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[54978] 背教者 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/19(Mon) 14:00  

れむいおまANNEX−Ω   訪問者数:12219963(今日:316/昨日:2297)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/19(Mon) 13:47 赤口(丙午) 旧暦 11/26 月齢 25.2

中空や朽たれしままの花椿

糞溜をねぶる輩や鳥雲に

是何ぞ何ぞ何ぞや乾屎橛

天罰もあたらばあたればちあたり

ほんもののかみにしあれば是沈黙

にせもののかみにしあれば是喧噪

喧噪の神にしあれば是啓示

啓示とは啓いて示す神の糞

糞舐めて酔ゑる輩へ除夜の鐘

赤肉の臭ほのかや鮪食う

水墨やあけひろやかに梅蕾む

山眠るあけひろやかや桃源郷

一墨の巍々突兀や冬夢幻

枯草のうらより拝す地主神

秋深む足裏の砂も消えゆけり

厳冬の夢幻の中へ背教者

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54977] もしも神が光あれといって、光が現れたとすれば、の神のコトバも光も騒音にしてストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね このストリップ劇場のケバケバシイ光線にして激情的な妄言「哲学」の家元の西田の随筆集、書簡集、講演集を本日背負って8700歩、ふらつきふらつき電信柱へ腕を伸ばしてかろうじて顚倒防止、かえりついて、愚底の口吻ならぬ謙虚な口吻の西田の幾許も味わってみて、はたして現今の愚底直観がいったい翻るであらうか、楽しみですね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/17(Sat) 21:21  

えもへふりANNEX−Ω   訪問者数:12216694(今日:804/昨日:490) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/17(Sat) 15:52 仏滅(甲辰) 旧暦 11/24 月齢 23.2

先週の土曜日は本年3度目の蒲田トンカツ屋詣でで到着即顚倒で2歳年下のとんかつ屋老婆、店先の並んだ客の整理にあたっていたところ眼前で顚倒、ああ、おじさんか、と、大丈夫?大丈夫?と介抱してくれて、それが聞こえても、一瞬口もきけず、なにがおこったのかもわからず、ややあって、立ち上がって店内に案内されて、指定席、左右に誰もいないように計らってもらうも、押し寄せる客波の中年男が左側に座り込めば、だうもテーブル上にリュックを外しヘルメットを脱ぐ、それが営業上の邪魔になるから、テーブルから後ろの棚に移動せんとすれば、左の中年男にぶつかりもせんも、かすめれば、忌ッと睨みつける、一体なにが起こったのだらうか、右腕のフリース灰水色のジャージに黄緑の点々の染み、ああ、さうか、走行中にヘルメットの何か当たった、ああ、鳥の糞か、その糞が飛び散って、ヘルメットのみならずジャージやリュックに沁みついたもんが、一瞬の顚倒で顚倒の傷かとおもってしまったのだが、だうも左の中年男はイライラと右側の脚を貧乏ゆすりつづけ、横目でにらみつづけ、ついに別の離れた席に移動してしまった。

臭かったのか?たすかに灰水色のジャージも1週間以上も寝間着代わりに身に着け放しであったし、くんくん、と嗅いでみても、特に異臭はなし

もっとも自分の臭いは自分ではわからぬものなれば、鳥の糞の臭いはいかが?

やはりさすて臭いもんでもない

にもかかわらず、金属コップの生ビールを飲みつつ、中年男君は、この臭い卑しい老人め!とばかりにイライラ貧乏ゆすりをしながら、横目でにらみつづけ、にらみつづけられて極上ロースかつ定食2000円也の食もやや停滞もてあまし気味

ここで一旦現在風呂にへえって、思えらく

神の騒音、神に騒音を発せさたのは誰か?かの預言者、神学者、哲学者どもに他ならぬ

神の沈黙

千円札2枚を振って取りに来た婆さん曰く、忙しくてお相手できないで御免ね

忙しくて御慶と、そろりそろりと転ばぬように43km/An23.6をとってかえし、太田区役所公園でますは一服、鳩がよりくる、なんにもない、御免ね

10kmごとに休もう、無理は禁物、い→さ、無理でのうても、強制的に休まねば、またいつなんどきひっくりかえるかもしれぬ

二子玉公園、ベンチの前の道路を隔てたベンチに若い女性二人がギターを抱えてすわる、一人はポニーテール、もう一人は二股のお下げ髪、二股お下げがこちらを振りかえり、振り返り、へんなおじさんか爺さんが聞き耳たてているよ、と云ったかどうか、聞こえてこぬ

爪弾きが始まったが、道路を走る欅落ち葉で爪弾きがよく聞こえぬ、いやさ、耳が遠くなったからか

お引越し、情勢変化の女性二人の近くのテーブルへコンコルドレコード10速ともども移動して、お嬢様方のギターが止まる

テーブルの上に這い上がって大の字に寝て、天空を見上げる

ギターが始まる

天空の冬の底抜けの青の一郭へ傍の欅の枝々が突き出し枯れ葉が風に舞う

頭上枕元を乳母車を押して若い外人女性が連れの男性と喋りながら通りすぎる

神の沈黙

人間の騒音

吸い込まれはせんも、そこぬけの青空

西田の「純粋経験」、あれは純粋経験で云おうとしているものとそもそもからして矛盾している

だから、「善の研究」が禅の研究と重ね合わせても、やはり境位が低いとしか言いようがない、いくら最後に「絶対矛盾的自己同一」と弁解すても・・

その境位の低いものを20年前の2002/10/15Tue栗駒は須川温泉#815で隣の#814は2間窓ありと記しながら・・

山深くアイベックスの角の音

と詠んでいるのは、山頂の部屋でTVでもみていたのであらうか

天空の恋のバトルよカモシカよ

ともある

ボルネオの天狗ザル

象アザラシ

北海道山女→桜鱒

などなど

翻って「2002/11/16土曜日04:05☆VeryGood全部を通して」とあるが、20年後の今日ではXXX合点がいかぬ

ゆえに・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

・・・・・・・

間違ってもいい。自分が今現在此処でこう思う、あるいはかくあるべしと念じるところのものを吐露する

その吐露は他者を折伏するようなものでなくして、嗚呼、折伏は天国地獄を言い募る天主教、救世主教に特有のものとは、ブルックハルトにあったが、さういう傍観者狂信的な天地獄ではなくて、みずから取っ組み合いを演じる、それが宗教であらうが、思想であらうが、詩歌俳句文学であらうが、そういうものにはミドコロもあり、また栄養もある

ニーチェの語り口、キルケゴールにしてもゲーテにしても、西欧でもそういうもんがある

而して、W.ジェームスあたりになると回心の観察眼ばかりが濃厚で、そこででてきた「純粋経験」なるもんも、とてもにっちもさっちもいかないとっくみあいの産物とはいわれない知的成果であって

その知的成果、いわば知的技巧のこねくり回しの述語、それを大拙が見つけて、幾多郎へ、その幾多郎が鵜呑みにし、もちろん幾許かの禅的体験も加味しながらまた概念的にこねくり回して京都学派の宗祖となる、わけであって、そこには、やはり、異教の真っただ中に晒されて呻吟発句する大拙、井筒的な取っ組み合いがないのね

まあ、思想の骨格においては似ている大拙・幾多郎で、大いなる境位の落差を感じさせる所以

おなじ所以が、俳句でもある。他人事、傍観者、頭でこねくりまわした、兜太や中村和弘

西行が取っ組み合い、芭蕉がとっくみあい、そういう境位から、まことに隔絶した落差がある

これはなべて現代のやはり言葉の広告、魂を失った形骸、外皮、被殻の殻だけで一句を装飾する弊風であらうね

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

腐したね、大いに腐した

而してこの否定、否定のゆえによく反省する、否定の効用

つまり直観的に否定して、その否定の直観、20年前には肯定であったものが、今は否定、それを吟味する、いったいどうなってんのや、と吟味もしだせば限もない

馬鹿馬鹿しい愚底の口吻を晒す西田幾多郎の「哲学」の吟味

上田閑照などによれば、西田も格闘の末に云々とあり、上田の哲学コレクション、はたまた小坂、藤田ほかの西田論もみてみれば、愚底の口吻も「平常底」か

「ねばならぬ」のオンパレード、パレードの原意には説教者もあったと記憶するが、検索しても出てこない、それはともかくも、「ねばならぬ」のオンパレードを「当為」として、それを他者に向け、自己に向け、そもそもが、「善の研究」の初っ端の「説明したい」、いったいなにゆえに西田は「説明したい」のか?

そもそも哲学とか神学とかは「説明」をこととするんだからショーも暗迷

騒音

神の沈黙

もしも神を仮構として想定したら、そういうことであらう

そもそもが「純粋経験」からすべての物事を「説明したい」という出だしからして、矛盾だらけであって、純粋であらうが不純であらうが、経験とならば、いくら口先で「主もなく客もなく」と云いまくったところで、経験するものとされるものがあるのは、その言葉そのものの本源であって、さう云う言葉をもってそこを否定し、最後には「絶対矛盾的自己同一」と来る、ほとんどッ狂って来るんぢゃないかと・・

西田の論の変遷は、純粋経験→自覚→場→絶対無→絶対矛盾的自己同一と変遷してきて、そのどこにおいても矛盾が矛盾として格闘「反省」されて最後に「絶対矛盾的自己同一」となる、その一々に「自己」が裏打ちされている、自己が纏綿、自己がねっとりとへばり付いて、上田にしろ西田にしろ、その唾でべとべとの自己への粘着と固着が顕著である、いくら言葉面でしうぢゃないと言い募ろうとも

上田の議論でもその他の議論でも、西田はどうもヘーゲル、フィヒテ、ハイデッガー、ジェームスらの擬人化一神教西欧神学哲学の述語を借り来て、それを捏ねくり廻し、世界の万象を「説明」する、わが国初の「哲学」を樹立したと云うのだが・・
 
そこには、「経験」はもとより、「一者」「神」とかの西欧由来の概念が亡霊のごとく付きまとっておって、自己にせい何にせい、それを他化する根本姿勢から脱却しえておらぬ

そこが至らぬところであって、その至らぬところが、師承相伝的な上田などの「説明」を承れば、愚底も平常底にはなるが、いかにも騒音である

上田にしても殺佛殺祖の切れがなく、だらだらと京都哲学の蛸壺的養護掛かりの風潮

まあ、上田の研究対象がエックハルト、宗教、哲学であればやむをえぬ歴史的個人的事情もあらうが、いやしくも禅を論じ、宗教を論じ、哲学を論じるのであれば、教えられるところもろともに違和感を感じるところもママある

赤肉団上一無位真人

を踏まえて、上田・西田は一旦「絶対無の自己」「絶対無の一者」「絶対無の場所」なるものを想定し、それと自己を同定、同一化していて、そこから翻ってまた矛盾的に自己を世界を見る

それが端的に現れているのが、上田の哲学コレクションW非神秘主義、禅とエックハルト(岩波現代文庫G182)のp234で曰く・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

裸の肉体もすでに、不透明な分厚い衣装である。肉体をも脱ぎ、骨をも砕いてーーーまして思想上、主義上、考え方上の一切の衣装を脱ぎ捨てて現じた本来の人(にん)が、自由に虚空中に骨格を立て赤肉団をまとい着衣するのである。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

やうやは上田のいわんとしてことは、一旦「一無位真人」これはジンではなくニン(老荘のニン人)に「突破」(エックハルト的コンセプト)して「虚空中に骨格を立て赤肉団をまと」うのね

あれ〜!ってなもんだね、読んでいて、やっぱだめだね、イマイチわかっておらん


赤肉団上一無位真人

赤肉団上はあくまで形而下の赤肉団であって、その上にそのまま形而上の一無位真人が現成している

とこの臨済の名言を解しておったが、上田(上記の「日常工夫」は1967年すなわち上田41歳時の言)は全然違うのね、もっとも41歳時なんだから若詠みであって、その後の老の熟成で180度かわったかもしれぬが・・・

たぶん変わっておらんわね、なんとならば、この上田の哲学コレクションW非神秘主義、禅とエックハルト(岩波現代文庫G182)が2008年発行であとがきも2008年、つまり82歳の上田がエンドースしているのだから

そもそもが「非神秘主義」というコンセプト、エックハルト的「神秘主義」を「突破」して「非神秘主義」と上田は云うのだが、そもそもこのコンセプト自体が、上田にしろ西田にしろ論じている禅とは真っ向から衝突している

「神秘主義」も「非神秘主義」もいらんのです

にもかかわらず、そういうもんがでてくるところからして「神」にして「一者」にして「神秘」なんだから

それこそ、純粋に眼前に露わになった

赤肉団上一無位真人

を味わえば、赤肉団上そのまんま一無位真人である

ことさらに、「外在」ではなく「内在」だと西田も上田も強調し、言い訳するが、「外在」にせい「内在」にせい、そういうものが在るとするところからして、人格神的一神教の毒を解毒でけておらんのんね

これではまるでエックハルト的にしてジェームス的にして、かのオットー的な妄言の域を脱しておらん

だから、あの戦争でも、もっかの戦争でも、そういうもんを口先では否定しても、肯定せざるをえぬような、思想がでてくる

ストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね説明、説教、そもそも神というものがあるとして説明や説教をするであらうか?

もしも神が光あれといって、光が現れたとすれば、の神のコトバも光も騒音にしてストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね

このストリップ劇場のケバケバシイ光線にして激情的な妄言「哲学」の家元の西田の随筆集、書簡集、講演集を本日背負って8700歩、ふらつきふらつき電信柱へ腕を伸ばしてかろうじて顚倒防止、かえりついて、愚底の口吻ならぬ謙虚な口吻の西田の幾許も味わってみて、はたして現今の愚底直観がいったい翻るであらうか、楽しみですね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54976] Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/03(Sat) 12:44  

えほそてれ ANNEX−Ω   訪問者数:12199189(今日:254/昨日:2964)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/03(Sat) 12:12友引(庚寅) 旧暦 11/10 月齢 9.2

往還の無底無穹や鮭を裂く

> > 無事是貴人

ブジコレキニン

コトナケバコレニンヲタットブ

有事是賤人

ウジコレセンニン

コトアレバコレニンヲイヤシム


> > 龍潜む天の天涯地の地涯
> >
> > 地龍湧き昇り天龍となる
> >
> > 天龍下り来て地龍となる


> 乾鮭も空也の痩も寒の中  芭蕉
>
> 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉
>
> 高橋由一 鮭
> http://gemeinwohl.jp/2019/09/04/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%EF%BD%9E%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%81%AA%E3%81%A9/#:~:text=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%20%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%20%E3%80%82%20%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AB%E9%89%9B%E7%AD%86%E7%94%BB%E3%82%84%E6%B0%B4%E5%BD%A9%E7%94%BB%E3%80%81%E6%B2%B9%E7%B5%B5%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%82%92%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%A0%B9%E4%BB%98%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%88%E9%A7%86%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%20%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E4%BD%9C%E3%81%AF%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AB,%E3%80%8E%E8%8A%B1%E9%AD%81%E3%80%8F%E3%82%84%E3%80%8E%E8%B1%86%E8%85%90%E3%80%8F%E3%81%AA%E3%81%A9%20%E3%80%82%20%E3%81%93%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AF%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93101%E9%91%91%E8%B3%9E%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8F%20%28%E7%A5%9E%E6%9E%97%E6%81%92%E9%81%93%20%E6%96%B0%E9%96%A2%E4%BC%B8%E4%B9%9F%E7%B7%A8%29%E3%82%92%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54975] Expression/表現とInpression/印象について 「ヒッカケ」と作為 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/12(Sat) 08:45  

ひるうけかANNEX−Ω   訪問者数:12172834(今日:100/昨日:1126)梵@天地獄 投稿日:2022/11/12(Sat) 07:35 仏滅(己巳) 旧暦 10/19 月齢 17.7

今朝の寝覚めの夢に曰く・・

くず、ぐずともに供頭と書くと、覚と

さてさて覚めて辞書を引くと

くずは屑、屑、国栖、九頭、ぐずは愚図などであって、決して供頭や供図、供事ではありえない

ここに表現の問題があって、たまたま昨今表現について幾許かの人の幾許かの意見を異見を味得して

大岡信曰く、ヒッカケ

小林秀雄曰く、Expressionすなわち圧力をかけて内容を絞り出すのだから「表現」とう訳は不適当だと・・

「表現」は「表に現れる」のか「表の現れ」か、後者ならば皮相ということであらう

Expression即圧出、とすれば、Inpression即圧入、か、

Export輸出、Inport輸入のやうに

而してこの圧はどこからかけられる、あるいは、くるのであらうか、圧の由来

外圧か、内圧か

Export輸出、Inport輸入でも

港の内の意志において輸出入する場合と港の外の意志において輸出入する場合とがらう

内圧自由貿易と外圧非自由貿易、いわば宗主国の意志により搾取される植民地貿易

表現においても、内圧表現と外圧表現、表現者の自由意志の内圧による表現か、あるいは、表現者にかけられた外圧による表現か

拷問による白状表現とはいわんも、かの基教の告白でも、だうも、外圧的な感じがする

そこへいくってえと、大岡信の「ヒッカケ」はどうか?

これは表現者主体の圧がどこに由来するのかを考えさせらる

意志がやはり已むに已まれぬ己自身のものではのうて、だうの世間の圧力、あるいは世間に媚びざるを得ない外圧的な側面が感じられる

とくに大岡信などのジャーナリズム文化人は、つねに世間を意識し、その歓心を買うことに意識がいって、意志の己があるがままが歪曲されている

ここからして、Impressionの問題も起こってくる

ことさらにImpression印象、象を印しるす、印さんがための表現という「ヒッカケ」

「ヒッカケ」そのものが表現であり印象の刻印である

そこに作為がある

唐木順三が「こしらえる」と「つくる」ということを鄙人の言から引用して論じている

「こしらえる」とはある「こと」を為すための下準備であって、「つくる」ことは直截に「もの」を「つくる」ことであると

なあるほど、こしらえることは供物を供える、たとえば神さまのご機嫌をとる供犠とか・・

「こしらえられた」表現はそれ自体に意味があるのではなく、大岡信の「ヒッカケ」のごとく、そのあとにくるご利益にむけた「表現」であって、表現者の内実の圧出ではないのね

いやさ、かういう表現者の内実は外からくるご利益に向けられているのであるからそう圧出にならざるをえない

ゆえにかういう表現は、たとえ詩歌俳句であらうとも、餌、似非詩歌俳句であらうね、評も評論も哲学も宗教も政論もまた似非がなんと多いことであらうかな





 






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54974] 販売?Re:[54973] FENDI コピー 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/09(Wed) 12:16  

れみまもりANNEX−Ω   訪問者数:12169671(今日:192/昨日:1039)先勝(丙寅)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/09(Wed) 12:11 先勝(丙寅) 旧暦 10/16 月齢 14.7

北風よわが玄関前を吹き給え

かういういやがらせをするのは誰なんでせう?

いやがらせではのうて、単なる広告か?444

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[54973] FENDI コピー 投稿者:VOGCOPY.NET 投稿日:2022/11/07(Mon) 18:46  

フェンディ(FENDI)とヴェルサーチェ(VERSACE)が互いの役割を“スワップ”した「フェンダーチェ(FENDACE)」が登場。2022年5月12日(木)から、伊勢丹新宿店、阪急うめだ本店、阪急メンズ大阪にて開催の期間限定イベントにて、https://vogcopy.net/brand-68-c0.html FENDI コピー バッグ 販売される。

イタリアを拠点に、長きに渡って歴史を紡いできたフェンディとヴェルサーチェ。互いの役割を“スワップ”することで生まれた「フェンダーチェ」では、2つのアイコニックなファッションハウスであり、協力なチームが、新たな旋風を巻き起こすべくタッグを組む。フェンディの“F”とヴェルサーチェの“V”をもとに“自由(Freedom)”、“楽しさ(Fun)”、https://vogcopy.net/ ブランドコピー “芸術性(Virtuosity)”を表現するコレクションとなる。
https://pradaguilty.exblog.jp/


[54972] 枯木鳴鵙図 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 19:56  

さはねいりANNEX−Ω   訪問者数:12160350(今日:2078/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 19:52 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

枯枝に鵙たる武蔵ゐて止まる

枯木鳴鵙図
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010141000.html

この一図画すら遼太郎の武蔵では出現のしようがない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54971] さもあれば、その弟子たちもさもあればあれ、まさに俳句結社の主宰へ佞者のごとく阿るお「弟子」各位のごとくして、己自身がにっちもさっちもいかぬまんまに取っ組み合った言葉ではのうて、安易に与えられ、いまだ未消化の概念へ眉唾もんの消化液をまぶして世に訓を垂れようとしてる、その悪習にして悪臭、そのまんま凡俗極まる主宰結社の風でもある 世に訓を垂れようとする毒、垂毒の風は、ヒトラー、文鮮明、教皇、創価学会の池田大作、みんなおなじだわね。言葉の技巧、己を祀り上げる偽装だけが巧緻で言葉の中身がない。Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 16:08  

こすとはふANNEX−Ω   訪問者数:12160233(今日:1961/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 14:45 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

これを書いていて」ふッとした」気づきがあった

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

惰性のごとく言葉、それも広告語をならべまくる中村和弘、兜太を「盤石」となす「草魂」にして「蝋涙」の空疎な言葉の被殻をならべまくる中村和弘、それ的なもんも現俳協ほかに群がれば増殖し、いつしかは群衆雪崩か、兜太が海程崩壊の蟻地獄の二の舞か、さうもならんで、ますますご盛況、おん創価学会、おん家庭平和連合か、おん民主主義か、おん権威主義か

いつになったら解脱できるのか

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

まあ、一句一語で解脱できるわけでもなく、はたまた俳句詠者が哲学の学徒諸君が解脱を目指しているとも限らぬ

而して・・ふっと思えらくの、大拙と幾多郎の境位の曲線の差のよってきたる所以は・・・やはりその人の自分とのとっくみあいの態度の差ではなからうか?

