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[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/16(Sun) 10:25  

ろねやりゆANNEX−Ω   訪問者数:12370916(今日:174/昨日:449)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/16(Sun) 10:45 先負(甲辰) 旧暦 ※閏2/26 月齢 25.4

妄想をひとつ申そう

無からビッグバンによって空間と時間が生じた

そしてその間において人間が生じた

そして、その人間の死と共に時間も空間も消失した



無は時空ともどもの無であって、無というものがあるのではない

一方、自我というものは、空間、時間に縁る(縁起)、依る(依他起性)、由る(自由)

そこで間を消失することが苦となる

いやさ間を生じることさえ苦の種となる

むっかし、むっかし、かのもろもろの講演者や論説者どもが、「立場」「立場」を連発するのに苦言を呈した

そんな「立場」に立脚した講演や論説は聞きたくも読みたくもない

人間すべからく「立場」脱却してものを云え

存在被拘束性(マンハイム)

これこそ「立場」であらう、「場所」であらう

而して、その「立場」も「場所」も千変万化とはいわぬも七変化、場合によってはなくなってしまう

「立場」がない、と苦に落ち込む

過日、NHKでどっかの哲学坊やが悩める声優の苦への脱却を説いて、具体的他者に対して軸をもちなさい、さすれば苦も悩みも脱却できるとどっかの西欧哲学者の言を引用して得意げに云って、それを聴き受けた悩めるものの声優が、お聴きして悩みが軽くなった、元気がでてきた、と・・

わはは、呵々大笑

なんとまあ、NHKも哲学者のお兄ちゃんも馬鹿なことをやっておるんか

もっともそれが馬鹿なことではのうて、世の常在にして錠剤、浄罪なんだわの

他者に対する軸の「存在」を多謝して、悩みが軽くなって、元気がでてきた、としても、そんなもんは、すぐにどっかに吹っ飛んでしまう

千変万化、七変化、「他者」に対する「軸」「立場」「場所」がかわれば、軸もなく、立場もなく、居場所もなくて、また落ち込むのんがせいぜいのところ

「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである

この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である

なれば、だうするか?

「他者」「軸」「立場」「場所」を撥撫するか?

永遠不変の「他者」「軸」「立場」「場所」に目覚めればよいか?

妄想はつづく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54999] 明治期の「哲学」先導者は、だうも、浄土系、とくに真宗とクリスチャンが多い まあ、あたりまえであって、「存在」を前提にした「哲学」を解するには、やはち「神」や「阿弥陀」の「存在」を妄信した脳みそでのうては、解し得ずなんだから、さういうもんに浸れば自ずから洗脳されて「存在」に惑溺の憂き目に陥るわけであって・・Re:[36102] 処女出戻り三昧です。Re:[36089] 絶対に私のものならぬこの隠れたる決定の、おのずからなる反射として、その時その処に生起するところの、私自身の自己決定の形に過ぎない。≫Re:[36066] バカ見たでしょうね。文字通り。Re:[36051] この大いなる決定そのもののほかにはない。≫牛の尻っぺたでも食ってくるか。Re:[36046] 一切の人間的・主体的なるものの絶対的な消滅点としての沈黙と、たぬきの『沈黙』の対比について。Re:[35443] [35421] 創造の泉から湧くその語りは尽きることなく、未完のことばは無限の展開の可能性をはらんでいる禁無断転載。Re:[35420] 禁無断転載の私の「主体性」、人間の存在を問い、西田幾多郎、カール・バルトに師事。そして見出した、人間存在の根底に横たわる「原事実」。生涯にわたって人間存在の原点を思考し抜いた禁無断転載。Re:[35419] 滝沢克己who’who 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/14(Fri) 23:58  

れきれへきANNEX−Ω   訪問者数:12370037(今日:1345/昨日:1471)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/14(Fri) 22:23 先勝(壬寅) 旧暦 ※閏2/24 月齢 23.4

桜は散って街路樹のハナミズキが咲き初め、舗道の植栽の躑躅も赤白に・・鴉の類でも過日は尾長の群れが小さな神社の杜から隣のレストランやビルの屋根を飛びまわり、4月の第一日曜この2日には朝から地主神の祠まえにが賑やかに紅白の幕をはってお囃子が始まれば白狐の神楽か、朝の二度寝の夢うつつを現実確認せむと起きだせば、チャンチャンとお仕舞で氏子の一団がビールや酒を飲み始め、ものの見事に速やかに紅白幕を畳んで軽トラック数台に分乗して消えてしまった

> ANNEX−Ω   訪問者数:17884(今日:406/昨日:658)2006/04/11(Tue) 17:00

> > > 目は岩波講座「哲学」第15巻 「宗教と道徳」。

岩波文化、某甲らの世代は大いにお世話になってゾッキ本で岩波本があれば即買いなるも、考えてみればこれも、思想的偏食であったのかもしれない

昨今、清沢満之なども読み直しているが、なにしろ、明治期の「哲学」先導者は、だうも、浄土系、とくに真宗とクリスチャンが多い

まあ、あたりまえであって、「存在」を前提にした「哲学」を解するには、やはち「神」や「阿弥陀」の「存在」を妄信した脳みそでのうては、解し得ずなんだから、さういうもんに浸れば自ずから洗脳されて「存在」に惑溺の憂き目に陥るわけであって・・

岩波の歴史的売りは漱石と西田幾多郎で、あの漱石全集の立派さ、装丁をふくめて、まことに岩波文化の旗艦の風格があるが、西田幾多郎になるとどんなもんか

手元にあるのは岩波全書第一号昭和八年で例のばかばかしい「ねばならぬ」の羅列の「哲学の根本問題」

その後、上の「岩波講座「哲学」」などが何度も出版されているが、どうも、編集陣、執筆陣は西田幾多郎蛸壺派ばかりということに最近気が付いた

気が付いたきっかけは、例の南原繁「国家と宗教」岩波文庫 青167-2

これは戦前戦時中に書かれたものを2014年に文庫化して出版したもので、かの西田幾多郎「日本文化の問題」1940年と真っ向から対立する(といってもまことに田辺元への批判部分は短くほんの少しで西田幾多郎への言及と批判はみあたないが)同時期の稀有な論集であって、その解説2で加藤節曰く・・・

