂入口までいくと、その運ちゃんがにこにこしていて、お礼がてらここはどこ?と尋ねると、なんとか神社というのですが、たしかにその神社、むっかし来た事がある、下りゆく道のあちこちに異様なさまで、腹をこちらにむけて首を伸ばした大亀が、甲羅ならぬ大小屋を背に立っているし、龍がひっからまった剣も立っていたか、どうかはさだかならぬ、記憶がだんだんフェードアウトして、目が覚めてしまったわけで、なんだか、とても危険な夢の割には、一切の動悸もわくわくもなく汗も奇声ももちろんなく、淡々とこの危険な夢を乗り越えてきたやうなわけで・・・
>
> > > > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に>無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
> > >
> > > しかり。
> > >
> > > > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
> > >
> > > 他者が試される?
> >
> > >誰に?
> >
> > >私が他者を試すのですか?
> >
> > 「他者」とは、この場合においては、上記の詩人や作家や画家に対しての「他者」ですので「自分」のことです。自分の感性が試されるということです。以上です。
>
> はい、そうでしたか。ありがとう。
>
> だうも、ソレガシは勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・

親切が仇になりけり寒たまご

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53822] 勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・Re:[53821] ここだけ訂正しますが 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/26(Sat) 04:32  

おねわいたANNEX−Ω   訪問者数:2348112(今日:48/昨日:592)2011/02/26(Sat) 03:23

土偶の世界:DOGU-The clay figure of ancient Japan
http://www.youtube.com/watch?v=hixCQ-926-Q

ゆうべの21:21のなすのせせさんの記事も今初めてみるちうことは、それ以前にねてしまったソレガシ、3時にへんな夢を見てべつに焦りもしませんでしたが、ぬくぬくと起きだしてションベンをしてよもぎ大福を一個くって、タバコを一服して、はて?あの変な夢を誰にでもみれるここに書くべきかいなか、いなか、う〜む、田舎の光景の話からあらぬ方向に話題がながれていますが、ともかくも、ちょっと夢の象徴の数多を頭んなかで整理して振り分けも夢の意味が解せず、かといって、気にはなる夢で、ソレガシはファラオではありませんから、隣のイスラエルの奴隷の夢解釈をするイスラエルの神にまもられた奴隷をつれてこさせて解釈させるわけにもまいらず、さて、だうしたもんか、書いておかねば、永遠に忘れるであらう、嗚呼、さういえば、きのうバイクではしっているときに、二句、浮かんだ、それも大盛のトンカツ定食にコロッケも盛り合わせてもらって650円を食ってしまったら、もうわすれてでてこぬ、その忘れた句がこれが、忘れてみるとまことに秀句で、残念の極み、とくに、下五が、指を折れば8文字でしたが、擦過音、っ、ですね、それが一つと、ん、が二つで、これらの、つまった、っ、と、ん、は数えても数えなくてもええ、うむ。これは初心者むけには、ええ例題でもあるなあ、帰ったら是非書いておこう、と思いながら、春一番が吹いてたいへんだったでせう、ちうトンカツ屋の女将さんの会話に引きこまれて、放念してしまったのだ、だから、今の夢も、ああ、トンカツの話で忘れてしまう・・・

なんだかしらぬ一人ベットに寝ていて、そこは寄宿舎か病院か、ひろい部屋で、窓の外は雨なんですね。体育の時間なんだが、雨だば無理だんべ、ちうことで、ベッドでうだうだしておったら、そのがらんどうの部屋に舎監のやうなもんが来て、授業が雨だから体育から歴史にかわって、体育館でやる、と告げてきたのですが、その歴史の時間ちうのんは、ずっとさぼりっぱなしで、なんだか、出て行くのも億劫だなあ、ということでうじうじベッドの枕元やシーツのうえの教科書とかお菓子を弄くっていると、突然光景は家になって、もう、おまえだけがたよりなんだよ、兄弟もみんなだめなんだから、おまえだけがたよりなんだよ、それでもおまえが立派に寄宿舎だか病院にはいって立派に稼いでくれるからなんとかやっていける、こんどはおまえのいるところにいってみたい、ああ、いつでもきてくれよ、でもあんなちっぽけなお手当てがたよりぢゃ・・・ちうところで、また光景は、その病室か寄宿舎の部屋にもどって寝ていると、また舎監めいた誰かきて、ちょっと健康保険だか傷害保険だか、なぬかを出しなさい、というので、ベッドのそばの小物入れからだして差し出すと、今日で君の保険はおしまいだから、明日からこないでください、というのですね。え!と驚いて、ベッドが飛び降りて、さて、かのいやな歴史の講義をしている体育館へ急ごうとすると、ホールに人が群れていて、だれも体育館へいった気配も行く気配もないのです。おかしいなとここに入るに世話になったひとを探したのだけれども、それがやなヤツで、現役時代に、多少のお付き合いはあった先輩に良く似ているやつなんだけれども、そのやつは、調子が良くてよく通産省の担当であったから、役所にいってくるとはいって、サボりにいってしまうやうなヤツで、口先では正論を唱える、それも役所の言い分の傘に着て、あれこれいうのですが、だうもへんなやつで、いわれたことにまきこまれてそのときはセットクされてもあとでだうしてこうなっちゃうの?といつも疑問に思う、それに人相も口が捻じ曲がっていて、一見理知的にはみえるが、こころがひねくれているんぢゃないかというやうなヤツで、そういうやつの世話で、ここにいれてもらっているのも、なんだか癪に障るのですが、ともかくも、家ぢゃあ、ああいう風にいっているし、今日突然、保険が終わって明日から来ないでくれといわれても、困るから、彼を探すのですが、彼がいない。それで、彼と同室のもんをとっ捕まえて、彼と連絡をとりたいといえば、彼はさっき出張にでかけたとそいついうので、そいつに出かけた先に連絡をなんとかとってくれないか、一身上の重大事なんだから、相談したいことがあると頼み込むとそいつがそそくさとどっかにきえてもどってきて、あちらも今手が離せない、とらちがあかないので、またベッドにもどってなんかしらんチンドン屋めいた衣装を着こんでまたホールにもどってくると、友人らが、大挙して群れていて、ああ、だんだん、記憶が不鮮明になっていく、その群れのなかにとびこんで、適当に誰かと肩を組むと、こっちむてというほうから、記念写真らしきもんをとられ、これはいったい何をしているの?と問えば、なんだ、昇進記念とか歓送会かと、なんだ、俺は関係ないんだ、と、場面がここでまたざっくりかわって、雨の街といっても、田舎をなんだかでっかいまるまっちい真っ黒なクルマを猛烈なスピードで走らせている、たぶんベントレーかジャガーなんでせうが、ともかくもこの緊急事態を家に知らせねばならぬ、しかし悲しむぢゃろなあ、とおもいつつ、水しぶきを上げてすっとんでいくと、突然、直進すべき道からクルマがかってに右折したがごとくに、山へ登るやうな急坂の枝道にクルマが突っ込んでいって、どんどん登る、ちうようなもんではのうて、飛んで上がっていく、左右の雨はもう雪、ちうても雪がふっているわけでもなく、左右が汚い汚れた雪塊でそれをボディーで蹴散らしながらすっとんでいくそのバックミラーに一台のクルマがぴったりとくっついてのぼってくる、なんだかタクシーらしい屋根の上のランプもみえて、俺がこんなにぶっとばしているのになかなかやるタクシーだなと思ったら、その急坂の登りの先に突然、大木があらわれ、大木の奥になんだか古い大きな木造の家があって、だうもそこが終点のようではあるが、なんのようもこちらにはないので、さてどうするかとさらにちかづいてゆくと、大木の左にその大きな家の前に入る道があるようなので、そこに突っ込んでいくにも、左右のボディーは雪塊をガンガン擦ってのぽってみると、クルマが何台もとまっておって、砂利敷きの駐車場で、その右の一画、つまり、さっきの大木の幹に添ったところだけがクルマが通れそうな余裕があって、そこを抜ければ、その大きな家の大きな玄関前のようで、ま、えっか、ここっきゃいけぬぢゃけん、とクルマを進めると、その玄関前をすり抜けて大木をぐるっとまわって、また元来たあの急坂の道の天辺、おお、そこにかのタクシーがおって、俺のくるまが大木を廻って出てくるのを待っておったらしく、運転手がタクシーから降りて、旦那さん、気をつけてね、と叫ぶ、そのさきは、なんとお、ごろんごろんした大岩がいくつも急坂に下るその大木の出口、道の入口にある、でも、こちらもスピードがでているから、気をつけてといわれても、もう手遅れで気をつけようもないのですが、心もクルマも至って安定しておって、なんらの不安感も不安定感もなく、そのまんま、その大岩ゴロゴロの上にクルマが差し掛かると、ソレガシの眼はあたかも、クルマのバンパーについているかのごとく、我が今踏みゆく大岩のあれこれを眼前にできるのですが、左車輪は、まさに馬鹿でかい大岩に乗り、その大岩の果てるところの右側は小岩、その小岩に目出度く右車輪が乗り、その大小の裂目は目出度くクルマの腹の下を素通りで、がくがくどんどんがっくん、ともせずにまことにスムースに岩をバリヤ、ま、道ともいえぬ、岩ごろごろを超えてタクシーの運ちゃんが待っている急坂入口までいくと、その運ちゃんがにこにこしていて、お礼がてらここはどこ?と尋ねると、なんとか神社というのですが、たしかにその神社、むっかし来た事がある、下りゆく道のあちこちに異様なさまで、腹をこちらにむけて首を伸ばした大亀が、甲羅ならぬ大小屋を背に立っているし、龍がひっからまった剣も立っていたか、どうかはさだかならぬ、記憶がだんだんフェードアウトして、目が覚めてしまったわけで、なんだか、とても危険な夢の割には、一切の動悸もわくわくもなく汗も奇声ももちろんなく、淡々とこの危険な夢を乗り越えてきたやうなわけで・・・

> > > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に>無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
> >
> > しかり。
> >
> > > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
> >
> > 他者が試される?
>
> >誰に?
>
> >私が他者を試すのですか?
>
> 「他者」とは、この場合においては、上記の詩人や作家や画家に対しての「他者」ですので「自分」のことです。自分の感性が試されるということです。以上です。

はい、そうでしたか。ありがとう。

だうも、ソレガシは勝手に、解釈する悪い癖があって、誤解したやうで申し訳けなく・・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53821] ここだけ訂正しますが 投稿者:なすのせせ 投稿日:2011/02/25(Fri) 21:21  

> > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に>無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
>
> しかり。
>
> > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
>
> 他者が試される?

>誰に?

>私が他者を試すのですか?

「他者」とは、この場合においては、上記の詩人や作家や画家に対しての「他者」ですので「自分」のことです。自分の感性が試されるということです。以上です。


[53820] 愛は死にますか 心は死にますか・・Re:[53819] いつも何度でも〜その2/2.Re:[53818] いつも何度でも〜その1/2.Re:[53817] [53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/25(Fri) 11:06  

とときうめANNEX−Ω   訪問者数:2347774(今日:302/昨日:476)2011/02/25(Fri) 10:53

尊き梅か、ととうめきか。いまさ銀行へいってもったらまるでホッパーへの死の行進のごとくの行列でそのひとりひとりが機械をまえにあちらこちらの通帳へ金を分配している背はまるまりまるで人間がロボット化されちょる風景にぞっとして帰ってきますた。

http://www.fukuchan.ac/music/j-folk3/sakimorinouta.html


防人の詩


さだまさし 作詞/作曲


おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください
私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
いまの自分と


答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての生命に約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去る様に 冬が来る様に
みんな逝くのですか
わずかな生命のきらめきを 信じていいですか
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で


おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか


海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな 逝ってしまいますか

> なもそせんANNEX−Ω   訪問者数:2347715(今日:243/昨日:476)2011/02/25(Fri) 08:24
>
> Nataliya Gudziy-Sakimorinouta ナターシャ・グジー 防人の詩
> http://www.youtube.com/watch?v=vpb-YwyUXx8&feature=BF&list=QL&index=2
>
> > > > :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
> > > >
> > > > んったく、いろいろに解釈できますね。
>
> つづきです。
>
> > > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
> >
> > しかり。
> >
> > > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
> >
> > 他者が試される?
>
> 誰に?
>
> 私が他者を試すのですか?
>
> > > 年寄りの繰り言を「またか…。」と思った傲慢な時期もあったけれど、その人の最期を見届ける時になって、考え方は後者の方に変った経験がある。
> >
> > やうは、そのひとをその原体験や抜けがたい記憶からの反映として理解しやうという志向ですね。
> >
> > さういう志向を他者はもっているかどうかを試すわけでせうが、試すというのはどうでせうかね。
>
> という疑問もあるんですが、それ以前にその試すもとになっている仮説の検証も必要ではないでせうか?
>
> > 畢竟、ひとはみな同じ原体験や抜けがたい記憶をもっているわけではない、いあやさ、もっていてもその原体験とか記憶の意味はひとぞれぞれのもんでもあるからして、その意味として出現するさまざまな詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに限らず、そもそもがそのひとの行動、世界内存在としてのありようと世界との交流のしかたに如実に現われるのであって、それがいわば時流において奇人変人狂人凡人などとされたりあるいはヒーローになったり聖人になったりする、さういうもんは、ま、いわば時流や歴史における数多の眼による評価でせうが、さういう数多の眼ならぬ、自分の眼において相手を試す、まあ、試すまではよろしいのでせうが、試した結果、「また・・・。」となれば、だうなるんでせう?
> >
> > ひとそれぞれの原体験、記憶の数多(あまた)なる多様性のなかでも、それを範疇として括っていけば、いろいろに整理できるわけであって・・・数多なる人々に共通の原体験、記憶ちうもんもあれば、個別の独自のもんもある。ことこの共通のものであっても、先に申し述べたやうにその意味づけは人様々であると同時に時代によっても様々ですから、一概に他者の共感を期待しても失望するでせうね。個々の体験、記憶においてはなおさら・・
> >
> > それでも、そういう体験や記憶をある種、ジャンヌエルシュ的にいえば、論理的強姦で、無理やり構造化してしますむきもなきしもあらずで、そのへんのところをちょっと紹介しますが・・
>
> これは、下記の木村の言説をふくめて舌足らずだったのかもしれませんが、仮説の検証というのは、ここでも過去に何度か言及している、メカニカルな機械論的精神分析、機械論的医学のありようのことで、そこで用いられている各種のメカニカルな概念と機械論的な機作、作動の仮説、さういうもん、たとえば、原風景というと、フロイト的には、特殊な風景をさしているのですが、さういう特殊な風景の特殊な作用の仮説、その特殊さを意識して、原体験といってみたのですが、原体験にするとこの特殊な仮説のありようもぼやけてしまうかもしれませんが、原風景にしても、リピドやエスというコンセプト、そういうものが発動する機作、やうは、幼児時のトラウマ、心の傷が、後年の人生を支配するというような構図そのもののありよう、これはひとつの有効な仮説ではあっても、人間の命、生活のすべてではありえない、ちうことにも思いを致さねば、人間はあたかも、幼児にプログラミングされたロボットめいてきますし、おなじことを精神なら身体医学の分子生物学的機械論の仮説でいえば、親から、祖先から、はたまた進化論的さまざまな生き物から引き継いだDNAが現に此処に個々に存在している人間の命、生活を支配するというやうな、まあ、いってみれば、極論の論者もいるわけで、それが極論とされずに、生物学的精神身体医学では実体論的、物質的な、はてまた分析的薬事的医学の検証をへて、ひとをものやメカニカルな機械論的な構造、機構に還元してしまう、その怖さ。
>
> これは、フロイトの機械論的精神分析で、いろいろな仮説で、治療をすすめていく、その中で、この仮説ゆえに、そこに逃げ込んで自己正当化をしまう、つまりそういう仮説、トラウマとか、その発動、それを乗り越えるために、さういう仮説にもとづいて分析しているにもかかわらず、分析されたその気づきが、それを乗り越える方向へむかないで、それに落ち込んでしまう、さういう患者をフロイトは分析治療することを拒んだ、この拒んだことへの反論も多々あり、いろいろな分析流派や、精神分析そのものを評価しつつもその限界を乗り越えようとするものもあらわれたわけで、機械論的精神医学に対して、人間学的精神医学というのは、そういう仕分けでいわれるものですから、精神病とか精神分析とか精神医学という疑念の歴史的な検証も必要なわけで、そこは通常の医療機関では、素通りで、患者も医師にいわれたこと、あるいは、いろんなところで説明されていることを鵜呑みにしがちなんですが、さういう現代文明の鎖につながれて呻吟すりょりは、それを解き放つ、洗脳と思い込みに専横されない、自由さ、さういうもんも見につければ、ある仮説だけでひとを診ることも試すことも、できないわけで・・・
>
> やうは、いいたいことは、トラウマやDNAがひとを支配するというような単純な構図では、なんでひとは日々の今現在を生きているのか、ちうもっとも基本的な問いにも答えられないわけで、機械論的人間解釈は、機械論的文明においては好都合で普及していますが、ゆえに、人間は、人間性は、疎外されている、機械論的恋愛においては恋も愛も疎外されてしまうのと同じことですね。
>
>
>
> > --------------------------------------------------------------------------------
> > [53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12


> > > > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円

> > 「p103
> >
> > ・・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。・・・われを排列しおきてジン界(儘の人偏のない字、探している間にシステムダウンして返事がおくれてしまったのですが)とせり。このジン界の頭頭物物を時時なるとチョ見(チョはちょっとでてこないのですが、老眼でよく細部が見えぬ、虚の並をとって亜にしたものを左偏にして右のつくりに見とかく)すべし。・・・われを排列して、われこれを見るべし。自己の時なる道理、それかくのごとし。・・・云々。要をとりていはば、ジン界にあらゆるジン有は、つらなりながら時時なり。有時なるによって吾有時なり・・・」
> >
> > このあと現代訳がのっていますが、それは、まあ、言い尽くされた感もある存在は時間であるというのにすぎませんで、道元のこの有時では、単に存在と一括り、それも西洋哲学、西洋精神医学の範疇、規範だけで間に合う謂いではないので、わざわざ、古語文を挙げたわけで、この時時、排列、われの有りようには、それこそ、つらなりながら爺、ああ、時時である、つまり胎児、幼児、子供、少年少女、青年乙女、成人、初老、古稀、白寿、まあ、あらゆる現体験、記憶、はたまた幻想さえのつらなりの味わいがあるのであって、巷のわかったぼくちゃんどもハイデッガーの「存在と時間」うんぬんくぬんちうことで片付けられない食み出したもんがあるのは、仏教においては意識のありようも単純な西洋無意識を幾層にも観ているのですから、さういう唯識的な見識もこの有時にあることを見逃してならないと思うのですが、それはさておき、さういうもんから説き起こして、木村は「時間の生き方の三類型」に及び、さらには「W 生命論と精神病理学」の「ゾーエーとビオス」のなかで・・
> >
> > p121
> >
> > 「古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語をもっていた。・・・「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。生物学のバイオ、伝記のバイオグラフィーという場合のバイオの語源・・・
> >
> > 「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態つぃての生命だという。(引用者註:これは木村が神話学者カール・ケレーニーの説に言及している。)ゾーロジー動物学、zooズー動物園はゾーエーから来ているのだが、残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。・・・
> >
> > 私たちが臨床の場面でさしあたり出会うのは、生命の意味であれ生活の意味であれ、個々の患者のビオスである。
> >
> > 生物学的精神医学は生命としてのビオスを扱うし、生活史を重視する人間学的精神医学や力動精神医学、生活療法や社会復帰治療では生活としてのビオスが中心になる。
> >
> > しかしいずれにしてもこのビオスは、生命としてあれ生活としてであれ、それ自体無限定のゾーエーが個々の患者の身体に宿ることによってはじめて実現しているものである。
> >
> > ゾーエーそれ自体は無限定で輪郭をもっていないから、それを対象的に認識したり識別したりすることができない。しかしそれは、対照的な認識や識別とは違った仕方で、もっと直接的に経験することができる。それはゾーエーが、無限定であrがゆえに無人称であり、私ひとりの生命ではなく同時に他の生命体の生命でもあるからにほかならない。
> >
> > 患者と治療関係のなかで出会っているとき、私たちは患者とのあいだに、だれひとり否定することのできない一体感、連帯感のようなものを感じることがある。これはけっして私の主観的な思い込みのようなものではない。
> >
> > 精神分析ならこれを治療者と患者のそれぞれのビオス(生活史)に還元して「転移」と言うことになるのだが、これは実はビオスの問題ではない。本質的にはゾーエーそのものの非対称的で直接的な経験なのである。」
> >
> > このフロイトなどが忌諱した「転移」をかういう風にとらえなおす見識はまことにインテレサントなものがあって、これはいってもれはなぬも「転移」ばかりでのうて、「投影」でもおなじことであるからして、治療者と患者関係を持ち出すまでもなく、恋愛そのものの根源はゾーエーであって、それがビオスとして個々の生命と生活を形成すると解すれば、日常茶飯事のことである、恋愛は金輪際ごめんちう男女を除いて・・
> >
> > この考え方は、まあ、いろいろ多様な言語的対応、概念的な多様な展開も可能ですから、またやってみることして、さきのセンズルことも詮ずれば所詮、ゾーエーのビオス的発動ちうことでせうね。
> >
> > それはともかくも・・
> >
> > > >けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
> > >
> > > 「バレエ」…つまり我が肉体を極限まで鍛え上げて、その肉体によって、言葉でもない、絵でもない、音楽でもないものを表現しようとする人には大いなる羨望を感じる。あああ。我が肉体の撓みよ。おかしさよ。
> >
> > 難しい字を使いますね。
>
> 撓にもいろんな意味があって、掲載してみましたが、文字数の加減で削除して・・・
>
> 我が肉体のたわみよ。おかしさよ。
>
> で、いいんでせうか?
>
> たわんでいるんですか?
>
> たわわとも意味が派生しますけんど、脂肪がたわわとか、志望がたわわとか・・・
>
> 体脂肪率は何%ですか?
>
> > > 春騒ぎ我が心身が愛おしく
> > >
> > > 春騒ぎ我が心身の愛おしき
> > >
> > > どっちもどっちかなぁ…。
> >
> > うむ。連用形が多いとしまりがなくなることもありますが、助詞の、が、も使用上は要注意で、ゲーム俳句、ルール俳句をするむきの俳人には、が、の使用をいやがるもんもいます。というのも、が、とか、は、とかいうんは、助詞として、を、の代理をすることもあり、その場合、を、を使うよりも、が、とか、は、の場合は、ことさらに強調する、さういう作用があるわけで・・・たとえば
> >
> > 心身を愛おしく思う
> >
> > 心身が愛おしい
>
> くわえて・・
>
> 心身は愛おしい
>
> が、より、は、のはうが、ことさらにものごとを強調してとりだしてくるんですね。
>
> 心身は愛おしいが、お金は愛おしくない。つまり、心身以外のものを背景に沈めて眼前から追い払ってしまう。
>
> が、は、は、よりもの作用は弱いのですが・・・
>
> 心身が愛おしい
>
> ほんぢゃあ、お金がいとおしい、のであって、別の〜がいとおしいのは言外においてけぼり。
>
> 心身を愛おしむ
>
> を、の場合は、他の何かも、並列的に、〜をいとおしむ、というふうに、ほかのものへのいとおしみを排除するもんではりませんね。