大拙は若くして異国の環境、宗教、思想に晒され呻吟しつつ、自分と環境のなかでもがきつづけにっちもさっちもいかぬとっくみあいの中でバカもやりつつ、齟齬も誤訳もあってそこから這い上がってきた風情が彼処に滲み出ている

井筒についても同じことがいえるのではないか

間違ってもいい。自分が今現在此処でこう思う、あるいはかくあるべしと念じるところのものを吐露する

その吐露は他者を折伏するようなものでなくして、嗚呼、折伏は天国地獄を言い募る天主教、救世主教に特有のものとは、ブルックハルトにあったが、さういう傍観者狂信的な天地獄ではなくて、みずから取っ組み合いを演じる、それが宗教であらうが、思想であらうが、詩歌俳句文学であらうが、そういうものにはミドコロもあり、また栄養もある

ニーチェの語り口、キルケゴールにしてもゲーテにしても、西欧でもそういうもんがある

而して、W.ジェームスあたりになると回心の観察眼ばかりが濃厚で、そこででてきた「純粋経験」なるもんも、とてもにっちもさっちもいかないとっくみあいの産物とはいわれない知的成果であって

その知的成果、いわば知的技巧のこねくり回しの述語、それを大拙が見つけて、幾多郎へ、その幾多郎が鵜呑みにし、もちろん幾許かの禅的体験も加味しながらまた概念的にこねくり回して京都学派の宗祖となる、わけであって、そこには、やはり、異教の真っただ中に晒されて呻吟発句する大拙、井筒的な取っ組み合いがないのね

まあ、思想の骨格においては似ている大拙・幾多郎で、大いなる境位の落差を感じさせる所以

おなじ所以が、俳句でもある。他人事、傍観者、頭でこねくりまわした、兜太や中村和弘

西行が取っ組み合い、芭蕉がとっくみあい、そういう境位から、まことに隔絶した落差がある

これはなべて現代のやはり言葉の広告、魂を失った形骸、外皮、被殻の殻だけで一句を装飾する弊風であらうね

> > この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である
> >
> > まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々
> >
> > 蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・
> >
> > その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々
> >
> > 社会の一縮図にして臭気芬々
>
> 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・

京都学派蛸壺哲学の宗祖たる幾多郎がさもあれば、その弟子たちもさもあればあれ、まさに俳句結社の主宰へ佞者のごとく阿るお「弟子」各位のごとくして、己自身がにっちもさっちもいかぬまんまに取っ組み合った言葉ではのうて、安易に与えられ、いまだ未消化の概念へ眉唾もんの消化液をまぶして世に訓を垂れようとしてる、その悪習にして悪臭、そのまんま凡俗極まる主宰結社の風でもある

世に訓を垂れようとする毒、垂毒の風は、ヒトラー、文鮮明、教皇、創価学会の池田大作、みんなおなじだわね。言葉の技巧、己を祀り上げる偽装だけが巧緻で言葉の中身がない。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 12:47  

らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

蚯蚓鳴く妄者佞者の鉄面皮

妄者佞者雪崩れて落ちる蟻地獄

星飛んで喜怒哀楽の向こう側

眼前の氷塊崩壊して星青し

椋鳥群れて鷹の一羽も現れず

椋鳥の糞が蝕む鉄格子

寒暁へタバコ一服また一日はじまる

苔生せる五輪の塔や人生の行く末

段々と陳腐になって天高し

扨て、25年前数年間のの袖触れ合うのも他生の縁に鑑みて幾許かの好意的読みもやってみよう

それにしても、ロレンスの「独」、独坐大雄峰、天上天下唯我独尊、赤肉団上一無位真人の味わい



華厳的、縁の網目の燦然と他者万万人を映す珠のありよう



天地創造よりこのかた終末へ一直線の聖書的時



永劫回帰、あるいは、単なる大円壇た○の墨蹟の中心に坐す我のありようの時



有時経歴的な飛去来

いろいろありますな、世界観のとらえかたにしてわれのとらえかた

無我か有我か、独行か共同体か、無事か有時か

まう滅茶苦茶でんの

滅茶苦茶の「茶」の味わい、喫茶虚にして喫茶去か

お点前は如何


それにしても・・妄者とはいわんも佞者にして共通するある種の謂い振りはあるのね

大石雄鬼曰く、兜太のおおかみに対して「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。」

堀之内長一曰く、中村和弘の「東海」にたいして「中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。」

これらは両評者とも評の韜晦でらうがな。おもわせぶり。詠者へのすりよりにまことに便利な言葉である。

ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・

> けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
>
> 無事是貴人
>
> 龍潜む天の天涯地の地涯
>
> 地龍湧き昇り天龍となる
>
> 天龍下り来て地龍となる
>
> 扨て、佞社サイトをもう一度
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 2019年4月18日
> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
>  中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
>  唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。農奴と小作人とはまた別物である。農奴という言葉を作者がとらえたとき、それはおそらく何かの暗喩のはずであり、この言葉は、何ごとかを象徴するものかもしれない。
>  ときに農奴のにおいがするもの、それは何だろうか。一句一章として読めば、それは実南天そのものである。実南天を配合として読めば、農奴のにおいがするものはあらゆる多様性のなかで、読み手が恣意的に選択することになる。農業をめぐる最近の社会情勢を背景に置いて読んだとしても、この言葉は浮き上がっている。指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。しかし、である。それにもかかわらず、それらを統べている主体は厳然とそこに存在する不思議。配された実南天のあざやかな赤は、まるで誰彼に発せられた危険信号のようでもある。
>  例えば次のような句。


総じていえば、巷に氾濫する凡句、凡慨よりは大いに目立つしおもしろしい

而して、わが論点はこれらのおもしろさの所以であって、そこからいったいわれとのっぴきならぬものを構築できるか、否か、である

すくなくとも、正直なわたしにおいてはのっぴきならぬものを構築し得ぬ

話は飛ぶが、司馬遼太郎の歴史小説を読む、読んでおもしろいがいまひとつのっぴきならぬものを感じえぬ、むしろ感じ得るのは遼太郎の小説よりも、そのあとがき、あるいは放談である。そこに歴史小説においてアバターたる種々の人物を活躍させたそのもとの操作者の顔が露わになっている。だからときどきボアリングな小説からはなれて「あとがき」を好んで読む

かつて論じたことがらではあるが、五輪の塔といえば、五輪の書か、宮本武蔵、遼太郎の宮本武蔵は矮小である、血沸き肉躍るのは吉川英治の宮本武蔵であって、読んだのかの45年前、アラブへ飛び立つわれへの餞別として亡き親友の浅沼雅樹が羽田で恵んでくれたもの。それを砂漠のクリーク(海辺の塩が干上がって罅割れた干潟)の傍に並んだ、物を収容する鉄箱なみの人を収容する個室で、麻雀の合間合間に読む武蔵、一気呵成の読み終わった吉川英治であったが、遼太郎の武蔵は現代のサラリーマン根性が顕著で読む気が失せる。かの藤沢周平の時代小説のように・・

かといって一作品を書くに遼太郎ほかの作家が払った膨大な努力を無とするものではなく、尋常ならざる資料の収集読み込みにはまことに頭が下がる、頭が下がっても、肯ぜぬところは肯ぜぬのね

この肯ぜぬところに拘りたい


>  初夏の軍馬のごとき砂鉄かな
>
>  軍馬という喩えの唐突さも同じである。それでも作者という主体は静かにそこに立っている。

評者は「指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。」とういのであるが、「しかし、である。」軍馬と砂鉄は十分に指示性もある。実南天の農奴のやうに・・

詠者がここに軍馬と砂鉄を配したその心根が見えないのであらか、評者たる堀之内長一は、ね

だから、「中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。」というゆな韜晦の評になる

現代からやや遡って軍馬がこの列島を駆け巡っていたころを思えばよい

いまどきの高炉の製鉄所があるわけでもなく、たたら蹈鞴の時代、砂鉄から鋼をつくっていたであるからして、高炉の鉄で戦車をつくる時代に比して、軍馬を砂鉄でつくる、生の馬爪で蹄では、山谷河川を跋渉でけるわけもなく、たたらの鉄は武器であるとともに馬の蹄の馬蹄でも活躍しておって、その軍馬の巻き上げる粉塵絶叫、そこに「初夏の」と配した季語の斡旋も秀逸ではある。「初夏の」が闌けて成夏になる阿鼻叫喚の時的推移さえ「初夏の」に秘められている。

「しかし、である。」いったいそれでなんだといういうのだ?

この有時経歴的な一景に、いったいわれと、とうことは詠者自身、読者自身とどういうのっぴきならぬ関係にしてものがあるのであらうか?

一体詠者の感動のポイント、はどこにあるでのであらうか?

どこか、茫洋とした傍観者の風、が顕著である

画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない


乾鮭も空也の痩も寒の中  芭蕉

塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉

こういう句をならべるとかの画、高橋由一 鮭
http://gemeinwohl.jp/2019/09/04/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%EF%BD%9E%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%81%AA%E3%81%A9/#:~:text=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%20%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%20%E3%80%82%20%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AB%E9%89%9B%E7%AD%86%E7%94%BB%E3%82%84%E6%B0%B4%E5%BD%A9%E7%94%BB%E3%80%81%E6%B2%B9%E7%B5%B5%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%82%92%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%A0%B9%E4%BB%98%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%88%E9%A7%86%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%20%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E4%BD%9C%E3%81%AF%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AB,%E3%80%8E%E8%8A%B1%E9%AD%81%E3%80%8F%E3%82%84%E3%80%8E%E8%B1%86%E8%85%90%E3%80%8F%E3%81%AA%E3%81%A9%20%E3%80%82%20%E3%81%93%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AF%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93101%E9%91%91%E8%B3%9E%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8F%20%28%E7%A5%9E%E6%9E%97%E6%81%92%E9%81%93%20%E6%96%B0%E9%96%A2%E4%BC%B8%E4%B9%9F%E7%B7%A8%29%E3%82%92%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

を思い浮かべるが、これらの句にせい、画にせい、どこかガツンとくるものがあるのだが、中村和弘にも平山郁夫にもガツンはない

どこか茫洋として傍観者、この風は、さらにすっとんでいえば目下のハロウィンの仮装行列、群衆雪崩の素、仮装に着膨れて面白がっている群衆の風景が重なってくる


>  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
>
>  馬の背に朝鮮半島灼けており

これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?

>  捨缶に光年の秋とどまれり

これも「光年」という非日常の時間単位の刹那を捨缶に観たところは秀逸ではあらうが、その捨缶と光年の秋で、やはり傍観者の感慨をいでていない


>  スケートの刃光れば悲劇的

これにいたっては、「悲劇的」でやらせすぎであるとともに、もっとも傍観者的

この「傍観者的」とうのは、現代のマスコミに毒された大衆の態度のキーワードでもあらうがな


>  松越しの鴨の声なり英(はな)と聴く

ぜんぜん感心せぬ。「英(はな)と聴く」の英が華なのであらうが、英の凭れて、なおかつ「英(はな)と聴く」といういいまわし、「ときに農奴のにおいかな」「蹄鉄は罠にも似たり」という安易を安易ともせぬ直喩法、まるで共感の埒外である


>  むらさきに犀は烟りて大暑なり

この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい

これに関連して思い出すのは詠者は25年前に蛍を「火垂る」だとなぜか力説していた

よほど「火垂るの墓」にのめりこんだのであらう


>  立枯れの巨木の姿(なり)に夏の光(か)げ

これも広告の一語「英」と同じく「姿」を(なり)となし「光」を(かげ)となして「立枯れの巨木」の光陰を演出する技巧に堕して精神性がないうすっぺらさ


>  船虫の熱もつ岩を祀りおり


これも単純にして有機と無機、生と無生、熱と無熱の対比

穿って読めば・・舟虫すなわち大石雄鬼どもが走り回る、岩、すなわち、兜太の如く「盤石」なる中村和弘たる岩が祀られているという自己意識なのであろうか


>  一穴にて大鬼蓮の腐りそむ

これも、蓮ではのうて、中村和弘自らが棲む俳壇現俳協「陸」そのものにして、一穴は大鬼ならぬ雄鬼の棲める穴であって、その穴を提供している中村和弘自身が腐りそむ蓮なんだという自己認識があるのであらうか?


>  鮎釣りの影がもつとも波うてり


似たような句に詠者の障碍者の歩みを「怒涛」と詠んだ句があったわね。兜太の「湾曲」「火傷」ほど酷くはないが、どうも、ヘテロパシーの傍観者、釣り人も障碍者、被爆者も莫迦にした詠みだわの

>  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ

なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩

>  熱血のロボット生みて椿咲く

「椿咲く」も効いていなく、やはり無機、有機の安易な対比にして世の流行に媚びた句


>  神牛に痼疾の多き秋暑かな


ご自分を「神牛」として詠んでいるんであらうか?

それにしては、鉄面皮に徹しているのね

> 評者:堀之内長一
> 2019年4月18日
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 「それでも作者という主体は静かにそこに立っている。」と評者は云うが
>
> 所詮、傍観者である、これらの句の作者、中村和弘は、ね
>
> 句に霊も魂もなく、あるのは言葉だけ、それも被殻、形骸だけである
>
> なんらの生きざまもなく、虚けた言葉の羅列、なんとかならのかい
>
> なんともならん
>
> なんらの作者の当為もなく、惚けっとした傍観趣味者の腑抜けた味わい、ね
>
> それをめでいる大衆もいるんだから・・
>
> この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である
>
> まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々
>
> 蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・
>
> その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々
>
> 社会の一縮図にして臭気芬々

俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 21:09  

けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦

無事是貴人

龍潜む天の天涯地の地涯

地龍湧き昇り天龍となる

天龍下り来て地龍となる

扨て、佞社サイトをもう一度
http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

2019年4月18日
実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
 中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。農奴と小作人とはまた別物である。農奴という言葉を作者がとらえたとき、それはおそらく何かの暗喩のはずであり、この言葉は、何ごとかを象徴するものかもしれない。
 ときに農奴のにおいがするもの、それは何だろうか。一句一章として読めば、それは実南天そのものである。実南天を配合として読めば、農奴のにおいがするものはあらゆる多様性のなかで、読み手が恣意的に選択することになる。農業をめぐる最近の社会情勢を背景に置いて読んだとしても、この言葉は浮き上がっている。指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。しかし、である。それにもかかわらず、それらを統べている主体は厳然とそこに存在する不思議。配された実南天のあざやかな赤は、まるで誰彼に発せられた危険信号のようでもある。
 例えば次のような句。

 初夏の軍馬のごとき砂鉄かな

 軍馬という喩えの唐突さも同じである。それでも作者という主体は静かにそこに立っている。
 句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。

 馬の背に朝鮮半島灼けており

 捨缶に光年の秋とどまれり

 スケートの刃光れば悲劇的

 松越しの鴨の声なり英(はな)と聴く

 むらさきに犀は烟りて大暑なり

 立枯れの巨木の姿(なり)に夏の光(か)げ

 船虫の熱もつ岩を祀りおり

 一穴にて大鬼蓮の腐りそむ

 鮎釣りの影がもつとも波うてり

 蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ

 熱血のロボット生みて椿咲く

 神牛に痼疾の多き秋暑かな

評者:堀之内長一
2019年4月18日

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「それでも作者という主体は静かにそこに立っている。」と評者は云うが

所詮、傍観者である、これらの句の作者、中村和弘は、ね

句に霊も魂もなく、あるのは言葉だけ、それも被殻、形骸だけである

なんらの生きざまもなく、虚けた言葉の羅列、なんとかならのかい

なんともならん

なんらの作者の当為もなく、惚けっとした傍観趣味者の腑抜けた味わい、ね

それをめでいる大衆もいるんだから・・

この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である

まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々

蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・

その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々

社会の一縮図にして臭気芬々








やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54968] 群衆雪崩 大衆雪崩 下賤雪崩 高貴と下賤 腐った血を売りまくる赤十字 生きの良い尿をうりまくる自衛隊  黙々の舌頭不尽 Re:[54967] 人間は変わる、成長もあれば退化もある、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している。もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることであるRe:[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 15:31  

かよなおよANNEX−Ω   訪問者数:12156313(今日:1477/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 13:59 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦 可よ直よ

無事是貴人

群衆雪崩、ソウルにして200人、メッカにして2000人、ウクライナ露西亜にして何十万人、ナチスにして何百萬人

古くは十字軍にしてかの教皇の強硬にして恐慌のマインドコントロールの犠牲者となる

みな相は異なれども核は一つにして、その魔境の犠牲者

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す

群衆雪崩、大衆雪崩

高貴と下賤、ニーチェならば

貴族と大衆、オルテガならば

悪人正機、親鸞ならば

プラトン的謂いを以てすれば、イデアを包む被殻たるコトバ

このコトバの被殻に圧殺される

ハロウィンで如何なる仮装や、仮装がおもしろいか?

韓流ドラマが、ビートルズが、アッラーの奇跡たる奇岩へなぜ群がり雪崩れるか

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す

バーチャルなコトバのメタボリズム

概念の新陳代謝

回心、コンバージョン

目がぐるりと回って、メガグリル、マグロの目玉焼きは食えるが、ジェームスの回心は食えぬ

その喰えぬものをもって、蛸壺目玉焼き哲学西田幾多郎を宗祖となすところの京都学派の臭素、コトバの被殻、概念遊戯に堕す

ゆえに八紘一宇であり、日独同盟、ナチス民族主義とさえ共鳴して妄軍部の暴走を促し、我が国を爆心地と化した、下賤にして大衆のおのずからのなりゆきであらう


> ふをへろきANNEX−Ω 訪問者数:12147079(今日:371/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:17 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔
>
> だうもいまいちすっきりしない

畢竟だうもいまいちすっきりしないのが人生なのだ

すっきりしたときは魔境と思へ


> 霊性とか境位などといえば、かのニーチェから苦情も来そうである
>
> 「善悪の彼岸」「道徳の系譜」ニーチェの核心といわれる論においては・・

高貴と下賤

> しかし、わが論においては、善悪の彼岸でもなければ道徳の系譜でもない
>
> 道徳の善悪でもなければ、人格の善悪、詩歌俳句の善悪でもない
>
> それ以前のところを問題にしているのでアール
>
> > だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦
> >
> > とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

どこまでいこうが舌下の黙々でしかないのであるが、黙々と舌頭にのぼせるほかはない

> 地水火風空の地は生命の燃焼、生理的新陳代謝、人格、それが燃え盛ってくれば火となり風となり風格、空ともなりうる

生命の燃焼、生理的新陳代謝は、フモール、体液、ユーモア、ヒューマニティ、体液は燃えて体温も維持すれば、まことにこれ地の、血の、知の新陳代謝でアール、くそうず

> 一句、一語、バーチャルにしてわがアバター、メタバースになりうるとすれば・・
>
> > > わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる
> >
> > 独坐大雄峰
> >
> >
> >
> > 而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ
> >
> > 例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。

湾曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太

いまさらながらに言葉の技巧ばかり、いわば被殻の技巧ばかりがあらわであって、その被殻「湾曲」「火傷」「爆心地」「マラソン」のなかの魂は圧殺されてしまう

圧殺の「力」であらうか

群衆雪崩

大衆雪崩

下賤雪崩

この一句にも他の一句にも、その他にも高貴な眼はみられない

華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

> > ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ
>
> 詩歌俳句にしろ論文にしろ、そういうもんを読んでみる
>
> その詠者、論者の有時経歴時々刻々のすべてを辿れるわけではなく
>
> > 畢竟、一句の境位を計るにしくはない
>
> そこで見込みのあるもんについては、遡って有時経歴時々刻々の幾許かも観る
>
> > たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も
> >
> > 読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である
>
>
> その狭い宇宙において感じることは・・以前にも書いたが

その狭い宇宙が、一語、一句で拡がることもある

拡がればそれもまた喜びではある

而して、どう拡がるのか?