嗚呼、もう零時になんなん、ねむねむねむい

滝沢ともども、明日は雨もよいだから、日を改めましょう

> > > > > > > 滝沢克己 略年譜
> > > > > > > 1909年(明治42年)3月8日 宇都宮に生まれる。小・中学と1年飛び級
> > > > > > > 1924年(15歳) 第一高等学校(現・東大駒場)入学
> > > > > > > 1927年(18歳) 東京帝国大学法学部仏法科入学。進路に悩み、10月退学
> > > > > > > 1928年(19歳) 九州帝国大学法文学部哲学科入学
> > > > > > > 1931年(22歳) 九州帝大卒、卒論はH・コーエン論。5月より副手。
> > > > > > > 1932年(23歳) 小笠原としと結婚。西田哲学に没頭する
> > > > > > > 1933年(24歳) 西田論「一般概念と個物」が「思想」に掲載。西田から激賞される。フンボルト協会給費生として10月にドイツ留学
> > > > > > > 1934年(25歳) 4月からボン大学でカール・バルトに師事
> > > > > >
> > > > > > #日独伊を二年後に留学。ナチからもらった金やな。
> > > > > >
> > > > > > > 1935年(26歳) ブルトマン論がバルトに認められる。8月に帰国
> > > > > >
> > > > > > # そんな立場で来た東洋人に本音で話をするわけはない。そもそも彼は大してドイツ語ができんかった。二年程度では身につかない。外国語は。バルト本人も亡命を狙っていた時期にするもんかね。下手をすれば、自分の身が危ない頃や。
> > > > > >  
> > > > > > > 1936年(27歳) 九州帝大哲学科助手。『西田哲学の根本問題』刊行
> > > > > > > 1937年(28歳) 山口高等商業学校に赴任 翌38年教授に
> > > > > > > 1941年(32歳) 『カール・バルト研究』刊行
> > > > > > > 1943年(34歳) 九州帝大嘱託講師(週1回、西洋哲学)『夏目漱石』刊行
> > > > > > > 1947年(38歳) 九州帝大哲学科哲学専任講師に
> > > > > > > 1948年(39歳) 同大助教授
> > > > > > > 1950年(41歳) 同大教授
> > > > > > > 1958年(49歳) 福岡社家町教会にて洗礼を受け、クリスチャンに
> > > > > >
> > > > > > # いつかその教会を調べてみるか。
> > > > >
> > > > > それで、しらべられましたか?
> > > > >
> > > > > 口先だけぢゃあ、ダメよん。ニコヨン。たぬきヨン。
> > > > >
> > > > >
> > > > > > 滝沢が戦争責任を告白したかどうかを。きっとしていないね。滝沢もまさにバルトを日本にインチキ紹介した張本人。
> >
> > さうなんでしょうかね?
> >
> > バルトはそのまえからニッポンに知られておったからこそ、滝沢もあちゃらへいったんんぢゃあ、ありまへんか?
> >
> > どうでもええけんど。
>
> > > > > > > 1961年(52歳) 九州大学文学部長に(63年まで)
> > > > > > > 1964年(55歳) 『仏教とキリスト教』刊行
> > > > > > > 1965年(56歳) 八木誠一との20年にわたる論争が始まる。
> > >
> > > この論争の幾許かにも、目を通しましたが、所詮、ヤギくんのゴマメの歯軋りが顕著ですね。
> > >
> > > そのうち、ゴマメくんの考え方、まあ、いってもれば、ゴマメの境地丸出しの、おっかけクリスチャニズムもやりませうね。東工大の名誉教授ちうのんが、信じられません。ああ、信じられます。あのテー度なんぢゃちうことで、ナットク。
> > >
> > > > > > > ドイツに招かれ、30年ぶりにバルトに再会。 ゴルヴィッツァー、ハイデガー等と対話
> > > > > >
> > > > > > # ハイデッガーもナチの前で転んだ。転んだわけじゃ。踏み絵を踏んだ。それで生き延びた。遠藤はこれを寓話として描いたわけじゃ。「沈黙」のなかで。
> > > > >
> > > > > ●岩波講座「哲学」第15巻 「宗教と道徳」1971年第2次予約、これはだれでも、古本屋で@105円か、まとめて7冊/500円か、高いところでも、全18巻/9000円くらいですから、ホームレスでも手が届きますから、ぜひお読みいただきたいのんどすが、
> > >
> > > とはいえ、その中に収められた論文の幾つかは、論文ちうもおこがましいもんでありますけん、一冊353ページあっても、内容のあるもんは、せいぜいが、100ページにも満たないと誤覚悟召されい。
> > >
> > > 具体的に申し上げますと、こうなるんですが、インテリムエバリュエーションを含めて目次で顕彰します。
> > >
> > > はしがき
> > >
> > > ○1、現代の事としての宗教   滝沢克己
> > >
> > > X2、現代における宗教理論の展開
> > >
> > > X2−1.宗教哲学       鈴木亨(これはまるでダメ。哲学たぬき界の可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんでしょうね。自己宣伝ばっかで)
> > >
> > > X2−2.宗教の実証的研究   脇本平也(これは、高校の教諭に格下げしたほうがええでしょう。鈴木よりはマシぢゃけんど、ま、知識ちうもんに捕らえれちょって、知恵がねえのんどすの)
> > >
> > > X2−3.最近におけるキリスト教神学  八木誠一(これは、上記ふたりよりはマシぢゃけんど、ゴマメ)
> > >
> > > X2−4・最近における仏教  玉城康四郎(これは、他の著作ではまともなもんもあるんですが、どうも、こういう講座ものの弊害で、与えられたテーマを誤解しちょることに加えて、与えられた割り振りのページ数が25ページほどですから、内容のない、目録の羅列に宗旨してしまうんですね。そんで、その羅列の宗旨をおっかけてそこに題目だけ記載されちょる他の論文を読んでみたところで、まあ、タイムアウトですね。ようは、時間のなかで褪せる、空間のなかで埋もれるやうなもんを羅列しても、糞の役にもたたぬわけですが、玉城ちう一応の学者で、学者の性ゆえに、こういう講座ものゆえに、それそれ玉城くんのそのたぬき性も関与して、こういうツマランもんで、25ページを埋め尽くす破目に陥るんですから、要は、簡潔にして要を得て、いったいなんのために書いておるんかを、常に反省しながら、かかぬと、賢者もたぬきのうんこに陥るちうええ冷笑どすわの)
> > >
> > > 3.現代における道徳の問題  小倉志祥 (これは未読。でも、この巻の編者は、この小倉くんと上記の滝沢くんですから、自ら与えたスペースは他の論文の二倍の50ページあまりですけん、ま、期待しますが、期待せんほうが、よろしい鴨)
> > >
> > > 4.道徳理論の諸類型(まあ、書類系めいたもんで、ぱらぱらやっても知識以上にでるもんはどうもありそうにありませんが・・、一応リストアップしてきます)
> > >
> > > 4−1道徳理論の成立と発展   矢島羊吉 (未読)
> > >
> > > 4−2.現代ヨーロッパの道徳理論  上妻 精 (未読)
> > >
> > > 4−3.日本における道徳理論   相良 亨 (未読)
> > >
> > > すっかす、韓国、北朝鮮、中国における道徳理論ちうのんは、なんで論ぜぬのあらうね?
> > >
> > > おしゃべり〜くん、おしゃべりしちょらんで、やってみてください。
> > >
> > > ○5.宗教と道徳   金子武蔵(これは変じゃ、編者なみの扱いで、40ページほどもらってますから、かなり書いていますが、ま、語り口が、若造のたぬき知識ガクシャほどには稚拙でなく、かつまた、一応、年の功=1905年生まれ、ちうこともあり、それなりの知恵を身につけちょりますわの。前半は、まあ、教養分析とおもろいのんですが、後半はどうもつまらんかった印象があります・・2006年3月23日17:22厠の記)
> > >
> > > 6.宗教・道徳と社会生活
> > >
> > > 6−1.日本人の習俗と宗教・道徳   猪城博之 (未読)
> > >
> > > 6−2.現代社会の道徳的諸問題と宗教  湯浅泰雄 (未読)
> > >
> > > まあ、こういうことですけん、この哲学、宗教、道徳のことは、重要ですから、またやるにしまして、全18巻そろい買っても、この巻のような切実な問題のもんは、ほとんどありませんで、対象化したたんなるおたぬき哲学知識が溢れた講座ですから、まあ、買ったヒトはバカ見たでしょうね。文字通り。
> >