それを私が試します。

それを私は試します。

それは私が試します。

いろんなニュアンスがあります。


> そこに違いがあります。
>
> > ちう違いです。どうように、の、もいろいろな助詞の代理を果たし、場合によっては、主語にして、かるく切れる、切れ字、首切りの役割さえも果たすのですkら、便利ではありますが、だういう意味で、の、をつかっているのか、意識してつかう必要があります。
> >
> > それから、これあソレガシの悪い癖が転移しているやうで申し訳ないのですが、我が、ちう文言を一句に挿入するのもゲーム的には嫌うむきもあります。ナルシズム俳句とか・・・
> >
> > それからそれから、上掲の二句においては、もの、たるものは肉だけ、二句とも肉だけ、つまり、心はものではなく、心身の身のほうは肉ですから、俳句はものに即して詠め、ちうゲームルールにも若干触れるものがあります。
> >
> > もの、に即さないで、愛、心、悲哀、憎悪などは、それを外だしにして詠んでも、それはある、出来事、つまり、こと、であるわけで、こと俳句になってしまうわけであって、ここの、もの、と、こと、のことも、俳句で論じられる、ものに即す、これは心身を対象化した医学、生物学的医学も、ものに即して診て治療するわけですが、木村らの実存、あるいは現象学的な精神医学では、こと、出来事、に即して診て治療していく、さういう相反、すべて相反しているわけではありませんが、世の中には、そういう、両面の見方が、文芸、哲学、医学などに通底してあるわけで、これもインテレサントなところです。
> >
> > したがい、上掲の肉の二句は、ゲーム的にはペケですが、ま、俳句もここぢゃあ、ゲームぢゃないだから、○ですね。
> >
> > 春騒や人は誰でも所詮釈迦

畢竟、究極のナルシストは釈迦でありキリストであり、あっこまで徹底的に愛に溺れれば、天上天下唯我独尊、神の愛を一身にあつめて復活ですね。

さて、花粉を一身に吸い込んで走りませう。春の陽気を探梅へ・・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53819] いつも何度でも〜その2/2.Re:[53818] いつも何度でも〜その1/2.Re:[53817] [53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/25(Fri) 08:29  

なもそせんANNEX−Ω   訪問者数:2347715(今日:243/昨日:476)2011/02/25(Fri) 08:24

Nataliya Gudziy-Sakimorinouta ナターシャ・グジー 防人の詩
http://www.youtube.com/watch?v=vpb-YwyUXx8&feature=BF&list=QL&index=2

> > > :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
> > >
> > > んったく、いろいろに解釈できますね。

つづきです。

> > 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。
>
> しかり。
>
> > それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
>
> 他者が試される?

誰に?

私が他者を試すのですか?

> > 年寄りの繰り言を「またか…。」と思った傲慢な時期もあったけれど、その人の最期を見届ける時になって、考え方は後者の方に変った経験がある。
>
> やうは、そのひとをその原体験や抜けがたい記憶からの反映として理解しやうという志向ですね。
>
> さういう志向を他者はもっているかどうかを試すわけでせうが、試すというのはどうでせうかね。

という疑問もあるんですが、それ以前にその試すもとになっている仮説の検証も必要ではないでせうか?

> 畢竟、ひとはみな同じ原体験や抜けがたい記憶をもっているわけではない、いあやさ、もっていてもその原体験とか記憶の意味はひとぞれぞれのもんでもあるからして、その意味として出現するさまざまな詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに限らず、そもそもがそのひとの行動、世界内存在としてのありようと世界との交流のしかたに如実に現われるのであって、それがいわば時流において奇人変人狂人凡人などとされたりあるいはヒーローになったり聖人になったりする、さういうもんは、ま、いわば時流や歴史における数多の眼による評価でせうが、さういう数多の眼ならぬ、自分の眼において相手を試す、まあ、試すまではよろしいのでせうが、試した結果、「また・・・。」となれば、だうなるんでせう?
>
> ひとそれぞれの原体験、記憶の数多(あまた)なる多様性のなかでも、それを範疇として括っていけば、いろいろに整理できるわけであって・・・数多なる人々に共通の原体験、記憶ちうもんもあれば、個別の独自のもんもある。ことこの共通のものであっても、先に申し述べたやうにその意味づけは人様々であると同時に時代によっても様々ですから、一概に他者の共感を期待しても失望するでせうね。個々の体験、記憶においてはなおさら・・
>
> それでも、そういう体験や記憶をある種、ジャンヌエルシュ的にいえば、論理的強姦で、無理やり構造化してしますむきもなきしもあらずで、そのへんのところをちょっと紹介しますが・・

これは、下記の木村の言説をふくめて舌足らずだったのかもしれませんが、仮説の検証というのは、ここでも過去に何度か言及している、メカニカルな機械論的精神分析、機械論的医学のありようのことで、そこで用いられている各種のメカニカルな概念と機械論的な機作、作動の仮説、さういうもん、たとえば、原風景というと、フロイト的には、特殊な風景をさしているのですが、さういう特殊な風景の特殊な作用の仮説、その特殊さを意識して、原体験といってみたのですが、原体験にするとこの特殊な仮説のありようもぼやけてしまうかもしれませんが、原風景にしても、リピドやエスというコンセプト、そういうものが発動する機作、やうは、幼児時のトラウマ、心の傷が、後年の人生を支配するというような構図そのもののありよう、これはひとつの有効な仮説ではあっても、人間の命、生活のすべてではありえない、ちうことにも思いを致さねば、人間はあたかも、幼児にプログラミングされたロボットめいてきますし、おなじことを精神なら身体医学の分子生物学的機械論の仮説でいえば、親から、祖先から、はたまた進化論的さまざまな生き物から引き継いだDNAが現に此処に個々に存在している人間の命、生活を支配するというやうな、まあ、いってみれば、極論の論者もいるわけで、それが極論とされずに、生物学的精神身体医学では実体論的、物質的な、はてまた分析的薬事的医学の検証をへて、ひとをものやメカニカルな機械論的な構造、機構に還元してしまう、その怖さ。

これは、フロイトの機械論的精神分析で、いろいろな仮説で、治療をすすめていく、その中で、この仮説ゆえに、そこに逃げ込んで自己正当化をしまう、つまりそういう仮説、トラウマとか、その発動、それを乗り越えるために、さういう仮説にもとづいて分析しているにもかかわらず、分析されたその気づきが、それを乗り越える方向へむかないで、それに落ち込んでしまう、さういう患者をフロイトは分析治療することを拒んだ、この拒んだことへの反論も多々あり、いろいろな分析流派や、精神分析そのものを評価しつつもその限界を乗り越えようとするものもあらわれたわけで、機械論的精神医学に対して、人間学的精神医学というのは、そういう仕分けでいわれるものですから、精神病とか精神分析とか精神医学という疑念の歴史的な検証も必要なわけで、そこは通常の医療機関では、素通りで、患者も医師にいわれたこと、あるいは、いろんなところで説明されていることを鵜呑みにしがちなんですが、さういう現代文明の鎖につながれて呻吟すりょりは、それを解き放つ、洗脳と思い込みに専横されない、自由さ、さういうもんも見につければ、ある仮説だけでひとを診ることも試すことも、できないわけで・・・

やうは、いいたいことは、トラウマやDNAがひとを支配するというような単純な構図では、なんでひとは日々の今現在を生きているのか、ちうもっとも基本的な問いにも答えられないわけで、機械論的人間解釈は、機械論的文明においては好都合で普及していますが、ゆえに、人間は、人間性は、疎外されている、機械論的恋愛においては恋も愛も疎外されてしまうのと同じことですね。



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> [53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12
>
>
> るちめくみANNEX−Ω   訪問者数:2345306(今日:401/昨日:591)2011/02/20(Sun) 21:50
>
> あの日のように / 矢沢永吉
> http://www.youtube.com/watch?v=r8S-fuAHm1Q&feature=BF&list=QL&index=65
>
>
> > すふもけなANNEX−Ω   訪問者数:2344467(今日:153/昨日:496)2011/02/19(Sat) 08:29
> >
> > 矢沢永吉/いつの日か with Bank Band
> > http://www.youtube.com/watch?v=Yv7DH9sf4Pw&feature=autoplay&list=QL&index=19&playnext=2
>
> > > いよつぬうANNEX−Ω   訪問者数:2344219(今日:401/昨日:464)2011/02/18(Fri) 20:14
> > >
> > > 東京 〜矢沢永吉〜
> > > http://www.youtube.com/watch?v=ZRkA9bxCaLY&feature=bf_prev&list=QL&index=21
>
>
> > > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円
> > >
> > > この木村敏のは今は書斎でみっからんけれども、かつて中公新書かなんかで読んで感心した記憶がある、たかが新書でも書き方ものの考え方がまこと全うで好感がもてますから、即購入。
>
> :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。これはやっぱりお勧めですよ。
>
> 「p103
>
> ・・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。・・・われを排列しおきてジン界(儘の人偏のない字、探している間にシステムダウンして返事がおくれてしまったのですが)とせり。このジン界の頭頭物物を時時なるとチョ見(チョはちょっとでてこないのですが、老眼でよく細部が見えぬ、虚の並をとって亜にしたものを左偏にして右のつくりに見とかく)すべし。・・・われを排列して、われこれを見るべし。自己の時なる道理、それかくのごとし。・・・云々。要をとりていはば、ジン界にあらゆるジン有は、つらなりながら時時なり。有時なるによって吾有時なり・・・」
>
> このあと現代訳がのっていますが、それは、まあ、言い尽くされた感もある存在は時間であるというのにすぎませんで、道元のこの有時では、単に存在と一括り、それも西洋哲学、西洋精神医学の範疇、規範だけで間に合う謂いではないので、わざわざ、古語文を挙げたわけで、この時時、排列、われの有りようには、それこそ、つらなりながら爺、ああ、時時である、つまり胎児、幼児、子供、少年少女、青年乙女、成人、初老、古稀、白寿、まあ、あらゆる現体験、記憶、はたまた幻想さえのつらなりの味わいがあるのであって、巷のわかったぼくちゃんどもハイデッガーの「存在と時間」うんぬんくぬんちうことで片付けられない食み出したもんがあるのは、仏教においては意識のありようも単純な西洋無意識を幾層にも観ているのですから、さういう唯識的な見識もこの有時にあることを見逃してならないと思うのですが、それはさておき、さういうもんから説き起こして、木村は「時間の生き方の三類型」に及び、さらには「W 生命論と精神病理学」の「ゾーエーとビオス」のなかで・・
>
> p121
>
> 「古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語をもっていた。・・・「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。生物学のバイオ、伝記のバイオグラフィーという場合のバイオの語源・・・
>
> 「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態つぃての生命だという。(引用者註:これは木村が神話学者カール・ケレーニーの説に言及している。)ゾーロジー動物学、zooズー動物園はゾーエーから来ているのだが、残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。・・・
>
> 私たちが臨床の場面でさしあたり出会うのは、生命の意味であれ生活の意味であれ、個々の患者のビオスである。
>
> 生物学的精神医学は生命としてのビオスを扱うし、生活史を重視する人間学的精神医学や力動精神医学、生活療法や社会復帰治療では生活としてのビオスが中心になる。
>
> しかしいずれにしてもこのビオスは、生命としてあれ生活としてであれ、それ自体無限定のゾーエーが個々の患者の身体に宿ることによってはじめて実現しているものである。
>
> ゾーエーそれ自体は無限定で輪郭をもっていないから、それを対象的に認識したり識別したりすることができない。しかしそれは、対照的な認識や識別とは違った仕方で、もっと直接的に経験することができる。それはゾーエーが、無限定であrがゆえに無人称であり、私ひとりの生命ではなく同時に他の生命体の生命でもあるからにほかならない。
>
> 患者と治療関係のなかで出会っているとき、私たちは患者とのあいだに、だれひとり否定することのできない一体感、連帯感のようなものを感じることがある。これはけっして私の主観的な思い込みのようなものではない。
>
> 精神分析ならこれを治療者と患者のそれぞれのビオス(生活史)に還元して「転移」と言うことになるのだが、これは実はビオスの問題ではない。本質的にはゾーエーそのものの非対称的で直接的な経験なのである。」
>
> このフロイトなどが忌諱した「転移」をかういう風にとらえなおす見識はまことにインテレサントなものがあって、これはいってもれはなぬも「転移」ばかりでのうて、「投影」でもおなじことであるからして、治療者と患者関係を持ち出すまでもなく、恋愛そのものの根源はゾーエーであって、それがビオスとして個々の生命と生活を形成すると解すれば、日常茶飯事のことである、恋愛は金輪際ごめんちう男女を除いて・・
>
> この考え方は、まあ、いろいろ多様な言語的対応、概念的な多様な展開も可能ですから、またやってみることして、さきのセンズルことも詮ずれば所詮、ゾーエーのビオス的発動ちうことでせうね。
>
> それはともかくも・・
>
> > >けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
> >
> > 「バレエ」…つまり我が肉体を極限まで鍛え上げて、その肉体によって、言葉でもない、絵でもない、音楽でもないものを表現しようとする人には大いなる羨望を感じる。あああ。我が肉体の撓みよ。おかしさよ。
>
> 難しい字を使いますね。

撓にもいろんな意味があって、掲載してみましたが、文字数の加減で削除して・・・

我が肉体のたわみよ。おかしさよ。

で、いいんでせうか?

たわんでいるんですか?

たわわとも意味が派生しますけんど、脂肪がたわわとか、志望がたわわとか・・・

体脂肪率は何%ですか?

> > 春騒ぎ我が心身が愛おしく
> >
> > 春騒ぎ我が心身の愛おしき
> >
> > どっちもどっちかなぁ…。
>
> うむ。連用形が多いとしまりがなくなることもありますが、助詞の、が、も使用上は要注意で、ゲーム俳句、ルール俳句をするむきの俳人には、が、の使用をいやがるもんもいます。というのも、が、とか、は、とかいうんは、助詞として、を、の代理をすることもあり、その場合、を、を使うよりも、が、とか、は、の場合は、ことさらに強調する、さういう作用があるわけで・・・たとえば
>
> 心身を愛おしく思う
>
> 心身が愛おしい

くわえて・・

心身は愛おしい

が、より、は、のはうが、ことさらにものごとを強調してとりだしてくるんですね。

心身は愛おしいが、お金は愛おしくない。つまり、心身以外のものを背景に沈めて眼前から追い払ってしまう。

が、は、は、よりもの作用は弱いのですが・・・

心身が愛おしい

ほんぢゃあ、お金がいとおしい、のであって、別の〜がいとおしいのは言外においてけぼり。

心身を愛おしむ

を、の場合は、他の何かも、並列的に、〜をいとおしむ、というふうに、ほかのものへのいとおしみを排除するもんではりませんね。

そこに違いがあります。

> ちう違いです。どうように、の、もいろいろな助詞の代理を果たし、場合によっては、主語にして、かるく切れる、切れ字、首切りの役割さえも果たすのですkら、便利ではありますが、だういう意味で、の、をつかっているのか、意識してつかう必要があります。
>
> それから、これあソレガシの悪い癖が転移しているやうで申し訳ないのですが、我が、ちう文言を一句に挿入するのもゲーム的には嫌うむきもあります。ナルシズム俳句とか・・・
>
> それからそれから、上掲の二句においては、もの、たるものは肉だけ、二句とも肉だけ、つまり、心はものではなく、心身の身のほうは肉ですから、俳句はものに即して詠め、ちうゲームルールにも若干触れるものがあります。
>
> もの、に即さないで、愛、心、悲哀、憎悪などは、それを外だしにして詠んでも、それはある、出来事、つまり、こと、であるわけで、こと俳句になってしまうわけであって、ここの、もの、と、こと、のことも、俳句で論じられる、ものに即す、これは心身を対象化した医学、生物学的医学も、ものに即して診て治療するわけですが、木村らの実存、あるいは現象学的な精神医学では、こと、出来事、に即して診て治療していく、さういう相反、すべて相反しているわけではありませんが、世の中には、そういう、両面の見方が、文芸、哲学、医学などに通底してあるわけで、これもインテレサントなところです。
>
> したがい、上掲の肉の二句は、ゲーム的にはペケですが、ま、俳句もここぢゃあ、ゲームぢゃないだから、○ですね。
>
> 春騒や人は誰でも所詮釈迦

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53818] いつも何度でも〜その1/2.Re:[53817] [53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/25(Fri) 08:24  

へらのひもANNEX−Ω   訪問者数:2347679(今日:207/昨日:476)2011/02/25(Fri) 06:33

ゆんべはラーメン二郎の時に引用書を入手したので、その記事に引用文をつけやうとして、失敗して数時間のロスの挙句にこの記事にダイレクトに引用を再度してあわてて投稿したため、タイトルが抜けておったのをこれ幸いにしっつこく反復しますが・・反復といやあ、きのうは多摩川は小雨催でUターンして多摩湖狭山湖にむかい狭山丘陵周回にはいって鹿島休憩所で反復の筋トレリハビリでフェンスに生ゴムリボンを結びつけ引っ張りながら眼は道路っぺりの溝を走り、かの蝉のムクロ、もうあるはずが無い、去年の夏のむくろを求めたが、あるはずもなく、もういろいろな命の糧になってむくろとしては存在していないことを確認してたら、小雨がまた降りだし、ラブホテル街を駆け抜けて坂道を一気の50km/hでくだって市街地の290円ラーメンの幸楽園に避難するほどの降りではあらへんも、一応空の様子見でへえると、ママチャリで来ていた女子高校生の注目の的になって、そういうまなざしにもめげず、290円ラーメンとチャーシュー温泉卵丼と餃子をたのんで、前回は坦々麺でこりゃあ、高いので、看板の安ラーメン、辛くありませんけん、テーブルの上の赤い壜からスプーンですくった粒粒状のもんを何杯かラーメンにいれこんで食うと、これがけっこういけるんですね。あのラーメン二郎のニンニク大盛でもかかなかった汗が額に滲んできて、お店のお姉さんに訪ねれば、これはにんにく唐辛子ちうてネットで買えるとのよし。よっしゃあ、一つ悧巧になった♪まずいもんでもうまくなるニンニク唐辛子♪ちうほどラーメンもまずくはないんですが、ともかくもそのシンプルなラーメンもにんにく唐辛子のお陰で味の深味も辛味もでてくる、その微妙なアンサンブルの味わい。