マインドコントロールや魔境がひろがってはさらに圧殺される

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

惰性のごとく言葉、それも広告語をならべまくる中村和弘、兜太を「盤石」となす「草魂」にして「蝋涙」の空疎な言葉の被殻をならべまくる中村和弘、それ的なもんも現俳協ほかに群がれば増殖し、いつしかは群衆雪崩か、兜太が海程崩壊の蟻地獄の二の舞か、さうもならんで、ますますご盛況、おん創価学会、おん家庭平和連合か、おん民主主義か、おん権威主義か

いつになったら解脱できるのか

> 金子兜太、中村和弘らがその類、いわば西田幾多郎風といえば、西田幾多郎の世間的評価に照らして持ち上げすぎであらうが、ともかくも、ずっと若造の若松英輔もふくめて、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している
>
> これはなべて大衆的悪臭にして悪習であらうね

大衆的悪臭にして悪習

陥らないようにするにはどうしたええのんか

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す「独」

而して、独逸、ひとりよくすぐれてドイツ逸佛であっても「いけない」ナチス

核あっての、核なき大衆であり

高貴あっての、高貴なき下賤である


> そういうもんが俳句にせい宗教にせい思想にせい指導的位置におれば、そりゃあ、世間は腐る、臭くなる

我が国のヒストリー、ストーリーにはおいても、もっとも下賤なるものがもっとも高貴であった卑弥呼以来

現代でも言論の自由さえない天皇皇族、而していかにしてか自由国家であらうか

腐った血を売りまくる赤十字

生きの良い尿をうりまくる自衛隊

> > 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?
> >
> > いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、霊の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。
> >
> > 自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ
>
> もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることである

黙々の舌頭不尽

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54967] 人間は変わる、成長もあれば退化もある、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している。もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることであるRe:[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:59  

ふをへろきANNEX−Ω 訪問者数:12147079(今日:371/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:17 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔

だうもいまいちすっきりしない

霊性とか境位などといえば、かのニーチェから苦情も来そうである

「善悪の彼岸」「道徳の系譜」ニーチェの核心といわれる論においては・・

しかし、わが論においては、善悪の彼岸でもなければ道徳の系譜でもない

道徳の善悪でもなければ、人格の善悪、詩歌俳句の善悪でもない

それ以前のところを問題にしているのアール

> だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦
>
> とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

地水火風空の地は生命の燃焼、生理的新陳代謝、人格、それが燃え盛ってくれば火となり風となり風格、空ともなりうる

一句、一語、バーチャルにしてわがアバター、メタバースになりうるとすれば・・

> > わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる
>
> 独坐大雄峰
>
>
>
> 而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ
>
> 例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。
>
> ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ

詩歌俳句にしろ論文にしろ、そういうもんを読んでみる

その詠者、論者の有時経歴時々刻々のすべてを辿れるわけではなく

> 畢竟、一句の境位を計るにしくはない

そこで見込みのあるもんについては、遡って有時経歴時々刻々の幾許かも観る

> たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も
>
> 読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である


その狭い宇宙において感じることは・・以前にも書いたが

人間は変わる、成長もあれば退化もある

同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって

親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね

大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう

大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている

時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる

而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか

若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

この風は、俳人にも、宗教者にもある

金子兜太、中村和弘らがその類、いわば西田幾多郎風といえば、西田幾多郎の世間的評価に照らして持ち上げすぎであらうが、ともかくも、ずっと若造の若松英輔もふくめて、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している

これはなべて大衆的悪臭にして悪習であらうね

そういうもんが俳句にせい宗教にせい思想にせい指導的位置におれば、そりゃあ、世間は腐る、臭くなる

> 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?
>
> いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、霊の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。
>
> 自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ

もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることである

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 12:34  

ろけえによANNEX−Ω   訪問者数:12146897(今日:189/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 11:41 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔

だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦

とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

> やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空
>
> 毎度印璽のごとく貼り付けているこの一句もまた身口意知情意の意の態度の境位であって、かならずしも「である」ことではなくして、「ありたし」「あるべし」との願望にして当為
>
> 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
>
> 世に流布する解説においては、心頭を単に心とのみ解しているが、

心頭を心と頭と解しているむきもなるが・・

味わいとしては、この「心頭」こそがよく効いており、この「心頭」の効きを味わえるか否か、そこが「滅却すれば火もまた涼し」へ通じるんですね

ちろちろと燃える、心、云って見れば、かの阿頼耶識的な心の炎、地水火風空

いわば、地の燃料、くそ水(うず)石油天然ガス、そこが燃えて火となり、神の息たる風が吹き、空たる域に達する、そこの機微

燃える盛る火の炎の先端、心身の神経の先端、単なる頭だけはなくそこにある想念の先端、まさに風に吹かれて消え入る空、そこで周囲の環境、我の我を忘れた感覚感情理性の先端さえもが、「心頭」の一語で露わにされている、だからこそ「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境位が現成する

ところが、涼しいどころでない、あちち、もあれば、身の血は引いてひやっとしても、身体の表皮は脂汗、そういう事態もままあるわけで、そこの感情、喜怒哀楽の飛翔と墜落、その乱高下も、心の先端たる、神経の先端たる心頭を滅却するの一語、一句にて、燃え盛る炎はあらたなる境位に至る。到着。

一句、一語、一期一会、有時経歴の新陳代謝をして、燃え上がった感情の炎を鎮める、鎮火、火宅もまた鎮火される、そういう効用もまた、俳句、詩や禅語の一語にもある

> welldoneのToast喰らう冬の朝
>
> 詠んで読むのはまずは我なれば喜怒哀楽もそこで消化、消火される

> 言葉に昇華されるか、さらに燃え上がるか

> 開けから噴出して眼前にその態を露出させれば、理性感性的、情的に曝け出した自分を自分で見つめているのだ

> だから、だうしても抑えられない憤怒は憤怒としてありつづけても、

> まあ、憤怒をふくめて喜怒哀楽はなべて一時的な炎の先端、心頭なれば、それを滅却することもまた可能とならうというもんだ
>
> さすれば・・
>
> > > ちへそみりANNEX−Ω   訪問者数:12142772(今日:314/昨日:741)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:54 大安(戊申) 旧暦 9/27 月齢 26
>
> 高殿の蜘蛛を見上ぐる利休かな
>
> 利休坐す茶室二畳や虎落笛
>
> これはわがアバターたりうるが・・
>
> 利休坐す茶室二畳や虎落笛
>
> 捩じれている
>
> これでは、利休が茶室二畳で坐禅の風
>
> 利休坐す茶席二畳や虎落笛
>
> なれば露坐独峰の風もでてくる
>
> 利休座す茶室二畳や虎落笛
>
> なれば茶室に正座して客に対している

席ではなく、室ね

> 一語でずいぶん風景もかわる
>
> わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる

独坐大雄峰



而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ

例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。

ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ

友人曰く、俳句はその生涯の無数の句を読まねば・・

まあ、さういうこともあらうが、怠惰にして、自己の句も、他者の句も、そのことごとくを読む努力もしなければ、時間もない

畢竟、一句の境位を計るにしくはない

たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も

読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である



> 俳句の鉄則でもなからうが、よくいわれる規範において、他人事を詠むな、自分事だけを詠めと・・

詠む読むも同じこと、詠読一如

> すっかす、アバター的な詠みをする、また読みをすれば、かならずしも他人事を詠むな、読むな、自分事だけを詠め読めとはいえず、他人事もまた自分事となす、なることこそが、俳句、詩や禅語の一語の効用にもある

汝我一如


> 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
>
> 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
>
>
> 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
>
>
> 火の粉散る五体投地や二月堂
>
> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> 懊悩の諸手を挙げて寒昴
>
> 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
>
> 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
>
> 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
>
> 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
>
> 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城
>
> 分け入つても分け入つても青い山 山頭火
>
> 咳をしてもひとり  放哉
>
> 死と生の境に洩らす咳一つ 飛旅子

これは実作の情景情報としては飛旅子がその父の臨終まじかにいて、父の咳だそうだ

しかし、この句の味わいとしては、そんな実景はどうでもよろし

一個の人間の死に際の咳、咳をしたくても咳がでない、咳をするんではなく「洩らす」

こういうことは、自ら味わわねば、その表現もでまい

屁を漏らす、尿を洩らすのとはわけが違う

> 春の山のうしろから烟が出だした  大空放哉居士

而して・・

> 舟虫の化石にならぬため走る 大石雄鬼
>
> 象の頭に小石の詰まる天の川 大石雄鬼
>
> この舟虫も象の頭もまたアバター
>
> いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
>
> 思い出しはするが・・舟虫も象の頭も、また「猫の頭の中の地図」の句、句の姿はわすれてしまったが、みんなおもしろく思わずとってしまった


とってしまったのではあるが、問題はおもしろいから、佳い句か?

佳い句をおもしろい句となすのは、いまだいまいち

それをとらされてしまうのは、とる側の境位もいまいちなんであらう

> 猫の頭の中の地図は、わが頭の中の地図を対比して思わされ、地図もだんだん朦朧としてくる老境
>
> 老境ならずも、走らなければ化石になってしまう舟虫めいた若年相
>
> 脳みそが固化して大脳、小脳ともに大石小石に化すかのような瞬間
>
> さういうものをわがアバターとして読めば、舟虫も、象の頭も、猫の地図もまた味わえる

味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?

いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、零の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。

自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 09:29  

んしへのくANNEX−Ω   訪問者数:12146897(今日:189/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 06:41 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空

毎度印璽のごとく貼り付けているこの一句もまた身口意知情意の意の態度の境位であって、かならずしも「である」ことではなくして、「ありたし」「あるべし」との願望にして当為

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

快川和尚楼閣門上火を放たれての絶唱といわれこの謂いも元を辿れば中国詩人杜旬鶴の言葉だといわれていて、世に流布する解説においては、心頭を単に心とのみ解しているが、味わいとしては、この「心頭」こそがよく効いており、この「心頭」を味わえるか否か、そこが「滅却すれば火もまた涼し」へ通じるんですね

ちろいろと燃える、心、云って見れば、かの阿頼耶識的な心の炎、神経の先端、頭、そこで周囲の環境、我の我を忘れた感情や理性の先端さえもが、「心頭」の一語で露わにされているからこそ「心頭滅却すれば火もまた涼し」

ところが、「やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空」「心頭滅却すれば火もまた涼し」の「涼し」も、涼しいどころでない

あちち、もあれば、身の血は引いてひやっとしても、身体の表皮は脂汗

そういう事態もままあるわけで、そこの感情、喜怒哀楽の飛翔と墜落、その乱高下も一語、一句にて新陳代謝して、燃え上がった感情の炎を鎮める、鎮火、火宅もまた鎮火される

そういう効用もまた、俳句、詩や禅語の一語にもある

welldoneのToast喰らう冬の朝

昨今は日記の風もSNSであるが、旧来の日記俳句もまたよし、読むのはまずは我なれば喜怒哀楽もそこで消化され、言葉に昇華されるか、さらに燃え上がるか、体質にもよろうが、自己の中に封殺されてゆきどころのないものが、開けから噴出して眼前にその態を露出させれば、理性感性的、情的に自分を自分で見つめているのだから、だうしても抑えられない憤怒は憤怒としてありつづけても、まあ、憤怒をふくめて喜怒哀楽はなべて一時的な炎の先端、心頭なれば、それを滅却することもまた可能とならうというもんだ

さすれば・・

> > ちへそみりANNEX−Ω   訪問者数:12142772(今日:314/昨日:741)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:54 大安(戊申) 旧暦 9/27 月齢 26

高殿の蜘蛛を見上ぐる利休かな

利休坐す茶室二畳や虎落笛

これはわがアバターたりうるが・・

利休坐す茶室二畳や虎落笛

捩じれている

これでは、利休が茶室二畳で坐禅の風

利休坐す茶席二畳や虎落笛

なれば露坐独峰の風もでてくる

利休座す茶席二畳や虎落笛

なれば茶室に正座して客に対している

一語でずいぶん風景もかわる

わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる

俳句の鉄則でもなからうが、よくいわれる規範において、他人事を詠むな、自分事だけを読めと・・

すっかす、アバター的な詠みをする、また読みをすれば、かならずしも他人事を詠むな、自分事だけを読めとはいえず、他人事もまた自分事となす、なることこそが、俳句、詩や禅語の一語の効用にもある

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉


露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼


火の粉散る五体投地や二月堂

身削がれし鰻の骨の泳ぐ板

懊悩の諸手を挙げて寒昴

春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子

去年今年貫く棒の如きもの  虚子

大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子

冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城

分け入つても分け入つても青い山 山頭火

咳をしてもひとり  放哉

死と生の境に洩らす咳一つ 飛旅子

春の山のうしろから烟が出だした  大空放哉居士


舟虫の化石にならぬため走る 大石雄鬼

象の頭に小石の詰まる天の川 大石雄鬼

この舟虫も象の頭もまたアバター

いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す

思い出しはするが・・舟虫も象の頭も、また「猫の頭の中の地図」の句、句の姿はわすれてしまったが、みんなおもしろく思わずとってしまった

猫の頭の中の地図は、わが頭の中の地図を対比して思わされ、地図もだんだん朦朧としてくる老境

老境ならずも、走らなければ化石になってしまう舟虫めいた若年相

脳みそが固化して大脳、小脳ともに大石小石に化すかのような瞬間

さういうものをわがアバターとして読めば、舟虫も、象の頭も、猫の地図もまた味わえる

いづれにせよ

土曜の怒りの心頭も、日曜に50数年来にしてスイスからの遠来の友人にあって相模橋本は創作イタリアン 八代目伏見双雲堂でなかなかのランチをご馳走になり、怒りの心頭をおさめて、また15年来の恋人のもとへいけば、またべつの心頭の恋心が燃え上がる

愛不変恋人裸体像晩夏

恋人は以下のごとし

http://hnt-ubanvillagepark.jimdo.com/%E7%89%87%E5%80%89%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%8C%97%E6%9D%91%E8%A5%BF%E6%9C%9B-%E8%A5%BF%E6%9C%9B%E8%B3%9E-%E4%BD%9C%E5%93%81/

「独」

聖望賞受賞作品のようで、「独」というのはいいですね

人間やはり「独」が毒をさけるには一番かも、華厳的な人間の縁の網目とは矛盾しますが・・

ドリアン・グレイの画像ではありませんが、

15年ほどまえにロードバイクを初めて片倉城址公園を訪れ、

初めてこの恋人に会って以来、私は年を取る、彼女はぜんぜん年を取らず若いまんま。

道元の有時経歴を思えばやはりこれもわれも有時経歴であると・・

この有時経歴はいづこにもある、うじうじ蛆のごとにもぞもぞせんでのびのびと蛇になってもいけませんが、日々是好、新陳代謝して舟虫のごとく走る、走らざるをえぬ

> 家も人も廃虚と化すか秋の暮
>
> > 怒りもて庭の椿をぶった伐る
> >
> > ぶった伐っても伐っても残る椿
> >
> > 鼠逃げるいっそ根こそぐ椿の根
> >
> > 怒りもて窓辺の薔薇もぶった伐る
> >
> > 薔薇蔓の棘の痛さよ落ちてなほ

さすれば、これはこれ日記にして、一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54964] Re:[54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:55  

> ちへそみりANNEX−Ω   訪問者数:12142772(今日:314/昨日:741)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:54 大安(戊申) 旧暦 9/27 月齢 26

家も人も廃虚と化すか秋の暮

> 怒りもて庭の椿をぶった伐る
>
> ぶった伐っても伐っても残る椿
>
> 鼠逃げるいっそ根こそぐ椿の根
>
> 怒りもて窓辺の薔薇もぶった伐る
>
> 薔薇蔓の棘の痛さよ落ちてなほ
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:24  

ちへそみりANNEX−Ω   訪問者数:12142772(今日:314/昨日:741)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:08 大安(戊申) 旧暦 9/27 月齢 26.2

怒りもて庭の椿をぶった伐る

ぶった伐っても伐っても残る椿

鼠逃げるいっそ根こそぐ椿の根

怒りもて窓辺の薔薇もぶった伐る

薔薇蔓の棘の痛さよ落ちてなほ

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54962] 選者、跋には袖の下、お礼が憑き物 牡丹餅や悪しき倣いもまた美徳 Re:[54961] 詐欺といえるのであらうか?Re:[54960] 己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 20:56  

利休坐す茶室二畳や虎落笛

これはわがアバターたりうる

炎天下わが家そのまま幻住庵

これはわがone of metaverseたりうる

死してなほ濃くなる髭や飛旅子の忌

これはわがアバターたりうる

おおかみの女陰あらわに兜太の忌

これはわがアバターにも、わがone of metaverseにもなりえぬ

とはいえ、兜太大先生を「ご立派」として「お」をつけて拝み奉れば

おおおかみの女陰あらわに兜太の忌

兜太の展開したおおかみを狼に戻すが如く、戻せ大女将

大女将の女陰あらわに兜太の忌

浅草の大女将が兜太選の現俳虚王、ああ、現俳協カレンダー掲載句の常連で

その大女将は折詰の底に万札を敷き詰める常連であった

まあ、そういう腐った風の現俳協のone of metaverseではあらう

選者、跋には袖の下、お礼が憑き物

牡丹餅や悪しき倣いもまた美徳

さて、眼は極東の場末から神の本場の西欧へ

超人の脳へ梅毒ニーチェの忌

これはわがアバターにはなりえぬが、どこかの救世主教のone of metaverseにはなりうる

云々(詳しくやりだすと限がない)

> virtualとは?
>
> oxford dictionaryのWord Originによれば
>
> late Middle English (also in the sense ‘possessing certain virtues’): from medieval Latin virtualis, from Latin virtus ‘virtue’, suggested by late Latin virtuosus.
>
> > そよよたわANNEX−Ω   訪問者数:12139152(今日:490/昨日:974)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 17:42 友引(乙巳) 旧暦 9/24 月齢 23.2
> >
> > 火の粉散る五体投地や二月堂
> >
> > この句を出したか、駄さんかったか、ワード検索で出てこんところをみると、出さんかったようだが・・打算買った?
> >
> > まあ、お水取りの説明だね、ちうことで駄産刈ったのであろう
> >
> > 火の粉散る五体投地やわがアバター
> >
> > あちゃあ、季語がなくなってしもうた
> >
> > とはいえ、昨今の興味がないメタバースやアバター
> >
> > メタバースはユニバースに比し、アバターは「「アバター」の語源はサンスクリット語の「アヴァターラ」です。 語源の表記は “अवतार”、 英語での表記は “avataara” です。 インド神話や仏教説話に登場する単語で、「神や仏の化身」という意味があります。」とある
> >
> > さすれば・・
> >
> > 火の粉散る五体投地はわがアバター
> >
> > であり
> >
> > 火の粉散る五体投地や二月堂
> >
> > は、メタバースのまた一つでもあらう
> >
> > 老骨の身になればいまさら五体投地をして火の粉を散らすわけにもまいらず、アバターさんらがやってくれるのをよしとしよう
> >
> > かくかく観れば・・
> >
> > 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
> >
> > 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
> >
> > もわがアバターでありワンオブメタバースの野ざらし稀覯でも、奥の細道でもあらうがね
> >
> > とはいえ
> >
> > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太
> >
> > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太
> >
> > ここらの己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない
>
> no ‘possessing certain virtues’
>
> >
> > そこに一個のメタバースが現成し、わがアバターを生じさてもよいかどうか、これは現代のバーチャルソサエティにおける判断基準の一つになりうるのかもしれない
> >
> > 考えてみれば、言葉そのものが、まあ、いってみれば、バーチャルである
> >
> > 而して一句の俳句、詩歌も、またバーチャルである
>
> にしても‘possessing certain virtues’ではある
>
> > バーチャルであるからこそリアリティ云々が議論される
> >
> > バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね
>
> ‘possessing certain virtues’もなにもあったもんではない、徳のないもんはバーチャルとさえいえないのね
>
> > 岸田、山際の答弁のやうに
>
> 詐欺といえるのであらうか?
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54961] 詐欺といえるのであらうか?Re:[54960] 己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 18:38  


virtualとは?

oxford dictionaryのWord Originによれば

late Middle English (also in the sense ‘possessing certain virtues’): from medieval Latin virtualis, from Latin virtus ‘virtue’, suggested by late Latin virtuosus.

> そよよたわANNEX−Ω   訪問者数:12139152(今日:490/昨日:974)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 17:42 友引(乙巳) 旧暦 9/24 月齢 23.2
>
> 火の粉散る五体投地や二月堂
>
> この句を出したか、駄さんかったか、ワード検索で出てこんところをみると、出さんかったようだが・・打算買った?
>
> まあ、お水取りの説明だね、ちうことで駄産刈ったのであろう
>
> 火の粉散る五体投地やわがアバター
>
> あちゃあ、季語がなくなってしもうた
>
> とはいえ、昨今の興味がないメタバースやアバター
>
> メタバースはユニバースに比し、アバターは「「アバター」の語源はサンスクリット語の「アヴァターラ」です。 語源の表記は “अवतार”、 英語での表記は “avataara” です。 インド神話や仏教説話に登場する単語で、「神や仏の化身」という意味があります。」とある
>
> さすれば・・
>
> 火の粉散る五体投地はわがアバター
>
> であり
>
> 火の粉散る五体投地や二月堂
>
> は、メタバースのまた一つでもあらう
>
> 老骨の身になればいまさら五体投地をして火の粉を散らすわけにもまいらず、アバターさんらがやってくれるのをよしとしよう
>
> かくかく観れば・・
>
> 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
>
> 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
>
> もわがアバターでありワンオブメタバースの野ざらし稀覯でも、奥の細道でもあらうがね
>
> とはいえ
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太
>
> 湾曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太
>
> ここらの己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない

no ‘possessing certain virtues’

>
> そこに一個のメタバースが現成し、わがアバターを生じさてもよいかどうか、これは現代のバーチャルソサエティにおける判断基準の一つになりうるのかもしれない
>
> 考えてみれば、言葉そのものが、まあ、いってみれば、バーチャルである
>
> 而して一句の俳句、詩歌も、またバーチャルである

にしても‘possessing certain virtues’ではある

> バーチャルであるからこそリアリティ云々が議論される
>
> バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね

‘possessing certain virtues’もなにもあったもんではない、徳のないもんはバーチャルとさえいえないのね

> 岸田、山際の答弁のやうに

詐欺といえるのであらうか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54960] 己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 18:10  

そよよたわANNEX−Ω   訪問者数:12139152(今日:490/昨日:974)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 17:42 友引(乙巳) 旧暦 9/24 月齢 23.2

火の粉散る五体投地や二月堂

この句を出したか、駄さんかったか、ワード検索で出てこんところをみると、出さんかったようだが・・打算買った?

まあ、お水取りの説明だね、ちうことで駄産刈ったのであろう

火の粉散る五体投地やわがアバター

あちゃあ、季語がなくなってしもうた

とはいえ、昨今の興味がないメタバースやアバター

メタバースはユニバースに比し、アバターは「「アバター」の語源はサンスクリット語の「アヴァターラ」です。 語源の表記は “अवतार”、 英語での表記は “avataara” です。 インド神話や仏教説話に登場する単語で、「神や仏の化身」という意味があります。」とある

さすれば・・

火の粉散る五体投地はわがアバター

であり

火の粉散る五体投地や二月堂

は、メタバースのまた一つでもあらう

老骨の身になればいまさら五体投地をして火の粉を散らすわけにもまいらず、アバターさんらがやってくれるのをよしとしよう

かくかく観れば・・

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉

もわがアバターでありワンオブメタバースの野ざらし稀覯でも、奥の細道でもあらうがね

とはいえ

華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

湾曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太

ここらの己なしの風景にして隔絶した次元の堕落の兜太らの境位ではオンオブメタバースもアバターも生じやうがない

そこに一個のメタバースが現成し、わがアバターを生じさてもよいかどうか、これは現代のバーチャルソサエティにおける判断基準の一つになりうるのかもしれない

考えてみれば、言葉そのものが、まあ、いってみれば、バーチャルである

而して一句の俳句、詩歌も、またバーチャルである

バーチャルであるからこそリアリティ云々が議論される

バーチャルな言葉の技巧だけでやってもだめなもんはだめで一目瞭然だね

岸田、山際の答弁のやうに




やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54959] あれだけ鮮明な安倍晋三と統一教会の関係の調査を求める野党 それを安倍晋三は死んでしまったから、調査はできませんと岸田の詭弁答弁 ばかばかしいにもほどがある 行為の事実については、行為者らの記憶のあるなし、行為者らの自己申告のあるなし、行為者らの生存の有無にかかわらず、第三者的に証明されれば事実である そういう過去連綿の事実において、その癒着ぶり、その選挙ぶり、その政策ぶりも議論されなければならない そのたぬき貉の詭弁論法と詭弁答弁こそが、その心根、態度が問題なのだ そんなもんらが、国政の中心に鎮座してる、その理不尽さ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 13:34  

ろろくてのANNEX−Ω   訪問者数:12139012(今日:350/昨日:974)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/19(Wed) 12:48 友引(乙巳) 旧暦 9/24 月齢 23.2

けふの午前中の国会予算委員会の審議などをみていてつくづく思う

岸田、その子分山際らの厚顔無恥な詭弁を道破できない野党らの阿呆さ、あるいは同門の貉ぶりには、現俳協の兜太にむらがる貉ぶりとイメージが重ならなくもない莫迦莫迦しさ

あれだけ鮮明な安倍晋三と統一教会の関係の調査を求める野党

それを安倍晋三は死んでしまったから、調査はできませんと岸田の詭弁答弁

ばかばかしいにもほどがある

事実は事実として調査はできようがの!