> > それで、これで、いい太古とは、それこそ太古から言い続けおるんですが、知識と知恵は厳密にわけて味わいましょう、ちうことは、ま、ことがらに始めのイロハなんですが、こういう哲学たぬきの駆け出しガクシャくんならずもの中年、あるいは老年に達したもんも、ま、わからん、きがつかんもんは、わからんきがつかんわけであって、知識があたかもすべてで、まあ、ごみためのなかの昼寝みてえな、たわごとで、講座開いて、これが、まあ、あの、実際に、青梅線から中央線、御茶ノ水の乗り換えて、丸の内線で、本郷の東大までえんえん、JRにバカ高い運送費を痴漢満員のうざったい時間をすごして出講しても、いんまは独立行政法人、タイ米の、ああ、大枚の講義料さへ徴収された、あほうなたぬきのバカな知識のごみを食わされて、挙句の果てに、えらそうなごみまきたぬきが、一杯オゴレと、これまったくおのれのヨゴレのゴミぶりは棚に上げて、タクシー拾って、湯島天神裏の怪しい一角に連れ込まれるの図、なんちゅうのんは、目も当てられません。
> >
> > そういう、愚もまた楽しちうむきは、ま、あの、小椋桂くんのやうに、60の手習い、どこちゃらでも、出かけていって、歌うたっちょれば、ええわけどすが、なんも、歌うも飲むも、聴くも読むも、劇場の激情のスカートの下ならぬ舌のたぬきの満場拍手ばっかとはかぎらんわけで、あの天蓋に掛かった、天涯、ああ、天崖どすの、そういうところで豪雨突風で飛ばされそうなお屋敷に猫と棲んで世のタレも解さぬ独言舌鋒で毒を現ずるのバガ趣味めいた、あああ、あの場合は趣味ちうより切羽詰ってさうせざるをえなかった必然なんでしょうが、ま、必然もまた偶然、その未必の意思が選び取った道ですから、大切に吹き飛ばされような借家を仮家ぢゃけん、どうでもよかちん、なんぞとなさずに、これ後生大事に金輪際の方丈と心得、精進ならぬ武将もまた精進にうち、そのいと、世間の誰も認めぬ大成にして大器が現成することを祈るのみどすわの。
> >
> > なぬをいっちょるんか、てめえでもよおわからんようになるってえところが、やらせの大可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんがヤラセでかくもんだば、あらへんで、これ、無限の深みから、ミューズ、バール、ディ鬼祖巣、ぬぬ、おもろいねえ、ディオニソス、はたまた右や左の祖霊祖神、トーザイ、トーザイちうもんですわの。
> >
> >
> > > > > そのなかの、ショッパナの第一論文は、この滝沢くんの「現代の事としての宗教」で、これは、なかなかに書けてちょりますけん、この滝沢ちゅうもんに興味をもって、ちょっくら検索をかけたわけでありますけんど、その滝沢克己が、この第一論文のなかで、こうも言っておるんは、まことに、この滝沢くんの見識ですね。
> > > > >
> > > > > ええと、本文の紹介したいところは、大和あるんですが、山とね、それは、時間があれば、あとでやることにすて、
> > > >
> > > > 時間がないんですが、可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんとはちゃうて、忙しくっても、時間はつければあるんだし、長閑なもんで、嗚呼、春です、雨が降ってきました、丁度ええ、本文の幾許か、下の註がつけられているあたり。これも、躁鬱患者、たぬきの分裂商には、特効薬ですが、なんせ、新約、ああ、新薬ぢゃあ、あらへんで、ゾロメの旧約、嗚呼、旧薬ですから、効き目があるんか、どうか?
> > > >
> > > > ま、聖書ズレ、薬ズレして、ノー味噌と身体と心がバカになっておらんけんば、利くんでしょうが、なぬごともたぬきの体制に、ぬぬ、まあ、そういうことですが、耐性になっておると、利きませんね。たぬきがきたら、免疫的に認識でけるうちはええんどすが、たぬきがきたら、ああ、具体的に云えば、あの沿道周柵、ああ、遠藤周作くんの「沈黙」をよんだら、そのたぬきぶりを歓迎して同化しちゃう、たぬき同化のおしゃべり〜くんほか、とりこもなすびおたんこしゅうらの、この国のたぬき文化ちゅうもんは、ふんまにドウカとおもっちゃいますわの。
> > > >
> > > > 前置きがながくなりましたが・・本文の本の一部です。
> > > >
> > > > ≪宗教において、真に始めにあるのは、私たちの宗教的な問いではない。真に終りを成すものもまた、それがいかなるものであれ、私たちの宗教の答えではありえない。いなそうではなくて、真にそれじたいで始めをなし終わりをなすものは、ただ単純にそこに決まっているあの関係、すなわち、「実在の人は神ではない、真実の神は人ではない、にもかかわらず、いなまさにそのようなものとして神と人とは一つである、人はまず神の人、ゆえに神はただ人の神。人の神として、人がただその一極点に成り立ってくる場所=自然の世界そのものの神である」という、この大いなる決定そのもののほかにはない。≫
> > > >
> > > > どうですか?
> > > >
> > > > まだまだ、一パラグラフのなかの本ちゃんはつづきますが、あんまし、根詰めてやると、指の才知間接、うむ、第一間接が、最近痛みをもって硬くなってしまったのんで、マッサージでほぐしてもらわんといけんのんで、牛の尻っぺたでも食ってくるか。
> > > >
> > > > 雨は病んだか?
> >
> > 本日2006/04/11(Tue) は曇りのち雨、まんだ、雨は顕著ではありません。
> >
> > それで、上記につづけますと・・
> >
> > ≪・・この大いなる決定そのもののほかにはない。この私の宗教的な問いにたいする正しい答えは、私にとってただ、絶対に私のものならぬこの隠れたる決定の、おのずからなる反射として、その時その処に生起するところの、私自身の自己決定の形に過ぎない。≫
> >
> > なかなかに味わい深いですね。ぜひ、味得してください。決定はケッテイとよまずに、ケツヂャウと読むほうが味わいあちますね。なお、この反射、その言葉遣い、これは、まったく、その駆け出し幼稚園の哲学のセンセども、ゴマメの歯軋りとは画然とその境地を隔するものです。
> >
> > そういうところを味わいとらねばなりません。ま、このあともえんえんとつづきますが、その味わいとるべきもんは、随所にあり、その味わいの中に、躁鬱たぬきの病気への治癒の素が溶け込んでいるおるんわけですわね。
> >
> >
> > > > > おしゃべり〜くんケーハク宗教、罪人、ぬぬ、在日怨恨、エピゴーネンルサンチマン、たぬきの尻尾につける薬だけを、ご紹介申し上げます。
> > > > >
> > > > > 滝沢曰く「現代の事としての宗教」第2章「人間存在と真正の宗教」第4節「宗教の根底と宗教問答ー宗教と哲学および道徳」への註2.
> > > > >
> > > > > ≪ここに、真実の宗教がつねに、深い沈黙をともなってくる理由がある。しかし、宗教の一契機としての沈黙と、宗教の根基として人間成立の根底に直属する「沈黙」とを混同してはならない。後者は前の意味の「沈黙」をもふくめて、一切の人間的・主体的なるものの絶対的な消滅点であるのにたいして、真正の宗教の沈黙は、ただその反映の一形態にすぎない。もし筆者の誤解でなければ、遠藤周作の『沈黙』ではどうもこの点が明らかでない。ヴィトゲンシュタインその他のばあい、その点、果たしてじゅうぶんに明らかであるかどうか。≫
> > > > >
> > > > > と、述べておるが、まあ、滝沢くんの「誤解」ではありません、ちうより、まんだ、滝沢の言い方は、たぬきの検挙の仕方が謙虚すぎておるんですね。あの遠藤周作くんの『沈黙』では、まっこと俗悪たぬきの沈黙でベストas TIME goes byセラー、あんら?あはは、ベストセラーちうもんであって、世にたぬきの悟りも、たぬきの詩歌俳句があるやうに、世にはたぬきの小説も、たぬきの思想、言説、果ては大可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんがちんきんちんきんタムシなみのもんもおるんですから、鑑定眼をちゃんとやしなうんには、やっぱ目とノー味噌を甘やかしてはいけませんね。
> > > > >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54998] そこを誤って「存在」と妄信することにより、人間は容易に「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか「基体」とか「モノ」とか「金」とか「 権威」とか「怖れ」とか「ヌミノーゼ」とか「叡智」とか「栄光」とか「真実」とか「奴隷」とか「救済」とかに「絶対矛盾的自己同一」する陥穽、地獄に落ちるのであ〜る 目下のプーチン、かつての十字軍、ナチス、はてまた西欧列強ならびに弱小我が国の植民地主そ義、帝国主義、人間が人間を虐殺しても、それをしゃあしゃあと正当化するのであ〜る 究極の「神」とか「善」と「自我」の「存在」が「同一」化した妄想に奔った結果である 事態ロゴスを虚実と覚すれば、さういう馬鹿馬鹿しいことはありえないのであって、金の妄者も、権力の妄者も、神聖の妄者も、ありえないのであ〜る 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/01(Sat) 07:37  