音楽も同じですね。さらには恋愛も哲学も精神医学も・・

畢竟、歌にうたわれていること、日常の常識にして深味と辛味もある味わい、常識=共通感覚(コモンセンス)のことは、いろんなところで論じられていますが、たかが数分で読める歌の歌詞のなかにも、一生かけても読みきらぬ膨大な哲学書や宗教書のエッセンスを凝縮したやうな、にんにく唐辛子の味わいもある。さういう薬味をいかに上手に使いこなすか、で、ヘ平凡な味わいの平凡な料理も生活も、日々の倦怠、頽落、はたまた危機をマイルドに中和できる隠し味のやうなものがあるもんですね。



いつも何度でも -Nataliya Gudziy-
http://www.youtube.com/watch?v=6JiOQ1UBkzU&feature=BF&list=QL&index=1

ナターシャ・グジー Nataliya Gudzihttp://www.youtube.com/watch?v=xQJog0rs7Eg&feature=BF&list=QL&index=11y - Itsumo Nando Demo (Always With Me)


> うよるぬつANNEX−Ω   訪問者数:2347367(今日:371/昨日:537)2011/02/24(Thu) 18:17
>
> ウクライナ美女が"千と千尋〜"主題歌を熱唱 Nataliya Gudziy sings "Spirited Away"
> http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds&feature=BF&list=QL&index=19

それにしても、かういう美人をみると老人のソレガシも少年にもどってしまって、どこか近づきがたい崇高さを感じて竦んでしまうことはありませんが、女ちうやつは不思議なもんだ、年上に見えてしょうがないんですね。

ゆえに、ここちゃらでも、むっかし反復して書いたが、若い女には興味がない、興味が湧くのは年増に限る、まず知恵がある、容貌も貫禄を増して安心できるものがある、うんぬん。

たしかに、YOUTUBEなんぞを見ていると、世界の美女、もう他界している美女の若い頃から熟女、老婆の時代までの映像や歌や演技や日常がときどきでてきますが、ああ、男でもおんなじですが、さういう男女、年輪を加えれば加えるほど味わい深くなることもままある、歌い方の力強さは弱っていっても、そこにえもいわれぬものが、風貌にも声貌にも漂いだすんですね。

而して、さういう風格を光り輝かす若い女、とくに美人、がときとしていて、こういう高貴さ、香気、光輝は、畢竟、若い男にはみられないもんですね。シナトラにせい、フンパーディンクにせい、若いころのもんは見られたもんぢゃ、ない。

それで、この「いつも何度でも」でも、要は反復の賛歌ですが、この歌詞を探したのですが、安易にペタンコでけるもんはないようなので、ここはヒマと愛に任せて、一語一語、打ち込むことにしませう。

作詞 覚 和歌子

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢をみたい

悲しみは 数え切れないけれど
その向こうできっと あなたに会える

繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る

果てしなく 道はつづいてみえるけれど
この両手は 光を抱ける

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ

らららんらんらん〜おほほほっほ〜

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう

綴じてゆく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く

こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされゆけ

海のかなたには もう探さない

輝くものは いつもここに 
わたしのなかに みつけられたから

らららんらんらん〜おほほほっほ〜ろるるるんるんるんるるる

なかなかのもんですね。とても、28歳とは思えぬ、もっとも作詞者の歳はわからんが・・・


> いろいろな幼児体験があるものですね。
>
> > 黒の舟歌 長谷川きよし
> > http://www.youtube.com/watch?v=K0sTTRR5Yns&feature=related
> >
> > >さて、つづきです。なすのせせさんは、まう、ご本を多分お持ちでせうが・・
> >
> > > p62〜
> > >
> > > けれども、わたしはたずねたい、ひとは誰でも、そういう風景を見ると、田園風景一般の印象を受けるのではあるまいか、われわれは子供のころからそういう範疇をもちつづけているのではあるまいか、と。
> > >
> > > われわれは子供のころ、いまになって考えるとほとんど眩暈(めまい)を感ずるほどのそういう驚くべき範疇をいろいろもっていたのである。
> > >
> > > 子供のとき紙ぎれを切り抜いて男や女の形をこしらえたものだが、それはアダムとイブよりもいっそう厳密な意味で男一般、女一般だったのだ。
> > >
> > > 風景画家が、あるいは忠実な模写によって、あるいは理想的な再現によって狙う効果は、おそらく個人の興味をひかないのに、そういう画は、名状しがたい効果を作り出して、笑っていいのか泣いていいのかわからなくなってしまう、そしてこの効果は見る人の気分にもとづいているのである。
> > >
> > > どれほど豊かに言葉を重ねても、どれほど感嘆の激情をもやしても満足できず、いかなる表現、いかなる身振りも心を満たさず、思いきって奇抜な跳躍かとんぼ返りでもするのでなければとても気持ちがおさまらなぬといったような時期を、生涯に一度も経験したことがないなどという人間は、おそらく一人もいないだろう。そういう経験をした個人は、おそらくそれから、ダンスを習ったことだろう、おそらくしげしげとバレエに足を運んで、ダンサーの妙技を嘆賞したことだろう、しかしおそらくはそのうちに、バレエではもう刺激を感じないときがきたことだろう。けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
> > >
> > > :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
> > >
> > > んったく、いろいろに解釈できますね。

2/2へつづく・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53817] Re:[53816] [53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/24(Thu) 20:20  

うよるぬつANNEX−Ω   訪問者数:2347367(今日:371/昨日:537)2011/02/24(Thu) 18:17

ウクライナ美女が"千と千尋〜"主題歌を熱唱 Nataliya Gudziy sings "Spirited Away"
http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds&feature=BF&list=QL&index=19

いろいろな幼児体験があるものですね。

> 黒の舟歌 長谷川きよし
> http://www.youtube.com/watch?v=K0sTTRR5Yns&feature=related
>
> >さて、つづきです。なすのせせさんは、まう、ご本を多分お持ちでせうが・・
>
> > p62〜
> >
> > けれども、わたしはたずねたい、ひとは誰でも、そういう風景を見ると、田園風景一般の印象を受けるのではあるまいか、われわれは子供のころからそういう範疇をもちつづけているのではあるまいか、と。
> >
> > われわれは子供のころ、いまになって考えるとほとんど眩暈(めまい)を感ずるほどのそういう驚くべき範疇をいろいろもっていたのである。
> >
> > 子供のとき紙ぎれを切り抜いて男や女の形をこしらえたものだが、それはアダムとイブよりもいっそう厳密な意味で男一般、女一般だったのだ。
> >
> > 風景画家が、あるいは忠実な模写によって、あるいは理想的な再現によって狙う効果は、おそらく個人の興味をひかないのに、そういう画は、名状しがたい効果を作り出して、笑っていいのか泣いていいのかわからなくなってしまう、そしてこの効果は見る人の気分にもとづいているのである。
> >
> > どれほど豊かに言葉を重ねても、どれほど感嘆の激情をもやしても満足できず、いかなる表現、いかなる身振りも心を満たさず、思いきって奇抜な跳躍かとんぼ返りでもするのでなければとても気持ちがおさまらなぬといったような時期を、生涯に一度も経験したことがないなどという人間は、おそらく一人もいないだろう。そういう経験をした個人は、おそらくそれから、ダンスを習ったことだろう、おそらくしげしげとバレエに足を運んで、ダンサーの妙技を嘆賞したことだろう、しかしおそらくはそのうちに、バレエではもう刺激を感じないときがきたことだろう。けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
> >
> > :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
> >
> > んったく、いろいろに解釈できますね。
>
> 子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。

しかり。

> それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?

他者が試される?

> 年寄りの繰り言を「またか…。」と思った傲慢な時期もあったけれど、その人の最期を見届ける時になって、考え方は後者の方に変った経験がある。

やうは、そのひとをその原体験や抜けがたい記憶からの反映として理解しやうという志向ですね。

さういう志向を他者はもっているかどうかを試すわけでせうが、試すというのはどうでせうかね。畢竟、ひとはみな同じ原体験や抜けがたい記憶をもっているわけではない、いあやさ、もっていてもその原体験とか記憶の意味はひとぞれぞれのもんでもあるからして、その意味として出現するさまざまな詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに限らず、そもそもがそのひとの行動、世界内存在としてのありようと世界との交流のしかたに如実に現われるのであって、それがいわば時流において奇人変人狂人凡人などとされたりあるいはヒーローになったり聖人になったりする、さういうもんは、ま、いわば時流や歴史における数多の眼による評価でせうが、さういう数多の眼ならぬ、自分の眼において相手を試す、まあ、試すまではよろしいのでせうが、試した結果、「また・・・。」となれば、だうなるんでせう?

ひとそれぞれの原体験、記憶の数多(あまた)なる多様性のなかでも、それを範疇として括っていけば、いろいろに整理できるわけであって・・・数多なる人々に共通の原体験、記憶ちうもんもあれば、個別の独自のもんもある。ことこの共通のものであっても、先に申し述べたやうにその意味づけは人様々であると同時に時代によっても様々ですから、一概に他者の共感を期待しても失望するでせうね。個々の体験、記憶においてはなおさら・・

それでも、そういう体験や記憶をある種、ジャンヌエルシュ的にいえば、論理的強姦で、無理やり構造化してしますむきもなきしもあらずで、そのへんのところをちょっと紹介しますが・・



--------------------------------------------------------------------------------
[53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12


るちめくみANNEX−Ω   訪問者数:2345306(今日:401/昨日:591)2011/02/20(Sun) 21:50

あの日のように / 矢沢永吉
http://www.youtube.com/watch?v=r8S-fuAHm1Q&feature=BF&list=QL&index=65


> すふもけなANNEX−Ω   訪問者数:2344467(今日:153/昨日:496)2011/02/19(Sat) 08:29
>
> 矢沢永吉/いつの日か with Bank Band
> http://www.youtube.com/watch?v=Yv7DH9sf4Pw&feature=autoplay&list=QL&index=19&playnext=2

> > いよつぬうANNEX−Ω   訪問者数:2344219(今日:401/昨日:464)2011/02/18(Fri) 20:14
> >
> > 東京 〜矢沢永吉〜
> > http://www.youtube.com/watch?v=ZRkA9bxCaLY&feature=bf_prev&list=QL&index=21


> > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円
> >
> > この木村敏のは今は書斎でみっからんけれども、かつて中公新書かなんかで読んで感心した記憶がある、たかが新書でも書き方ものの考え方がまこと全うで好感がもてますから、即購入。

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。これはやっぱりお勧めですよ。

「p103

・・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。・・・われを排列しおきてジン界(儘の人偏のない字、探している間にシステムダウンして返事がおくれてしまったのですが)とせり。このジン界の頭頭物物を時時なるとチョ見(チョはちょっとでてこないのですが、老眼でよく細部が見えぬ、虚の並をとって亜にしたものを左偏にして右のつくりに見とかく)すべし。・・・われを排列して、われこれを見るべし。自己の時なる道理、それかくのごとし。・・・云々。要をとりていはば、ジン界にあらゆるジン有は、つらなりながら時時なり。有時なるによって吾有時なり・・・」

このあと現代訳がのっていますが、それは、まあ、言い尽くされた感もある存在は時間であるというのにすぎませんで、道元のこの有時では、単に存在と一括り、それも西洋哲学、西洋精神医学の範疇、規範だけで間に合う謂いではないので、わざわざ、古語文を挙げたわけで、この時時、排列、われの有りようには、それこそ、つらなりながら爺、ああ、時時である、つまり胎児、幼児、子供、少年少女、青年乙女、成人、初老、古稀、白寿、まあ、あらゆる現体験、記憶、はたまた幻想さえのつらなりの味わいがあるのであって、巷のわかったぼくちゃんどもハイデッガーの「存在と時間」うんぬんくぬんちうことで片付けられない食み出したもんがあるのは、仏教においては意識のありようも単純な西洋無意識を幾層にも観ているのですから、さういう唯識的な見識もこの有時にあることを見逃してならないと思うのですが、それはさておき、さういうもんから説き起こして、木村は「時間の生き方の三類型」に及び、さらには「W 生命論と精神病理学」の「ゾーエーとビオス」のなかで・・

p121

「古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語をもっていた。・・・「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。生物学のバイオ、伝記のバイオグラフィーという場合のバイオの語源・・・

「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態つぃての生命だという。(引用者註:これは木村が神話学者カール・ケレーニーの説に言及している。)ゾーロジー動物学、zooズー動物園はゾーエーから来ているのだが、残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。・・・

私たちが臨床の場面でさしあたり出会うのは、生命の意味であれ生活の意味であれ、個々の患者のビオスである。

生物学的精神医学は生命としてのビオスを扱うし、生活史を重視する人間学的精神医学や力動精神医学、生活療法や社会復帰治療では生活としてのビオスが中心になる。

しかしいずれにしてもこのビオスは、生命としてあれ生活としてであれ、それ自体無限定のゾーエーが個々の患者の身体に宿ることによってはじめて実現しているものである。

ゾーエーそれ自体は無限定で輪郭をもっていないから、それを対象的に認識したり識別したりすることができない。しかしそれは、対照的な認識や識別とは違った仕方で、もっと直接的に経験することができる。それはゾーエーが、無限定であrがゆえに無人称であり、私ひとりの生命ではなく同時に他の生命体の生命でもあるからにほかならない。

患者と治療関係のなかで出会っているとき、私たちは患者とのあいだに、だれひとり否定することのできない一体感、連帯感のようなものを感じることがある。これはけっして私の主観的な思い込みのようなものではない。

精神分析ならこれを治療者と患者のそれぞれのビオス(生活史)に還元して「転移」と言うことになるのだが、これは実はビオスの問題ではない。本質的にはゾーエーそのものの非対称的で直接的な経験なのである。」

このフロイトなどが忌諱した「転移」をかういう風にとらえなおす見識はまことにインテレサントなものがあって、これはいってもれはなぬも「転移」ばかりでのうて、「投影」でもおなじことであるからして、治療者と患者関係を持ち出すまでもなく、恋愛そのものの根源はゾーエーであって、それがビオスとして個々の生命と生活を形成すると解すれば、日常茶飯事のことである、恋愛は金輪際ごめんちう男女を除いて・・

この考え方は、まあ、いろいろ多様な言語的対応、概念的な多様な展開も可能ですから、またやってみることして、さきのセンズルことも詮ずれば所詮、ゾーエーのビオス的発動ちうことでせうね。

それはともかくも・・

> >けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
>
> 「バレエ」…つまり我が肉体を極限まで鍛え上げて、その肉体によって、言葉でもない、絵でもない、音楽でもないものを表現しようとする人には大いなる羨望を感じる。あああ。我が肉体の撓みよ。おかしさよ。

難しい字を使いますね。

撓 - ウィクショナリー日本語版

出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』 ... 撓 * ローマ字表記 普通話 ピンイン: náo (nao2) ウェード式: nao 2 広東語 イェール式: naau4, naau5

ja.wiktionary.org/wiki/撓撓曲 - Wikipedia

撓曲と断層 · 地震による撓曲 · 撓曲により ... · 関連項目
撓曲 (とうきょく、flexure)とは、地中のある 断層 がずれたことで、上にある 地層 が撓む現象である。 ... 一般的な断層では、左右から引っ張られる( 正断層 )力、もしくは左右から押される( 逆断層 )力が地表にまで伝わり、上の地層ごと落ちる ...

ja.wikipedia.org/wiki/撓曲撓わの英語・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio辞書
撓わを英語に訳すと 枝もたわわに実がなっていた. The branches bent low [were heavy] with fruit.|The branches sagged under the weight o... - 約462万語ある英和辞典・和英辞典。発音・イディオムも分かる ...

ejje.weblio.jp/content/撓わ京都・京菓子の老舗 甘春堂 本店
江戸慶応元年創業の京菓子の老舗。和菓子の歴史、レシピ ... 京菓子の老舗甘春堂が京都ならではの 上生菓子・干菓子・四季の京菓子 をお届けいたします。 お買い上げ商品が 3150円以上なら送料半額、5250円以上で 送料無料 です

www.kanshundo.co.jp/kissa/menu.htm撓とは - 漢字辞典 Weblio辞書
撓とは?漢字辞典。 蕉風俳諧の根本理念の一。作者の心にある哀感が、句または句の余情に自然とあらわれること。蕉風では「しほり」と表記。 →寂(さび) →細み →かるみ

www.weblio.jp/content/撓 · キャッシュ ページ撓競技とは - 剣道用語 Weblio辞書
撓競技とは?剣道用語。 昭和二十年終戦と同時に剣道は禁止されたが、剣道を愛好する人々は何とかして剣道を復活させたいと種々内容を検討改変したが、どうしてもGHQの許可をえられなかった。 その理由は占領軍極東理事会の決議により剣...

www.weblio.jp/content/撓競技 · キャッシュ ページぎょう鉄 「 撓鉄 」とは 矢野工業株式会社
曲げ=ぎょう鉄 『ぎょう鉄 「 撓鉄 」 と書く』読んで字のごとく鉄を撓(たわ)めることであります。 軸先、艫(とも)、喫水線から船底にいたる部分など、船は曲線をもつ形状に造られます。鋼船はブロック建造したものを組み合わせて出来上がっていきます。

www.yano-kk.com/products/gyotetu.html「撓」の読み方 - Yahoo!知恵袋

ベストアンサー:* 音読み o 呉音 : ニョウ(ネウ) o 漢音 : ドウ(ダウ) o 慣用音 : トウ(タウ) * 訓読み いた-む、いた-める、しな-う、しわ-る、おお-る、しおり、しお-る、たお-む、た-める、たわ-む、たわ-める、たわわ、とおお、とお-む、とお-らふ、みだ-す ...