安倍晋三は死んでしまったから統一教会との関係の事実(実績)は調査はできませんと云う、一方で安倍晋三は死んでしまっても世界のリーダーの各位と関係した外交実績(事実)において国葬となす、岸田の詭弁答弁

このアンバランス、阿呆ぶり、詭弁ぶり、たぬき貉ぶり、それを喝破できぬ野党の不甲斐なさ

だれかがなにかをして、そのだれかが死んでしまったから、そのだれかの認否ができないない。だから、事実の調査はできません、という岸田の子供だましの詭弁

野党はそこの詭弁、欺瞞性を道破せねば話にならん

そんな論理が人間ならば成り立つわけがない、たぬき貉のやりとりでなくんば、詭弁の最たるもんであらう

ゆえに、山際はそのたぬき貉の詭弁論法に忠実に、記憶、認識を云々

事実認否を遅らせ後手後手

後手後手が問題なのではない

そのたぬき貉の詭弁論法と詭弁答弁こそが、その心根、態度が問題なのだ

そんなもんらが、国政の中心に鎮座してる、その理不尽さ

そのもとは、そもそもの自民党の統一教会との関係調査において、自己申告という、調査にもならぬ、いわば犯罪者が犯罪の自己申告をして、犯罪との今後の関係絶つことを宣言すればよろしい、という詭弁調査手法と同じ手口である

犯罪であるかどうかは、なしたことへの評価の問題であるからして、おいておくとしても

行為の事実については、行為者らの記憶のあるなし、行為者らの自己申告のあるなし、行為者らの生存の有無にかかわらず、第三者的に証明されれば事実である

様々なビデオ、書類の存在によって証明されれば事実はある

安倍晋三の行為、さかのぼって祖父岸の行為、その後の連綿とした自民党幹部らの行為の事実は事実としてあるのであらからして、当事者が亡くなってしまったとか、記憶の有無とかは関係がない

そういう過去連綿の事実において、その癒着ぶり、その選挙ぶり、その政策ぶりも議論されなければならない

マスコミは狡猾なる詭弁を弄する岸田と、同じ阿呆か同じ貉の野党の馬鹿馬鹿しい応答質問をどんどん報道し批判すべきである、そうしてこそマスコミの存在価値もあらうちうもんだわの

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54958] 素材はもとより、表現の技巧が大いに一句の意匠の意に影響して、思わぬ飛躍を一句において得ることもあるし、堕落することもあるであらう そこがおもしろいところで、まさに有時経歴であるRe:[54957] 奥の細道ならぬ盛り場の横丁で騒ぎ捲くる兜太らの前衛俳句 オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を思わしめる 兜太ファシズムへハイルヒトラーの現俳協か?恐れ入谷の鬼子母神だねRe:[54956] 己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/16(Sun) 16:48  

うをれるうANNEX−Ω   訪問者数:12135029(今日:342/昨日:625)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/16(Sun) 14:47 大安(壬寅) 旧暦 9/21 月齢 20.2

死してなほ濃くなる髭や飛旅子の忌

おおかみの女陰あらわに兜太の忌

超人の脳へ梅毒ニーチェの忌

とかとかいろんな忌が有時享楽の経歴でならぶ

飛旅子は飛んで旅する子と自戒ならぬ自解してるから、天使に擬した俳号なんであらう

> > わんそえるANNEX−Ω   訪問者数:12133337(今日:999/昨日:1457)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/14(Fri) 08:50 先負(庚子) 旧暦 9/19 月齢 18.2
>
> 塵劫を刹那となすや道元忌

観念的である

而してその観念を血肉に化せるかが志向、意の問題である
>
> To be or not to be われ粘菌でありし時
>
> 黄昏の有時経歴や西行忌
>
> 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ  西行

佐藤義清たる武士の棟梁の時、女院へ恋する一介の男の時、栂尾山高山寺の明恵と丁々発止の時

有時経歴は一個の人間にもあれば歴史の変遷にもある

> 畢竟、塵劫の粘菌のころ、下って万葉、西行のころよりこの方、テーマは”如何に生くべきか””如何に逝くべきか””如何に行くべきか””如何に往くべきか”であった
>
> どうしようもないわたしが歩いてゐる 山頭火
>
> どうしようもないわたしが 歩いてゐる  
>
> どうしようもない わたしが歩いてゐる 

これらはあたかもあほうで莫迦の述懐にみえなくなもないが

強靭なる自己認識がある

> 歩歩到着すればよろしいが

山頭火の句の分かち書きと歩歩到着、春の山のうしろから烟が出だした大空放哉居士は上田閑照「宗教」哲学コレクションT岩波文庫による

行としての歩

ここの開設者の歩子のペンネームも思い出される

上田閑照の西田幾多郎の幾許かの概念を持ち出した章、絶対無の宗教哲学の章などは、例によって京都学派の蛸壺の概念をもてあそぶ蛸あそびの感もあって感心せぬが・・それはまた別途にして・・

> 到着するところもなく

> 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城
>
> 分け入つても分け入つても青い山 山頭火
>
> 咳をしてもひとり  放哉
>
> 死と生の境に洩らす咳一つ 飛旅子
>
> 春の山のうしろから烟が出だした  大空放哉居士
>
> 畢竟ずるに、詩歌俳句はもとより絵画彫刻音楽などの芸術、果ては建築土木までの技術、ことは生死にかかわっている、かかわらざるを得ない
>
> 客観写生、花鳥風月をいおうが、ことは生死である、その写生にしろ、花鳥風月の詠み方にしろ、詠者の自己を晒さるざるを得ない
>
> それをことさら、新興俳句だ、前衛俳句だ、人間探求派だとやりだし
>
> 西行よりつらなる芭蕉のこの一筋を踏み外し
>
> 奥の細道ならぬ盛り場の横丁で騒ぎ捲くる兜太らの前衛俳句

有時経歴は一個の人間にもあれば歴史の変遷にもある

さしてみればこの一筋の俳句の細道から盛り場の横丁への変遷にも有時経歴あるのはあたりまえか

> あげるのも面倒だから一部だけで省略するが、それを互いにもちゃげまくる風勢にはまことに辟易
>
> 例えば、「陸」創刊20周年記念大会講演で兜太いわく
>
> のんのんと馬の魔羅振る霧の中 楸邨
>
> おんわれめありと思えぬ女雛かな 飛旅子
>
> を対比しながら、シリアスなエロチシズムは、飛旅子俳句が完成期に近い成熟への歩みをはじめた
>
> とかの兜太の言説、それもまた生死の一景ではあらうが、臭うね、臭い、汚い、おぞましい
>
> 臭い、汚い、おぞましいのもまた人生の一景ではあらうが、なんでこうこう臭い、汚い、おぞましいものにこだわるんだろ
>
> どこかで、道を間違っているんぢゃねえの?

俳句はときどき江戸前握り寿司に似てるなと思うことがある

ネタとシャリと、その握り具合で味が大いにことなる

ネタが駄目なら一貫の味わいも駄目

シャリがこわくてもゆるても駄目

くちのなかでほろりとほぐれてネタのうまさがひろがれば味わいも増す

ゴールデン街は兜太寿司

きょうは女陰のいいネタがへえってるぜ

どれどれ?

どんなもんだい、前衛握りだ!

臭くて喰えねえ

この店どこかシンガポールの似非寿司ににているね

フルーツ寿司、ドリアンはくだものの王様だからと、見場ばかり気を使って・・

うるせえ、こんだあ楸邨の馬の魔羅巻だ!

まずいねえ、くえねえ、くえねえ

ふんぢゃあ、とっておきの爆心地の軍艦巻き

口が湾曲して火傷すらあ、忌諱、忌諱、さいなら

場末の雄鬼寿司

きょうのおすすめはメリーゴーランド

ここはいつきてもお子様ランチだね、パスパス

舟虫や象の頭もあるけど・・

くえん、くえん、わびもさびもわさびもねえで、よう寿司屋の看板を掲げているぜ

陸の郊外で海辺を恋する和弘寿司

おすすめは農奴のネタだ

なんだ実南天がのっておって毒ぢゃねえか

ぢゃあ、原罪

蛸がいねえで壺ばっかぢゃ壺はずれの凍て寿司か、くえんね

ほんぢゃあ、煩悩

生ゴミの臭気が上り立つ、ますますくえんね


と、まあ、寿司屋に擬すればこんな具合か

握りかたの絶妙なんは、かの中村橋の大黒寿司だね、とくにあの老大将の握り方はさしたるネタでなくとも握りにうまさを味わえる、安いし・・

俳句の一句を握り寿司一貫とすりゃあ、詩歌、句集、詩集、評論、随筆、小説、果ては老師の提唱、聖書、哲学書まで、みんな料理に比せるね

硬くてくえんもんもありゃあ、腐って臭気を発するもんもある

名匠だからといって食らいついても歯が折れる

名匠だからといって食らいついても下痢をする

まあ、料理なんから、毒でも盛られていなかぎり、みんなそれなりに消化すれば栄養にもなり力にもなる

見た目の「表現」で技量を凝らして、それも場末のたたき売りの口上のやうなもんで、己が栄養や向上にはつながらん

そんでも名匠の名や見た目の表現に騙されて、一句はおろか、なにごとも味わえぬ、音痴にして、時代の風潮、流行に右往左往する己なしの大衆のなんたら多いことか

> というのも、お節介か
>
> オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を思わしめる
>
> 兜太ファシズムへハイルヒトラーの現俳協か?
>
> 兜太が海程を廃刊したのは、評価できるが、

ついでに、現俳協もぶっ壊しちまえばよかった

現俳協のみならず、俳人協会も、伝統俳句協会も、あの破壊力でね、爆心地に化せはよかった

家元という家元、共産主義の家元も、民主主義の家元も、宗教の家元も、哲学の家元も、みんな爆心地に・・

露西亜も亜米利加も北朝鮮も中国も日本もなく、大衆は丸裸にされて、さて?

どうするのか?

こどものころを思い出す

砂場で馬蹄形の磁石

ばらばらの砂鉄が一斉に向きを変える

しからば、その磁場とはいかなるものか?

> その残党、崇拝者がまたゾロ寄り集まって兜太を「盤石」だの、「おおかみ」だのと奉る佞人ぶりを発揮して、お手盛りで現俳協の秀句データベース中、500句超が兜太で、200句超が中村和弘で、50句が大石雄鬼とは恐れ入谷の鬼子母神だね

かの救世主教より共産主義、唯物論が起こったやうに、これは他化してしかものごとを見れぬ、味わえぬ、偏頗な魂のなせる業であって

一句の俳句にせいなんにせいそれを見る、味わう視点、味覚は無限にあらうが・・

その一つに、形而上と形而下の磁場というもんもあらうがね


これを、こうこう、上下の二元論にわけるのも問題であらうが、方便

形而上をおきざりにして形而下で右往左往したところで、所詮人類も我も救われるものでもなくんば、自己救済にもいたらぬ

畢竟、我という、環境という、世界という形而下の混乱の極みで臭気を発するものを、いかに形而上という磁場をかけて、その混乱と臭気を収めるか

而してその形而上にすら毒もある

さしずめ西田幾多郎ほかの京都学派の蛸壺も、聖書やソレに由来する西洋哲学の蛸壺にも、毒壺の趣がある

一句にも形而上、形而下の握りの味わい、毒も栄養もある

それをいかに味得するか


西東三鬼「今日」の後書で曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

俳句作家にも

what is life?

How to live?

の二つの態度がある。

所謂進歩的態度は後者である事勿論であるが、私は前者に徹したいと思っている。

私には「生き方」のお手本を俳句をもって指示する勇気はない。前者に徹する事は後者に通じてゆくと思っている。(昭和26年)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

これを読んで思うのだが、「指示」する、あるいは師事することでもそうだが、そういうことすらどこか大衆の思い上がりであり、髭ならぬ卑下であるのではなからうか

禅の提唱すらそうなのだ

一句を境位として詠めばよく、また読めばよし、自他の句ともども

その自句の、あるいは他句の、その境位において自己の境位がいかに味わうか?

そこにおのずから自作の一句への、他作の一句への鑑賞への態度、身口意、知情意の意の境位が現れる

素材はもとより、表現の技巧が大いに一句の意匠の意に影響して、思わぬ飛躍を一句において得ることもあるし、堕落することもあるであらう

そこがおもしろいところで、まさに有時経歴である


> > まったく狂乱のパニック
> >
> > 佐藤春夫の「田園の憂鬱」なんぞ読んで妄想に耽溺していたからだらうか

> > 過剰なる豊かさの中やせる夏
> >
> > プーチンの夏から冬へ断末魔
> >
> > よくみれば自我もろだしや極楽鳥
> >
> > 逆さまに吊られし鴉除け鴉
> >
> > 案山子とは着膨れて立つ十字架か
> >
> > 着膨れて骨なきものら並ぶ壇
> >
> > 這い登る蔦や窓辺へ亡き父母の
> >
> > 春昼の闇へ憤怒の牙を剝く
> >
> > 風死すや賽の河原の地蔵堂
> >
> > 煩悩の尽きざる人へ曼殊沙華
> >
> > 原罪の虚仮の重さや復活祭
> >
> > 秋深し涸血もろとも切る血爪
> >
> > 蛸壺の蛸に原罪なくて凍つ
> >
> > 添えられて農奴怒れる実南天
> >  
> > 目に浮かぶ女陰あらわに人間魚雷
> >
> > 回天に甲板はなし蝉時雨
> >
> > 煩悩を集めて速し流星群
> >
> > 己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54957] 奥の細道ならぬ盛り場の横丁で騒ぎ捲くる兜太らの前衛俳句 オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を思わしめる 兜太ファシズムへハイルヒトラーの現俳協か?恐れ入谷の鬼子母神だねRe:[54956] 己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/14(Fri) 19:48  

> わんそえるANNEX−Ω   訪問者数:12133337(今日:999/昨日:1457)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/14(Fri) 08:50 先負(庚子) 旧暦 9/19 月齢 18.2

塵劫を刹那となすや道元忌

To be or not to be われ粘菌でありし時

黄昏の有時経歴や西行忌

願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ  西行

畢竟、塵劫の粘菌のころ、下って万葉、西行のころよりこの方、テーマは”如何に生くべきか””如何に逝くべきか””如何に行くべきか””如何に往くべきであった

どうしようもないわたしが歩いてゐる 山頭火

どうしようもないわたしが 歩いてゐる  

どうしようもない わたしが歩いてゐる 

歩歩到着すればよろしいが到着するところもなく

冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城

分け入つても分け入つても青い山 山頭火

咳をしてもひとり  放哉

死と生の境に洩らす咳一つ 飛旅子

春の山のうしろから烟が出だした  大空放哉居士

畢竟ずるに、詩歌俳句はもとより絵画彫刻音楽などの芸術、果ては建築土木までの技術、ことは生死にかかわっている、かかわらざるを得ない

客観写生、花鳥風月をいおうが、ことは生死である、その写生にしろ、花鳥風月の詠み方にしろ、詠者の自己を晒さるざるを得ない

それをことさら、新興俳句だ、前衛俳句だ、人間探求派だとやりだし

西行よりつらなる芭蕉のこの一筋を踏み外し

奥の細道ならぬ盛り場の横丁で騒ぎ捲くる兜太らの前衛俳句

あげるのも面倒だから一部だけで省略するが、それを互いにもちゃげまくる風勢にはまことに辟易

例えば、「陸」創刊20周年記念大会講演で兜太いわく

のんのんと馬の魔羅振る霧の中 楸邨

おんわれめありと思えぬ女雛かな 飛旅子

を対比しながら、シリアスなエロチシズムは、飛旅子俳句が完成期に近い成熟への歩みをはじめた

とかの兜太の言説、それもまた生死の一景ではあらうが、臭うね、臭い、汚い、おぞましい

臭い、汚い、おぞましいのもまた人生の一景ではあらうが、なんでこうこう臭い、汚い、おぞましいものにこだわるんだろ

どこかで、道を間違っているんぢゃねえの?

というのも、お節介か

オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を思わしめる

兜太ファシズムへハイルヒトラーの現俳協か?

兜太が海程を廃刊したのは、評価できるが、その残党、崇拝者がまたゾロ寄り集まって兜太を「盤石」だの、「おおかみ」だのと奉る佞人ぶりを発揮して、お手盛りで現俳協の秀句データベース中、500句超が兜太で、200句超が中村和弘で、50句が大石雄鬼とは恐れ入谷の鬼子母神だね


> まったく狂乱のパニック
>
> 佐藤春夫の「田園の憂鬱」なんぞ読んで妄想に耽溺していたからだらうか
>
> 朝4時に起きてパソコンのソフトの更新に承諾をあたえて、さてと市場の開いた証券会社のサイトをひらくと、チャートは不動、終値も不動、気配値ばかりがうごく・・?????
>
> 別登録のポートフォリオを開くと現在損益がまるで死んだ脳波フラット
>
> 証券会社へ電話すると「業務は終了しました」とテープが流れ
>
> さては、30数年ぶりの円の暴落で、証券会社は夜逃げ、ネットはロシア、北朝鮮の工作で破壊されたか?
>
> なんど電話をかけても、「業務は終了しました」とテープが流れ、あの山一の社長が泣きじゃくる映像が頭に浮かぶ
>
> 電話をかけ続け続けやっとつながる
>
> おたく倒産して夜逃げしたんぢゃないでしょうね!
>
> 滅相もない
>
> かくかくしかじか
>
> いつ電話をおかけになりましたか?業務開始は8時半からです。市場もまた開いていませんし・・
>
> ん?
>
> いやぁ、ごめん、ごめん、耄碌しててっきり頭の中が1時間すすんでしまっていて・・
>
> こんなこともあるのですね
>
> 妻に娘を叩き起こして連れてこい!といったのも、 ご破算にしなければならんし・・ ご破算、ごわさん、こわい、こわい
>
> 過剰なる豊かさの中やせる夏
>
> プーチンの夏から冬へ断末魔
>
> よくみれば自我もろだしや極楽鳥
>
> 逆さまに吊られし鴉除け鴉
>
> 案山子とは着膨れて立つ十字架か
>
> 着膨れて骨なきものら並ぶ壇
>
> 這い登る蔦や窓辺へ亡き父母の
>
> 春昼の闇へ憤怒の牙を剝く
>
> 風死すや賽の河原の地蔵堂
>
> 煩悩の尽きざる人へ曼殊沙華
>
> 原罪の虚仮の重さや復活祭
>
> 秋深し涸血もろとも切る血爪
>
> 蛸壺の蛸に原罪なくて凍つ
>
> 添えられて農奴怒れる実南天
>  
> 目に浮かぶ女陰あらわに人間魚雷
>
> 回天に甲板はなし蝉時雨
>
> 煩悩を集めて速し流星群
>
> 己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな
>
>
>

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54956] 己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/14(Fri) 11:04  

わんそえるANNEX−Ω   訪問者数:12133337(今日:999/昨日:1457)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/14(Fri) 08:50 先負(庚子) 旧暦 9/19 月齢 18.2

まったく狂乱のパニック

佐藤春夫の「田園の憂鬱」なんぞ読んで妄想に耽溺していたからだらうか

朝4時に起きてパソコンのソフトの更新に承諾をあたえて、さてと市場の開いた証券会社のサイトをひらくと、チャートは不動、終値も不動、気配値ばかりがうごく・・?????

別登録のポートフォリオを開くと現在損益がまるで死んだ脳波フラット

証券会社へ電話すると「業務は終了しました」とテープが流れ

さては、30数年ぶりの円の暴落で、証券会社は夜逃げ、ネットはロシア、北朝鮮の工作で破壊されたか?

なんど電話をかけても、「業務は終了しました」とテープが流れ、あの山一の社長が泣きじゃくる映像が頭に浮かぶ

電話をかけ続け続けやっとつながる

おたく倒産して夜逃げしたんぢゃないでしょうね!

滅相もない

かくかくしかじか

いつ電話をおかけになりましたか?業務開始は8時半からです。市場もまた開いていませんし・・

ん?