そうこはりANNEX−Ω   訪問者数:12355285(今日:188/昨日:483)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/01(Sat) 6:21 赤口(己丑) 旧暦 ※閏2/11 月齢 10.4 創膏貼

先週今週の長雨低温で長持ちしたのか、目下のわが家周囲の桜はいまだ絶頂満開がつづいているが、おそれらくは一旦例年以上の高温夏日が来ればあえなく散り腐るであらう

毎日、毎日、タバコを買いにでる玄関前の道に落ちた分厚く重い落椿花まるごとを素手でひろって植え込み内へ放り投げる日々

喫えば左胸の痛み、麻酔医が心臓の周りの血管がぼろぼろで手術が怖いと、すぎし日の胆嚢切除前に云っていたことをおもいだしつつ

破れるものは破れよ、ままよ、と花は目に快、囀りは耳に快

なれど、わが心臓はみえず、見えるのは外した入歯ぐらいで、痛みを感ずるのみ

加之、わが心蔵もみえず、見えるのは圧出した文字ぐらいで、痛みを感ずるのみ

> 思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブル

> 西田哲学を理解するためには、これらの数多のバブルを「存在」として読まねば理解できまい

「存在」として読んで理解できたところで、その「存在」にこそ人類世界、個々の自我の陥穽がある、とは従来繰り返し繰り返し指摘してきたところである

それが例え科学であらうが、唯物論であらうが、観念論、唯心論であらうが、同じことだ

ロゴスはすべて虚実であるやうに、インド以西の名色を実となす絶対一神教哲学のドグマたる「存在」「神」「場所」を前提にした「哲学」もまた虚実である

大思想とは大虚構である、大仮構である、大虚実である

究極の「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか、畢竟「無」である

そのデリバティブ派生概念の「基体」「モノ」「金」「 権威」「怖れ」「ヌミノーゼ」「叡智」「栄光」「真実」とかはなおさら、である

そこを誤って「存在」と妄信することにより、人間は容易に「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか「基体」とか「モノ」とか「金」とか「 権威」とか「怖れ」とか「ヌミノーゼ」とか「叡智」とか「栄光」とか「真実」とか「奴隷」とか「救済」とかに「絶対矛盾的自己同一」する陥穽、地獄に落ちるのであ〜る