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1326159838撓り とは - コトバンク
デジタル大辞泉 撓りの用語解説 - 山の稜線のくぼんで低くなっている所。鞍部。たわ。 ... ... デジタル大辞泉 の解説 おおり 〔ををり〕 【 × 撓り】 花や葉がたくさんついて枝がしなうこと。 この辞書の凡例を見る

kotobank.jp/word/撓り撓骨のズレ

撓骨は、主に下方にずれます。 下方とは手首方向。 撓骨は、ひじと手首を構成する細長い骨ですが、これがずれ易い。 まれに上方(ひじ方向)にずれる事もあります。 撓骨が下方へずれると、ひじ痛・手首痛・腱鞘炎・様々な指の障害をもたらします。

seitai-nagomi.sakura.ne.jp/CI44.htm



> 春騒ぎ我が心身が愛おしく
>
> 春騒ぎ我が心身の愛おしき
>
> どっちもどっちかなぁ…。

うむ。連用形が多いとしまりがなくなることもありますが、助詞の、が、も使用上は要注意で、ゲーム俳句、ルール俳句をするむきの俳人には、が、の使用をいやがるもんもいます。というのも、が、とか、は、とかいうんは、助詞として、を、の代理をすることもあり、その場合、を、を使うよりも、が、とか、は、の場合は、ことさらに強調する、さういう作用があるわけで・・・たとえば

心身を愛おしく思う

心身が愛おしい

ちう違いです。どうように、の、もいろいろな助詞の代理を果たし、場合によっては、主語にして、かるく切れる、切れ字、首切りの役割さえも果たすのですkら、便利ではありますが、だういう意味で、の、をつかっているのか、意識してつかう必要があります。

それから、これあソレガシの悪い癖が転移しているやうで申し訳ないのですが、我が、ちう文言を一句に挿入するのもゲーム的には嫌うむきもあります。ナルシズム俳句とか・・・

それからそれから、上掲の二句においては、もの、たるものは肉だけ、二句とも肉だけ、つまり、心はものではなく、心身の身のほうは肉ですから、俳句はものに即して詠め、ちうゲームルールにも若干触れるものがあります。

もの、に即さないで、愛、心、悲哀、憎悪などは、それを外だしにして詠んでも、それはある、出来事、つまり、こと、であるわけで、こと俳句になってしまうわけであって、ここの、もの、と、こと、のことも、俳句で論じられる、ものに即す、これは心身を対象化した医学、生物学的医学も、ものに即して診て治療するわけですが、木村らの実存、あるいは現象学的な精神医学では、こと、出来事、に即して診て治療していく、さういう相反、すべて相反しているわけではありませんが、世の中には、そういう、両面の見方が、文芸、哲学、医学などに通底してあるわけで、これもインテレサントなところです。

したがい、上掲の肉の二句は、ゲーム的にはペケですが、ま、俳句もここぢゃあ、ゲームぢゃないだから、○ですね。

春騒や人は誰でも所詮釈迦

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53816] Re:[53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:なすのせせ 投稿日:2011/02/24(Thu) 12:45  

黒の舟歌 長谷川きよし
http://www.youtube.com/watch?v=K0sTTRR5Yns&feature=related

>さて、つづきです。なすのせせさんは、まう、ご本を多分お持ちでせうが・・

> p62〜
>
> けれども、わたしはたずねたい、ひとは誰でも、そういう風景を見ると、田園風景一般の印象を受けるのではあるまいか、われわれは子供のころからそういう範疇をもちつづけているのではあるまいか、と。
>
> われわれは子供のころ、いまになって考えるとほとんど眩暈(めまい)を感ずるほどのそういう驚くべき範疇をいろいろもっていたのである。
>
> 子供のとき紙ぎれを切り抜いて男や女の形をこしらえたものだが、それはアダムとイブよりもいっそう厳密な意味で男一般、女一般だったのだ。
>
> 風景画家が、あるいは忠実な模写によって、あるいは理想的な再現によって狙う効果は、おそらく個人の興味をひかないのに、そういう画は、名状しがたい効果を作り出して、笑っていいのか泣いていいのかわからなくなってしまう、そしてこの効果は見る人の気分にもとづいているのである。
>
> どれほど豊かに言葉を重ねても、どれほど感嘆の激情をもやしても満足できず、いかなる表現、いかなる身振りも心を満たさず、思いきって奇抜な跳躍かとんぼ返りでもするのでなければとても気持ちがおさまらなぬといったような時期を、生涯に一度も経験したことがないなどという人間は、おそらく一人もいないだろう。そういう経験をした個人は、おそらくそれから、ダンスを習ったことだろう、おそらくしげしげとバレエに足を運んで、ダンサーの妙技を嘆賞したことだろう、しかしおそらくはそのうちに、バレエではもう刺激を感じないときがきたことだろう。けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。
>
> :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
>
> んったく、いろいろに解釈できますね。

子供時代の原風景や、抜けがたい記憶というものは、その後の人間の生涯の底流に無意識に流れている。あるいは澱んでいる?そういうことが、詩人や作家の言葉、画家の風景画や幼子の肖像画などに隠されている。

それを他者は「またか…。」という反応を示すか?「これが彼あるいは彼女の感性の源か?」と思うことで、他者は試される。のではないか?
年寄りの繰り言を「またか…。」と思った傲慢な時期もあったけれど、その人の最期を見届ける時になって、考え方は後者の方に変った経験がある。


>けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。

「バレエ」…つまり我が肉体を極限まで鍛え上げて、その肉体によって、言葉でもない、絵でもない、音楽でもないものを表現しようとする人には大いなる羨望を感じる。あああ。我が肉体の撓みよ。おかしさよ。

春騒ぎ我が心身が愛おしく

春騒ぎ我が心身の愛おしき

どっちもどっちかなぁ…。


[53815] ぢゃあ、やってみませう。Re:[53804] 東西霊性交流。Re:[53796] [53794] 宇陀Re:[53793] 鎌倉長谷 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/24(Thu) 09:30  

くあそしすANNEX−Ω   訪問者数:2347175(今日:179/昨日:537)2011/02/24(Thu) 09:08

Once I Loved
http://www.youtube.com/watch?v=jLlKwsOQxmI&feature=BF&list=QL&index=21

せんなくてせんずるもまた釈迦坐像

> むきにかひANNEX−Ω   訪問者数:2345483(今日:149/昨日:429)2011/02/21(Mon) 07:43
>
> Shirley Horn - "The Island"
> http://www.youtube.com/watch?v=S4nRUc7Ex5c&feature=BF&list=QL&index=48
>
> > > れころおむANNEX−Ω   訪問者数:2344174(今日:356/昨日:464)
> > >
> > > 矢沢永吉/もうひとりの俺
> > > http://www.youtube.com/watch?v=jRePNG3griU&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=18
> > >
> > > >  春近し海見て座る大仏
> > >
> > > 春遠く女人高野の釈迦坐像
> > >
> > > http://www.murouji.or.jp/

すっかす釈迦坐像がせんずるかね?

やっぱ、ぜんずるでせうね。

釈迦がか?

釈迦はいかにして釈迦たりえたか?

ぜんすってか?

さうさう♪

バカらし。

釈迦はなぬごともバカにせん。

たすかに・・

ばかにせんでセンズルのだ!

ああ、禅ずるぢゃのうて、センズルのですね?

然り、センズル。

センでズルか?

うむ。栓をしちまえば身も蓋もない。

ならば・・

まあ、詮索の詮か、はたまた、穿鑿の穿か?

ぢゃあ、ないでしょ。やっぱ、せんずりのセンズルでせうがあ・・

しかり、しかり、せんずりも所詮、いのちの営みである。

ぢゃあ、ラブは?

あれもいのちの営みである。

一人でも二人でもですか?

あい、一人でも二人でもです。

でも、どっかちがうなあ・・

なんで?

だって、ひとりだと、じぶんなんだから、つぎにどこにくるかわかっちゃってつまんないだもん・・

そこを宣する、う〜む、千ズル、と飛行ならぬ肥厚しちゃうかもしれませんが、詮ずるのだ。

穿ずるのでもあるわけですね。

しかり。

ぢゃあ、やってみませう。

うむ、

せんずるやわが世の春をおのがじし

嗚呼、季語も入って完璧ですね♪

> > ほんまやね。
>
> 共感してもらって嬉しいのですが、だうほんまやねん?
>
> 釈迦坐像が女人高野におることがほんまなんでせうか?
>
> それとも、この句のありやうがほんまなんでせうか?
>
> ふんとも、もうひとりの俺がふんまなんでせうか?
>
> まあ、そうそう詰問攻めにすることもなく、もうひとりとはいわず、無限に分裂することも可能ですが、ソレガシとクロスした、鳩山、菅くんら、もすもソレガシがあれらであったなら、ちうたらればは歴史には禁物で、それでもタラレバよりニラレバが好物なソレガシにとっては歴史ちうより瞬間であって、瞬間であるからは、ソレガシが誰にならうがソレガシの勝手であって、鳩山菅ども糞喰らえ、ああいうもんにソレガシも成り果てれば現今只今のソレガシほどの誠実も正直もなんもあらへんで、己が擬装に悩むこともなく、まあ、皮相でノイローゼにはなるでせうが、そりゃあ、あの、山口のぼうやくんでも女寺、あれ?おんなじで、福岡だかのかの漢字の読めない爺さんのマチガイダラケの演説をしゃあしゃあとやるほどの厚かましさもなく、とつとつとなんとか状況をまとめようという外側と内側の乖離した、そのぶったるんだ神経と頽落した景色は、まことにソレガシ自身にひきつけても飽き飽きした風景で、そこへいくってえと、女人荒野ならぬ、女人高野に客仏として坐り続ける釈迦坐像、立ち上がろうにも、己が使命は坐像であるからして腰を上げぬ、腰を上げれば客仏がふらふらと女人高野をさ迷う風景もさまにならぬ、のんは、まあ、娑婆でも同じ景色ですから、男根をもった釈迦は釈迦なりに遠慮、配慮、誠実さをその坐において示しているのだらうが、その娑婆にして、ソレガシの一家のうちの景色でも似たもんであって、女人家族の中の一個の男根は置き場所もなく、時も経るば祖醍醐味、ああ、粗大ゴミとはいわれんも、密小ゴミかもしれんか、掃いて捨てられることもなく、未だにちょこんなんと余命をたもっている景色と、もうひとりの釈迦坐像と重なるところが見えぬちうことは、まことに眼前にものがあってもみえぬもんにはみえない景色で、まあ、さういうもんがみえたからこその、共感を戴いたのかもしれませんが、かういう、萎えた鳩山菅ほどには萎えきっていない、それよりなにより、擬装の手出しさえせんで、ああ、あの擬装の握手、輪になってえ、輪になってえ、ちう花の街ちう歌もありもうしましたが、ああいう輪になるにもおててをつないでそのおテテがお猿の手ならまんだ擬装もなからうちうもんどすが、ああいう風に外部にばっか気を配って内部がおろそかの手合いのお手手どもは、みんな擬装で、さういう擬装お手手の輪の馬鹿馬鹿しい踊りをみているなら、雪に閉ざされた女人高野で、女仏どもに疎外されながら男一匹わが手をじっと見ると啄木的に堕落しますけん、手は自分で見ぬようやうに、住み着いた女人高野の諸仏や参詣者に手向け、その掌から光を放ては新興宗教のマヤカシめいて全部お手当てといいながら、いのち財産を巻き上げるちう悪童非道にも陥らず、弛緩せずに只管に坐すその姿勢とその無言のゴンと、存在そのものがそこにいるだけ発するなぬものかを透き通った空気、それはまさに空の気であって、食う気もなく、ただ空を食うのみにしていのちながらえ、ああ、ながらえずとも、即今只今果てたところで、己が人生にして仏生であったと回顧満足する必要もなく、すべてが十分にして物足らない、その物足らなさを十分に味わえば、それもまた美味して、耳は豊かに垂れ下がり、眼前に積まる宝物、金品、保険屋からの行為少々が、ああ、後遺症障害補償金も、あてどなき宝物金品、せめて患いの治療費にと、もっていきたくばもっていけ、老いて生きたくば、ああ、置いていきたくば置いていけ、ちうもんで、あたかも、すし屋のカウンターの奥の主人のやうに、眼前を行き交ひ、言葉を交わす、あれこれの行きずりのカップル常連のお客様のあれこれが自然に見えてしまう半眼なんですね。
>
> 四面怒濤の孤島の修道院に坐す立ち居振る舞いでも女人高野の釈迦坐像とおなじやうな景色でせうな。東西霊性交流。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53814] 無題 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/24(Thu) 08:04  

れとかみねANNEX−Ω   訪問者数:2347140(今日:144/昨日:537)2011/02/24(Thu) 08:04

奇人変人狂人凡人全部春

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53813] 羅漢本来の羅漢ぶりからすりゃあ、外道に堕ちた!と・・・嘆かんであいもかわらず淡々と羅漢しちょるところがまた羅漢なんであらうね。Re:[53812] なよなよ、か、硬骨、か、ちうのんも好み、趣味の問題ぢゃといえばさうなんですが・・Re:[53794] 宇陀Re:[53793] 鎌倉長谷 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/24(Thu) 07:08  

もてなよえANNEX−Ω   訪問者数:2347104(今日:108/昨日:537)2011/02/24(Thu) 06:49

もてなよえ、もてるなよなよへ、ちうことか?

08 時間よ止まれ / 「ゴールドラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=BjefNNpxq9I&feature=BF&list=QL&index=60

この矢沢永吉のうたかたならぬ歌い方は、この歌にかぎらず、ソレガシなんぞはそれを歌っても恥じ入るばかりの、数少ないもんのひとりであって、その立ち居振る舞い、生き方、言説も全部みてきたわけであらへんも、垣間見るかぎり、なかなかのもんです。

それで・・・

> ときさほきANNEX−Ω   訪問者数:2347087(今日:91/昨日:537)2011/02/24(Thu) 05:54
>
> 05 このまま・・・ / 矢沢永吉 「I am a Model」
> http://www.youtube.com/watch?v=A21T0UqgbYM&feature=BF&list=QL&index=65
>
> 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの  高浜虚子 昭和25
>
> この記事をみちょるとふと浮かんでくるこの句。
>
> ぶっきら棒に詠み捨てたそこに貫く生き方の力強さを感じる。
>
>
> > れころおむANNEX−Ω   訪問者数:2344174(今日:356/昨日:464)
>
> > 矢沢永吉/もうひとりの俺
> > http://www.youtube.com/watch?v=jRePNG3griU&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=18
>
> すこし、作者には気に入らぬかもしれませんが、なぬせ、カラオケでも、てめえの歌い方を正とすりゃあ、オリジナルでも下手に聞こえちゃうやうに、う〜む、全てがさういうことでではのうて、いかに自己中心であらうが、やっぱす、うまいもんはうまい、はたまた、腹の坐り方が凄い、と感心せざるをえぬ、他人さまもおるんぢゃし、腹が坐っちょらん、声が上ずっている、聞いていてなんだか、こっちまで不安になる、恥ずかしくなる、ってえのんは、まあ、そのパーフォンマンスであるからして、まあ、深層を反映した皮相の問題なんせうが、メロディーがちゃうなあ、ちうても、オリジナルのもんが、オリジナルメロディーなんぢゃけんど、てめえが思い込んだメロディーとちとちゃうなあ、やっぱすてめえのメロディーがよろしい、それでこそ、この歌も生きる、ちう場合も多々あり、そりゃあ、オリジナル作詞作曲者と、それを読み込み、歌いこむ、ソレガシらとの解釈、表現の違いなんであらうけれども、さういうカラオケのありやうと、俳句とか短歌とか、詩のありようちうもんは、まことに一脈通じるものがあるわけで、ま、勝手にシンドバット、気を悪くされませんやうにね・・
>
> > >  春近し海見て座る大仏
>
> この句。あんます、棒の如きものが感じられんで、どちらかちうと、なよなよしちょる感じが、だうも、大仏、これは、57ときて、下五ですから、オオボトケとでもよむのかしら、それともダイブツと字足らずで読むのか、その読みや字足らずの不安定さもあるのですが、だうも、なよなよ感、これが大仏とそぐわぬちうこともあって、さらにそのそぐわぬなよなよ感のよってきたるところがどこにあるのか、ちう考察を、ま、意匠上に求めても、海を見ているのはべつに違和感もないし、座るもべつに普通のこと、もっとも、座るちう字は、座布団とか、日常一般の座り方であって、素人向けのザゼンは、座禅と書くが、僧堂や出家においては坐禅とするむきもおおく、同じスワルでも、座るちうと、奥様でも座れる風情が濃く、坐るとなるとこれはある程度の修行をへた坐り方で、そこに字からうける印象も一句の印象を左右するわけで、さういう文字の書き方もなよなよ感に寄与しているのですが、さらに、スワルという訓読みで詠むか、はたまたザスという音読みで詠むか、これも、恍惚感、ああ、硬骨漢かなよなよ感かに寄与する違いではありますものの、この文字の使い方を変えれば、この大仏のなよなよ感が硬骨に変わるか?

この、坐と座の、差異、これには似ていても非なる、決定的な差異がある。

つまる、振る舞いは似ておっても、その志向するところの差異。

座は、庇ひさしの下での坐であって、むき出しの坐とは、どうしても違う。

かの、ろう八接心なんぞでも、あの寒中に、わざわざ、庇の下から飛び出して、それこそ、池のど真ん中の巌の頂上で、厳として坐り込んで動かぬもんもあれば、庇の下の庇護でぬくぬくとストーブのある部屋である時間座って、あとは熱い湯をすすり、小便を漏らしもせず、まあ、いってもれば、ちょっと走れば、すんぐコンビにで休んで、あれこれとくちゃくちゃサプリメントなんぞを摂って、ロードバイカーやっちょるやうな向きにも似て、さいうもんが、いかにレースでうんたら、実業団、Aラン、つるがかんたらちうても、ちゃんちゃら可笑しい風情と同様なんですね。

庇護のないところに飛び出して己を寒気風雨に晒して歓喜の極みをきわめるか、それとも、ぬくぬくと庇護の下で、まあ、名寝言、ああ、真似事だけ言ってやって満足するか。

その違いなんであって、かの五百羅漢なんぞも、あの羅漢を庇護の下にいれこんで、羅漢が座わる、とか、いってもれば、羅漢が泣くちうもんであって、あの羅漢は、庇護、庇のない、露天で羅漢しちょるけん羅漢なんであって、そこが肝要なんどすわの。

とはいえ、羅漢も、道端の露天、崖っぷちに晒されておれば、首を折られたり、地震で転げ落ちたり、そりゃあ、災難にも会いますから、お寺さんや有志の庇護で、境内や庭に写されたり、庇をかけられたりするわけで、ま、厚意にして好意の行為なんでせうが、羅漢本来の羅漢ぶりからすりゃあ、外道に堕ちた!と・・・嘆かんであいもかわらず淡々と羅漢しちょるところがまた羅漢なんであらうね。

>
> ちうとさにあらず、この句のなよなよ感は、そのやわらかさにあって、そのやわらかさは、動詞、述語が計3箇所もある。つまり、近し、見て、座る、というこの動詞、述語、の多さが、なよなよ感の素になっている、つまり、動きがおおくて、どっしりとした不動感にかけて、どこか腰が定まらぬ、そんな雰囲気もあって、まあ、だから、春近しで、大仏も浮き浮きなのかもしれませんが・・・
>
>
> > 春遠く女人高野の釈迦坐像
> >
> > http://www.murouji.or.jp/
>
> この一句は、述語は、遠く、の一箇所だけで、それでも、全部が名詞だけのポキポキ句からすれば、述語が一箇所あるだけで、すいぶんしなりがよくなって、さらに、遠し、ちうように、あるいは、近し、ちうように、切れを入れないで、つながっている、だあら、あるていどのしなりと硬さが丁度ええ愚愛、具合にミックスされとって、何の気なし詠んだソレガシの句としては、即吟、あれこれ弄り回さぬ良さもあり、かつ眼前当季にして名詞の連なり、女人、高野山の高野、釈迦、坐像と意味深でもあり、宝物を得た感じがします。
>
> もともとこの釈迦坐像は好きな仏像の一つですから、わが深層まんで沁み込んでいるものであって、それがかういう形をとって浮き上がってきたことは、まことにソレガシにとっても、仏像にとっても、愛でたく目出度い、さらいは芽出度いことですね。
>
> このれは、皮相ではあるもんの、深層にまんで影響を及ぼす、動詞、述語のつかいかたでしたが、おなじく、助詞のつかいかたもあって、それは、また別の句をもって、実例に即してやりませう。
>
> なんでこんなことをいうか、ちう、その意図も、ひとこといっておけば、なんもこれは俳句を上手に、ちう意図だけでのうて、上手にちうことは、かの、可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太(●0_0●)@ブヒブヒくんどもやうに、なんちゃら賞にばっか拘るバカどもにおいても、役に立つものではありまするが、それバカリーではなく、生き方の問題でもあるからです。
>
> 述語があれこれと振れる、さういう生き方は腰が定まっておらぬ。
>
> 同様に、助詞があれこれ振れる、てにをは、の助詞ですね、これも、たとえば、一途に、の、の、の、と切り込んで極めていく風情に比して、てにをは、でぶれれば、せいぜいが、ユウコウではあらうが、一本にはならぬ、ちうことも、ままあります。
>
> ま、なよなよ、か、硬骨、か、ちうのんも好み、趣味の問題ぢゃといえばさうなんですが・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53812] なよなよ、か、硬骨、か、ちうのんも好み、趣味の問題ぢゃといえばさうなんですが・・Re:[53794] 宇陀Re:[53793] 鎌倉長谷 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/24(Thu) 06:42  

ときさほきANNEX−Ω   訪問者数:2347087(今日:91/昨日:537)2011/02/24(Thu) 05:54

05 このまま・・・ / 矢沢永吉 「I am a Model」
http://www.youtube.com/watch?v=A21T0UqgbYM&feature=BF&list=QL&index=65

去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの  高浜虚子 昭和25

この記事をみちょるとふと浮かんでくるこの句。

ぶっきら棒に詠み捨てたそこに貫く生き方の力強さを感じる。


> れころおむANNEX−Ω   訪問者数:2344174(今日:356/昨日:464)

> 矢沢永吉/もうひとりの俺
> http://www.youtube.com/watch?v=jRePNG3griU&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=18

すこし、作者には気に入らぬかもしれませんが、なぬせ、カラオケでも、てめえの歌い方を正とすりゃあ、オリジナルでも下手に聞こえちゃうやうに、う〜む、全てがさういうことでではのうて、いかに自己中心であらうが、やっぱす、うまいもんはうまい、はたまた、腹の坐り方が凄い、と感心せざるをえぬ、他人さまもおるんぢゃし、腹が坐っちょらん、声が上ずっている、聞いていてなんだか、こっちまで不安になる、恥ずかしくなる、ってえのんは、まあ、そのパーフォンマンスであるからして、まあ、深層を反映した皮相の問題なんせうが、メロディーがちゃうなあ、ちうても、オリジナルのもんが、オリジナルメロディーなんぢゃけんど、てめえが思い込んだメロディーとちとちゃうなあ、やっぱすてめえのメロディーがよろしい、それでこそ、この歌も生きる、ちう場合も多々あり、そりゃあ、オリジナル作詞作曲者と、それを読み込み、歌いこむ、ソレガシらとの解釈、表現の違いなんであらうけれども、さういうカラオケのありやうと、俳句とか短歌とか、詩のありようちうもんは、まことに一脈通じるものがあるわけで、ま、勝手にシンドバット、気を悪くされませんやうにね・・

> >  春近し海見て座る大仏

この句。あんます、棒の如きものが感じられんで、どちらかちうと、なよなよしちょる感じが、だうも、大仏、これは、57ときて、下五ですから、オオボトケとでもよむのかしら、それともダイブツと字足らずで読むのか、その読みや字足らずの不安定さもあるのですが、だうも、なよなよ感、これが大仏とそぐわぬちうこともあって、さらにそのそぐわぬなよなよ感のよってきたるところがどこにあるのか、ちう考察を、ま、意匠上に求めても、海を見ているのはべつに違和感もないし、座るもべつに普通のこと、もっとも、座るちう字は、座布団とか、日常一般の座り方であって、素人向けのザゼンは、座禅と書くが、僧堂や出家においては坐禅とするむきもおおく、同じスワルでも、座るちうと、奥様でも座れる風情が濃く、坐るとなるとこれはある程度の修行をへた坐り方で、そこに字からうける印象も一句の印象を左右するわけで、さういう文字の書き方もなよなよ感に寄与しているのですが、さらに、スワルという訓読みで詠むか、はたまたザスという音読みで詠むか、これも、恍惚感、ああ、硬骨漢かなよなよ感かに寄与する違いではありますものの、この文字の使い方を変えれば、この大仏のなよなよ感が硬骨に変わるか?