いやぁ、ごめん、ごめん、耄碌しててっきり頭の中が1時間すすんでしまっていて・・

こんなこともあるのですね

妻に娘を叩き起こして連れてこい!といったのも、 ご破算にしなければならんし・・ ご破算、ごわさん、こわい、こわい

過剰なる豊かさの中やせる夏

プーチンの夏から冬へ断末魔

よくみれば自我もろだしや極楽鳥

逆さまに吊られし鴉除け鴉

案山子とは着膨れて立つ十字架か

着膨れて骨なきものら並ぶ壇

這い登る蔦や窓辺へ亡き父母の

春昼の闇へ憤怒の牙を剝く

風死すや賽の河原の地蔵堂

煩悩の尽きざる人へ曼殊沙華

原罪の虚仮の重さや復活祭

秋深し涸血もろとも切る血爪

蛸壺の蛸に原罪なくて凍つ

添えられて農奴怒れる実南天
 
目に浮かぶ女陰あらわに人間魚雷

回天に甲板はなし蝉時雨

煩悩を集めて速し流星群

己貶め怒髪剃り上ぐ愚禿かな


やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54955] 身体=家=墓の三位一体 Re:[54954] 臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよRe:[54953] 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・Re:[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 11:24  

> にきおくらANNEX−Ω 訪問者数:12126896(今日:175/昨日:709)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 07:48 大安(丙申)スポーツの日 旧暦 9/15 月齢 14.2満月(6時)
>
> 日継日嗣柩尿意尿意眠り継ぐで昨日より眠り続けて・・目覚めて一昨日昨日の沈殿した澱を掬う

もう一つ沈殿した澱を掬ひ忘れた


> 福柿
>
> だんごがうりきれの団子やのまえでピナレロプリンスで減った腹の養生に考えあぐねていると品の良いご婦人がママ茶利で現れて、我と婦人と同時に福柿を指さし・・
>
> あら?
>
> 残った2パック、2個入り、3個入り、1パックづつがケースにあって・・
>
> 昼めしかわりで年も取ったから2個入りでいいよ
>
> ありがとう、ぢゃあ、わたしは3個入りを・・
>
> これ、中身はあんこ?
>
> 白餡に干し柿を刻んだもので、美味しいわよ
>
> この姿の美しさ、お茶うけにも・・茶会の
>
> そうなの、いつもお茶会で・・
>
> ぢゃあ、3個では足んないでしょ
>
> いえ、きょうは家族ようですから・・よかった
>
> よかった
>
> あれは一昨日の昼で、その福柿を後生大事に背中のバックにつめて

猪方小川塚古墳
http://www.bing.com/images/search?q=%e7%8b%9b%e6%b1%9f%e5%b0%8f%e5%b7%9d%e5%a1%9a%e5%8f%a4%e5%a2%b3&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageHoverTitle

福柿を食おうとしてここへきたが、いつも思い出す句がある

鷓鴣は逝き家の中まで石河原 三橋敏雄

この句の不思議を抱いてかつては津軽の川倉の賽の河原まで赴いて「人形に娶す人形」の一句を得たが、不思議さは晦冥にして開明できず・・この猪方小川塚古墳

身体=家=墓の三位一体

割り見ればかくの如きか桃の種 田川飛旅子

割り見ればかくの如きか鷓鴣の肝 ?

砂肝

味気ないねえ、でも美味しいのかもしれない、よく洗って焼き鳥にすれば・・

古人は古墳を身体に擬して、羨道と玄室を配した、いわば膣と子宮

霊の宿る身体、死んでまた胎内にもどる、母なる大地に帰る死者の家たる墳墓

石河原は羨道の石河原でもあり、地方によっては墓内に散骨する納骨室がまた石河原でもある

石には古来呪術性もあって、その呪術の石が敷き詰められた石河原、まさに「家の中まで石河原」であり「鷓鴣は逝き」である

鷓鴣を鷓鴣を詠んだ句友の数々とした読み、これは一句から離れた個人情報を加味した読みであらが・・そういう風をもって読めば

絶滅のかの狼を連れ歩く 三橋敏雄

も、また、天狼の句友の霊を連れ歩いているのであらう

そんなもの思いに耽って、福柿も食わずひと時を過ごし・・

> 帰って

> 福柿断食、二日間眠りコケタその途中で目覚めた昨日の朝
>
> 昨日の朝 NHKいつもの「宗教の時間」出演者、かの島薗進に加えて若松英輔ほか、テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回
>
> 佞人というものは、社会にも組織にも、その法においても、それを批判し墓石、破壊し無化しようという姿勢がない。
>
>
> それは俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・
>
> > んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・
> >
> > 加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く
>
>
> この佞人の性は魔境の預言者即若松英輔君の性にもいえる
>
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
> > 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
> > ・・・
> > 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 統一教会文鮮明崇拝と神一重
>
> この統一教会文鮮明崇拝と神一重の若松英輔がシャーシャーとNHKいつもの「宗教の時間」テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回において曰く「一番重要なのは人間なのです」と・・
>
> 開いた口が塞がらんね
>
> このこの預言者めかして「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」と宣った若松英輔はいったいどの口を、どの脳みそを、どの身口意をもって「一番重要なのは人間なのです」といえるのであらうか?
>
> ま、預言者にしても、評論家にしても、随筆家にしても、神父、牧師、宗教家にしても、思想家にしても、そんなもんなんであらうね
>
> 出演者は牧師が二人、僧侶が一人、宗教学者が二人、カトリック系「批評家・随筆家」が一人、そこでカトリックの犯した罪を反省して今のカトリックが云々という議論の流れのところで、カトリックの若松英輔へ発言が振られてカトリックをあれだけ主張している若松英輔が「批評家・随筆家」の肩書で出演して、カトリックのカの字も言わずに、「一番重要なのは人間なのです」と・・
>
> 「一番重要なのは人間なのです」と本当に思っていて、そういう人間が「「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」などといったい云えるのであらうか?
>
> 云えるんですね、それが、身口意は分裂しておればこそ・・
>
> その場、その場、で世間の流れに身を委ねてご都合主義の自己分裂さえ覚さず、隠さず、シャーシャーと羊のしょんべんのごとくしゃべくりまくる
>
> 臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよ
>
> おなじ風がこのこの俳壇の風景にも感じられる
>
> 非常口に緑の男いつも逃げ
>
> て
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
>
> か
>
> > > わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 06:03先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜
> >
> > あ、そうそう
> >
> > > 陸主宰中村和弘のことば
> > > 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> > > これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。」
> > >
> > > との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
> > >
> > > 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・
> >
> >
> > から発して・・
> >
> > > 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
> > >
> > > 芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている
> > >
> > > 而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・
> > >
> > > こがらしの身は竹斎に似たる哉
> > >
> > > 弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず
> > >
> > > とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある
> > >
> > > 竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか
> > >
> > > 「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者
> > >
> > > そこには確たる詠者が現前としてゐる
> > >
> > > 云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
> > >  
> > > 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
> > >
> > > 「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する
> > >
> > > 気鋒
> > >
> > > 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
> > >
> > > 機鋒がある
> > >
> > > 而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか
> > >
> > > 「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる
> > >
> > > 露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア
> > >
> > > 「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?
> > >
> > > なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい
> > >
> > > 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
> > >
> > > おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・
> > >
> > > 身削がれし鰻露骨に泳ぐ板
> > >
> > > 露骨にすぎる
> > >
> > > 身口意、知情意
> > >
> > > 分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> > >
> > > 身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く
> > >
> > > 而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度
> > >
> > > 意匠と表現、不易流行
> > >
> > > 我の存否
> > >
> > > 我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> > >
> > > 共感、感動とは如何なるものか
> > >
> > > 一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?
> > >
> > > ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・
> > >
> > > > いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
> > > >
> > > > 懊悩の諸手を挙げて寒昴
> > > >
> > > > 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
> > > >
> > > > 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
> > > >
> > > > 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
> > > >
> > > > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
> > >
> > > 此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する
> > >
> > > 而して・・
> > >
> > > > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> > > > http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
> > > >        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> > > > 2022年09月16日 11:34
> > > >
> > > >   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...
> > >
> > > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太
> >
> > この句のレトリックの裏側も丸見えだね
> >
> > 墓原はハカハラであって、ハラカラは容易に連想できる
> >
> > 華麗なハラカラ女陰あらわに村眠り
> >
> > となればハラカラから「女陰あらわ」までは一直線
> >
> > そこでちょっとひねって「村眠り」とくるのは、「華麗なる一族」が流行していたころのいやみであらうがね
> >
> > これらの句、爆心地のマラソンにも、華麗な墓原女陰あらわにも、全然”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない
> >
> > この”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、兜太の臭く、汚く、おぞましい性は生かされている
> >
> > > これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?
> > >
> > > 詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない
> > >
> > > 「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?
> > >
> > > だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる
> > >
> > > 「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない
> > >
> > > ここにあるのは・・
> > >
> > > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
> > >
> > > と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ
> > >
> > > 知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする
> > >
> > > 臭い、醜い、おぞましい
> > >
> > > > おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
> > > >
> > > > ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> > > > 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、
> > >
> > > 一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる
> > >
> > > それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ
> > >
> > > 霊も魂も抜けた剥製、張りぼてを、ね
> > >
> > > 而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る
> > >
> > > その風が、臭い、醜い、おぞましい
> > >
> > > > 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
> > >
> > > この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない
> > >
> > > > 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
> > >
> > > これは「町の辻」が効いている、十字架
> > >
> > > 而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
> > > >
> > > > 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
> > > >
> > > > 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
> > >
> > > これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない
> > >
> > >
> > > > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
> > > >
> > > > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> > > >
> > > > 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
> > >
> > > これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく
> > >
> > > 身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ
> > >
> > > 知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ
> > >
> > > ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう
> >
> > これらの”人間いかに生くべきか”という自問など全然は込められていない句にもこの”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、いわずもがなに人間が生きている
> >
> > どうやろうとも「俳句のなかに」さへ「私という人間は「生か」されなくとも、生きざるを得ないのだ
> >
> > その「俳句の中にも生きざるを得ない人間」の”人間いかに生くべきか”という当為ではなくて”人間どう生きているのか”さへ露わにに現れてしまう
> >
> >
> > いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・
> >
> >
> >
> > > > 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
> > > >
> > > > 案山子立つ下半身以下省略す
> > >
> > > 某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね
> > >
> > > この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである
> > >
> > > 大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである
> > >
> > >
> > > > http://furansudo.ocnk.net/product/1853
> > > >
> > > > ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> > > > 『透明な身体』
> > > >
> > > > ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> > > > 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> > > > 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> > > > (栞より:こしのゆみこ)
> > >
> > > いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである
> > >
> > >
> > > もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう
> > >
> > >
> > > > ◆自選十五句より
> > > > 舟虫の化石にならぬため走る
> > >
> > > 詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句
> > >
> > > いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
> > >
> > > > 螢狩してきし足を抱いて寝る
> > >
> > > つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい
> > >
> > > いつまで幼稚に淫しているのだ?
> > >
> > >
> > > もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略
> > >
> > > > 象の頭に小石の詰まる天の川
> > > > 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> > > > 木下闇からだを拭けば赤くなり
> > > > 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> > > > クーラーのしたで潜水艦つくる
> > > > 下半身省略されて案山子佇つ
> > > > 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> > > > 磯巾着小石あつめて眠りゐる
> > > >
> > > > *
> > > > [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> > > > 序句:中村和弘
> > > > 栞:こしのゆみこ
> > > > 装丁:君嶋真理子
> > > > 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> > > > 204頁
> > > > 2012.09.25刊行
> > > >
> > > > さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?
> > >
> > > こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ
> > >
> > > 中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す
> > >
> > > それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね
> > >
> > > 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ
> > >
> > > 若さ、馬鹿さが、売りなんです
> >
> > 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54954] 臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよRe:[54953] 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・Re:[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 09:01  

にきおくらANNEX−Ω 訪問者数:12126896(今日:175/昨日:709)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/10(Mon) 07:48 大安(丙申)スポーツの日 旧暦 9/15 月齢 14.2満月(6時)

日継日嗣柩尿意尿意眠り継ぐで昨日より眠り続けて・・目覚めて一昨日昨日の沈殿した澱を掬う


福柿

だんごがうりきれの団子やのまえでピナレロプリンスで減った腹の養生に考えあぐねていると品の良いご婦人がママ茶利で現れて、我と婦人と同時に福柿を指さし・・

あら?

残った2パック、2個入り、3個入り、1パックづつがケースにあって・・

昼めしかわりで年も取ったから2個入りでいいよ

ありがとう、ぢゃあ、わたしは3個入りを・・

これ、中身はあんこ?

白餡に干し柿を刻んだもので、美味しいわよ

この姿の美しさ、お茶うけにも・・茶会の

そうなの、いつもお茶会で・・

ぢゃあ、3個では足んないでしょ

いえ、きょうは家族ようですから・・よかった

よかった

あれは一昨日の昼で、その福柿を後生大事に背中のバックにつめて帰って

福柿断食、二日間眠りコケタその途中で目覚めた昨日の朝

昨日の朝 NHKいつもの「宗教の時間」出演者、かの島薗進に加えて若松英輔ほか、テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回

佞人というものは、社会にも組織にも、その法においても、それを批判し墓石、破壊し無化しようという姿勢がない。


それは俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・

> んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・
>
> 加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く


この佞人の性は魔境の預言者即若松英輔君の性にもいえる

>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
> 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
> ・・・
> 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 統一教会文鮮明崇拝と神一重

この統一教会文鮮明崇拝と神一重の若松英輔がシャーシャーとNHKいつもの「宗教の時間」テーマは「旧統一教会」についての討論会第1回において曰く「一番重要なのは人間なのです」と・・

開いた口が塞がらんね

このこの預言者めかして「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」と宣った若松英輔はいったいどの口を、どの脳みそを、どの身口意をもって「一番重要なのは人間なのです」といえるのであらうか?

ま、預言者にしても、評論家にしても、随筆家にしても、神父、牧師、宗教家にしても、思想家にしても、そんなもんなんであらうね

出演者は牧師が二人、僧侶が一人、宗教学者が二人、カトリック系「批評家・随筆家」が一人、そこでカトリックの犯した罪を反省して今のカトリックが云々という議論の流れのところで、カトリックの若松英輔へ発言が振られてカトリックをあれだけ主張している若松英輔が「批評家・随筆家」の肩書で出演して、カトリックのカの字も言わずに、「一番重要なのは人間なのです」と・・

「一番重要なのは人間なのです」と本当に思っていて、そういう人間が「「預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない」などといったい云えるのであらうか?

云えるんですね、それが、身口意は分裂しておればこそ・・

その場、その場、で世間の流れに身を委ねてご都合主義の自己分裂さえ覚さず、隠さず、シャーシャーと羊のしょんべんのごとくしゃべくりまくる

臭いことよ、汚いことよ、醜いことよ、おぞましいことよ

おなじ風がこのこの俳壇の風景にも感じられる

非常口に緑の男いつも逃げ



華麗な墓原女陰あらわに村眠り



> > わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 06:03先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜
>
> あ、そうそう
>
> > 陸主宰中村和弘のことば
> > 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> > これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。」
> >
> > との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
> >
> > 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・
>
>
> から発して・・
>
> > 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
> >
> > 芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている
> >
> > 而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・
> >
> > こがらしの身は竹斎に似たる哉
> >
> > 弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず
> >
> > とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある
> >
> > 竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか
> >
> > 「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者
> >
> > そこには確たる詠者が現前としてゐる
> >
> > 云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
> >  
> > 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
> >
> > 「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する
> >
> > 気鋒
> >
> > 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
> >
> > 機鋒がある
> >
> > 而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか
> >
> > 「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる
> >
> > 露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア
> >
> > 「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?
> >
> > なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい
> >
> > 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
> >
> > おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・
> >
> > 身削がれし鰻露骨に泳ぐ板
> >
> > 露骨にすぎる
> >
> > 身口意、知情意
> >
> > 分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> >
> > 身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く
> >
> > 而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度
> >
> > 意匠と表現、不易流行
> >
> > 我の存否
> >
> > 我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
> >
> > 共感、感動とは如何なるものか
> >
> > 一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?
> >
> > ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・
> >
> > > いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
> > >
> > > 懊悩の諸手を挙げて寒昴
> > >
> > > 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
> > >
> > > 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
> > >
> > > 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
> > >
> > > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
> >
> > 此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する
> >
> > 而して・・
> >
> > > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> > > http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
> > >        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> > > 2022年09月16日 11:34
> > >
> > >   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...
> >
> > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太
>
> この句のレトリックの裏側も丸見えだね
>
> 墓原はハカハラであって、ハラカラは容易に連想できる
>
> 華麗なハラカラ女陰あらわに村眠り
>
> となればハラカラから「女陰あらわ」までは一直線
>
> そこでちょっとひねって「村眠り」とくるのは、「華麗なる一族」が流行していたころのいやみであらうがね
>
> これらの句、爆心地のマラソンにも、華麗な墓原女陰あらわにも、全然”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない
>
> この”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、兜太の臭く、汚く、おぞましい性は生かされている
>
> > これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?
> >
> > 詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない
> >
> > 「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?
> >
> > だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる
> >
> > 「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない
> >
> > ここにあるのは・・
> >
> > 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
> >
> > と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ
> >
> > 知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする
> >
> > 臭い、醜い、おぞましい
> >
> > > おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
> > >
> > > ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> > > 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、
> >
> > 一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる
> >
> > それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ
> >
> > 霊も魂も抜けた剥製、張りぼてを、ね
> >
> > 而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る
> >
> > その風が、臭い、醜い、おぞましい
> >
> > > 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
> >
> > この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない
> >
> > > 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
> >
> > これは「町の辻」が効いている、十字架
> >
> > 而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
> > >
> > > 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
> > >
> > > 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
> >
> > これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない
> >
> >
> > > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
> > >
> > > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> > >
> > > 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
> >
> > これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく
> >
> > 身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ
> >
> > 知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ
> >
> > ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう
>
> これらの”人間いかに生くべきか”という自問など全然は込められていない句にもこの”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、いわずもがなに人間が生きている
>
> どうやろうとも「俳句のなかに」さへ「私という人間は「生か」されなくとも、生きざるを得ないのだ
>
> その「俳句の中にも生きざるを得ない人間」の”人間いかに生くべきか”という当為ではなくて”人間どう生きているのか”さへ露わにに現れてしまう
>
>
> いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・
>
>
>
> > > 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
> > >
> > > 案山子立つ下半身以下省略す
> >
> > 某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね
> >
> > この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである
> >
> > 大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである
> >
> >
> > > http://furansudo.ocnk.net/product/1853
> > >
> > > ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> > > 『透明な身体』
> > >
> > > ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> > > 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> > > 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> > > (栞より:こしのゆみこ)
> >
> > いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである
> >
> >
> > もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう
> >
> >
> > > ◆自選十五句より
> > > 舟虫の化石にならぬため走る
> >
> > 詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句
> >
> > いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
> >
> > > 螢狩してきし足を抱いて寝る
> >
> > つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい
> >
> > いつまで幼稚に淫しているのだ?
> >
> >
> > もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略
> >
> > > 象の頭に小石の詰まる天の川
> > > 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> > > 木下闇からだを拭けば赤くなり
> > > 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> > > クーラーのしたで潜水艦つくる
> > > 下半身省略されて案山子佇つ
> > > 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> > > 磯巾着小石あつめて眠りゐる
> > >
> > > *
> > > [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> > > 序句:中村和弘
> > > 栞:こしのゆみこ
> > > 装丁:君嶋真理子
> > > 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> > > 204頁
> > > 2012.09.25刊行
> > >
> > > さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?
> >
> > こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ
> >
> > 中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す
> >
> > それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね
> >
> > 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ
> >
> > 若さ、馬鹿さが、売りなんです
>
> 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54953] 華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・Re:[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 11:24  

> わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 06:03先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜

あ、そうそう

> 陸主宰中村和弘のことば
> 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。
>
> との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
>
> 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・


から発して・・

> 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
>
> 芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている
>
> 而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・
>
> こがらしの身は竹斎に似たる哉
>
> 弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず
>
> とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある
>
> 竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか
>
> 「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者
>
> そこには確たる詠者が現前としてゐる
>
> 云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
>  
> 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
>
> 「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する
>
> 気鋒
>
> 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
>
> 機鋒がある
>
> 而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか
>
> 「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる
>
> 露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア
>
> 「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?
>
> なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい
>
> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・
>
> 身削がれし鰻露骨に泳ぐ板
>
> 露骨にすぎる
>
> 身口意、知情意
>
> 分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
>
> 身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く
>
> 而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度
>
> 意匠と表現、不易流行
>
> 我の存否
>
> 我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化
>
> 共感、感動とは如何なるものか
>
> 一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?
>
> ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・
>
> > いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
> >
> > 懊悩の諸手を挙げて寒昴
> >
> > 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
> >
> > 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
> >
> > 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
> >
> > 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
>
> 此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する
>
> 而して・・
>
> > 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> > http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
> >        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> > 2022年09月16日 11:34
> >
> >   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

この句のレトリックの裏側も丸見えだね

墓原はハカハラであって、ハラカラは容易に連想できる

華麗なハラカラ女陰あらわに村眠り

となればハラカラから「女陰あらわ」までは一直線

そこでちょっとひねって「村眠り」とくるのは、「華麗なる一族」が流行していたころのいやみであらうがね

これらの句、爆心地のマラソンにも、華麗な墓原女陰あらわにも、全然”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない

この”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、兜太の臭く、汚く、おぞましい性は生かされている

> これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?
>
> 詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない
>
> 「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?
>
> だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる
>
> 「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない
>
> ここにあるのは・・
>
> 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
>
> と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ
>
> 知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする
>
> 臭い、醜い、おぞましい
>
> > おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
> >
> > ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> > 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、
>
> 一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる
>
> それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ
>
> 霊も魂も抜けた剥製、張りぼてを、ね
>
> 而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る
>
> その風が、臭い、醜い、おぞましい
>
> > 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない
>
> > 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
>
> これは「町の辻」が効いている、十字架
>
> 而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
> >
> > 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
> >
> > 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>
> これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない
>
>
> > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
> >
> > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> >
> > 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
>
> これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく
>
> 身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ
>
> 知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ
>
> ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう

これらの”人間いかに生くべきか”という自問など全然は込められていない句にもこの”人間いかに生くべきか”という自問は込められていない句にも「俳句のなかに私という人間を生かす」ということでは、いわずもがなに人間が生きている

どうやろうとも「俳句のなかに」さへ「私という人間は「生か」されなくとも、生きざるを得ないのだ

その「俳句の中にも生きざるを得ない人間」の”人間いかに生くべきか”という当為ではなくて”人間どう生きているのか”さへ露わにに現れてしまう


いかに「ヒッカケ」て「広告」しようが、それは隠しようもなく、露わなのである、兜太の「女陰あらわ」のごとく・・



> > 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
> >
> > 案山子立つ下半身以下省略す
>
> 某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね
>
> この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである
>
> 大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである
>
>
> > http://furansudo.ocnk.net/product/1853
> >
> > ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> > 『透明な身体』
> >
> > ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> > 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> > 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> > (栞より:こしのゆみこ)
>
> いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである
>
>
> もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう
>
>
> > ◆自選十五句より
> > 舟虫の化石にならぬため走る
>
> 詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句
>
> いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
>
> > 螢狩してきし足を抱いて寝る
>
> つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい
>
> いつまで幼稚に淫しているのだ?
>
>
> もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略
>
> > 象の頭に小石の詰まる天の川
> > 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> > 木下闇からだを拭けば赤くなり
> > 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> > クーラーのしたで潜水艦つくる
> > 下半身省略されて案山子佇つ
> > 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> > 磯巾着小石あつめて眠りゐる
> >
> > *
> > [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> > 序句:中村和弘
> > 栞:こしのゆみこ
> > 装丁:君嶋真理子
> > 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> > 204頁
> > 2012.09.25刊行
> >
> > さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?
>
> こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ
>
> 中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す
>
> それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね
>
> 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ
>
> 若さ、馬鹿さが、売りなんです

華麗なるハカハラかハラカラかしらんが、臭気が臭い立つね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54952] 俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえRe:[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/08(Sat) 09:43  

わほこむよANNEX−Ω   訪問者数:12124684(今日:158/昨日:2026)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 08:16 先負(甲午) 旧暦 9/13 寒露 月齢 12.2 十三夜

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

芭蕉は俳句には気鋒も重要な要素といっておったが、この句頭の「狂句」は気鋒としてよく効いている

而して、のちにこの頭の「狂句」を除いたとか・・

こがらしの身は竹斎に似たる哉

弱くなるねえ、自余りの「狂句」があってこその句であって、「似たる哉」が直喩であるだけに「表現」としての弱体化は否めず

とはいえ、「竹斎」の一語、藪医者の固有名詞という背景の事情を知らぬでも、「竹斎」という一語の語感からなにか感得するものがある

竹という成長も早いが枯れるのも早いもの、その斎、つまり「ものいみ」「いつき」との組み合わせ、そこまで味わうのは深読みのあじわいであらうか

「こがらしの身」は「竹斎に似たる哉」とおどける詠者

そこには確たる詠者が現前としてゐる

云ってみればかの道元の「有時経歴」の「我」がゐる、その詠者の「我」に読者の我が共感できるか?
 