目下のプーチン、かつての十字軍、ナチス、はてまた西欧列強ならびに弱小我が国の植民地主そ義、帝国主義、人間が人間を虐殺しても、それをしゃあしゃあと正当化するのであ〜る

究極の「神」とか「善」と「自我」の「存在」が「同一」化した妄想に奔った結果である

事態ロゴスを虚実と覚すれば、さういう馬鹿馬鹿しいことはありえないのであって、金の妄者も、権力の妄者も、神聖の妄者も、ありえないのであ〜る

まことに妄想哲学たる西田哲学の賛同者がばかりが、上田閑照にしても藤田その他にしても目に付く昨今、昨日か、ゆきつけの図書館へ20冊の返本借換のついでに、拾ってきたおまけの6冊中に・・

南原繁「国家と宗教」岩波文庫 青167-2

これは戦前戦時中に書かれたものを2014年に文庫化して出版したもので、かの西田幾多郎「日本文化の問題」1940年と真っ向から対立する同時期の稀有な論集で、夕べ小1時間の管見なるも、なかなかにいけさう、楽しみ

もっとも南原は内村・新渡戸に親炙したようなので、「存在論」の域は出で得ないのは、物足りない

それでも、かの京都学派の安易な「絶対ロゴス」まやかし哲学、代表としてあの食えぬ田辺元のキー概念を手厳しく論じている

さて、さて、絶頂満開の桜の中をすっとばし、思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブルのお祓いにでかけやう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54997] 「世界は中心点なく周辺なき円の自己限定と考えられる、世界の進展は円の中に円を描くと考えられる」窮宴バブルである 加之 この「弁証法的一般者」もまたバブルである バブルの煮え滾る苦娑婆地獄の画である 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/27(Mon) 16:05  

なたわをへANNEX−Ω   訪問者数:12351223(今日:318/昨日:1890)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/27(Mon) 13:51 先勝(甲申) 旧暦 ※閏2/6 月齢 5.4

思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブル

西田哲学を理解するためには、これらの数多のバブルを「存在」として読まねば理解できまい

ということは、徹頭徹尾、なべてインド以西の名色を実となす絶対一神教哲学のドグマたる「存在」「神」「場所」を前提にした「哲学」思想になりきって読まねば読めぬわけであって、印度以東の名色・ロゴス・存在への疑義と虚妄性を覚した自覚において読めば、計名字相・業繋苦相の妄想(遍計所執性)としかうつらぬわけである

まさに「存在」「神」「場所」に執取して計名字・起業・業繋苦の浄土ならぬ バブルの煮え滾る苦娑婆地獄の画である

たとえば

西田のよくつかう手の「パスカルのいわゆる周辺なくして到る所が中心となる無限大の球」p57からとったか「世界は中心点なく周辺なき円の自己限定と考えられる、世界の進展は円の中に円を描くと考えられる」p42西田幾多郎哲学論集U「論理と生命」弁証法的一般者としての世界、岩波文庫 1988年 青124-5

まさに球にして円の窮宴バブルである

加之

この「弁証法的一般者」もまたバブルである

まことに執拗に幾多郎は「弁証法」に色々な形容あるいは尻尾をつけて場ぶって、ああ、バブっているが、そもそもが弁証法ちう謂いロゴスそのものが、洗剤、うむ、洗剤バブルであって、「存在」「超越」バブルを前提としたロジックロゴスであって、それが田辺元(まことに食えぬ)の正反合にしたところで、正も反もともどもにあって(存在して)こそ、それを「超」え「越」したところにまた「合」がある(存在)、徹底した名色の有の存在論である

「一般者」の謂いもまた叱りにして然りである、その元がプロティノスであらうが・・

無限とか全とか一とか、幾多郎君は徹底した名色の有の存在論であるところのヘブライギリシャ西欧のロゴスをまことによくこ豆にもってきて、而してそのいちいちがみようによってはみんなバブルにしてポップコーン、鬼は内福は外であるのだが、そのロゴスのバブルを沸騰させてまことに得意げである

そして「ねばならぬ」と叫びまくって恬として恥じぬ

速い話が、うむ、遅い話も、無限とか全とか一とか、よ〜く考えてみなさい

全て無だ

余す所なき全、これはもはや全ともいえぬ、全と限定するものも無く、無である

それが「場所」だ「無の場所」だ「絶対無の場所」だ、と言っても、それは詭弁である

なんとならば全は場所さえ含んで無であるからして全とは別に場所があるはずもなく、無が自己限定するはずもない

だから、「絶対無」という「根源語」を西田、田辺、西谷に創出したのだ、と上田閑照遊撃手が、まことにちょろちょこと諸先輩のロゴスの間を走りまくりながら、云うのだが、まあ、なべて屁理屈だね、西欧「存在論」名色有思想への色目でしかない

古人、古仏の「無」で十分ではないか

加之

西田にして上田にしても、ああ、上田幾多郎君、どこだかわすれたが・・

絶対即仏

なんぞと妄言を吐いておる

これは仏にかの名色有の一神教の絶対神を投影して仏を曲解して恬として恥じぬ

仏は絶対でもなんでもない、覚、仏陀は覚者、が原意

それを絶対者だか、絶対とかいうのは、まことに前提として名色有の一神教めいた仏教の一派の浄土教、浄土真宗的思い込みの阿弥陀仏の賜物であらうがな。仏教思想も多士済々

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54996] 計名字相哲学としての西田哲学、業繋苦相としての西田幾多郎 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/24(Fri) 19:40  

よこをわねANNEX−Ω   訪問者数:12348562(今日:585/昨日:1996)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/24(Fri) 15:51 仏滅(辛巳) 旧暦 ※閏2/3 彼岸明(春) 月齢 2.4

この彼岸明けの仏滅を逃す手はなからう、と心中の靄々を記す

名色ナーマル―パ(名色(みょうしき)とは、パーリ語およびサンスクリット語のNāmarūpa(ナーマルーパ)に由来し、名前(nāma,ナーマ, 名)+姿(rūpa,ルーパ,色)による熟語である。)

サンスクリット語のナーマが、日本語の名前

アラビア語のアンタが、日本語のあんた

偶然か必然か、古代インドや近東の同じ人類としての言葉と思想の流れが我が国にもやってきたのかもしれぬ

名色ナーマル―パ、名により色がある、つまり「言葉」に酔って万物が「存在
する、その名色そのものをどう考えるか

なべてインド以西では名色を実となし絶対一神教哲学になり、以東では名色へ疑義をもってその虚妄性を覚した

かくなる構図において西田哲学なるものも、その名色へ疑義をもってその虚妄性を覚さ「ねばならぬ」ところ、あたかも惑乱の極み、言葉のバブルの沸騰の体を呈している

そのことは卑しくも禅だ仏教だを論じるのであれば西田自身が自覚すべきであらうが、それがまったくてきていない

さきに「知識の分類」妄想(遍計所執性)を云々したが、ソレに即していえば、西田哲学は妄想哲学である

加之(しかのみならず)