ちうとさにあらず、この句のなよなよ感は、そのやわらかさにあって、そのやわらかさは、動詞、述語が計3箇所もある。つまり、近し、見て、座る、というこの動詞、述語、の多さが、なよなよ感の素になっている、つまり、動きがおおくて、どっしりとした不動感にかけて、どこか腰が定まらぬ、そんな雰囲気もあって、まあ、だから、春近しで、大仏も浮き浮きなのかもしれませんが・・・


> 春遠く女人高野の釈迦坐像
>
> http://www.murouji.or.jp/

この一句は、述語は、遠く、の一箇所だけで、それでも、全部が名詞だけのポキポキ句からすれば、述語が一箇所あるだけで、すいぶんしなりがよくなって、さらに、遠し、ちうように、あるいは、近し、ちうように、切れを入れないで、つながっている、だあら、あるていどのしなりと硬さが丁度ええ愚愛、具合にミックスされとって、何の気なし詠んだソレガシの句としては、即吟、あれこれ弄り回さぬ良さもあり、かつ眼前当季にして名詞の連なり、女人、高野山の高野、釈迦、坐像と意味深でもあり、宝物を得た感じがします。

もともとこの釈迦坐像は好きな仏像の一つですから、わが深層まんで沁み込んでいるものであって、それがかういう形をとって浮き上がってきたことは、まことにソレガシにとっても、仏像にとっても、愛でたく目出度い、さらいは芽出度いことですね。

このれは、皮相ではあるもんの、深層にまんで影響を及ぼす、動詞、述語のつかいかたでしたが、おなじく、助詞のつかいかたもあって、それは、また別の句をもって、実例に即してやりませう。

なんでこんなことをいうか、ちう、その意図も、ひとこといっておけば、なんもこれは俳句を上手に、ちう意図だけでのうて、上手にちうことは、かの、可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太(●0_0●)@ブヒブヒくんどもやうに、なんちゃら賞にばっか拘るバカどもにおいても、役に立つものではありまするが、それバカリーではなく、生き方の問題でもあるからです。

述語があれこれと振れる、さういう生き方は腰が定まっておらぬ。

同様に、助詞があれこれ振れる、てにをは、の助詞ですね、これも、たとえば、一途に、の、の、の、と切り込んで極めていく風情に比して、てにをは、でぶれれば、せいぜいが、ユウコウではあらうが、一本にはならぬ、ちうことも、ままあります。

ま、なよなよ、か、硬骨、か、ちうのんも好み、趣味の問題ぢゃといえばさうなんですが・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53811] いろいろに解釈できますね。Re:[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/23(Wed) 19:36  

きなへむうANNEX−Ω   訪問者数:2346921(今日:462/昨日:582)2011/02/23(Wed) 18:28

山根康広 - Get Along Together -愛を贈りたいから- 1993
http://www.youtube.com/watch?v=Jut9UYGl0BE&feature=BF&list=QL&index=10

多少出出しで上ずっていますが・・まあまあ、でせうか?これも持ち歌なんぢゃが・・

> せけゆおきANNEX−Ω   訪問者数:2346659(今日:200/昨日:582)2011/02/23(wed) 09:20
>
> 恋人も濡れる街角 (instrumental)
> http://www.youtube.com/watch?v=cFkokhw3wSk&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=16

歌詞が歌詞だからね。

中村雅俊 恋人も濡れる街角
http://www.youtube.com/watch?v=JgCW3YTwlwc&feature=related

それにすても歌い方は一応腹が坐っているようではあるが、ちと耳鼻科のごやっかいになったはうがええかもしらん。母音と鼻音が気になりますね。

> > > Dear Old Stockholm - Stan Getz & Chet Baker
> > > http://www.youtube.com/watch?v=ksQBfJ968TA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=33

これは、古い写真に破れ星が流れるものの、歌詞もなく、安心して・・

> > いつもユーチュブの音楽が添付されているけれど、引用文にふさわしいものを選んでいるのですか?なかなかよき趣向なり。
> > >
> > > ご参考までに引用の書;
> > >
> > > 岩波文庫 33−635−1 反復 キルケゴール著 桝田啓三郎訳 1983年第26刷改訳
>
> > ではゆっくりと本を待って、ゆっくりと読んでゆきます。
>
> ゆっくりと待ってゆっくりと読んでいますか?
>
> ゆっくりとゆっくりといけばまことにDear Old Stockholm の俯瞰でも馬車道の街角、ちうよりソレガシにとっての横浜はあの陰からOld Ladyが影のごとくしのびよってしらぬまにソレガシの隣のカウンターに座っている、スカンジアによき街の味わい、Old mamaの味わい、マザコンなんかもしれませんが、素感じas TIME goes bym、う〜む、スカンジアの追憶で、あのサーモンの三度言って、U〜M、サンドイッチ、かういう、マチガイで遊んでしまうとサンドイッチマンになってしもうて、なぬか、しらけるものもあるかもしれませんが、まじめにいって、ああいう、古いものが黒光りしている街角、はたまた、風光る田園の風景、苦悩するルオーのピエロの画の横に津和野の土壁が崩れかった道端の電柱の電線がけだるく弛んでいる、さういう風景は現今只今のこの居間へ差し込む春の日差しを遮る壁の裏側で、車道側の防音壁を施した壁の壁紙だけは、ベランダ側のベージュ一色のもんとは違えて凹凸のある厚みのある金の壁でその中に金銀に塗れたダンシングホース、正確にいえば♂♀の馬がリズムを踏んで戯れている、鬣(たてがみ)も尻尾もまるで焔のやうに真っ暗な空間に舞い上げつつ胸に渦巻く螺旋、それに交わる鮮血の一刷毛、金銀の草の萌ゆる大地では連なる音符・・
>
> それらを遮って立ち並ぶ自転車の群れと積み上げられた書物とへたったベッドの枕元から消え去った反復、それを探して探して、ちょっと目を離すといなくなってしまう反復、あさからてんやわんやであれこれの崩れかかった山をひっくり返して、やっと見つけた反復へもどって・・
>
> :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
>
> P61
>
> この劇的関心の要素は、個人の生活において一時は消え去っても、成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。
>
> つまり
>
> 成熟した個人はおそらくもはやこの芸術に十分の真剣さを見いだすことはないであろうが、ときおり、あの昔の若いころの状態に返って、それを気分として味わってみたい気持ちになるものだ。そういうとき、滑稽な気分に誘いこまれてみたくなって、芝居の効果によって自分自身でも滑稽の気分を作り出したいような欲望を感ずるものである。
>
> しかし、それかといって、悲劇でも喜劇でも道化芝居でもぴったりしない。つまり、それらはあまりに整いすぎているのである、そこで、どうしても笑劇ということになる。
>
> これと同じ現象は他の分野でも繰り返される。
>
> 現実の味の強い食物に堪能している成熟した個性が、巧みに描かれた芸術家にかくべつ感銘を受けないのは、よく見うけられることだ。ところがこの種の人は、ニュルンベルグ版画、すこし前までよく取引所で見かけられるような絵を見ると、いたう心を打たれる。
>
> それは田園風景一般を描いた風景画なのだ。
>
> ああいう抽象は芸術的におこなわれうるのではない。だから、その効果全体がそれとは反対のものによって、つまり、或る偶然的な具体物によって、達せられているのだ。
>
> :*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。
>
> まだ、つづけたいのですが、背中が疲れたので、一服して、またつづけますが・・・

ここんところ月曜以来毎日63km止めで・・リハビリもサボれば10日目あたりで鎖骨先端に痛みが、月曜キセノンライトで火曜は出ずも、けふ水曜はまた微妙に痛む。

> 音楽でも同じですね。

骨も心もおなじかのかも・・さて、つづきです。なすのせせさんは、まう、ご本を多分お持ちでせうが・・

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

p62〜

けれども、わたしはたずねたい、ひとは誰でも、そういう風景を見ると、田園風景一般の印象を受けるのではあるまいか、われわれは子供のころからそういう範疇をもちつづけているのではあるまいか、と。

われわれは子供のころ、いまになって考えるとほとんど眩暈(めまい)を感ずるほどのそういう驚くべき範疇をいろいろもっていたのである。

子供のとき紙ぎれを切り抜いて男や女の形をこしらえたものだが、それはアダムとイブよりもいっそう厳密な意味で男一般、女一般だったのだ。

風景画家が、あるいは忠実な模写によって、あるいは理想的な再現によって狙う効果は、おそらく個人の興味をひかないのに、そういう画は、名状しがたい効果を作り出して、笑っていいのか泣いていいのかわからなくなってしまう、そしてこの効果は見る人の気分にもとづいているのである。

どれほど豊かに言葉を重ねても、どれほど感嘆の激情をもやしても満足できず、いかなる表現、いかなる身振りも心を満たさず、思いきって奇抜な跳躍かとんぼ返りでもするのでなければとても気持ちがおさまらなぬといったような時期を、生涯に一度も経験したことがないなどという人間は、おそらく一人もいないだろう。そういう経験をした個人は、おそらくそれから、ダンスを習ったことだろう、おそらくしげしげとバレエに足を運んで、ダンサーの妙技を嘆賞したことだろう、しかしおそらくはそのうちに、バレエではもう刺激を感じないときがきたことだろう。けれどもときどき、自分の部屋にとじこもって、衝動のおもむくままに身をゆだねきり、いかにも愉快な姿勢をして片足で立ってみたり、あるいは全世界を死と悪魔にくれてやって一切をアントルシャで片付けてしまったりすることに、いいしれぬユーモラスな慰安を感じたことがあるにちがいない。

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

んったく、いろいろに解釈できますね。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53810] 俳句でもよく、深読み、ちうことがあって、作者の意図より付加読みにして、深読みをする、それが、まあ、作者も気づかぬ豊饒をもたらすこともあれば、やぶへびになることもある。Re:[53808] まさに世界においてけぼりの私・・・己にとってだうでもええどたぬき世界なんぞはおいてけぼりにされたはうが、ちうか、ことさらにまきこまれずに、関与せずして、己が関心の外側にして、見送ってしまったはうが、よろしい。Re:[53807] 春騒 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/23(Wed) 12:59  

ねおろおうANNEX−Ω   訪問者数:2346724(今日:265/昨日:582)2011/02/23(Wed) 12:25

アン・ルイス - 六本木心中
http://www.youtube.com/watch?v=37YWdRj-k_E

反復のあいまに圧倒されるかういうもんもよくむっかしソレガシも歌ったものぢゃが、谷村にせい、来生にせい、んったく、形無しぢゃわの。

> んゆすめいANNEX−Ω   訪問者数:2346010(今日:133/昨日:543)2011/02/22(Tue) 03:58
>
> 陽はまた昇る♪ 谷村新司 NV
> http://www.youtube.com/watch?v=jW16EeMiZsI

だうも、教育指導めいていかん。とはいえ、ソレガシ自らもこの歌をうたってなぐさめられたことも多々あった。だけんど、この折れそうなポツポツ声、まあ、オリジナルなんぞきかんで、誰かが歌っておるもんをその場で覚えて、てめえの思い込みの節回し、メロデー、歌詞への思い入れちう解釈どぼんどぼんへ溺れながらやるんぢゃけん、もちろん、ソレガシの歌唱には及ぶべくもなく、なんぢゃ!このくそったれとはいわん、このインポぶり!ともいわん、ああ、言葉がでてきませんね、嗚呼、出てきた、腑抜けぶり!!!

> > 来生たかお - シルエット ロマンス
> > http://www.youtube.com/watch?v=PG_1iZ5gerI&feature=related
>
>
> それにすても、来生たかおちうのんは下手だな。

だうように腑抜けなんですね。そりゃあ、いくら姉さんの女心を弟が歌うちうても、女ぢゃねえんぢゃし、その女ぢゃねえ、ソレガシが歌ったってこれよっかマシに歌えらあ!

どこが悪いって、あの自身のなさ、自信のなさ、なんだか、これでいいのか、これでいいのかと、首を傾げるつつ歌うそのしぐさが首を傾げんでも、あらわに露呈さておって、まう、最後のうたいおわるまえの一服でも、自分のポテンスに対する喪失の自信のなさがマルミエで、終わりにいたってはまさに、その身振りにおいてさへ、ああ失敗だった、と、そりゃあ、観客を前にしては云わんも、全身から失敗、不満足が滲みてている、見ていて、なんだか、かわいそうにになってしまう。

> 下手さゆえに人気があるんのかもしれん。

この憐憫によって、母性愛をくすぐるのかもしれませんが・・・

> とはいえ、曲目によっては、邪魔にならぬあの平凡さのなかのやさしさがよくマッチして、絶妙なる歌唱にもなるのですが、

たとえば、美しい女、とか、ラアグジャリーナイトとか。

> ことシルエットロマンスにおいては、足腰も喉も腹も定まらぬ、やせおとこぶりで、

シルエットロマンスでも、かういうライブぢゃない、録音ものは、まうちょっとマトモに歌っておるけん、ま、失敗ライブちうことなんでせうが、それにしても、大橋純子にしたってだうも曖昧で食えぬ、けっしてうまいとはいえぬ、総じて、いろいろみてまわっても、このうたをまともに歌えるのは、ソレガシぐらいのもんではアラ変か?

> ま、だからええちうむきもあるのやもしれませんが、もすもソレガシが女であったならば、洟も引っ掛けんわいのお。とはいえ、了解です。ん?かういう女にであってみたい。

畢竟、歌でもなんでもさうぢゃけんど、腹が坐っちょらんば、よろめき誘惑すらできんちうことかもしらん。

そこへいくと、かの・・・

春遠く女人荒野の釈迦坐像

は偉い♪

なんだか、アルツめいてきたか?

> > >春憂めいてはおるが春騒ちうのんは、ずいぶんと違う。憂いは憂いなのだが、静かな澄んだ憂い、たとえば、ソレガシの場合は。30代のころは春になってとくに皐月が咲くころ、なんだか理由もなく、いやさ、理由は自分の憂鬱さであることはわかっておるんぢゃが、もう滅茶苦茶に家族や誰某に申し訳ないやうな気持ちで一杯で、せめて、こんな父親を持たぬ子であれば・・こんな亭主でなければ、こんな息子でなければ、こんな友人でなければ、こんな下僚や同僚や上司でなければ・・・つまり四面楚歌ちうより四方八方に頭が上がらん、ちうても、なぬか後ろめたいことをしたわけでも、失敗をしたわけでも、なんでもない、只管に冷たい透明な水底で腐らぬやうに凍死しちょるような哀しみに沈む、ソレガシの場合はさういう春憂いであったのぢゃが、春騒ちうのんはさうではのうて、どこか心が騒がしい、春の芽吹きのときになぬかあらぬことも期待しなおかつそれがあらぬことぢゃちうような不安が、騒がしく混じっている憂い。たとえ、透き通った悲しみを乗り越えても、このざわめく心の春騒は、潮騒のやうにつづく、そのうち状況が変わってくると、潮騒もあるときは、サーフィン波乗り波になり、荒れ狂う怒濤になることもある。
> >
> > >さういう違いを感じるのであるが、だうであらうか?
> >
> > >だうであらうか?
> >
> >
> > だうお答すればいいのであらうか?「春騒」という言葉は鮮烈である。
>
> 鮮烈ですかぁ。言葉の選び方が鮮烈にうまいですね。かなりの老成とみゆる。
>
> > 春には次々に花がやたらと咲くのを観ているのは、結構きついものがあるし。
>
> まことにまことに・・・
>
> > 温度計がどんどん上昇してゆくような不安……。心情の方が遅れているような。まさに……
>
> 世の中に、嗚呼、世間にも自然においてきぼりをくってしまう、ひきこもって、しばらくはさよなら、ごめん、エクスキューズミーといいたくなる、そのへんのところを過日ニューヨークの豪邸が紹介されておった素チン愚、ぬ?スティングも英語でうたっておる。
>
> angel eyes
> http://www.youtube.com/watch?v=Qm0PKSSbt4w&feature=autoplay&list=QL&index=8&playnext=2
>
> http://www.web-songs.com/lyrics.php?aid=32&sid=14732&a=Sting&t=Angel_Eyes
>
> Have you ever had the feeling
> That the world's gone and left you behind
>
> ここ、ここ。まさに世界においてけぼりの私・・・そういうことを感じたことはりませんか?ちう歌いだしで・・
>
> 己にとってだうでもええどたぬき世界なんぞはおいてけぼりにされたはうが、ちうか、ことさらにまきこまれずに、関与せずして、己が関心の外側にして、見送ってしまったはうが、よろしいのですが・・


これ以下もいちいちやっていってもええのんどすが、ま、そこは、各位の解釈もあるでせうから・・・

俳句でもよく、深読み、ちうことがあって、作者の意図より付加読みにして、深読みをする、それが、まあ、作者も気づかぬ豊饒をもたらすこともあれば、やぶへびになることもある。

とはいえ、さういう冒険もふくめて、他者の講評、解釈を聞くことは、楽しみであって、そのいちいちにメクジラをたてたり、一喜一憂しておっては、己がなくなってしまう。

> Have you ever had the feeling
> That you're that close to losing your mind
>
> You look around each corner
> Hoping that she's there
> You try to play it cool perhaps
> Pretend that you don't care
>
> But it doesn't do a bit of good
> You got to seek till you find
> Are you never unwind
>
> Try to think
> That love is not around
> Still it's uncomfortably near
>
>
> My old heart
> Ain't gaining no ground
> Because my angel eyes ain't here
>
> Angel Eyes
> That old devil sent
> They glow unbearably bright
> Need I say
> That my love's misspent
> Misspent with angel eyes tonight
>
> So drink up all you people
> Order anything you see
> Have fun you happy people
> The drink and the laugh's on me
>
> Pardon me
> But I gotta run
> The fact's uncomfortably clear
>
> Gotta find
> Who's now number one
> And why my angel eyes ain't here
> Tell me why my angel eyes ain't here
> Asking why my angel eyes ain't here
> Excuse me while I disappear
>
> この最後のひとことも効いている。
>
> かういう気分は、そりゃあ人間だもの、世の東西古今を問わずあるのですから、さういうことも、近現代の産業社会に非生産的ぢゃと病気にされちゃあ、かないませんね。
>
> > 春と聞かねば知らでありしを。
> > 聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
> > いかにせよとの この頃か。
> > いかにせよとの この頃か。
>
> まことにまことに昔の歌詞も味わい深い。
>
> > ……だねぇ。
>
> 錯綜のなかでかういう的を得た深さをかうやって射抜くその感性の鋭さが、初心者とはいえ、俳句や詩に向いた性向のやうに見うけられます。世の中には鈍いひとも多々おって、さういう場合は畢竟鈍くて通じないのですから・・
>
> > それから日本語しか読めないのじゃ。英文は辞書が必要。かなしいかな。
>
> 英語、日本語に限らず辞書を片手にはソレガシも同様です。詩語は一般散文とちがって、鋭い表現、意味の二重性、時制、仮定法、省略、場面転換なんぞが鋭利に駆使されちょりますけん、注意深く読み取るには、流し読みでわかったつもりにならんで、辞書を片手にやれば、これはこれで、ええ実践的な勉強であると同時に、己の広さ深さへの深耕、強さへの鍛錬の一助にもなりまする。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53809] 成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。Re:[53716] [53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/23(Wed) 10:52  

せけゆおきANNEX−Ω   訪問者数:2346659(今日:200/昨日:582)2011/02/23(wed) 09:20

恋人も濡れる街角 (instrumental)
http://www.youtube.com/watch?v=cFkokhw3wSk&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=16

> > Dear Old Stockholm - Stan Getz & Chet Baker
> > http://www.youtube.com/watch?v=ksQBfJ968TA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=33
>
> いつもユーチュブの音楽が添付されているけれど、引用文にふさわしいものを選んでいるのですか?なかなかよき趣向なり。
> >
> > ご参考までに引用の書;
> >
> > 岩波文庫 33−635−1 反復 キルケゴール著 桝田啓三郎訳 1983年第26刷改訳

> ではゆっくりと本を待って、ゆっくりと読んでゆきます。

ゆっくりと待ってゆっくりと読んでいますか?