野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉

「有時経歴」の「我」をもって云えば、その覚悟、過去現在のみならず、その未来までもが現成する

気鋒

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼

機鋒がある

而して「露人ワシコフ」とはなにものであらうか?「竹斎」とはなにものであらうか?という愚問にも似て、なにものであらうとも、一句は成り立つのはないか

「露人」は人を露出している、さらに「ワシコフ」にはワシたる儂がいる

露西亜、西欧と亜細亜に露出しているロシア

「叫びて石榴打ち落す」のはなぜ?

なぜもなく「叫びて石榴打ち落す」、そこの味わい、露人の性を露出した味わい

身削がれし鰻の骨の泳ぐ板

おさかなくんの映像での即詠にして、露骨にやれば・・

身削がれし鰻露骨に泳ぐ板

露骨にすぎる

身口意、知情意

分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化

身口意は仏教的三業にしてやや行為に傾く、知情意は基教的カントの謂いにしてやや精神に傾く

而しての共通するところは「意」、行為発動未然の意志・態度

意匠と表現、不易流行

我の存否

我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化

共感、感動とは如何なるものか

一句は詠者の現成なれば、そのまるごとの一句に読者は一体どう反応するのか?

ニコチン1mgが12℃の昨日の朝より切れ、今朝5mgを3本喫って、四肢重く、脳のアセチルコリン受容体が活性化され・・

> いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露
>
> 懊悩の諸手を挙げて寒昴
>
> 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
>
> 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
>
> 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
>
> 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子

此処までの句には詠者の我が現前として一句の計、景、意匠表現の中にゐる、存在する

而して・・

> 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
> http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
>        9 兜太百句を読む「湾曲し」
> 2022年09月16日 11:34
>
>   金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...

華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

これらの兜太の句にはいったいどこに詠者たる兜太の我はいるのだらうか?

詠者は一句の景のまったく外側としか言いようがない

「湾曲し火傷し爆心地」を「マラソン」しているのは兜太か?だれか?被爆者か?被爆者の霊か?それを弔う生き残った現代人か?

だうも弔いの風も感じられない、全く一句の景色の外から第三者の観察眼をもってして叙景しておる

「湾曲し火傷し」た人々や街や「爆心地」へのシンパシーもなく、いわばヘテロパシー、それを冷厳な眼といえばいえるであらうが、共感はしない

ここにあるのは・・

華麗な墓原女陰あらわに村眠り

と同様に「表現」の技巧ばかりであって、目立つ言葉の配合をもって、いわば身口意の「口」ばっかりで「身」の行為が叙景されており、その「意」においての詠者の態度は見下げたものだ

知情意でいえば、「知」ばかりが露わであって、「情」がなく、「意」においては軽蔑にさえあたいする

臭い、醜い、おぞましい

> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
>
> ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
> 狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、

一句の景色において「我」不在な句に比して、この「おおかみ」において兜太は我を主張しておる

それが見えておるからこそ、大石雄鬼らの佞人どもが兜太のこの我たる「おおかみ」をおがみたてまつるわけだ

霊も魂の抜けた剥製、張りぼてを、ね

而して、この思考、志向、嗜好、歯垢が現俳協に拡がり、腐敗臭が世に蔓延る

その風が、臭い、醜い、おぞましい

> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

この句においては臭く、醜く、おぞましくもない我はいるが、それをそれを道元の「有時経歴」の「我」として読むには我が少々弱いかもしれない、見ようによっては凡慨の域を出得ない

> 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

これは「町の辻」が効いている、十字架

而して詠者が「人形を射つ」でもなく「流燈」しているでもなく「町」なんだから、第三者的詠みであって、その「町の辻」に佇つ詠者に存在感がある
>
> 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
>
> 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子

これらおいては我は希薄であって、第三者的眼ばかりが在る、ゆえに共感のしようもない


> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘
>
> 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
>
> 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

これらおいても詠者の我は希薄であって、目立つ言葉「農奴」「原罪」「煩悩」ばかりが広告の効果は発揮しているが、これらの抽象観念を具象において破壊、あるいは具現化していることは評価し得ても「農奴」「原罪」「煩悩」において深みがなく、いわばこれらの言葉は大岡信曰くの「ヒッカケ」であって、ゆえに共感のしようもなく

身口意でいえば、身の行為はなく、口ばかりで、意においては広告的なところが目立つ

知情意でいえば、知はなく、情もなく、意においてはやはり広告的なところが目立つ

ゆえにその風が、臭い、醜い、おぞましいといわれる所以でもあらう

> 下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼
>
> 案山子立つ下半身以下省略す

某甲の記憶の中では「案山子立つ下半身以下省略す」であったが、元句は「下半身省略されて案山子佇つ」だったのね

この二つの「表現」の差異に期せずして詠みの「態度」[意」が露わである

大石雄鬼においては「意」の意志の欠如があらわである


> http://furansudo.ocnk.net/product/1853
>
> ■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
> 『透明な身体』
>
> ◆精選俳句叢書「月」シリーズ
> 夏痩せてメリーゴーランドと沈む
> 「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
> (栞より:こしのゆみこ)

いうまでもなく、これらの句においても詠者大石雄鬼は「意」の意志の欠如があらわである、のみならず、そこに現れた我における感慨、いわば詠者の楽しみ方が、じつに幼稚である、オタクである、メルヘンである


もっとも、俳句なるもんも、360度如何なる方向へいこうともそれは趣味の問題であって、佳い句とは、中村和弘的には広告的に有効、大石雄鬼的には幼稚、漫画、オタク、メルヘン的に有効とする風もあるんであらう


> ◆自選十五句より
> 舟虫の化石にならぬため走る

詠者は「舟虫」ではなからう、見立て句

いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す

> 螢狩してきし足を抱いて寝る

つまらぬはないがこの我においては、もうちょっと成長しろ、まともな感慨をもてといいたい

いつまで幼稚に淫しているのだ?


もっともこの幼稚さにはまるむきも多いのであらう、ゆるきゃらの時代なれば・・以下同様なれば省略

> 象の頭に小石の詰まる天の川
> 菜の花をシャドーボクサー横切れり
> 木下闇からだを拭けば赤くなり
> 胸に綿あつまつてゐる夏布団
> クーラーのしたで潜水艦つくる
> 下半身省略されて案山子佇つ
> 獅子舞の心臓ふたつもて怒る
> 磯巾着小石あつめて眠りゐる
>
> *
> [おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
> 序句:中村和弘
> 栞:こしのゆみこ
> 装丁:君嶋真理子
> 四六判並製小口折表紙グラシン巻き
> 204頁
> 2012.09.25刊行
>
> さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?

こうしてみてみると、一心同体、中村和弘と大石雄鬼は句風がにているから云々は、どうも違うようだ

中村和弘はむしろ金子兜太の句風に近く、内容がないブラフでも、その目立つ言葉によって広告的効果出す

それに対して大石雄鬼の句風は、現代ゆるきゃらの流行と大衆の迎合趣味を反映して、本来の俳句の面目たるところの、不易や気鋒や、我においての身口意、知情意の分裂、統合、一致、脱構築、破壊、無化などのありようからは、遠ざかる一方だね

俳句なんて紙一重なんだからぐだぐだいわないの、あんた若いねえ

若さ、馬鹿さが、売りなんです

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54951] さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 08:16  

いとのとろANNEX−Ω   訪問者数:12122103(今日:188/昨日:1777)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/06(Thu) 07:29 先勝(壬辰) 旧暦 9/11 月齢 10.2 意図の吐露

懊悩の諸手を挙げて寒昴

春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子

去年今年貫く棒の如きもの  虚子

大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子

湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』 
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-53da.html
       9 兜太百句を読む「湾曲し」
2022年09月16日 11:34

  金子兜太百句を読む 池田澄子  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 『金子兜太句集』                       金子 これはまあね、極め付けだ。まあ前衛俳句なんて言われるのはこういう句からです。これと「華麗な墓原」と。ちょうど神戸から ...

おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太

ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ
狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、


山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子

非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子


実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘

生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

下半身省略されて案山子佇つ  大石雄鬼

案山子立つ下半身以下省略す

http://furansudo.ocnk.net/product/1853

■週間俳句で小野裕三さんが書評を書かれています。
『透明な身体』

◆精選俳句叢書「月」シリーズ
夏痩せてメリーゴーランドと沈む
「夏痩せ」の句が出れば大石さんの句に間違いない。夏痩せの自分を愛しみ、楽しみ、遊ぶ。大石さんの夏痩せの体はまだ未知の、俳句の種の詰まった抽出がいっぱいありそうだ。
(栞より:こしのゆみこ)


◆自選十五句より
舟虫の化石にならぬため走る
螢狩してきし足を抱いて寝る
象の頭に小石の詰まる天の川
菜の花をシャドーボクサー横切れり
木下闇からだを拭けば赤くなり
胸に綿あつまつてゐる夏布団
クーラーのしたで潜水艦つくる
下半身省略されて案山子佇つ
獅子舞の心臓ふたつもて怒る
磯巾着小石あつめて眠りゐる


[おおいしゆうき(1958〜)「陸」編集長 「豆の木」参加]
序句:中村和弘
栞:こしのゆみこ
装丁:君嶋真理子
四六判並製小口折表紙グラシン巻き
204頁
2012.09.25刊行

さて、材料を適当に見繕ったが、これらをどう料理しやうか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54950] ろくでもない風体即大石雄鬼君だが、これはその醸す形姿のみならず一句の一言の一行為の臭気の際立つ幽鬼めいたもんを、現俳協の筆頭幹事につけ、事業部長となしちょるがゆえに、現俳協のデータベースも煩悩詰まる生ゴミになり果てるんぢゃわいの。煩悩詰まる生ゴミも捨てたもんではないが、ようは ”人間いかに生くべきか”における使いようであるジャーナリストの広告屋の「表現」Re:[54949] ”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない生ゴミの煩悩散らす群れ鴉Re:[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/29(Thu) 15:14  

ててうおいANNEX−Ω   訪問者数:12112793(今日:328/昨日:2655)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/29(Thu) 10:44 赤口(乙酉)旧暦 9/4月齢 3.2

”人間いかに生くべきか”にはある志向性がある

人格的陶冶もあれば苦娑婆での位階を求める嗜好もある

「有時・経歴」の中心の「我」においてその志向にして嗜好は前後左右上下、まるで天球宇宙のやうに四方八方へ触手を伸ばす

人間も人権<人格<風格と苦娑婆の核が拡がって、ついには地水火風空の空にさへ至る

風は西欧の神の伝統においては神の息吹であり

神を前提にせぬ東洋においても「百骸九竅の中に物有り。かりに名付けて風羅坊といふ」天籟

而して、この風も「風羅坊」の風体、そこから肉を抜き取り風骨、骨もぬきとり風勢、趣味としての風情もある

さて、”人間いかに生くべきか”?



> もたぬをてANNEX−Ω 訪問者数:12100378(今日:199/昨日:724)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/21(Wed) 07:58 先負(丁丑) 旧暦 8/26 月齢 24.8 持たぬを手
>
> 持たぬを手とならば・・
>
> 入れものが無い両手で受ける 放哉
>
> 鉄鉢の中へも霰 山頭火

これらには「志向」性も「嗜好」性も希薄であって「する」ことよりやはり「ある」ことに重点があり「どうしようもないわたし」ではあるが、そういう「どうしようもないわたし」を選び取った、あるいは選び取らされた「経歴」は感知できる

正直である



> とここまでで寝てしまった。脳みそ身体のニコチン抜きに二日間、今朝起きてやや軽くなった身体でそじ坊の不味いかつ丼と冷やし山菜とろろそばセット\1140円也のあと帰りしなのVie de Franceでいくつか見繕い、それこそ「入れものが無い両手で受ける」モチモチゴマアンドーナツ\140+プレミアムアンドーナツ\180+パン・オ・レザン\200を素手で受け、背面ポケットにつっこみ、

正直といえば、パン・オ・レザンは\200ではなく\220である


> てくてくと「どうしようもないわたしが歩いてゐる」山頭火の淫酒酒乱ならねど、またニコチンに侵された四肢をもっててくてく・・
>
> 悪舌を収めて入歯浮ける胡麻
>
> 秋天の地獄へ食はせ愚痴の数々
>
> だうも、現俳協のデータベースを眺めておっても、作品も句評も、また、それらへの感想も愚痴ばかりで、まことに不味くかつ丼もドーナツも入れものが無い両手で受ける反吐になりそう

さて、”人間いかに生くべきか”?煩悩詰まる生ゴミにもどろう、彼我の愚痴のオンパレード

> > えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8
>
> > Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84
> >
> > HonestyとPrettyFacesとPrettyLies
> >
> >
> > > > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> > > >
> > > Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > > http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
> > >
> > > > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > > > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> > > >
> > > > 鳩一羽人間一人木下闇
> > > >
> > > > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
> > >
> > > 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
> > >
> > > > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> > > >
> > > > 炎天下地名人名樹木名
> > > >
> > > > 名を知って、

名を以て存在となす

思い出す、思うことは大切だね、良かれ悪しかれ、光と闇、人生の自然の彫琢

> > > > ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も

> > > > ああ、逝った、行った、あの木は山法師
> >
> > 山法師といえば田川飛旅子を思い出す
>
> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> 道元の「経歴」、重畳たる山々を分け入って、永平寺に赴く道元、高野山へ分け入る空海、比叡山へ分け入る最澄、さらには千日回峰の阿闍梨ら、その祖の役小角らの趣味がややなくもない
>
> 分け入っても分け入っても青い山 山頭火

人間(じんかん)到る処青山有り

青山墓地

人間(じんかん)到る処墓場有り、ゴミ捨場あり

> 奥の院で入定した空海の髭も濃くなっているであらうか

ここ20数年ぶりに「田川飛旅子読本」角川書店編 平成7年=1995年を読み返した

飛旅子は正直だね、嘘がない、つくりこまない、一句は他人に読ませる、賞をとるとか、人気を博すというよりも、一句を詠むことによって詩文を、まずそれを読む自分をなぐさめる

まあ、いってみれば自己救済

底が眼目であって、兜太のごとき、大岡信がごとき、ヤラセではない

これはまことに”人間いかに生くべきか”の重大な局面にして人間の「本来の面目」であらうがね

> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> 生命力は強いね、でもこれでは救われない
>
> いまNHKのおさかなくんの番組でやっていた
>
> 変な被り物をしてキーキー声で、あんなもんが享ける時代で、そっこらじゅうぬいぐるみのメルヘンだらけで、ゆえにメルヘン俳句か、レベルが落ちたもんだ

そういう飛旅子のもとで学んでいったいこの大石雄鬼君、とても雄鬼とはいえぬ幽鬼の風体にして

案山子立つ下半身以下省略す 大石雄鬼

だったかな、よく覚えておらんが・・カーブミラーと焼き芋屋とか、覚えるにも莫迦莫迦しい「だぶだぶのズボン」とか、自己を韜晦して幽鬼のごとくからみつき、ごまかし、排除をこととなす大石雄鬼君

山本千代子氏も追われたか辞めたかしらんが、「あの雄鬼というのはろくなもんぢゃないね」という電話が最後の電話であった

またしても排除の論理木の実落つ  加藤山査子

この句を当時、陸の定例句会でとったが、山査子氏は風格があった、いつも美人を引き連れ京王百貨店の社長という個人情報をはなれても、句風にも風格があった

親木より排除されたとはいわんでも親木より落とされた木の実は地に落ちてまた芽を出し、新たな木になる気にさせる、現代の娑婆世間の佞人どもに排除され踏み付けられてもまた復活する、そんな趣味がある

それにしても、そんなろくでもない風体即大石雄鬼君だが、これはその醸す形姿のみならず一句の一言の一行為の臭気の際立つ幽鬼めいたもんを、現俳協の筆頭幹事につけ、事業部長となしちょるがゆえに、現俳協のデータベースも煩悩詰まる生ゴミになり果てるんぢゃわいの

まあ、思い出す、思うことは大切だね、良かれ悪しかれ、光と闇、人生の自然の彫琢にして経歴


> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・云々


なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

>  この現実から切り離されたような一コマは、絵本の一ページのようでもある。

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘン鑑賞ですね、まことにごもっともです

> この不思議な感覚は、螢が夏の季語、狼が冬の季語、という俳句の決まりごとが影響しているかもしれない。もちろん絶滅したニホンオオカミと現存する螢との組み合わせが不思議さを醸しだしているが、俳句をつくる者に刷り込まれてしまった狼は冬のものという決まりごとと、夏の象徴である螢との同時の存在がこの俳句に不思議な印象を与えている。それは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の四季の花が同時に咲いているシーンの異様さに似ている。(ちなみにこの映画では、一つ一つの花の名がわかるように描かれており、その結果各季節の花が同時に咲く不自然さからそこが異界であることがわかる演出になっている。)

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘンの深みに達した鑑賞ですね、まことにごもっともです

>  金子兜太は多くの狼の句を作っているが、これほどストレートで、これほど難解で、これほど心に残ってしまうものは、この句を置いてないであろう。この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。

「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分」とは、なんなんでしょう?

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

狼の霊も魂もぬきとって、狼が兜太によって展開された「おおかみ」の表現、大石雄鬼君はまんまと引っ掛かっている、いやさ、意図的にひっかけられているのか

ママ〜、おおかみに螢が一つ付いていたよ

あら、可愛いいわね、とは、かつてここに存在した村井しゅうさんか

ぢゃあ、おーいお茶にでも投稿しましょ

すっかす、こんなやらせの駄句なんぞ、おーいお茶でもとらんべ、お茶が濁る

あの虫唾の走る大岡信曰く、「表現における近代」岩波1983年 283頁

「多かれ少なかれ、人に見せたり、読ませたりする「表現」というものには、その享受者をヒッカケてやろうという意思が混濁する」

ジャーナリスト詩人大岡信ならではの言いぐさで、大岡の「折々のうた」もまたヒッカケであることを自ら吐露している、朝日新聞の広告の片棒担ぎでさんざん読者の駄句を掲載して、読者にすりよりごますり発行部数増大に貢献して、文化勲章が呵々大笑ぢゃったが、ソレに勲章をあげた河合隼雄がまた創価学会にすりより文化庁長官なんだから、まあ、光と影の彫琢にも臭気が鼻を突き、反吐を催す

> 道元の「経歴」
> [54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41

> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 「有時」を刻々に「経歴」せしめる中心軸としての「我」は、
>
> 生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体でなければならない
>
> と同時に、また、
>
> 万象「同時炳現」の非時間的マンダラを、寂然不動の相において観察する形而上的主体でもなければならない。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 分け入っても分け入ってもゴミの山は飛ばして・・

また好んで煩悩詰まる生ゴミの山に分け入って


> > > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

農奴、これ・・なべて文明国の社会に内在した毒であって、土地に、社会に拘束された人間の苦

> > 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
> >
> > 蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・
> >
> > 此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である
> >
> > 蛸壺に蛸が入って凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺

> > そのタコツボから抜けられぬ人間の思想
>
> 人間の思想のみならず、そこから抜けられぬ人間そのもの
>
> 俳句も結社も協会も教会も政党も奸僚もみなタコツボ化しておる
>
> > 聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大
>
> 生老病死はなぬも仏教に限らぬ、人間存在の大本
>
>
> > しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?
> >
> > 苦の救いがあるか
> >
> > ありません。
>
> > 狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却までにはいたりません
> >
> > なぜだらうか?
> >
> > 一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね
> >
> > 一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです
>
> 山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子
>
> この「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く「我」を軸とした詠みに比して、中村和弘氏によって往々引き合いに出される句
>
> 人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子
>
> 犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子
>
> 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>
> これらもみな第三者の観察眼なのですね
>
> なにかこう生の大本へ食い込んでくるものがない
>
> もっとも、眺める、見る、のは、この国のことばでいえば目合ひ(まぐわい)であるからして、一句の景と目合ひて交感しているのかもしれない

実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘


一句の、一評の、一貌の、景は人格の計にして、現成するものであれば・・中村和弘氏は自らにおいて農奴を、原罪を感じて凍てておるのであらか?