大乗起信論に曰くの

1.無明業相
2.能見相
3.境界相
4.智相
5.相続相
6.執取相
7.計名字相
8.起業相
9.業繋苦相

が累々とまことに顕著である

これらの諸相が沸騰してバブルの様相を呈する幾許かを井筒俊彦の叙述より引用すれば(井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25)

㈤ 相続相・・「智相」的「妄念」は、ひとたび生起するや、果てしなく、念々に起って絶えることがない。

㈥ 執取相・・「智相」の連続の結果、虚妄の事物を真実在と思う心がますます強まり、それらに対する執着が深まっていく。

㈦ 計名字相・・未だどこにも、これといって特別の「名」が現れていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、それを様々に区劃し、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のありかたを「計名字相」という。(疲れるからすっ飛ばして)・・「名」によって固定されて、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存意識にたいして強烈な呪縛力を行使しはじめる・・情念のこのような言語的凝固体群を、伝統的仏教用語では「煩悩」という。執拗な「煩悩」群の支配する狂乱の世界ーそのような内的世界としての実存意識の成立に『起信論』は「不覚」への道の至りつくところを見る。(まるで西田哲学とその叙述者たる西田幾多郎をそのものを叙述しいるようだ)

㈧  起業相・・十重二十重に「煩悩」に巻きつかれた(蛇を連想するね・・かの西田哲学の毒蛇)人間主体は、生存するかぎり絶えまなく、「身・口・意」三様の「業」を重ねていく。その暗澹たる事態生起の発端

㈨  業繋苦相・・数かぎりない「業」の重なりの果報を受けて、人は実存的「苦」に曳きずる込まれ、遁れがたくそれに繋縛される。(まさに藤田などが西田哲学を「悲哀」の哲学などと喧伝する所以であらう、もっとも喧伝者たる藤田などは起信論的意味あいではなく、西田書簡にしるされた心情や家庭や時代の事情を加味しての「悲哀」ではあらうが・・)

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54995] わかった、わかった、自在鉤の鑰に魂を吊って、滑車の別の綱を、こうやって下へ肉体、質量でもって引っ張れば、魂は天上へ上昇していくのね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/22(Sun) 11:34  

とるみほへANNEX−Ω   訪問者数:12259555(今日:286/昨日:367)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/22(Sun) 09:00 先勝(庚辰) 旧暦 1/1 旧正月 月齢 0.3 新月 朔

1903年(西田33歳)

35 謎々に子供集まる囲炉裏哉

西田幾多郎の謎々に集まる子供ら、弟子もおれば孫、曾孫もおるであらう

解けた、爺ちゃんの謎が解けた

なにが謎って、なぞってみると、西田爺ちゃんの「場所」は「難解」だと上田は云う

その「難解」なる「場所」は自己を包み、自己を置きつつ、何重にもして、無限にもしてあるのである

場所は、世界は、いろいろある囲炉裏端

家庭、講壇、学会、宗教界、世間、遊廓、闇市、戦争、はたまた、時代を違えば、ユダヤの捕囚、ギリシャローマのクセノファネス、プラトン、アリストテレス、プロティノス、パウロ、アウグスティヌス、西欧のエックハルト、クザーヌス、ベーメ、スピノザ、ライプニッツ、はてはボーア、やれ我が国の親鸞、皇道、その場所や世界はかぎりない

いったいどこの「場所」なのか?西田の論旨にあわせて変幻自裁の夢幻か?

その「場所」が「自己否定」をして場所の「自己意識」として自己になるとはなにごとか?

場所の擬人化か?

なぞなぞ?難解?体験?

「難解」ちうよりロジック、言葉の「トリック」だ

あの「場所」というのは西田自身が云っておるように「意識の場」なのだ

だから、「場所」をどう展開しやうとも、そこには纏綿として西田の「自我」、「意識」がつきまとっている

自意識が場意識に飛躍

それを「自己否定」して「無・意識」にして「無の場所」となす秘鑰

とはいえ、この西田哲学の「無の場所」は畢竟「無の場所」たりえない

この西田哲学の飛躍にして秘鑰には最初から、トリックロジックの自己が纏綿している

南無阿弥陀仏、親鸞の他力本願、悪人正機

救いを希求する南無阿弥陀仏を唱える自我

それでは、自我の「はからい」である

自我の「はからい」を、自己を撥撫せよ

それでこれを180度反転して、自我は南無阿弥陀仏と唱えしめられている、弥陀の「はからい」であるとなす

これは、なあんも撥撫でもなんでもない

ただのトリックロジックであって、それを廻心となす、回心、会心の演技

このトリックロジックは世の古今東西にまことによくみうけられる

自己による自己の救済ではなく、弥陀・基督・神に救済されるのだ

自己の「はからい」がそのまま弥陀・基督・神の「はからい」へ180度転回され、自己に纏綿としている欲求、願望、贖罪が、そのまま自己から弥陀・基督・神へ転嫁され、反転、翻躍する

つまり、それは自己の意識・欲望が、自己とそれをつつむ場・神とへ飛びまわる自己意識のサーカスロジック現象である

而して、その自己の脱自的外在的超越を自己の内在的超越へまた翻転しなおす

内外宇宙的動的ダイナミックス、エクスタシー

トートロジーにして撞着

絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾

1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

役者は役者にあらずして役者である


65 炉開や低うつりたる自在鍵

ねえ、お爺ちゃん、あの自在鉤の吊ってある天上のあれはなに?

あれはね、滑車

あ、そうなの、わかった、わかった、自在鉤の鑰に魂を吊って、滑車の別の綱を、こうやって下へ肉体、質量でもって引っ張れば、魂は天上へ上昇していくのね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54994] この猿のサーカスを繰り返し繰り返し味わうのも、一狂にして一驚、一興 「神」の「叡智」の養生には栄養でもあらうRe:[54993] 猿曳の背にねる猿や戻りみち 西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/16(Mon) 15:27  

らつくさあANNEX−Ω   訪問者数:12252967(今日:201/昨日:545)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/16(Mon) 08:36 赤口(甲戌) 旧暦 12/25 月齢 23.7

言葉とは不思議なものである

言葉の殻と中身、殻が割れて中身がぱっと現れれば、多分に言葉を語る主体の意図しないことまでが現れる

また、言葉の殻にも中身にも深浅がある、どこのレベルで言葉の殻をあるいは中身を解するかによって、言葉から言葉への連なりの全体の相貌がまるで違って来る

> ひしさぬめANNEX−Ω   訪問者数:12252429(今日:208/昨日:1977)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 04:30 大安(癸酉) 旧暦 12/24 月齢 22.7 下弦
>
> 酒やけのかむろふりふり雪もよひ
>
> 一体に自我の七転八倒格闘の西田哲学とうのんは酩酊してかかれたのであらうか?