ゆっくりとゆっくりといけばまことにDear Old Stockholm の俯瞰でも馬車道の街角、ちうよりソレガシにとっての横浜はあの陰からOld Ladyが影のごとくしのびよってしらぬまにソレガシの隣のカウンターに座っている、スカンジアによき街の味わい、Old mamaの味わい、マザコンなんかもしれませんが、素感じas TIME goes bym、う〜む、スカンジアの追憶で、あのサーモンの三度言って、U〜M、サンドイッチ、かういう、マチガイで遊んでしまうとサンドイッチマンになってしもうて、なぬか、しらけるものもあるかもしれませんが、まじめにいって、ああいう、古いものが黒光りしている街角、はたまた、風光る田園の風景、苦悩するルオーのピエロの画の横に津和野の土壁が崩れかった道端の電柱の電線がけだるく弛んでいる、さういう風景は現今只今のこの居間へ差し込む春の日差しを遮る壁の裏側で、車道側の防音壁を施した壁の壁紙だけは、ベランダ側のベージュ一色のもんとは違えて凹凸のある厚みのある金の壁でその中に金銀に塗れたダンシングホース、正確にいえば♂♀の馬がリズムを踏んで戯れている、鬣(たてがみ)も尻尾もまるで焔のやうに真っ暗な空間に舞い上げつつ胸に渦巻く螺旋、それに交わる鮮血の一刷毛、金銀の草の萌ゆる大地では連なる音符・・

それらを遮って立ち並ぶ自転車の群れと積み上げられた書物とへたったベッドの枕元から消え去った反復、それを探して探して、ちょっと目を離すといなくなってしまう反復、あさからてんやわんやであれこれの崩れかかった山をひっくり返して、やっと見つけた反復へもどって・・

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

P61

この劇的関心の要素は、個人の生活において一時は消え去っても、成熟した年配に達して魂が真剣に自己に集中するころになると、ふたたび現われてくる。

つまり

成熟した個人はおそらくもはやこの芸術に十分の真剣さを見いだすことはないであろうが、ときおり、あの昔の若いころの状態に返って、それを気分として味わってみたい気持ちになるものだ。そういうとき、滑稽な気分に誘いこまれてみたくなって、芝居の効果によって自分自身でも滑稽の気分を作り出したいような欲望を感ずるものである。

しかし、それかといって、悲劇でも喜劇でも道化芝居でもぴったりしない。つまり、それらはあまりに整いすぎているのである、そこで、どうしても笑劇ということになる。

これと同じ現象は他の分野でも繰り返される。

現実の味の強い食物に堪能している成熟した個性が、巧みに描かれた芸術家にかくべつ感銘を受けないのは、よく見うけられることだ。ところがこの種の人は、ニュルンベルグ版画、すこし前までよく取引所で見かけられるような絵を見ると、いたう心を打たれる。

それは田園風景一般を描いた風景画なのだ。

ああいう抽象は芸術的におこなわれうるのではない。だから、その効果全体がそれとは反対のものによって、つまり、或る偶然的な具体物によって、達せられているのだ。

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

まだ、つづけたいのですが、背中が疲れたので、一服して、またつづけますが・・・

音楽でも同じですね。



やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53808] まさに世界においてけぼりの私・・・己にとってだうでもええどたぬき世界なんぞはおいてけぼりにされたはうが、ちうか、ことさらにまきこまれずに、関与せずして、己が関心の外側にして、見送ってしまったはうが、よろしい。Re:[53807] 春騒 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/22(Tue) 04:58  

んゆすめいANNEX−Ω   訪問者数:2346010(今日:133/昨日:543)2011/02/22(Tue) 03:58

陽はまた昇る♪ 谷村新司 NV
http://www.youtube.com/watch?v=jW16EeMiZsI

> 来生たかお - シルエット ロマンス
> http://www.youtube.com/watch?v=PG_1iZ5gerI&feature=related


それにすても、来生たかおちうのんは下手だな。下手さゆえに人気があるんのかもしれん。とはいえ、曲目によっては、邪魔にならぬあの平凡さのなかのやさしさがよくマッチして、絶妙なる歌唱にもなるのですが、ことシルエットロマンスにおいては、足腰も喉も腹も定まらぬ、やせおとこぶりで、ま、だからええちうむきもあるのやもしれませんが、もすもソレガシが女であったならば、洟も引っ掛けんわいのお。とはいえ、了解です。ん?かういう女にであってみたい。

> >春憂めいてはおるが春騒ちうのんは、ずいぶんと違う。憂いは憂いなのだが、静かな澄んだ憂い、たとえば、ソレガシの場合は。30代のころは春になってとくに皐月が咲くころ、なんだか理由もなく、いやさ、理由は自分の憂鬱さであることはわかっておるんぢゃが、もう滅茶苦茶に家族や誰某に申し訳ないやうな気持ちで一杯で、せめて、こんな父親を持たぬ子であれば・・こんな亭主でなければ、こんな息子でなければ、こんな友人でなければ、こんな下僚や同僚や上司でなければ・・・つまり四面楚歌ちうより四方八方に頭が上がらん、ちうても、なぬか後ろめたいことをしたわけでも、失敗をしたわけでも、なんでもない、只管に冷たい透明な水底で腐らぬやうに凍死しちょるような哀しみに沈む、ソレガシの場合はさういう春憂いであったのぢゃが、春騒ちうのんはさうではのうて、どこか心が騒がしい、春の芽吹きのときになぬかあらぬことも期待しなおかつそれがあらぬことぢゃちうような不安が、騒がしく混じっている憂い。たとえ、透き通った悲しみを乗り越えても、このざわめく心の春騒は、潮騒のやうにつづく、そのうち状況が変わってくると、潮騒もあるときは、サーフィン波乗り波になり、荒れ狂う怒濤になることもある。
>
> >さういう違いを感じるのであるが、だうであらうか?
>
> >だうであらうか?
>
>
> だうお答すればいいのであらうか?「春騒」という言葉は鮮烈である。

鮮烈ですかぁ。言葉の選び方が鮮烈にうまいですね。かなりの老成とみゆる。

> 春には次々に花がやたらと咲くのを観ているのは、結構きついものがあるし。

まことにまことに・・・

> 温度計がどんどん上昇してゆくような不安……。心情の方が遅れているような。まさに……

世の中に、嗚呼、世間にも自然においてきぼりをくってしまう、ひきこもって、しばらくはさよなら、ごめん、エクスキューズミーといいたくなる、そのへんのところを過日ニューヨークの豪邸が紹介されておった素チン愚、ぬ?スティングも英語でうたっておる。

angel eyes
http://www.youtube.com/watch?v=Qm0PKSSbt4w&feature=autoplay&list=QL&index=8&playnext=2

http://www.web-songs.com/lyrics.php?aid=32&sid=14732&a=Sting&t=Angel_Eyes

Have you ever had the feeling
That the world's gone and left you behind

ここ、ここ。まさに世界においてけぼりの私・・・そういうことを感じたことはりませんか?ちう歌いだしで・・

己にとってだうでもええどたぬき世界なんぞはおいてけぼりにされたはうが、ちうか、ことさらにまきこまれずに、関与せずして、己が関心の外側にして、見送ってしまったはうが、よろしいのですが・・

Have you ever had the feeling
That you're that close to losing your mind

You look around each corner
Hoping that she's there
You try to play it cool perhaps
Pretend that you don't care

But it doesn't do a bit of good
You got to seek till you find
Are you never unwind

Try to think
That love is not around
Still it's uncomfortably near


My old heart
Ain't gaining no ground
Because my angel eyes ain't here

Angel Eyes
That old devil sent
They glow unbearably bright
Need I say
That my love's misspent
Misspent with angel eyes tonight

So drink up all you people
Order anything you see
Have fun you happy people
The drink and the laugh's on me

Pardon me
But I gotta run
The fact's uncomfortably clear

Gotta find
Who's now number one
And why my angel eyes ain't here
Tell me why my angel eyes ain't here
Asking why my angel eyes ain't here
Excuse me while I disappear

この最後のひとことも効いている。

かういう気分は、そりゃあ人間だもの、世の東西古今を問わずあるのですから、さういうことも、近現代の産業社会に非生産的ぢゃと病気にされちゃあ、かないませんね。

> 春と聞かねば知らでありしを。
> 聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
> いかにせよとの この頃か。
> いかにせよとの この頃か。

まことにまことに昔の歌詞も味わい深い。

> ……だねぇ。

錯綜のなかでかういう的を得た深さをかうやって射抜くその感性の鋭さが、初心者とはいえ、俳句や詩に向いた性向のやうに見うけられます。世の中には鈍いひとも多々おって、さういう場合は畢竟鈍くて通じないのですから・・

> それから日本語しか読めないのじゃ。英文は辞書が必要。かなしいかな。

英語、日本語に限らず辞書を片手にはソレガシも同様です。詩語は一般散文とちがって、鋭い表現、意味の二重性、時制、仮定法、省略、場面転換なんぞが鋭利に駆使されちょりますけん、注意深く読み取るには、流し読みでわかったつもりにならんで、辞書を片手にやれば、これはこれで、ええ実践的な勉強であると同時に、己の広さ深さへの深耕、強さへの鍛錬の一助にもなりまする。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53807] 春騒 投稿者:なすのせせ 投稿日:2011/02/22(Tue) 01:51  

来生たかお - シルエット ロマンス
http://www.youtube.com/watch?v=PG_1iZ5gerI&feature=related

>春憂めいてはおるが春騒ちうのんは、ずいぶんと違う。憂いは憂いなのだが、静かな澄んだ憂い、たとえば、ソレガシの場合は。30代のころは春になってとくに皐月が咲くころ、なんだか理由もなく、いやさ、理由は自分の憂鬱さであることはわかっておるんぢゃが、もう滅茶苦茶に家族や誰某に申し訳ないやうな気持ちで一杯で、せめて、こんな父親を持たぬ子であれば・・こんな亭主でなければ、こんな息子でなければ、こんな友人でなければ、こんな下僚や同僚や上司でなければ・・・つまり四面楚歌ちうより四方八方に頭が上がらん、ちうても、なぬか後ろめたいことをしたわけでも、失敗をしたわけでも、なんでもない、只管に冷たい透明な水底で腐らぬやうに凍死しちょるような哀しみに沈む、ソレガシの場合はさういう春憂いであったのぢゃが、春騒ちうのんはさうではのうて、どこか心が騒がしい、春の芽吹きのときになぬかあらぬことも期待しなおかつそれがあらぬことぢゃちうような不安が、騒がしく混じっている憂い。たとえ、透き通った悲しみを乗り越えても、このざわめく心の春騒は、潮騒のやうにつづく、そのうち状況が変わってくると、潮騒もあるときは、サーフィン波乗り波になり、荒れ狂う怒濤になることもある。

>さういう違いを感じるのであるが、だうであらうか?

>だうであらうか?


だうお答すればいいのであらうか?「春騒」という言葉は鮮烈である。
春には次々に花がやたらと咲くのを観ているのは、結構きついものがあるし。
温度計がどんどん上昇してゆくような不安……。心情の方が遅れているような。まさに……

春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。

……だねぇ。

それから日本語しか読めないのじゃ。英文は辞書が必要。かなしいかな。


[53806] まあ、狂人、達人の域にたっするには、狂うにも鍛錬が要る。Re:[53795] 春騒。Re:[53792] 友へ。Re:[53791] けふは。 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/21(Mon) 19:17  

えのさらおANNEX−Ω   訪問者数:2345766(今日:432/昨日:429)2011/02/21(Mon) 18:18

♫Far away♫     谷村  新司
http://www.youtube.com/watch?v=klDkGgJ7mjQ&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=2

それにしても数々の気づかぬ失礼があったかもすんない。

> れへをわあANNEX−Ω   訪問者数:2344179(今日:361/昨日:464)2011/02/18(Fri) 18:08
>
> 神風特攻隊(群青/谷村新司)Kamikaze attacks in WWU
> http://www.youtube.com/watch?v=b7_I3r7qbrY&feature=related
>
>
> > > やよせめて生命を運べ風の花
> > >
> > > 忘れざるいのちもあれな風の花
> > >
> > > 片身とや片割れとや言ふ春の月
> > >
> > > 終わり無き始まりのとき君は笑む
> > >
> > > 何をのう今更騒ぐ春の宵
>
> これこれ、潮騒ちうことばはあるが、春騒ちうのんはないのんか?
>
> あってもよささうぢゃけんど・・・ここでつくっちまうか?
>
>
> なぬをのうなぬもなくてもある春騒
>
>
> > こうしているということは、ああしていないということの言い訳に過ぎない。
>
> ちう春憂めいた春騒

春憂めいてはおるが春騒ちうのんは、ずいぶんと違う。憂いは憂いなのだが、静かな澄んだ憂い、たとえば、ソレガシの場合は。30代のころは春になってとくに皐月が咲くころ、なんだか理由もなく、いやさ、理由は自分の憂鬱さであることはわかっておるんぢゃが、もう滅茶苦茶に家族や誰某に申し訳ないやうな気持ちで一杯で、せめて、こんな父親を持たぬ子であれば・・こんな亭主でなければ、こんな息子でなければ、こんな友人でなければ、こんな下僚や同僚や上司でなければ・・・つまり四面楚歌ちうより四方八方に頭が上がらん、ちうても、なぬか後ろめたいことをしたわけでも、失敗をしたわけでも、なんでもない、只管に冷たい透明な水底で腐らぬやうに凍死しちょるような哀しみに沈む、ソレガシの場合はさういう春憂いであったのぢゃが、春騒ちうのんはさうではのうて、どこか心が騒がしい、春の芽吹きのときになぬかあらぬことも期待しなおかつそれがあらぬことぢゃちうような不安が、騒がしく混じっている憂い。たとえ、透き通った悲しみを乗り越えても、このざわめく心の春騒は、潮騒のやうにつづく、そのうち状況が変わってくると、潮騒もあるときは、サーフィン波乗り波になり、荒れ狂う怒濤になることもある。

さういう違いを感じるのであるが、だうであらうか?

だうであらうか?

ちうことの疑問は、特定のとんびくんへの問いかけではのうて、どなたさまへの問いかけであって、憂鬱には騒がしさが憑き物ぢゃ、ちう異見もあるやもしれんし・・

>
> > どうやら、生も死も、僕にとってはただのアリバイに過ぎないらしいのだ。
>
> なぬか心の中が騒がしい
>
> > 生きながらの死者である。
>
> 生きながら死せる絶叫なほ春騒


とんびくんの絶叫と、ソレガシのカラオケを味噌糞一緒にしてすまった、別途の記事もさうとは限らんわけであって、人の心はそれぞれですから、勝手に決めてしまうのも、おもい上がりオセッカイの極みかもかもしれません。

それぬすても、ここで云うべきことか、別途で云うべきことか、ま、ええ、云ってしまえば、このとんびくんの絶叫めいたアリバイもぼやきもずいぶんと永い、ちうか、さういうときにすか現われぬのであるかもしれませんが、ソレガシもむかしは永かった。

一旦沈むともう数ヶ月ちうもんではなく、下手すると数年も沈みっぱなしで、なかなか浮き上がる契機をつかめぬ。あれもこれも申し訳なく、また心配で、不安のその原因を病気ぢゃねえか、ちうことで、そっと町医者の診断で、クスリを飲んでも、ぜんぜんよくならぬ、むしろ、便秘だとか、代謝系の異常とか、副作用ばかりがでて、それでも、飲めば治りますよ、ちうロボット以下の爺さん医者の反復で、かれこれ、5年くらいクスリを飲んだが、結局良くはならんかった、良くなった契機は、やっぱす運動で、当時は水泳で、35歳、親友が死んだことがきっかけで、「鬱」ちう診断状況に陥り、クスリを飲み始めたと同時に水泳もはじめ、毎日1kmほどからはじめて、良くなるころには、日々2〜3kmを平泳ぎでやる、1kmでも、四肢の爽快さはまことに気分にも多少の良い効果はりましたが、2〜3kmやりだすと、そりゃあ、全身に効果がでてくる、さらには、休憩時間の自己流のヨーガ、柔軟体操で、まったく固くていかんともしがたいような、鈍った身体がしなやかに股割りの間に頭が床につくほどに柔軟になり、また、泳ぐ速度も筋力の増殖と技能の向上、まあ、慣れですが、どんどん早くなる、なんでもないことが励みになる、さうすると気分も変わる、暗いものごとが明るくなってくる、だうでもええやうなこころのざわざわ騒ぎもなんとのう鎮まってくる、鎮まってこんのんは、ま、いってもれば、経済的な問題、身分的な問題とか、これを、マルクス主義的、生活基盤であると思い込む、その思い込みも、実は、己が決意ひとつで払拭される、やうは、これもむっかすなんどもかいた記憶があるが、畢竟、どんな身分にならうが、どんな経済情況にならうが、今時の20世紀21世紀の日本では飢え死にはせぬ、だから、なぬも自己をガンジガラメにしてどたぬき社会の経済構造、社会構造に迎合するすることはない、かうと腹が決まれば、恢復ははやい。

やうは、いまぢゃ、なんか、落ちこんでも、風邪と同じで、一晩もあれば浮き上がってしまう、もちろん、落ち込むときは悲痛なんで、後悔や絶望や悲痛の極み、大げさではのうてさういう泥沼の奈落に落ちるのんどすが、さういうときは、殴り書き、ソレガシがよくここちゃらでやっちょる殴り書き、誤字脱字、勘違い、全てオーケー、なんでも吐き出してしまう、これがよく効くんですね。鬱屈のその素が吐き出すことによって見えてくることもあるんでせう。毒を吐けはそりゃあ、身体も精神も毒から解放される、だから、この20数年はそういう自己吐寫(ほんまはサンズイがつく)トシャ、さういうことにより、便秘で毒素が脳みそ精神にまわることなく、快便、快弁、怪舌、で・・・なんとか自分を律して維持しちょるやうなわけで、さういう意味でも、ここちゃらのアネックスは貴重ですね。

まあ、狂人、達人の域にたっするには、狂うにも鍛錬が要る。


> > > ひをとたおANNEX−Ω   訪問者数:2344073(今日:255/昨日:464)
> >
> > ふやけわなANNEX−Ω   訪問者数:2344089(今日:271/昨日:464)

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53805] 一味違いますね。Re:[53802] 心のアリバイ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/21(Mon) 16:33  

ひつもふもANNEX−Ω   訪問者数:2345734(今日:400/昨日:429)2011/02/21(Mon) 16:08

やっぱすやったことは検証せんばいけんわの。けふは昼前から63kmほどを流してもどってみれば、なぬか・・・

> らみせんつANNEX−Ω   訪問者数:2345383(今日:49/昨日:429)2011/02/21(Mon) 03:56
>
> 絶望と希望、分裂した感情の相克、メランコリーな心のアリバイなのかもしれない。
>
> Shirley Bassey Feelings
> http://www.annex-net.jp/cgi-bin/libro/light/light.cgi

http://www.youtube.com/watch?v=T-gC3hnN0YE&feature=autoplay&list=QL&index=28&playnext=2

のマチガイですた。失礼をば・・with pleasureがよろしい。

これは、アテネのスークでオリーブ箱一杯カセットテープを買い込んで、もちろん当時得意な海賊ですけん、国内販売価格の1/10未満のお値段で、罰しー、アラ、バッシー、シナトラ、コモその他その他で、ソレを積み込みエーゲ海ステラソラリスで2週間かけて一周して這い上がって陸でまた山奥めがけてオリーブ箱を積み替えたクルマを走らせ毛皮の物色で2週間、〆て4週間効きっぱなしの33年前であったから、すっかり身に沁みこんでしまった、血肉を分けたやうな歌ですね。

> Feelings - Morris Albert
> http://www.youtube.com/watch?v=CyBcHUe4WeQ&feature=BF&list=QL&index=27
>
> ENGELBERT HUMPERDINCK - FEELINGS (with lyrics)
> http://www.youtube.com/watch?v=7oKyPE8P-d4&feature=BF&list=QL&index=29
>
> Feelings, nothing more than feelings, trying to forget my feelings of love.
> Teardrops rolling down on my face,
> trying to forget my feelings of love.
> Feelings, for all my life I'll feel it.
> I wish I've never met you, girl; you'll never come again.
> Feelings, wo-o-o feelings, wo-o-o, feel you again in my arms.
> Feelings, feelings like I've never lost you and feelings like I've never have you again in my heart.