だうも、そういう感じもしない

飛旅子の句においては第3者的観察眼とはいえ、その巷の不条理と不気味さを詠んだものなればその不条理と不気味さの最中に我を置いている、とくに「町の辻」においては、死と霊の交錯する十字架すら思わしめる交感がある

> 交感しても感動がない

ことさらに農奴だ原罪だと、目立つ言葉を配して、一句を目立つ、佳い句となすのは、いわば、広告の手法である

広告においては、まんず ”人間いかに生くべきか”を問うこともなからう

広告においては、まんず いかに人目について買ってもらえるかが、眼目

まあ、松本仁志を広告に起用するリクルートのようなもんだ、醜悪さが売りで目立てばよいちうさもしさ

買ってもらった結果が陸の主宰で、現俳協の会長で「ある」

しかあれば、恥を知れば、長広告の・・

> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★


> これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」一体全体句評なのであらうか?

バカバカしくて話にもならぬ、こんなものを現俳協のデータベースに掲げておくことすら、恥ずかしくてできぬことであらうがね、ましてや、原罪に凍てておれば・・


> 先の丸山真男の言葉でいえば「である」ことと「する」こと
>
> 「である」ことに安住して「する」ことがなおざりではないだらうか
>
> 陸主宰のことば
> 「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
> これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。
>
> との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない
>
> 畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・
>
> ふる池やかわず飛び込む水の音 芭蕉
>
> 佛頂和尚と方丈に対座しているときに芭蕉の口から飛び出した「かわず飛び込む水の音」
>
> その頭に「ふる池や」とつけて一句になったともいわれるこの句にはやはり生の禅味がある
>
> 時々刻々刹那刹那に古池が「かわず飛び込む水の音」で新しく蘇る、そこの機微
>
> > かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄
> >
> > http://miho.opera-noel.net/archives/480
> >
> > 『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …
> >
> > とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている
> >
> > かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である

自らを聖となすものにはろくなもんがおらん

かといって聖なるものがみな煩悩詰まる生ゴミの臭気を発するかといえば、そうでもなく、つかいようによってはまた煩悩詰まる生ゴミが香華を発し聖に化すこともある

> > 最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集
> >
> > まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども
> >
> > その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ
> >
> > 鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね
>
> 生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘
>
> 生ゴミの煩悩散らす群れ鴉

生ゴミの煩悩詰めて東国の地べたを徘徊した親鸞

生ゴミの煩悩ゆえに霊性に覚めた

その親鸞を聖人と聖化した真宗教団は娑婆での世俗的地位は向上したものの、霊性においては堕落の一途を辿った

差別戒名の多い事、天皇皇族の序列に買官行為で連なるその俗悪さ、それが観えるもんの嘲笑も無礙に大伽藍を整備し、己が貴賓皇族ようの専用火葬炉さえ持つに至った、京都火葬場

かように真宗一つとってもその「経歴」は天地の涯を彷徨する


煩悩詰まる生ゴミも捨てたもんではないが、ようは ”人間いかに生くべきか”における使いようである

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54949] ”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない生ゴミの煩悩散らす群れ鴉Re:[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/23(Fri) 22:05  

もたぬをてANNEX−Ω 訪問者数:12100378(今日:199/昨日:724)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/21(Wed) 07:58 先負(丁丑) 旧暦 8/26 月齢 24.8 持たぬを手

持たぬを手とならば・・

入れものが無い両手で受ける 放哉

鉄鉢の中へも霰 山頭火

とここまでで寝てしまった。脳みそ身体のニコチン抜きに二日間、今朝起きてやや軽くなった身体でそじ坊の不味いかつ丼と冷やし山菜とろろそばセット\1140円也のあと帰りしなのVie de Franceでいくつか見繕い、それこそ「入れものが無い両手で受ける」モチモチゴマアンドーナツ\140+プレミアムアンドーナツ\180+パン・オ・レザン\200を素手で受け、背面ポケットにつっこみ、てくてくと「どうしようもないわたしが歩いてゐる」山頭火の淫酒酒乱ならねど、またニコチンに侵された四肢をもっててくてく・・

悪舌を収めて入歯浮ける胡麻

秋天の地獄へ食はせ愚痴の数々

だうも、現俳協のデータベースを眺めておっても、作品も句評も、また、それらへの感想も愚痴ばかりで、まことに不味くかつ丼もドーナツも入れものが無い両手で受ける反吐になりそう



> えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8

> Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
> http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84
>
> HonestyとPrettyFacesとPrettyLies
>
>
> > > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> > >
> > Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> > http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
> >
> > > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> > >
> > > 鳩一羽人間一人木下闇
> > >
> > > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
> >
> > 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
> >
> > > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> > >
> > > 炎天下地名人名樹木名
> > >
> > > 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
> > >
> > > ああ、逝った、行った、あの木は山法師
>
> 山法師といえば田川飛旅子を思い出す

山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

道元の「経歴」、重畳たる山々を分け入って、永平寺に赴く道元、高野山へ分け入る空海、比叡山へ分け入る最澄、さらには千日回峰の阿闍梨ら、その祖の役小角らの趣味がややなくもない

分け入っても分け入っても青い山 山頭火

奥の院で入定した空海の髭も濃くなっているであらうか

身削がれし鰻の骨の泳ぐ板

生命力は強いね、でもこれでは救われない

いまNHKのおさかなくんの番組でやっていた

変な被り物をしてキーキー声で、あんなもんが享ける時代で、そっこらじゅうぬいぐるみのメルヘンだらけで、ゆえにメルヘン俳句か、レベルが落ちたもんだ

道元の「経歴」

[54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41

井筒の「経歴」にして道元の「経歴」と「有時」

> 華厳的な一即多、多即一の一個の宝珠の「きょうりゃく」に映り込む過去現在東西南北自他万象が燦然と輝を放つ
>
> これは井筒の「コスモスとアンチコスモス」U創造不断の章、文庫本の200ページ目前後の記述に詳しい

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。

山と山との間に時間的先後はない。

この山頂に辿りつくまでの日々、昨日はあの山を越えた、今日はこの山を越えている。

昨日の山は先、今日の山は後。

しかし、ひときわ高く聳え立つ山の頂から全景を鳥瞰するこの人にとっては、山々の日付けはなくなっている。

あともさきもない。

全ての山が彼から――彼の「我」から――等距離にある。

非時間的「同時開顕」の茫洋たる空間だ。

・・・・・

道元の説く「有時」にも、まさにこういう二面がある。

「飛去」的側面と不「飛去」的側面と。

互いに矛盾するこの二面を一に合わせたところに、「有時」の「経歴」を道元は見る。

根源的非時間的マンダラの、経験的存在次元における時間的展開としての、それが「有時」のあり方なのである。


根源的非時間マンダラが、そのすべてを挙げて、刻々に時間フィールドとして、現成していく。

根源的非時間マンダラの中心点は「空」だった。

これに対して

非時間マンダラの現象的展開形態としての時間フィールドの中心点は「我」。

これら二つの中心点相互のあいだには緊密な照応関係がある。

と言うより、

二つは、それぞれの機能次元を異にするだけで、本源的には一つのものである。

非時間マンダラの中心点が、そのまま時間的展開の次元において、「我」として働くのだ。


道元が、「わが有時」という表現を使っていることに、深い意味を読み取らなくてはならない。

「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く。

ここに至って、道元の「創造不断」的時間論は、思想的独創性の深みを窮めるのである。


この「我」はどういうわれであるのか、については、古来、注釈者ののあいだに諸説がある。

大我、宇宙的われ、「本来の面目」のことだという人もあれば、経験的意識主体としての個我であると言う人もある。

だが、実は、それほど問題にする必要のないことなのではあるまいか、と私は思う。

もし「有時」が、上来説明してきたような内容をもつものであるならば、その「有時」を刻々に「経歴」せしめる中心軸としての「我」は、

生滅流転の世界に生きる経験的、現象的主体でなければならない

と同時に、また、

万象「同時炳現」の非時間的マンダラを、寂然不動の相において観察する形而上的主体でもなければならない。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

分け入っても分け入ってもゴミの山は飛ばして・・


> > 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘

> 蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘
>
> 蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・
>
> 此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である
>
> 蛸壺に蛸が入って凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺
>
> むっかしの丸山真男の「日本の思想」、ササラ型とタコツボ型の思想のありかたすら思い出さしめられる

この丸山真男のササラ型の考え方のフレームもササラの根元がヘーゲルだとかキリスト教だとか、西欧文化を鵜呑み偏重の不徹底で大いに異議あり

ササラの根元、全ての大本は「聖」ではなく「生」であらうね。生老病死の生であってここからすべての、俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、そのササラ化、分化がはじまる

タコツボ化についてはなぬも我が国「日本の思想」のみならず世の古今東西においてその傾向は顕著であり、とくにキリスト教国においては「原罪」にかこつけた搾取、ローマ教皇になした業はいまどきのキリスト教統一妖怪、ああ、教会家庭連合の比ではないあくどい搾取、十字軍、魔女狩り、異端審問、宗教戦争、などなど、まさに「神の原罪」だわの

[54920] 人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/05/21(Sat) 10:06

Chet Baker - Let’s Get Lost
http://www.youtube.com/watch?v=SKMKglJ8CZw

塩野七生「神々の代理人」中公文庫M5-2 昭和50年=1975年

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

善良な人々に、犯した罪の数々をあばきたて、彼らを地獄の恐怖につき落とすのは、キリスト教の最も得意とするやり方である。地獄への恐怖をかきたてながら、一方では天国へ行ける可能性をちらつかせるのも止めないのだから、ますます効果的というわけだ。

・・・・教会の戒律では、あらゆることが罪になったから、普通の人でも、その犯した罪を数えていくと三百年ぐらいの苦行を覚悟しなけらばならない。一生でも贖うことは不可能である。・・

教会は代償を認めた。苦行に相当する代償金を教会に収めれば、贖罪は認められるのである。これには、不動産による代償も可能であった。すなわち教会は信者の恐怖を利用して、その富と権力の不滅の源泉を確保したことになる。

・・・・

「自らの財布で支払えない者は、その肉体で支払うべきである」

・・・・

異教徒に対する聖戦に従軍した者には、贖罪が認められることになった。

・・・異教徒を殺せば、一切の罪は許されるのである。

金や土地で代償を果たすにはそれも十分は持たず、かといって自分の身体が笞で打たれるのも苦痛出汁というわけで、天国に行くことに絶望を感じていた善良な人々も、これには異存がなかった。まして、神がそれを望んでおられるのである。多くの人々は、その顔にことごとく罪を許された喜びに輝き、その心は異教徒と対決する勇気を感じていたのである。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

これは、十字軍の宗教的な熱狂を叙する序章であるが、その熱狂、狂信は後世まで連綿と無残な歴史につづく

この人間への強制的罪の押し付けは、創世記にはじまるが、その押し付けられた罪を嬉々として受容すべく人々を教育、躾をしつづけた救世主教の罪はまことに絶大だね


その延長線上に文鮮明のキリスト教統一教会などがあることは明白である


> そのタコツボから抜けられぬ人間の思想

人間の思想のみならず、そこから抜けられぬ人間そのもの

俳句も結社も協会も教会も政党も奸僚もみなタコツボ化しておる

> 聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大

生老病死はなぬも仏教に限らぬ、人間存在の大本


> しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?
>
> 苦の救いがあるか
>
> ありません。

> 狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却までにはいたりません
>
> なぜだらうか?
>
> 一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね
>
> 一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです

山法師咲けば濃くなる旅の髭 田川飛旅子

この「有時」「経歴」の中心に、「我」を置く「我」を軸とした詠みに比して、中村和弘氏によって往々引き合いに出される句

人形を射つ流燈の町の辻     田川飛旅子

犬交る街へ向けたり眼の模型 田川飛旅子

非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子

これらもみな第三者の観察眼なのですね

なにかこう生の大本へ食い込んでくるものがない

もっとも、眺める、見る、のは、この国のことばでいえば目合ひ(まぐわい)であるからして、一句の景と目合ひて交感しているのかもしれない

交感しても感動がない

先の丸山真男の言葉でいえば「である」ことと「する」こと

「である」ことに安住して「する」ことがなおざりではないだらうか

陸主宰のことば
「創刊より「俳句のなかに私という人間を生かす」ということが『陸』(りく)の理念である。この言葉は、もともとは人間探求派と呼称された加藤楸邨を源としているが、その底には”人間いかに生くべきか”という自問が込められている。
これは今日の世においては愚問かもしれぬ。佳い作品さえ作っていれば、という風潮がある。それゆえ逆に尊いのである。

との由であるが”人間いかに生くべきか”かが第三者観察眼的詠みや評では伝わってこない

畢竟、俳句というものも、芭蕉より発したその元は・・

ふる池やかわず飛び込む水の音 芭蕉

佛頂和尚と方丈に対座しているときに芭蕉の口から飛び出した「かわず飛び込む水の音」

その頭に「ふる池や」とつけて一句になったともいわれるこの句にはやはり生の禅味がある

時々刻々刹那刹那に古池が「かわず飛び込む水の音」で新しく蘇る、そこの機微

> かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄
>
> http://miho.opera-noel.net/archives/480
>
> 『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …
>
> とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている
>
> かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である
>
> 最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集
>
> まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども
>
> その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ
>
> 鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね

生ゴミの煩悩詰めて梅雨に入る 中村和弘

生ゴミの煩悩散らす群れ鴉

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54948] PHILIPP PLEIN コピー 投稿者:HXQIU 投稿日:2022/09/17(Sat) 18:20  

前代未聞の超激辛なレビューに、ミラノメンズが大騒ぎした。http://www.hxqiu.com/?brand-119.html PHILIPP PLEIN コピー これは、「ヴォーグ ランウェイ」に寄稿するルーク・レイッチ(Luke Leitch)が、「フィリップ プレイン(PHILIPP PLEIN)」の悪趣味なコレクションと、予定時刻から大幅に遅れたショーに対して怒りをあらわにしたレビューだ。

 記事によると、ルークは会場に到着してからショーが終わるまで実に92分もかかり、うち30分は大混雑の外で延々と待たされたと告白。https://hxqiugarage.exblog.jp/ 以下、一部を抜粋すると、「やっぱり今回も30分以上会場の外で待たされ、https://www.hxqiu.com/ ブランド コピー 激安 ようやく中に入ることができると、そこには『×××(言ったり、書いたりすると一発アウトの、あの言葉)』を繰り返す男性。開演時間になってもショーは始まらず、代わりにスクリーンが降りてきて、https://www.ginzaweb.com 全く好きになれない音楽をひたすらリピート。予定外に出てきてしまった2人のモデル以外、会場に到着してから75分間は、ひたすら待ちぼうけだ。


[54947] 俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには、政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・Re:[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 11:38  

えをりうしANNEX−Ω   訪問者数:12093349(今日:1276/昨日:1526)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/09/16(Fri) 09:27 仏滅(壬申) 旧暦 8/21 月齢 19.8

Ai Ninomiya歌唱力が秀逸ですね

Honesty / Billy Joel  Unplugged cover by Ai Ninomiya
http://www.youtube.com/watch?v=Cq4hpkbkE84

さてHonestyとPrettyFacesとPrettyLies


> > ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
> >
> Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
> http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ
>
> > 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> > http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
> >
> > 鳩一羽人間一人木下闇
> >
> > 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と
>
> 産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓
>
> > 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
> >
> > 炎天下地名人名樹木名
> >
> > 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
> >
> > ああ、逝った、行った、あの木は山法師

山法師といえば田川飛旅子を思い出す

外来種のハナミズキといえば、プラザ仙川の寿司屋の女将の歌唱力ハナミズキを思い出す

排気ガスに強い街路樹の花みずきの木々が眼下の歩道を並し、灼熱で葉が萎れても強い

> > 極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった
> >
> > いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓
> >
> > さて、眩暈、過呼吸、反吐・・

HonestyとならばPrettyFacesとPrettyLiesへ反吐を催す

反吐は吐いて他者批判をなせばそのブーメランが自分を傷つけDesperado

まことに歌というものもよくできている

> 天高し催す反吐を飲み込んで

しばらく老人性鬱様態がつづく、つくづく自分がいやになるときがある

無位にして無畏こそよけれ去年今年

という句を現俳協の忘年苦界に出して三橋ほか数人にはとられはしたものの、多分、いやさ自分でも、あまりに観念的な詠みだな、と・・

観念的よみであらうとも、現俳協もそうであるが、よのなべての傾向、無位ならざる有位こそはよけれという、さもしい娑婆の傾向、して戦々恐々と己が、あるいは他者あるいは師の地位に畏おののき、あるいはすりよりごますり、PrettyFacesとPrettyLies、さらにはSympathizeする

Sympathizeするには俳句でいえば一句の外のもろもろの個人情報が不可欠で、大方の世の句評や俳人列伝なども、一句の背景にある個人情報をもって一句を解している

罪を憎んで人を憎まず

病を憎んで人を憎まず

とはいえ、

罪を罰するに罪だけをとりだして罰することあたわずして罪人を罰する

病を罰するに病だけをとりだして罰することあたわずして病人を隔離排除する

同様に俳句の一句、あるいは、哲学の一個の観念、概念、あるいは、宗教の神聖にして神性、悪魔性にしても、さうなのであらうか

罰して、隔離排除する、その逆もまた真なりで、PrettyFacesとPrettyLiesでもってSympathizeする

> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「ぶっきらぼう」で「野太い」ごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・


> まさに金子兜太らしい金子兜太だからできる俳句。

兜太センセイの人となりに即して、まことにごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、これはなにも兜太センセイでなくても、誰に対しても、駄句であっても、「誰々らしい誰々だからできる俳句」といえるわけで、いわれた誰々さんは褒められたのか、貶されたのか、?、となるところですが、兜太センセイほどのうぬぼれなれば、まずは貶されたとはおもいませんね、まことにごもっともです

> おおかみという巨大な存在感。

この「おおかみ」の表現、「巨大な存在感」をごもっともです、とはいいたいのですが、いいにくい、ですね

なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

嗚呼、兜太センセイの「巨大な存在感」とひっかけているのですね、ごもっともです

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

大石雄鬼君においてはPrettyFacesとPrettyLiesとはいえなくも、Sympathizeしているのは見え見えですね

反吐の所以


> 加えてこんなのも・・
>
> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

>
> にたようなもんだね、この両評者ども
>
> これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」一体全体句評なのであらうか?

バカバカしくて話にもならぬ

加えて

「唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。」

とは無学文盲の言といいたいくらい、文妄なのである

これらのやからは一句における、あるいは生き方における、概念破壊というものにまるで思いを巡らしていない

而して、現代俳句協会という組織、その会長という権威への概念破壊も、夢の又夢、盲人ならぬ妄人の類、あるは佞人なのである。(ねいじん)とは。意味や解説、類語。口先巧みにへつらう、心のよこしまな人。佞者。

農奴をどう定義しようが、そんなことが問題なのではない

日本、我が国、いやさ、世界中のどのであってする農業より文明の興ったところには農奴はあった

狭い概念世界の佞者なれば、概念と常識の世界の桎梏から解放され得ずして一句の鑑賞すらできない

農奴と実南天の配合、「唐突」でもなければ「ぎくり」ともしない

一口にいえば毒と毒消し、毒をもって毒を制す

南天といえばよく便所の傍に植えたものだ、南天の実そのものが毒であると同時に便所のもろもろの毒の抑制、呪術かまじないかはたまた科学的か、某甲の昔の屋敷にも南天が便所、これも風水で位置が決まっていたようなものだが、亡母が便所には南天を植えるものだと子供の某甲に言い聞かせたもの

加えてそころにして汲み取りの農夫はもうこなくなったが、バキュームカーの糞便を溜池にためて肥料となす風、昭和の百姓、江戸以前の農奴的な百姓の生きざまをおもえば「唐突」でもなければ「ぎくり」ともしない

農奴、これは羽仁五郎「明治維新」岩波新書 昭和31年なぞを読むまでもなく、なべて文明国の社会に内在した毒であって、土地に、社会に拘束された人間の苦

この農奴詠者には「原罪」の句もある

蛸壷の原罪めきて凍てており 中村和弘

蛸壺と原罪の配合、おもしろいですね、南天と農奴のように・・

此の原罪は農奴に通じる、狭い概念の「原罪」を破壊したしたところの苦である

蛸壺に蛸が入るって凍てていても不思議はないが、それと人間の蛸壺

むっかしの丸山真男の「日本の思想」、ササラ型とタコツボ型の思想のありかたすら思い出さしめられる

そのタコツボから抜けられぬ人間の思想

聖書の妄想の「原罪」などというものを脱却した苦の大本にして仏教的生老病死への視野の拡大

しかし、実南天/農奴、蛸壺/原罪、狭溢なる概念を破壊して、してその先は?

苦の救いがあるか

ありません。狭い概念を脱却できたところまでは、それはそれなりに人間の幅も広がろうというものですが、だからといって苦からの脱却なでにはいたりません

なぜだらうか?