西田哲学における言葉遣いについては、殊更に言葉の殻と中身、深浅の激しいブレ、震度を感じる

これは酩酊ともいえ、これは、かのスーフィーの「酔言」をも背景にした酩酊であるが、読まされるほうもまた眩暈を感じざるをえない

一方またシャーマン的な憑依の言、あるいは預言者の啓示をも感じさせる

いずれにしても尋常な言葉遣いではない

これはなにも「でなければならぬ」という預言者めいた命令基調のことばかりではなく

主客、主観・客観というような極めて一般的な概念語でさえもつかいかたが特殊である

加えて西田哲学特有の語彙に至っては一般に理解される意味とはまるで逆の意味ですらつかっているようにも見受けらる

その意味の特殊性を西田自身がくどくどと言い募ることもあれば、また全然きにせずに西田本意で使っていることもあるから、まことに要注意であって、目が離せないサーカスと感じる所以でもある

しかし西田哲学をはなれた一方の詩歌随筆談話では、西田哲学にみられる特殊な状況は起こっていない、平坦にして常識的である。

一体、この差異はなんなであらうか?

というような、問題意識をもつことは、いいことだ

問題意識が誹謗で始まっても、いいことだ

> 三つ子の魂百までも

某甲にたいしては、曾祖父のそのまた先のような西田の三つ子の魂を云々するのも僭越ではある

個体発生は系統発生を繰り返すやうに、人間だれしもこどものころに考えたこと、教え込まれたことは、後々まで尾を引く

かの西田哲学の構造、すなわち自己、場所、世界、宇宙、神、などというものは、まさにさういう発想の展開である

而して、その自己、場所、世界、宇宙、神、などの言葉が、さきのようにその殻と中身、その深浅、ブレ、酩酊、酔言、預言化してくると、こどもの手には負えなくなる

ましてや、そこに西欧ロゴスの特殊な使い方ロジックが加味されて、やれ神だの、一者、絶対者、超越だの、弁証法だの、とくればなおさらに、ウォッカ、アブサン、テキーラ、ウヰスキー、ブランデーの類のエチルならまだしも、果てはメチルアルコールを呑まされているような気さえする、毒蛇

気宇壮大にして自己から場所から世界から宇宙から神からなにからなにまでなどなどを「説明」し尽くそうとするその野望と苦悩と時代との格闘をなして七転八倒する西田哲学は喋り出したらまったくその独自の言葉とロジックが止まらない

ある一節を提示して、それを説明する結論にいたるまでに、ある一節そのものとは無関係な西田哲学独自の言葉とロジックの説明を延々と2、30ページも低徊的に繰り返して、やっと、先の一節に即した結論の開示に至ることもままあり、一体なにが問題なんだっけ?と何度も読み返さねばコンテクストも意味も掴み兼ねるこも一再でない

突っ走って突っ走って、その結論が浄土真宗と皇道では、目も当てられぬ大事故である

この大事故にいたる突っ走りの過程に、どっかおかしなところがあるのではないか?

そっこらぢゅうにある

そっこらぢゅうにあるにはあるのだが、このそっこらぢゅうのおかしいところも、普通の言葉とロジックではおかしくもかんじるものが、西田哲学の特殊な言葉とロジックにおいて「よくみれば」、さしておかしくもないこともある

それにしても、やっぱり言葉」の皮がやぶれて中身の汁が噴出するような味わいもあれば、一転して食えぬ毒にもなることもある

その毒の所以はなにか?

> 果たして、それは「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」ではないのか?

依他起性 遍计所执性 圆成实性

だれでもものをかんがえる、あるいは自覚するには依他起性からはじまる

ところが西田哲学はそのどころどころで「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」への遍计所执性が顕著である

西田本人は「幻」でも 遍计所执性ともおもわず「存在」「実在」となしている

それで西田哲学の結局の圆成实性は「浄土真宗」と「皇道」への帰依、「信仰」になってしまう

さうならぬように、この猿のサーカスを繰り返し繰り返し味わうのも、一狂にして一驚、一興

言葉のサーカス、ロジックのサーカスとしては見所も多く、人間としての知恵にとってはともかくも、「神」の「叡智」の養生には栄養でもあらう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54993] 西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う猿曳の背にねる猿や戻りみち「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 05:48  

ひしさぬめANNEX−Ω   訪問者数:12252429(今日:208/昨日:1977)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 04:30 大安(癸酉) 旧暦 12/24 月齢 22.7 下弦

酒やけのかむろふりふり雪もよひ

一体に自我の七転八倒格闘の西田哲学とうのんは酩酊してかかれたのであらうか?

三つ子の魂百までも

ああ、三つ子とはいわんで、母胎内の「汝と我」未分の零の魂百までも、がよろし

色即是空空即是色は、そのまま色即是空空即是色である

廓然無聖である

これに対して、西田哲学においては、西田幾多郎においては、これがまるで体得されていない。徹頭徹尾「絶対」「超越」者を前提にした哲学であり、西田幾多郎である

此処において西田哲学と西田幾多郎はその最期において「浄土真宗」「皇道」を奉斎するに至る

まるで西欧あるいはアラブの一神教が形而上も形而下も「聖別」して、「戦争」に邁進してきた、そしていままた、邁進しているように

西田哲学と西田幾多郎が結果論として「浄土真宗」「皇道」を奉斎したことの萌芽は、そもそもの始め「善の研究」からあったし、もっとさかのぼれば、西田幾多郎の生まれと生い立ちにあったのであって、西田哲学と西田幾多郎も悪魔で、あくまで、歴史的所産であった

西欧一神教のもとをペルシャのゾロアスターにまで帰せぬも、ユダヤ教の捕囚時代にその因を訪ねれば、その時代の辛苦に発し、西田の帰依するところの親鸞の浄土真宗も我が国13世紀、末法の世の乱れの辛苦のなかに生まれ、1870年生まれの西田幾多郎は明治の文明開化、和魂洋才、日清日露戦争、第1次世界大戦、関東大震災、世界大恐慌、満州事変、第2次大戦と大変な世界と時代を生き抜いてきたわけであって