この絶対矛盾的自己同一をしれっとして歌う。

> Feelings, for all my life I'll feel it.
> I wish I've never met you, girl; you'll never come again.
> Feelings, feelings like I've never lost you and feelings like I've never have you again in my life.

またしても絶対矛盾的自己同一をしれっとして歌う。

> Feelings, wo-o-o feelings, wo-o-o, feelings again in my arms. Feelings...(repeat & fade)

この繰り返しですね。

しかしながら・・・

> Nina Simone Feelings
> http://www.youtube.com/watch?v=EbXYm7PLkew&feature=BF&list=QL&index=26

これはちとちがう。最期までお付き合いあれ。さすれば、さすがに伊達にドクトルニーナシモンではあらへん。ちゃんと〆がでけておる。

一味違いますね。

さて身zからのリハビリと、チャリンコ置場天井灯の天使の輪っかめいた蛍光灯を交換作業前に、切れておるけん、新しいのんを買いにゆかねばならん。それにしても、脚立で転倒せんばよろしいのですが・・

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53804] 東西霊性交流。Re:[53796] [53794] 宇陀Re:[53793] 鎌倉長谷 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/21(Mon) 08:46  

むきにかひANNEX−Ω   訪問者数:2345483(今日:149/昨日:429)2011/02/21(Mon) 07:43

Shirley Horn - "The Island"
http://www.youtube.com/watch?v=S4nRUc7Ex5c&feature=BF&list=QL&index=48

> > れころおむANNEX−Ω   訪問者数:2344174(今日:356/昨日:464)
> >
> > 矢沢永吉/もうひとりの俺
> > http://www.youtube.com/watch?v=jRePNG3griU&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=18
> >
> > >  春近し海見て座る大仏
> >
> > 春遠く女人高野の釈迦坐像
> >
> > http://www.murouji.or.jp/
>
>
> ほんまやね。

共感してもらって嬉しいのですが、だうほんまやねん?

釈迦坐像が女人高野におることがほんまなんでせうか?

それとも、この句のありやうがほんまなんでせうか?

ふんとも、もうひとりの俺がふんまなんでせうか?

まあ、そうそう詰問攻めにすることもなく、もうひとりとはいわず、無限に分裂することも可能ですが、ソレガシとクロスした、鳩山、菅くんら、もすもソレガシがあれらであったなら、ちうたらればは歴史には禁物で、それでもタラレバよりニラレバが好物なソレガシにとっては歴史ちうより瞬間であって、瞬間であるからは、ソレガシが誰にならうがソレガシの勝手であって、鳩山菅ども糞喰らえ、ああいうもんにソレガシも成り果てれば現今只今のソレガシほどの誠実も正直もなんもあらへんで、己が擬装に悩むこともなく、まあ、皮相でノイローゼにはなるでせうが、そりゃあ、あの、山口のぼうやくんでも女寺、あれ?おんなじで、福岡だかのかの漢字の読めない爺さんのマチガイダラケの演説をしゃあしゃあとやるほどの厚かましさもなく、とつとつとなんとか状況をまとめようという外側と内側の乖離した、そのぶったるんだ神経と頽落した景色は、まことにソレガシ自身にひきつけても飽き飽きした風景で、そこへいくってえと、女人荒野ならぬ、女人高野に客仏として坐り続ける釈迦坐像、立ち上がろうにも、己が使命は坐像であるからして腰を上げぬ、腰を上げれば客仏がふらふらと女人高野をさ迷う風景もさまにならぬ、のんは、まあ、娑婆でも同じ景色ですから、男根をもった釈迦は釈迦なりに遠慮、配慮、誠実さをその坐において示しているのだらうが、その娑婆にして、ソレガシの一家のうちの景色でも似たもんであって、女人家族の中の一個の男根は置き場所もなく、時も経るば祖醍醐味、ああ、粗大ゴミとはいわれんも、密小ゴミかもしれんか、掃いて捨てられることもなく、未だにちょこんなんと余命をたもっている景色と、もうひとりの釈迦坐像と重なるところが見えぬちうことは、まことに眼前にものがあってもみえぬもんにはみえない景色で、まあ、さういうもんがみえたからこその、共感を戴いたのかもしれませんが、かういう、萎えた鳩山菅ほどには萎えきっていない、それよりなにより、擬装の手出しさえせんで、ああ、あの擬装の握手、輪になってえ、輪になってえ、ちう花の街ちう歌もありもうしましたが、ああいう輪になるにもおててをつないでそのおテテがお猿の手ならまんだ擬装もなからうちうもんどすが、ああいう風に外部にばっか気を配って内部がおろそかの手合いのお手手どもは、みんな擬装で、さういう擬装お手手の輪の馬鹿馬鹿しい踊りをみているなら、雪に閉ざされた女人高野で、女仏どもに疎外されながら男一匹わが手をじっと見ると啄木的に堕落しますけん、手は自分で見ぬようやうに、住み着いた女人高野の諸仏や参詣者に手向け、その掌から光を放ては新興宗教のマヤカシめいて全部お手当てといいながら、いのち財産を巻き上げるちう悪童非道にも陥らず、弛緩せずに只管に坐すその姿勢とその無言のゴンと、存在そのものがそこにいるだけ発するなぬものかを透き通った空気、それはまさに空の気であって、食う気もなく、ただ空を食うのみにしていのちながらえ、ああ、ながらえずとも、即今只今果てたところで、己が人生にして仏生であったと回顧満足する必要もなく、すべてが十分にして物足らない、その物足らなさを十分に味わえば、それもまた美味して、耳は豊かに垂れ下がり、眼前に積まる宝物、金品、保険屋からの行為少々が、ああ、後遺症障害補償金も、あてどなき宝物金品、せめて患いの治療費にと、もっていきたくばもっていけ、老いて生きたくば、ああ、置いていきたくば置いていけ、ちうもんで、あたかも、すし屋のカウンターの奥の主人のやうに、眼前を行き交ひ、言葉を交わす、あれこれの行きずりのカップル常連のお客様のあれこれが自然に見えてしまう半眼なんですね。

四面怒濤の孤島の修道院に坐す立ち居振る舞いでも女人高野の釈迦坐像とおなじやうな景色でせうな。東西霊性交流。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53803] 不安を隠蔽する擬装にしても、その擬装のなかにさえ幾許かの真実もあればインテレサントな誘惑もある。嗚呼!Re:[53800] 無関心Re:[53799] 来生えつこ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/21(Mon) 06:25  

なろとえたANNEX−Ω   訪問者数:2345410(今日:76/昨日:429)2011/02/21(Mon) 05:33

11 A DAY / 矢沢永吉 「A Day」
http://www.youtube.com/watch?v=VoX2k3bS8AY&feature=BF&list=ULsSQE-ok2F3g&index=1

心のアリバイのつづきです。はたして、佐藤しのぶの早春賦でよかったのか、不安です。ゆえに・・・

「早春賦(そうしゅんふ)」
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/soushunfu.html

吉丸一昌作詞・中田章作曲

春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず。
時にあらずと 声も立てず。

氷解(と)け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ。
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空。
今日もきのうも 雪の空。

春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。

【おまけのパズル】(*´艸`)

> えつけいのANNEX−Ω   訪問者数:2345034(今日:129/昨日:591)2011/02/20(Sun) 07:20
>
> 早春賦 / 佐藤しのぶ
> http://www.youtube.com/watch?v=zrCSwQJimuk&feature=BF&list=QL&index=8

ここのしのぶでは、「早春賦(そうしゅんふ)」の第3節が省略されているのですね。そこを外してしまえば、春は名のみの風の寒さや時にあらずと 声も立てず。今日もきのうも 雪の空。とまたもとにもどってしまう。

されど、春と聞かねば知らでありしを。聞けば急かるる 胸の思(おもい)をいかにせよとの この頃か。となれば脱出の契機ではあらうが、悩みも深い、不安。

さういえば・・・

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。


[53717] どの道もどこへも通じない。十字架は、あたかも感覚の中枢へ打ちこまれた一本の釘のようである。Re:[53714] 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」Re:[53713] インテレサント 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/01/24(Mon) 11:10


うこおてらANNEX−Ω   訪問者数:2322904(今日:176/昨日:498)2011/01/24(Mon) 09:57

凍ってら。かうかう寒い、雲で覆われ日差しもない巷を駆けて壊疽した歯の修理にむかうのも気が重い。最近は新しい知恵もわいて天然酵母パンを餅と一緒にトーストして、パンに餅をはさんで食べる、過日は一枚の分厚いトースト、これが甘みがあるのですが、それに膨れて皮が焦げ中空の風船になったやうな餅を6枚ものせて頬張ったら、これがなかなかにボリュームがあってよろしい。そこになぬもくわえず、ひたすらパンと餅のとりあわせを味わうのもよし、はたまた、バターを盛り込むのもよし、昆布醤油を垂らすもよし、ブルーチーズもジャムもよし、千変万化の味わいがあり腹も膨れる。

お試しあれ。パンも餅もさして高くはない。

CAFE DEL MAR - 4 - STAN GETZ - STREET TATTOO
http://www.youtube.com/watch?v=DUrCi4EwRMk&feature=BF&list=ULXdpDtobn9ZU&index=10

> をわてそよANNEX−Ω   訪問者数:2322685(今日:455/昨日:569)2011/01/23(Sun) 21:23
>
> Dear Old Stockholm - Stan Getz & Chet Baker
> http://www.youtube.com/watch?v=ksQBfJ968TA&feature=BF&playnext=1&list=QL&index=33
>
> ご参考までに引用の書;
>
> 岩波文庫 33−635−1 反復 キルケゴール著 桝田啓三郎訳 1983年第26刷改訳
>
> の註を記しておきます。

この書の内扉にはキルケゴールの記した題名の訳がある。曰く・・

反復 実験心理学の試み コンスタンティン・コンスタティウス コペンハーゲン 1843年

>
> > >インテレサントなものはけっして反復されないからである。
> >
> > >インテレサントなものを求める娘は、みずからそこにおちいる罠となる。
> >
> > >インテレサントなものに心ひかれぬ娘は反復を信ずる、そういう生まれつきの娘に栄誉あれ。
> >
> > >時を経てそうなった娘に栄誉あれ。
> >
> > ここを特記しておこう。
> > 「インテレサント」を日本語に置き換えることを考えてみたが、不可能のような気がする。
> > しかし、この言葉のニュアンスはとてもよくわかる。
>
> 40−14「おもしろい」と訳したインテレサントは、語原からみて
>
> 「ひとの興味、共感、注意を呼びおこすような性質をもった」ということ、
>
> そこから
>
> 「興味をひく、好奇心をそそる、おもしろい」
>
> などの意味に用いられる。
>
> 41−2
>
> 前註の形容詞を名詞化したものであるが、この語は、1830年ごろから2,30年のあいだ、美学上の流行語として、特殊な意味に用いられた。「ひとの注意ないし興味をひこうとする」という原意から派生してくる特徴的な含意を訳者なりにまとめてみると次の三つになる。
>
> 一、ひとの関心をひいて注意を喚起し、興味をおぼえさせるようなものは、「普通と違って目立つ」ということ。
>
> 二、そういう異常なものは、自然でなく、どことなく不自然で、わざとらしくて技巧的であること、例えば女性の媚態。
>
> 三、異常であることで人を楽しませ面白がらせる性質をもち、気持ちをまぎらせて退屈な気分を転換させる働きをする。この意味で「倦怠」「退屈」の相関概念といえる。退屈をまぎらせ憂さを晴らすために次々と目新しい慰みを求めることになる。
>
> およそこのような三つの含意をもつと思われるが、これらの含意をあらわす適当な訳語が訳者の貧弱な語彙の中に見当たらぬので原語のまま仮名書きであらわした。
>
> 「インテレサントなもの」は右のようなものとしてドイツ・ロマン主義の文学者フリートリヒ・シュレーゲルによって、近代文学を特徴づける概念として初めて用いられて普及し、デンマークにも輸入されて、現代的な特徴をあらわす文学、美学上の流行語となったのである。『誘惑者の日記』では、そのライトモティーフとして用いられている。
>
> なお、この語はもう一つ別の重要な意味をもっていて、そういう意味で用いられる場合がある(45−9、45−11参照)
>
> 1844年の日記に次の文章がある。
>
> 「反復は一つの宗教的な範疇であり、どこまでもそうである。それだからコンスタンチン・コンスタンチウスはあれ以上先へ進むことができない。彼は賢明で、アイロニストであり、インテレサントなものを排斥する。しかし彼みずからがあくまでもそれにへばりついたままでいるのだということに気づかない。
>
> インテレサントなものの第一の形式は、目先の変化を好むことであり、もう一つの形式は反復を欲することである。
>
> けれどもそれも自己満足の範囲を出ず、そこにはなんらの苦難というものがない、−−−−だからコンスタンチンは彼みずから発見したものに座礁する、そして青年はその先へ前進する」
>
> 45−9・・・・・「関心」と訳した原語はInteresseで、interessantとつながりがある。コンスタンチンが「反復」のイデーを発見しそれを欲しながら、それが中心をそれたインテレサントなものの範疇を出ないのためにそれに座礁するように、形而上学も反復を欲し・・・それに座礁する。
>
> 45−11・・・・ここで「関心」といわれているInteresseは二つのものの「間に」inter,zwischen,between「ある」esse,sein,beという意味と、あることに「心を関わらせている」あるいは、あることを「問題としている」という「関心」の二義をもっている。
>
> 例えば、『』死にいたる病」の冒頭で
>
> 「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものと間の、自由と必然との総合」
>
> であるといわれている、それら二つの矛盾するものの「間にある」「関係」が前者のInteresseであるという、人間の本質的な規定であり、人間はそのように矛盾する二つのものの間にあるがゆえに、その矛盾の関係にある自分自身に、無限の関心をもたざるをえないのである。
>
> 「実存者にとっては、実存することが最大の関心である」
>
> と言われるのもこの意味においてである。
>
> これに反して
>
> 「私自身でない第三者(たとえば美、真理など)に関心をもつ知識は無関心的である。」
>
> と言われる。形而上学はこれであって、だから、それはもともと無関心なのであるから関心しているようでもそれは真の関心ではなく、真の関心があらわれるところでは挫折せざるをえないわけある。・・・・

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

ここに、1963年キルケゴール生誕150年を記念しておこなわれたUNESCOの講演会、座談会の記録の邦訳がある。

人文選書3 生けるキルケゴール 1967年初版 1973年重版 訳者代表 松浪信三郎 人文書院

この中で、

ジャンヌ・エルシュ(嬢とある、ジュネーブ大学文学部教授)なる女性の講演の《瞬間》

の一節、いや、多節に、その他の錚々たる世界の有名人の聞き飽きた言説の頽落したものいいと風貌を異にした、それこそインテレサントな節にして説がある。曰く・・・

キルケゴールは瞬間を現実化するのである。

この現実化は、なんらかの論理的整合性にも、ある種の劇的な賭にも、あるいはまたヘーゲル的過程を生かす論理学の汎論理的強姦にも、何ものにも負うていない。

この現実化は、この現実化について語りそれを《理解》しようと試みる者において成就される出来事そのもののほかには、いかなる支えももたない。

キルケゴールは弁証法について語りはしない。

彼はこの弁証法であるのである。

あるいはむしろ、

彼はこの弁証法になるのである。

それゆえ、問題となるのは、マルクスの場合と同様、理論的な弁証法ではなく、

行なわれる弁証法である。

それによって言葉が行為となるような弁証法である。

ただし、

マルクスにおける弁証法は、空間と時間において、外面性において、歴史の継起において、展開される行為であるが、

キルケゴールのおける弁証法はそうではなく、逆に、瞬間という内面化された一点性において取り戻されるのである。

そこでは、行為はもはや原因と結果との並列ではなく、主語と述語との並列でも、前と後との並列でもない。

こういたものはすべて、そこに存在することはしているが、しかしそれらは単一性においてとらえられているある。

一つの行為、それは誰かであり、今であり、そして現にある。

・・・・

歴史の生ける心臓は瞬間のなかで鼓動することをやめない。

拒まれた永遠が、その瞬間のなかで時間を片時も休ませないのである。

歴史は欲望と希望を糧にして生きるのであって、全面的な約束や知を糧として生きるのではない。

全面的な約束や目的にについての詐称された知こそが、《観念論的》なのだり、《人民の阿片》なのである。

というのも、そうなると、行為は挿入点を、つまり自由な主体のここといま、瞬間を失ってしまうからである。

・・・・・

瞬間の哲学は、一つの絶対的な要求、しかも単独者的な要求を繰り返すだけで、制度も権威ももたず、要するに自由にかかわるのみであって、それ以外のものにはかかわりをもたない。

・・・・・

どの道もどこへも通じない。十字架は、あたかも感覚の中枢へ打ちこまれた一本の釘のようである。

そして

キルケゴールはその釘をくりかえし打ちこむために、変装する。

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。

という記事のなかにも問題を読み解くひとつの鍵はあらうが、さらに幾許か追加しておくと、ここにはいりきらんやうになるかもしれない、ああ、不安だ、さしたる不安ではあらへんが・・この講演会の冒頭の「ルネ・マウの挨拶」からの引用です。

「決意をもって人間であること、それで十分である」。<決意をもって人間であること>、この感嘆すべき表現こそ・・・・

『不安の概念』の著者にあてがわれるこの勇気という言葉・・・

「哲学の始まりは、古代人の場合のように、驚きのうちにあるのではなく、絶望のうtにある」

そして絶望よりもっと深いところに、不安が横たわっている。それは、罪とかけ離れているような不安、無罪とさえ結びついているような不安である。

そうだからこそ、不安は、一定の対象にかかわる恐怖とはちがい、理由もなく、治療のてだてもないのである。不安は、自由の具体的な経験にかかわりをもつ。

不安は「自由の蝕であり、自由の気絶である」。

:*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★。


> > 救急車は任務遂行できたのかな?
>
> 任務無事完了、して歓迎されざる特務も、まんず、愛のない受付に教育的指導をなし、さらに看護婦に日本語を指導し、研修医に血液検査のデータの見方クスリの処方を指導して、結局全部自分でやってさしたる問題もなかったので連れてかえりました。
>
> > CDケースの奥の方から「来生たかお」のCDを探し出して、改めて歌詞カードで作詞者の名前を確認したら、15曲のうち12曲までが「来生えつこ」だった。
> >
> > どうして気付かなかったのだろう?
>
> 無関心だったからでせう。関心はべつのところ、歌の中身にあったわけだから・・

この無関心と関心のありやうは、さきの引用記事2011/01/24(Mon) 09:57 付けのなかにも一つの鍵はあらうし、また視点をかえれば、リアリティーのアクチャリティーの問題、生と死、永遠と瞬間、普遍と個別、遺伝子と膜など、いかようにも例を挙げうる素材は豊富ですが、さいうものとの対比でも考えられるのですね。

> > ごんべいが種を撒いたらまた春菜

かういう春が、それが季重なりにしても、やっとやってきて・・・

> たをやかにのびよ春菜よ根をはって

かういう教育指導的な句しか詠めぬ、悲しさ、かういう言説しか云えぬ、悲しさ、それがソレガシの不安を隠蔽する擬装にしても、その擬装のなかにさえ幾許かの真実もあれば、はすっぱなインテレサントな誘惑もある。嗚呼!