一句にとらえられた形式、景色、配合があまりに他化的、詠む姿勢が第三者的なのですね

一句に動きがない、動詞がない、粘りがない、意志がない、第三者の観察眼なのです

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄

http://miho.opera-noel.net/archives/480

『まぼろしの鱶』 解釈は次のようであろうか。 第一句集の最初に置かれた句である。「天金の書」とは、洋書の製本で、上方の小口だけに …

とか、これも無知蒙昧な鑑賞があるが、この句の深読みは、やはり毒消しで、その毒消しは、効いている

かもめは悪食の鳥であって、それを呼ぶ詠者のいう「天金の書」とは、その典型をいえば、聖書である

最近のTV映像では、統一教会文鮮明の聖書、聖言集

まさに毒の最たるもんであって、その毒を、あたかも聖言として鵜呑みにする佞人ども

その天金の書をひらくたびそこにある毒を悪食のかもめがきて食ってくれ

鵜呑みの佞人の意の理、祈りとはまた別の風景が現成しますね

佞人というものは、社会にも組織にも、その法においても、それを批判し墓石、破壊し無化しようという姿勢がない。


それは俳句においても、宗教においても、哲学においても、さらには政治や生き方そのものおいても、おもねり、忖度、ごますり、すりより・・

> んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・
>
> 加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く


この佞人の性は魔境の預言者即若松英輔君の性にもいえる

>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
> 預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
> ・・・
> 預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 統一教会文鮮明崇拝と神一重
>
> 安倍晋三崇拝国葬と神一重
>
> この一突き半には反吐を催す幾多の膿が噴出
>
> 膿のもとをたどれば闇の悪魔もみえてこようというもんだ
>
> 反吐呑んで真夏の闇の悪魔見え
>
> 最近のマスコミ浅学識者の論調で、あれとこれは切り離し別々に考えるべきだとかほざく向きが多い
>
> 冗談ぢゃねえわの
>
> 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒
>
> そこを解明せんばいけん
>
> 畢竟、安倍の外交も政策も統一教会と祖父岸におんぶにだっこで、「輝かしい業績」?
>
> 呵々大笑
>
> 岸ももとをたどれば木子、すなわち、李にして、ルーツの戸籍は田布施町とか
>
> 田布施システムほか有象無象の説がネットに隠れておる
>
> 統一教会の特別応援を安倍が差配して当選した元産経新聞の編集長北村経夫も田布施
>
> 検索:安倍晋三と統一教会
>
> 検索:安倍晋三と田布施
>
> 検索:田布施出身代議士
>
> いろいろみえてくる。在日朝鮮人差別のデマだとかいって、かういう情報を一蹴してしまうのも問題であって、そもそも我が国の大半は渡来人であるからして、半島人差別を云々するはうが、差別主義者であらうがね。まゆにつばすべきもんは唾して読めばよろしい。
>
> 司馬遼太郎の「歴史と視点〜私の雑記帳」新潮文庫昭和55年にも「長州人の山の神」という田布施のある山口県熊毛半島にからむもろもろの明治の傑物の話があって興味深い。加えて「権力の神聖装飾」「人間が神になる話」とか、笑わせながら深刻な問題提起がある。こういう風な眼力をそなえた文士は最近はいないのか、みな単眼にして短眼の有象無象のジャーナリストか
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> ひるがえって薩長連合の小泉のルーツも鹿児島の田布施で、2,3代前は堂々たる半島人を名宣っておった
>
> その小泉が安倍を連れて北朝鮮の金正日と会い拉致被害者交渉をしたのも縁あってのことだう、橋渡しをしたのも統一教会なれば・・
>
> さらにいえば、拉致被害者の続出した地帯というのも、半島移民の濃い地帯であって、この問題の根はまことに不覚、深く、あれはあれ、これはこれ、というような分裂脳みそでは解明でけんでせうな
>
> さらにくわえて、最近はマスコミから鳴りをひそめた「綿九〜わたきゅう〜ワタキュー」問題、安倍→小泉→安倍と裏金利権が受け継がれ、厚生労働省の闇、病人老人を食物にしている、ここらへんもあらためて、マスコミは鳴りを潜めるんぢゃのうて、怒鳴りあげて報道せんば、闇の解明にいたらんでしょうね
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やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54946] 全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒Re:[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 18:23  

> ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦
>
Desperado / Eagles Unplugged cover by Ai Ninomiya
http://www.youtube.com/watch?v=Y2gIAfeFWUQ

> 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
> http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY
>
> 鳩一羽人間一人木下闇
>
> 産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と

産土の暗渠の上を枯れ蚯蚓

> 人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々
>
> 炎天下地名人名樹木名
>
> 名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も
>
> ああ、逝った、行った、あの木は山法師
>
> 極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった
>
> いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓
>
> さて、眩暈、過呼吸、反吐・・

天高し催す反吐を飲み込んで

おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/

加えてこんなのも・・

実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

にたようなもんだね、この両評者ども

これらは句評ではなく詠者へのすりよりごますり忖度崇拝だね

んたく、反吐を催す、飲み込んで吞み込んでも・・

加えて魔境の預言者即若松英輔君曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

預言者は、単に人間のために働く人ではない。まず、神のために働く人です。だから、神とこちらの世界をつなぎ、神の秩序にこちらを従わせるのが、預言者の仕事であって、こちらにいる人に都合のいいことを言うのは預言者ではない。
預言者がやろうとしていることは、常にこちらの世界は小さいんだ、と人間に分からせることです。あちらの世界から来れば、こちらの世界は相対的に小さくならざるを得ない。
・・・
預言者が切り開いた世界は、水平軸ではなくて、垂直軸です。預言者の言葉を、私たちは水平的ではなく垂直的に理解していかなくてはならない。人の利益のためではなく、キリスト教的にいえば「神の栄光」にその意味を読み解いていく必要がある。預言は神の言葉でなければならないのに、人の言葉に変わることがある。ここに大きな注意点が必要です。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

統一教会文鮮明崇拝と神一重

安倍晋三崇拝国葬と神一重

この一突き半には反吐を催す幾多の膿が噴出

膿のもとをたどれば闇の悪魔もみえてこようというもんだ

反吐呑んで真夏の闇の悪魔見え

最近のマスコミ浅学識者の論調で、あれとこれは切り離し別々に考えるべきだとかほざく向きが多い

冗談ぢゃねえわの

全部味噌糞一緒三位一体、闇でこんぐらがった蛇の毒

そこを解明せんばいけん

畢竟、安倍の外交も政策も統一教会と祖父岸におんぶにだっこで、「輝かしい業績」?

呵々大笑

岸ももとをたどれば木子、すなわち、李にして、ルーツの戸籍は田布施町とか

田布施システムほか有象無象の説がネットに隠れておる

統一教会の特別応援を安倍が差配して当選した元産経新聞の編集長北村経夫も田布施

検索:安倍晋三と統一教会

検索:安倍晋三と田布施

検索:田布施出身代議士

いろいろみえてくる。在日朝鮮人差別のデマだとかいって、かういう情報を一蹴してしまうのも問題であって、そもそも我が国の大半は渡来人であるからして、半島人差別を云々するはうが、差別主義者であらうがね。まゆにつばすべきもんは唾して読めばよろしい。

司馬遼太郎の「歴史と視点〜私の雑記帳」新潮文庫昭和55年にも「長州人の山の神」という田布施のある山口県熊毛半島にからむもろもろの明治の傑物の話があって興味深い。加えて「権力の神聖装飾」「人間が神になる話」とか、笑わせながら深刻な問題提起がある。こういう風な眼力をそなえた文士は最近はいないのか、みな単眼にして短眼の有象無象のジャーナリストか

ひるがえって薩長連合の小泉のルーツも鹿児島の田布施で、2,3代前は堂々たる半島人を名宣っておった

その小泉が安倍を連れて北朝鮮の金正日と会い拉致被害者交渉をしたのも縁あってのことだう、橋渡しをしたのも統一教会なれば・・

さらにいえば、拉致被害者の続出した地帯というのも、半島移民の濃い地帯であって、この問題の根はまことに不覚、深く、あれはあれ、これはこれ、というような分裂脳みそでは解明でけんでせうな

さらにくわえて、最近はマスコミから鳴りをひそめた「綿九〜わたきゅう〜ワタキュー」問題、安倍→小泉→安倍と裏金利権が受け継がれ、厚生労働省の闇、病人老人を食物にしている、ここらへんもあらためて、マスコミは鳴りを潜めるんぢゃのうて、怒鳴りあげて報道せんば、闇の解明にいたらんでしょうね





やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54945] 眩暈、過呼吸、反吐・・ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 14:29  

ゆおくるおANNEX−Ω   訪問者数:12056990(今日:2069/昨日:450)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/08/19(Fri) 13:42 仏滅(甲辰) 旧暦 7/22 月齢 21.4 下弦

井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー
http://www.youtube.com/watch?v=WCSeiSOaHxY

鳩一羽人間一人木下闇

産土の神社の泉も涸れて久しく涸溝が暗渠の彷徨者専用歩道ととなり延々と河岸段丘を幾つか越えて多摩川まで・・子供ころはザリガニを捕ったハケの湧き水に発する小川の暗渠の道蓋にはめったやたらと干乾びて転がる蚯蚓と人家の裏から茫茫と暗渠道上へかかる木々花々

炎天下地名人名樹木名

名を知って、ああ、こんなところもあった、あんな人もいた、走馬灯のごとくゆっくり歩く眼前に展開する暗渠道、都営や公団の住宅の一郭の樹木にはよく名札がかかっていて、姿のよいやまももの一本を楽しみに同じコースを歩き歩き、最初は4000歩も歩けば股関節の違和感、切株めかしたコンクリ台座へ股を開いてよく伸ばし歩行再開、旅重ねれば、1万、2万、3万歩も

ああ、逝った、行った、あの木は山法師

極楽鳥ような、タンポポすみれのやうな、大樹のような人間もおった

いちいちの名で思い出しても、名なんぞなくて面影だけでも、近くも遠くもみんなそれぞれによく、ぽつんポツンと浮かんでは消える、足元には涸びた蚯蚓

さて、眩暈、過呼吸、反吐・・



やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54944] 2/2Re:[54943] 1/2不覚は本覚への門にして本覚は不覚への門 無粋なる原景を、原景の面影を残しつつ、無粋ならざるもの、新人賞作家大石雄鬼君らにメルヘン的感動を与えるまでに仕上げた兜太センセイの腕前も大したものですねRe:[54942] 超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王 眼を開かなきゃね 不覚者の群Re:[54941] ブーバーの汝には父母未生以前の面目がある Re:[54940] 「超越」「栄光」だとか「神秘」だとかは、まことにそこに達したと思えば気分もよろしい、「恩寵」に与かり「選民」になった気分でね すっかす、それがそもそもの差別の根にして、権力の源であることを自覚すれば、そうそう悪酔いもできんもんぢゃろがのRe:[54939] 頭にゴミが溜まらなくてよいRe:[54938] 主客未分Re:[54937] 而して 天上天下唯彼独尊 とはいえまい 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 15:42  

> おえておみANNEX−Ω   訪問者数:11904503(今日:312/昨日:3965)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/07/02(Sat) 10:55 先負(丙辰) 旧暦 6/4 半夏生 月齢 3.0

> いかな駄句、駄論であらうが、その詠者、論者の諸般の事情に鑑みれば、御尤も、なぬごともごもっとも、ですね
>
> > おなじことが、俳句の世界の、狭い俳壇、協会でも、教会も多々行われておって、ゆえに俳句二世、ああ、二世ね、他人におんぶでだっこの二世、似せ俳句、二世思想、ゆえに、詩を、思想を尊ぶのではなくして、二世の師を尊び、高下駄を履かせて、自分も高下駄のでっちあげ「栄光」「でっちあげ「恩寵」に与かるのね
>
> なぬごともごもっとも、ですね
>
> 人は誰でも、でっち上げでも、「栄光」「恩寵」、利をもたらすものならば似非で洗うが、利美善、世に蔓延る創価学会的な価値観により、高下駄であらうが、ナイキであらうが、自分を引き上げてくれるもの、神であれ人であれ、「先生」ともちあげ「師」としてもちあげて、ごまをすれば我が利になるもので、それが賢い人生の生き方なのですね、ごもっともです
>
> > > 南無南無

> > 鷹匠と鷹のまなこに中りけり
> >
> > > > > のしたくそANNEX−Ω   訪問者数:11891393(今日:140/昨日:874) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/06/24(Fri) 06:15 赤口(戊申) 旧暦 5/26 月齢 24.6 熨した糞
>
> > 一句を為す作者、一句を解す鑑賞者、そこに作者や鑑賞者の世界観が如実に現れる
> >
> > 作者の意図せぬ鑑賞にもなりえて、一句は新しい命のもとに生きる、あるいは死ぬこともある
>
> これは駄句にも駄句としての厳しい鑑賞をなさずして、すりよりおもねり駄句を秀句となして己が「恩寵」「栄光」を期するむきもあって、典型は・・

まことにごもっともです、まるく、まるく・・


> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/745/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太 評者: 大石雄鬼
>  ぶっきらぼうで野太い俳句。

「ぶっきらぼう」で「野太い」ごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、幼稚で作為にみちみちているという意見もあるでしょうが、作者は現俳協の会長センセイなれば・・


> まさに金子兜太らしい金子兜太だからできる俳句。

兜太センセイの人となりに即して、まことにごもっともです

見ようによっては、云いようによっては、これはなにも兜太センセイでなくても、誰に対しても、駄句であっても、「誰々らしい誰々だからできる俳句」といえるわけで、いわれた誰々さんは褒められたのか、貶されたのか、?、となるところですが、兜太センセイほどのうぬぼれなれば、まずは貶されたとはおもいませんね、まことにごもっともです

> おおかみという巨大な存在感。

この「おおかみ」の表現、「巨大な存在感」をごもっともです、とはいいたいのですが、いいにくい、ですね

なぜ、「おおかみ」なのか

なぜ、「巨大な存在感」なのか

嗚呼、兜太センセイの「巨大な存在感」とひっかけているのですね、ごもっともです

「おおかみ」は狼とも大神とも表記しないで「おおかみ」なのはなぜでしょうか?

> そこにぽつんと螢がくっついている。

それ以前に「螢が一つ付いていた」と・・

蛍は「一つ」というのですか?

一匹となぜいわないのでしょう?

> 「付いていた」という言い方から

生きている蛍なら一匹とまっていたというのが素直な表現ですが、なぜ「螢が一つ付いていた」なんでしょう?

まるく、まるく

かつて某甲は、この句の解釈として・・


引用+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

[54894] 狛犬は高麗犬で、もともと高句麗の犬、みんな狼 それがよ、今ぢゃ、みんな、あのおとなしい狛犬になりさがってみちゃあおれん そんでよ、あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮 そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね、秩父の人々は可哀そうだ そこえいくってえと、やっぱ、八王子の三橋の狼には霊がみちみちているね、 満ち満ちて道々蜘蛛を葬る 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/04/11(Mon) 12:58

そんでよ、多賀神社のあれ見た?

さうだったかね、気が付かなった、そんなもんがあったかね

それがよ、狛犬は高麗犬で、もともと高句麗の犬、みんな狼

それがよ、今ぢゃ、みんな、あのおとなしい狛犬になりさがってみちゃあおれん

そんでよ、あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮

そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね、秩父の人々は可哀そうだ

そこえいくってえと、やっぱ、八王子の三橋の狼には霊がみちみちているね、

満ち満ちて道々

と小一時間たっぷり演説をぶって

これ、もっていきなよ、狼がたっぷり

「続々山がたり」斐太猪之介 文芸春秋 昭和47年=1972年 を恵まれた

引用閉じる+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「あの兜太の狼は狼めいて、なんの肉も霊もあらへん、たんだの狼の剥製、毛皮」

嗚呼、狼ではなく、おおかみ、だったのですね

だったら、なおさら、この狼なら「おおかみ」表記を考えれば、狼めかした「おおかみ」

季重なりを回避したかったのか

でもね、「おおかみ」となれば当然、狼を連想するし、場合によっては大神も連想しますね、大石雄鬼君のいう通りです

「そこへ蛍一匹ついていたところで、話にもならんわね」

その話にならんところが、話になる、のが新人賞大石雄鬼君の真骨頂ですね、ごもっともです

そこでです、ごもっともと認めたうえで、この「おおかみ」にも狼にも大神にもこだわるのです、神さまは紙さまでもありますれば大紙、兜太センセイの大風呂敷かもしれませんね

紙の張りぼて「おおかみ」か、剥製の「おおかみ」か、そのどちらかでしょうね

> 、誰かが語りかけている印象があるが、それは兜太自身の声ではない。むしろ、この句を読んだ瞬間、誰かの声が自分の声になっている。自分が呟いている。まるで、今、見てきたかのように。

この感覚は新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる鑑賞ですね、まことにごもっともです

ですが、某甲には、この「誰かの声が自分の声になっている。自分が呟いている。まるで、今、見てきたかのように。」は、まるでわかりません、某甲のいたらぬところで・・

> おおかみは日本では古来から「大神」。そして絶滅していった。一方、螢火は「たましい」。

仰せのこと、ごもっともです

> 螢もいまにも絶滅しそうである。

さうでしょうか?と疑問もありますが、まあ、すくなくはなっていますね

それにしても、この「蛍」は「たましい」ではない蛍なのですね

> 螢が助けを求めるように絶滅したおおかみにくっついている。

ここ、ここ、まるくなって尖らぬやうに制御しても、わかりにくいのですね

ああ、さうですか、蛍も絶滅しそうであるから、絶滅して大神となってしまった狼に助けを求めているのですね

おおかみさま、ほたるのわたしを絶滅させないでください

> そしておおかみは大神となり、たましいである螢を日本の外へ連れ出す、その直前の一瞬。

これも、新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる難しい鑑賞ですね、

なんで「日本の外へ連れ出す」のでしょうか?そして、なんで「その直前の一瞬なんでしょうか?

しばらく朝から考える人として考えていますが、いまだにわかりません

狼は日本では絶滅していて、海外では生存している、だから、狼難民として海外に避難して蛍も絶滅寸前に狼の大神に海外へ難民として連れて行ってくれ・・とでもいうのでしょうか?

>  この現実から切り離されたような一コマは、絵本の一ページのようでもある。

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘン鑑賞ですね、まことにごもっともです


> この不思議な感覚は、螢が夏の季語、狼が冬の季語、という俳句の決まりごとが影響しているかもしれない。もちろん絶滅したニホンオオカミと現存する螢との組み合わせが不思議さを醸しだしているが、俳句をつくる者に刷り込まれてしまった狼は冬のものという決まりごとと、夏の象徴である螢との同時の存在がこの俳句に不思議な印象を与えている。それは、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の四季の花が同時に咲いているシーンの異様さに似ている。(ちなみにこの映画では、一つ一つの花の名がわかるように描かれており、その結果各季節の花が同時に咲く不自然さからそこが異界であることがわかる演出になっている。)

これも新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできるメルヘンの深みに達した鑑賞ですね、まことにごもっともです

>  金子兜太は多くの狼の句を作っているが、これほどストレートで、これほど難解で、これほど心に残ってしまうものは、この句を置いてないであろう。この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。

「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分」とは、なんなんでしょう?


狼が絶滅してしまった

蛍も接滅しそうである

深読みすれば、兜太センセイが征っていた日本軍が殲滅された南太平洋

そこへおおかみもほたるも逃げていく憂い?

まあ、「憂い」というものを出せというなら、某甲のこの句の憂いは・・


この蛍は「たましい」として、もとはこの「おおかみ」狼の剥製、絶滅した狼の大紙の張りぼて、そこへ、この蛍は「たましい」として入ろうとして、「付いていた」んではないでしょうか

でも、かなしいかな、いのちのなくなった「おおかみ」の剥製、張りぼてでは、蛍たる「たましい」は「おおかみ」の中には入れない

しかたなく「付いていた」憂い、「付」かれていた「おおかみ」の憂いであり、「付いていた」「蛍」の憂い

> ※金子兜太先生を偲び、2013年12月24日現代俳句データベースコラムから再掲載いたしました。
>
> 評者: 大石雄鬼
> 平成30年4月18日
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 中村和弘さんに尻尾のようにくっついている大石雄鬼君ならではの、浅学にしてごますりの「新人賞」なのかもしれぬ

浅学なりにメルヘンへの深い理解のある新人賞作家大石雄鬼君らしい新人賞作家大石雄鬼君だからできる鑑賞ですね、まことにごもっともですは

もっとも、某甲の解するこの句の原景は・・

狼の剥製あるいは張りぼてにLEDランプが「一つ」「付いていた」

さういう無粋な原景を、原景の面影を残しつつ、無粋ならざるもの、新人賞作家大石雄鬼君らにメルヘン的感動を与えるまでに仕上げた兜太センセイの腕前も大したものですね


> こういう風景が句界の苦界には十万して充満している
>
> わが師を和菓子のように、追悼泣き女のごとく甘言を繰り返すもの、まったく反吐を催す
>
> だいたいが、あの結社というやりかた、それこそうむを言わさず位階をもうける一神教の構図すのまんまで、主宰がトップで、同人、会員と、以下序列、それに加えて賞、賞、賞、少々頭がおかしいのではないか?
>
> 仏法僧を敬う聖徳太子か、所得大使か?小使いだね
>
> それにしても、聖徳太子の仏法僧を敬へ、には一神教的垂直権力構造が感じられてならない
>
> もっかのキリスト教の神教会牧師神父、神は絶対であって、その神の掟を解釈するのは神父牧師の特権事項
>
> まさに現今の国家の構造そのものだね、立法、行政、司法、法に依って一体なにが守られるのか?
>
> 法を立てる立法府もその草案は行政官僚からくる
>
> その法の適用解釈も行政司法奸僚の思うがまんま
>
> これら奸僚どもが己が利権を肥やそうとして超法規的なことをやっても、その違法性は問われない
>
> ようは権力統治構造の禍
>
> 人間的にもっとも忌むべき恥ずべきことがらも、権力統治構造国家結社においては堂々とおこなわれ、この超越的な権力統治構造国家結社は、人間社会の最も醜悪さを露呈している
>
> すっかす、その醜悪でもそこに縋らざるを得ない、果ては醜悪さこそ生きる価値だとする、盲目の奴隷とソレを駆使して恥じぬ奸僚どもが、ま、過去も今次もそっこらじゅうで増殖し、イザコザ、紛争、戦争を起こしている践祚王
>
> 眼を開かなきゃね 不覚者の群

不覚は本覚への門にして本覚は不覚への門

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


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