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53802] 心のアリバイ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/21(Mon) 04:08  

らみせんつANNEX−Ω   訪問者数:2345383(今日:49/昨日:429)2011/02/21(Mon) 03:56

絶望と希望、分裂した感情のの相克、メランコリーな心のアリバイなのかもしれない。

Shirley Bassey Feelings
http://www.annex-net.jp/cgi-bin/libro/light/light.cgi

Feelings - Morris Albert
http://www.youtube.com/watch?v=CyBcHUe4WeQ&feature=BF&list=QL&index=27

ENGELBERT HUMPERDINCK - FEELINGS (with lyrics)
http://www.youtube.com/watch?v=7oKyPE8P-d4&feature=BF&list=QL&index=29

Feelings, nothing more than feelings, trying to forget my feelings of love. Teardrops rolling down on my face, trying to forget my feelings of love. Feelings, for all my life I'll feel it. I wish I've never met you, girl; you'll never come again. Feelings, wo-o-o feelings, wo-o-o, feel you again in my arms. Feelings, feelings like I've never lost you and feelings like I've never have you again in my heart. Feelings, for all my life I'll feel it. I wish I've never met you, girl; you'll never come again. Feelings, feelings like I've never lost you and feelings like I've never have you again in my life. Feelings, wo-o-o feelings, wo-o-o, feelings again in my arms. Feelings...(repeat & fade)

Nina Simone Feelings
http://www.youtube.com/watch?v=EbXYm7PLkew&feature=BF&list=QL&index=26

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53801] バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?Re:[53798] 救急車出動!オッス!!!Re:[53797] だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。Re:[53790] [53789] それでよし。とのよし。Re:[53788] 来生たかお  投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 22:12  

るちめくみANNEX−Ω   訪問者数:2345306(今日:401/昨日:591)2011/02/20(Sun) 21:50

あの日のように / 矢沢永吉
http://www.youtube.com/watch?v=r8S-fuAHm1Q&feature=BF&list=QL&index=65

けふもまた介護車出動で都心まで遠征し、ここんことクルマの走行距離はのびても自転車が伸びぬ。おまけに、あのわっかのハンドルをバックポケットつきのジャージで前かがみに回すと肩の痛みもでてきて、自分のリハビリにもいけず、もっぱらひとさまの面倒一途で、腕のあちこちに野火が走り、脳みその半分もぼけた痛みで、普段ひかぬ風邪気味なのかもしれぬ、と、昼も夜もニンニク入りのもんで元気をつけてはいるものの、いまいちのりがわるく、想念に浮かぶもんもなんだかブルーでメランコリーで・・・でも、予兆でもなんでもなく、一発チャリンコでぶっとばせば、全部吹っ飛んでしまうのんは、いつものことなんぢゃが、お日様の顔もみえぬ寒風の中に飛び出すのもなんだか億劫で、朝から晩までクルマとつきあったお陰もあって、本日の自転車はOkm、ああ、なんとOkmの日が今月は多いのであらう、お腹も出てきて、ベッドでひっくり返って読書とPCの前で、日々50曲以上をリストアップして、聴きこむ、ま、品定めで、さういうことをあの美人コンテストなんぞなんでやるのんは、なんだか人間への冒涜のやうな気がせんでもないが、さういう冒涜もまた人間の品性のひとつなのかもしれず、畢竟、かうやって、見える容姿でも、聞こえる音楽でも、それを品定めしている、その趣味、好みの裏側にある直観、世間や家族関係なんぞのなんらの鎖に縛られることもなく、自由なる直観で自由に選り好む、さういうところが、ネットやゲームにはまる所以なのかもしれませんね。

それにすても、バーチャルな愛とか真理とか誠ちうもんはあるんであらうか?

リアリティとアクチャリティ、このことはまた紹介しますが・・・

> すふもけなANNEX−Ω   訪問者数:2344467(今日:153/昨日:496)2011/02/19(Sat) 08:29
>
> 矢沢永吉/いつの日か with Bank Band
> http://www.youtube.com/watch?v=Yv7DH9sf4Pw&feature=autoplay&list=QL&index=19&playnext=2
>
> 今週はまいにちダレカラの具合が悪く、搬送の日々で、今朝もまた早朝電話、足が痛いので昨日で近所の徳洲会病院へいって痛み止めをもらってきたが、ぜんぜん効かないで、一晩中寝られなかったと、ま、電話ちうもんも、便所にへえっているときや、まんだ床の中で夢みごこちのときは、据付まで駆けつける、ちうより、のたりのたりと行き着くまでに時間がかかり、途中で切れてしまうこともままあり、不便なものですが、それでも、ないよりかマシであって、かういう時期は血栓の出来やすい体質では、そりゃあ、日々ママチャリにものれば、外の家庭菜園の仕事もすれば、手足が冷えて血管も収縮し血栓が詰まりやすいので、足の痛みもまた血栓の可能性もありますれば、単に対症療法の痛み止めを処方してのほほんとしているヤブびょーインのやることはまことにいのちをちぢめるマヤカシですから、専門医に連れて行く、嗚呼、また一日走れぬ日々、ちうても、そういうもんを希求して実現でけんところは、なんか人生の諸相にも似て、日々同じことの反復にしてそのうち己自身も同じ目にあう永劫回帰で、でも、希求するところが涵養で、絶望は希望を糧にして絶望するやうに、マヤカシは真実を糧として間や化す、ああ、マヤカスわけですから、さういう意味で、かのとんびの絶叫でも、ソレガシのカラオケでも、同じことで、いつの日か、いつの日か、たとえソレが実現でけなくとも、それを希求するその関心のありやう、それへの努力そのものが、貴重なのであって、この、いつの日か、は、そういう白眉でありますれば、さうさう、鬢の白髪も殖えました眉毛はまだ黒い、鼻毛、髭、鬢、頭髪という順で白くなるのかもしれませんが、眉毛や睫毛はなかなかに白くならない、いつの日か、しろくなるのかも痴れませんが、さういうことは希求するにもせんにも関心の対象としてたいしたもんではあらへん、たとえは禿やうが、禿ていったいなんぢゃらほい、アデランスに大枚かけたり、似非毛生クスリで騙されたりするのんも、関心の持ちようのマチガイから出たやぶへびなんかもしれませんが、ともかくも、愛や真理や誠は希求するその関心にもちようにおいて、いつの日か実現すると限ったもんではありませんが、希求するその瞬間のその行為の中にあるんですね。ああ、時間がなくなってきた。
>
>
> > いよつぬうANNEX−Ω   訪問者数:2344219(今日:401/昨日:464)2011/02/18(Fri) 20:14
> >
> > 東京 〜矢沢永吉〜
> > http://www.youtube.com/watch?v=ZRkA9bxCaLY&feature=bf_prev&list=QL&index=21
> >
> > なんだか、去年の夏の熱中症のリハビリで狭山湖を走り抜けて秋口までカラオケ通いの日々で歌いまくった持ち歌オンパレの気分になってきもうすますたが、この東京も、来生のGoodbye Dayのエンディングのあとをうけて〆の一曲でしたが、これはまんずカラオケで歌うやつぁおらんで、どこでもガチンコすることはなく、適当に語りでやってもバレないエクセレントな一曲で、それというのも、これも、オリジナルなんぞ聴いたこともなく、全国温泉行脚の車中でなんとのう覚えてしまったもんで、美しい死に方をした人も、こんな歌聴いたことないわ、でも、よくにあっている、好きよ、好き、好き、歌がね、
>
> と、口に出していえるほどに口は便利なもんではありませんけん、さうはいわず、いわでものことのこととsて、ソレガシが勝手に心を読む、読唇術で、解釈したもんであって、美しい人はかならずも、かういう言い方をしない、そこには、出してしまえばなぬか醜悪なもんもあるので、黙っている、黙っているけれども、通じるものが一々の所作にあるんですね。
>
>
> > といつも、深夜のカラオケすし屋でコハダをつまみながら見守ってくれたもので、なんちゅうても、のりもわるくなく、彼女が亡くなってからも、見知らぬおばさんが、この歌のあとよってきて、シブイワネー、ど〜ぞ、と焼酎なんぞを奢られても、チャリンコでも、酔っ払いライドは30万円の罰金なんだからとご辞退すると、ぢゃあ、何か食べて、と、まあ、如何、一艦110円で結構白身は真鯛でも、光物、鯵とか鯖とか鰯とかコハダとか、コハダの美味い店は総じてなんでも美味いのですが、シンコの季節がよろしいわけで、季節はずれなら車えびの串焼きとかは遠慮して食いませんが、ま、場合によっては春若布のサラダとか山菜天麩羅とかを奢ってもらったものですが、そのオバサン、名刺もらってくれる?ちうけん、うけとったら、なんとフリージャーナリスト!ジャーナリストはダイッキライぢゃ!!!と・・ま、カウンターで奢られたもんを食いながらの口論もイマイチ迫力がないのですが、それ以来顔を合わしても、目礼だけで、奢られることもなくなりもうした、いわくつきの曲です。
> >
> > ま、この曲からも借り物の実感で何句もできるでせうね。
> >
> >
> > > > 来生たかお - 薄暮 -たそがれのアンサンブル-
> > > > http://www.youtube.com/watch?v=s98E7Hu2ckQ&feature=BF&list=QL&index=5
> > > >
> > > > ただひたすらの反復ぞ咲けよ梅
> > >
> > > 最近の話題と季節が均衡を保っているなぁ。
> >
> > かういう詠み方を、眼前当季というのです。
> >
> > 眼前ちうのんは、ものでもことでも、眼前にあるものこと、これは、ソレガシの勝手な命名どすが、一般的には嘱目ともいえますが、嘱目の場合は人口に膾炙した詠み方で、目に触れたものを吟行なんぞで吟じることですから、ま、話題、これが兼題、席題でなければ、嘱耳かもしれませんが、まあ、眼前の話題ですから・・・
> >
> > ところが、季節はずれの素っ頓狂な詠み、当季ぢゃないのをやると、眉毛つりあげ、口をへの字にして、文句を云うばあさんもいますが、さういうのんは、だうも伝統系に多く、なぬも、俳句は眼前当季が原則とはいえ、無季でも観想でもええのんどすけん、あたまんなかはだれにも詠めぬ、詠めるのんは己だけどすけん、気にすることはありません。
> >
> > > >オリジナルを聴いてみると、弱弱しくてあまりあの歌唱法に共感でけまへんで、やっぱす、ソレガシはてめえの歌い方のはうがええわいと、ナルシズム的な偏向もあるのですが・・ま、あんますメリハリで振幅が大きければ聞くヒトも辟易しますから、プロ来生の味わいもまた、ありなんでせうね。
> > >
> > > たしかにあの弱弱しさは意外だったけど、彼は歌い手というより歌を作る側の人ですね。
> >
> > これはこれは、まことに尿簿ちゃんならぬうちの女房とおなじことをいってますね。
> >
> > > > > 男が女心ばかり歌うのは、ちょっとヘンな感じがしたけれど、
> > > > > 案外、的をはずしていない歌だったと思う。
> > > >
> > > > これって姉さんの詩を弟が歌っているんでせう?
> > >
> > > そうだったのか。知らなかった。
> >
> > 結構、知っているやうで、・・・・なんですね。(刺激せぬやう)
>
> おっとりです。
>
> > > > ま、それはともかくヒトの中には♀♂の無限のグラデーションがあるのだから・・
> > >
> > > うん。たしかにそうだね。
> > >
> > > > 据え膳の春菜かわいやそっとして
> > >
> > > うまい!
> >
> > 美味いのか、上手いのか、はっきりして欲しい。
>
> かういうひっかけにはひっかからないことです。
>
> うまい、うまいで、もう十分で感謝感激ありがたうでですね。
>
>
> > > >これは、や、をとって・・
> > > >
> > > > 梅咲いて恋の熟練ありやなしや
> > > >
> > > > のはうが素直なんではないでせうか。
> > >
> > > あらら。ねぼけていたのかいな?「や」は余分だったなぁ。
> >
> > なんだ、不注意だったのですね。ま、よくあることです。
>
> やだ!
>
> >
> > > > 上五の梅咲いてにやをくっつけると字あまりになるし、ここで、や、で切る必要もないし、さらには下五でキルケゴール的に「ありやなしや」とくる、これも場の状況を踏まえてまことにエクセレント、とても初心者とはおもえませんのですが、惜しいかな、やが、やや、とつづいてやややちうことになってすまう。
> > > >
> > > > それにすても、この詩も語、ああ、下五の「ありやなしや」はよく効いているし、「梅咲いて」の季語の斡旋も効いています。
> >
> > いま、キルケゴール著作集13、人生行路の諸段階〜「《責めありや?》−−−《責めなしや?》」(その1) 佐藤晃一訳 1963年 白水社 を読書中です。
> >
> > 引用したいところがいっぱいありますが・・、まあ、そのうち。
> >
> > > > 意匠の「恋の熟練」はセコンド・ラブから借りて恋、来たものなんでせうが、かうやって、意匠を借りた借り衣装でも共感、実感があればけっこうな句もつくれるんですね。
> > >
> > > > 月論観(ガチリンカン)という真言宗の禅があります、禅宗では禅というが、その他では観という観想、観法の一種で、いまどきの寒月は綺麗ですから、それを見あげて己を大きくしてしていく、自分の身体がぐんぐん大きくなって地球を超えて月まで呑みこみ更には銀河系を超えて果てしなく観想できるかぎりのところまでいってまた戻ってくる。
> > > >
> > > > この月輪観のハウツウ本、梵字つきの月輪の対面図つきのもんも高野山で何冊も手に入れ友人に配ったことがありますが、かういう観想も気宇壮大というよりも、空海の秘法の一つであり、古来の観法、坐禅もヨーガ同様、よく効きますね。
> > > >
> > > > ソレガシの坐禅の体験として、半眼の先の畳がなんだかうねってきて、そのなかにずんずん己が身体がめり込んでいく体験もしたことがありますが、覚めて和尚に話したら・・
> > > >
> > > > それでよし。とのよし。
> > > >
> > > > さあ、明るい春の日差し、風光るなかへ飛び出そう。
> > >
> > > いろいろとありがたう。今日は強風だよ。気をつけてね。
> >
> > でようとしたら、家族がこの三日間ほど腰を悪くして、屋内で蝙蝠傘の杖をついておるので、立川の整体まで、クルマを出してくれちうことで、そのかえりに11時半開店のラーメン二郎ちういつも行列の店の行列がまんだなかったので、いっぺんへえってみんべえか、といつもおもっていたので、お諏訪さまの境内にクルマを停めてあるっていくと、たすかに誠に風が強く、店内にへえっても、なぬすろ、ラーメンに時間がかかる、つくるにもかかるのですが、食うのにもかかる、それも、食って出るひとみんな顔面が汗だらけで、だうも、これは、結構食うのに苦労するもんかもしれん、ちうのんで、食券販売機で、小、の単なるらーめん、らーめんの種類は一種類で、あとは、小か大か、豚増しか、ちう数種類すかありませんけん、悩む必要もないのですが、なぬせ、豚増しの絵はらーめんドンブリの上にマルゴトの豚が何匹ものっているやうなしろもので、やっと順番がまわってくると、野菜は?にんにくは?脂は?ときかれるので、脂はパスしてあとは全部大盛で・・もちろんラーメン自体は小盛りなんですが、さう注文する、やうは、野菜やにんにくや脂なんぞは、大盛であらうがなからうが、無料ちうか基本料金に込みなんどすけん、そこは、野菜の大盛は貴重なんですが、これが見てみて吃驚!まるで、ラーメンドンブリピラミッドで、ともかくも麺をほじくりだすのに一苦労するやうな盛り方で、豚のほうも、厚さ1cm超のもんが、ごろごろ幾つかはいっておる、これを豚の大盛にすたら、いったいだういうことになるんか、おそろしい限りで、食いだすと、これが、脂の追加はせんかって正解で、けっこうな脂っこさに太麺で、にんにくは生を砕いたもんで、かなり辛いのですが、ソレガシにはまんだ辛さがたらぬ、ちうもんで、胡椒をぱらぱらやるその胡椒がまた結構な香りと刺激で、うむ、やっぱす、こりゃあ、汗をかくかなと、食を進めれば、左右の後から食いだした若者どもは、ソレガシが半分ほど食った時点で完食、汗を拭って、さすがに最近はわかものに食う速度がついていけぬ、とあせる事もなく、汗もでず、冷却水とともにソレガシもたべ終わって、一滴の汗もかかずに外にでれば、いやに腹はくちい、省みれば、小ラーメンとはいえ、普通のラーメンの麺で二倍、野菜も2〜3倍で、かるく2.5杯は食ったやうなもんで、加えて、太麺と脂が効いていて、なんだかこりゃあ、すぐ歩く気もせんちうことで、向かいのブックオフの2階の文庫売場へ駆け上がったら、これが、かの数日前のお稲荷さん10数個にどんぶり飯3杯で、くわえてくっちゃべり〜くんのあのオバカ言説に当てられて胃と心臓と腎臓が癒着した苦しさの再来めいて、いやな予感の腹をかかえて、店内をゆっくりゆっくり腹ごなしで歩いて、お、めっけた!
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> > 岩波新書 359 心の病理を考える 木村敏著 1994年 105/650円
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> > この木村敏のは今は書斎でみっからんけれども、かつて中公新書かなんかで読んで感心した記憶がある、たかが新書でも書き方ものの考え方がまこと全うで好感がもてますから、即購入。
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> > 表にでると、日差しはあるのですが、大粒の雨がぱらぱらと強風に流されて、ジャージに音を立てるやうな妖しい天気で、こりゃあ、チャリンコで、多摩川あたりでこの目にあったら眼も当てられぬ、と、事態を珈琲屋の張り出しテントの下で見守り、無事、お諏訪さまのクルマを引き出して、うちさもどって、15時よりメルクスSLXで40kmほど走ってきますたが、そんでも、今晩の夕食はパスするほどに、腹がぜんぜん減らん、あの豚と麺と野菜の量は強烈で、まあ、小ら〜めん一杯で、ゆうに一日のカロリーはもとより胃の腑も満たせる、さすがに女性の客はおらんで、全部食欲旺盛な体格の良い若者中年の男ばっかしで、だうもかれらなみにメタボになりそうで心配です。
>
> では、救急車出動!オッス!!!
>

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


[53800] 無関心Re:[53799] 来生えつこ 投稿者:梵@舌下の黙々 投稿日:2011/02/20(Sun) 07:29  

えつけいのANNEX−Ω   訪問者数:2345034(今日:129/昨日:591)2011/02/20(Sun) 07:20

早春賦 / 佐藤しのぶ
http://www.youtube.com/watch?v=zrCSwQJimuk&feature=BF&list=QL&index=8


> 救急車は任務遂行できたのかな?

任務無事完了、して歓迎されざる特務も、まんず、愛のない受付に教育的指導をなし、さらに看護婦に日本語を指導し、研修医に血液検査のデータの見方クスリの処方を指導して、結局全部自分でやってさしたる問題もなかったので連れてかえりました。

> CDケースの奥の方から「来生たかお」のCDを探し出して、改めて歌詞カードで作詞者の名前を確認したら、15曲のうち12曲までが「来生えつこ」だった。
>
> どうして気付かなかったのだろう?

無関心だったからでせう。関心はべつのところ、歌の中身にあったわけだから・・

> ごんべいが種を撒いたらまた春菜

たをやかにのびよ春菜よ根をはって

やれ涼し跳ぶも堕ちるも天馬空


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