平和ボケした某甲なんぞが云々しえぬ、大変な体験のなかで七転八倒した西田幾多郎が叙述した西田哲学は、西田哲学が西田幾多郎を叙述したともいえるだろう

すなわち、あの西田哲学は、西田幾多郎が「つくった」とうよりも世界/時代によって「つくられた」ものであらう

すなわち一個の西田の「つくった」ものではのうて、古今東西といっても、ほとんど西の概念であって東の色即是空空即是色ちうような知恵は死体(しにてい)ではあるが、西欧近東的「絶対」的「超越」者の古今のイデオロギーの合体が明治大正昭和初期の時代状況の苦難のなかで集合的時代的呻き声を発した西田哲学

西田個人に期すれば、それこそ浄土真宗的風土の三つ子の魂が百まで長い生きせんも75歳か、ぞろ晩年になれば、浄土真宗、皇道へ回帰したんもんであらうがね 門徒衆

だうせ回帰するんであれば、それこそ「汝と我」未生以前の「本来の面目」へ回帰すれば、その無の混沌においては「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」は絶対ありえないし、はたまた「絶対矛盾的自己同一」も絶対同一的自己矛盾もありえなく、そこで七転八倒し自己と世界とで格闘することもありなかったのにね、可愛そうなことをした

1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

この西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している

1937年(西田67歳)

88 土蔵ずまひ何しに来たと一茶云ふ

89 秋ひよりけふは一茶も留守の様

この一茶は一茶にして一茶ではない

誰なんだろう?

果たして、それは「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」ではないのか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54992] そして、だれも解説をかかない。そして、だれも解説をかかない。日本文化の問題。萎縮と憂鬱の西田「哲学」 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/10(Tue) 05:29  

はきさあうANNEX−Ω   訪問者数:12245872(今日:52/昨日:722)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/10(Tue) 03:55 赤口(戊辰) 旧暦 12/19 月齢 17.7

Ray Charles - Good Love Gone Bad
http://www.youtube.com/watch?v=ly6ch4Q0JCQ

小人閑居して不善をなす

西田幾多郎「善の研究」なんぞを20年ぶりに手に取って、だうも、とんでもない不善をなしたのかもしれない

それにしても、西田哲学ちうのんは、癒されない

ギスギスして小理屈がならべてあって、自己にしろ世界観にしろ、それらの励起にはならない

小理屈の頭の体操にはなっても、身体にせい霊にせいその励起にはならない、むしろ委縮し憂鬱が増殖する

「つくられたものから、つくるものへ」というやうなテーゼにしても、それがみようによっては、とんでもない方向にいく、すなわち天皇制のため、お国のために、平和のための戦争へ自己犠牲を強いる「なばらなぬ」強制の論理小理屈であって、これは、我が国でいえば天皇制でであり国体なのかもしれぬが、その含みのよってきたるところは、西田幾多郎が西欧ロゴスを借り来たって述べるところの源点にさかのぼってみれば西欧的一神教的小理屈に依って・・

神によって「つくられたものから」それが個々の個人にして我であって、その個人それぞれの我は神を「つくるものへ」と「ならなければならない」、さういう認識をし「なければならない」、それが自覚で「なければならない」

つまり神に帰依して奉仕せよ、あるいは神において殉死せよ、はたまた絶対他者を神としてたててたてまつらなければならない、あるいは絶対自己を神としてたててたてまつらなけらばならない

というような事態になる、というか、なら「なければならない」、という圧力にみちみちている

なんという救いのない思想にして哲学なんだろう

そこに「無」とか「愛」とかいっても、それらはみんな浮き上がってしまっている

もっかのプーチンがウクライナ戦争の犠牲者になった兵士の母親にむかって、国家のために死んだなら名誉だというようなことをいっておったが、おなじことを西田の薫陶をうけた高坂などが云っている、そして公職追放になったんだが、また、1980代ごろから「京都学派」が世間で復活してきて、

日本会議、統一教会の活躍、安倍政権になって、岩波書店も世間に迎合したのか、あるいは世間への警告なのであらうか、1940年3月第1刷発行の西田幾多郎「日本文化の問題」が岩波新書で2018年第7刷で発行される、だれも解説をかかない。

西田幾多郎は絶叫するp141「我々の歴史的精神の底から(我々の心の底から)、世界的原理が生み出されなければならない。皇道は世界的とならなければならない」

やや遡ってp119「我々は此世界から生れ此世界へ死し行くのである。此世界に於いて生死するのである。理性とは此世界の自己形成作用に外ならない。私は自己を世界の中に置くといったが、自己は固世界の中にあるのである。・・・宗教的体験の立場からは、我々の道徳的行為は義務の為の義務と云うふよりも、むしろ知本報恩となるのである。親鸞の自然法爾と云ふのは、深く此意に徹したものでなければならない。矛盾的自己同一として皇道と相戻らないものでなければならない。我々の自己が歴史的世界の個物として個物的なればなる程、右の如き自覚に達せなければならない。そこには絶対の受動が即絶対の能動であるのである。」

そして、だれも解説をかかない。

この岩波新書、2018年発行の新しいものであっても図書館では開架ではなく閉架にしまいこまれ、リクエストしないとでてこない。

そして、だれも解説をかかない。この岩波新書でもだれも解説をかかないが、あれだけ西田幾多郎の解説をしてやまぬ上田閑照でも藤田正勝でも、だれも解説をかかない、管見ではあるが。

ただ本書の最後には「(本書は・・教学局の許可を得て転載せるものなり)」とある

教学局、文部省のね。目下も統一教会でゆれている。宗教も思想も勲章も管轄しているのね、おぞましいことだ。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54991] 妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば・・天上の神への「存在」へ讃仰し自己同一化しようとする「意志」「行為」が禍をもたらす Re:[54990] 類想・類相・類争 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/08(Sun) 11:21  

らふほろねANNEX−Ω   訪問者数:12243655(今日:385/昨日:1327)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 11:26仏滅(丙寅) 旧暦 12/17 月齢 15.7

初七日ならぬ松の内か、昨日は先負(乙丑) 旧暦 12/16 月齢 14.7 満月(8時)望だったのね

8時の望月へ月輪観

この自己の身体霊魂を膨らましに膨らまして月も太陽も銀河星雲も宇宙も呑み込んでしまう

空海の手法

一転して、七草粥に餅三つ食って最後のタバコを一服して寝てしまった、タバコを喫わぬためには寝るのが一番と・・

ニコチンや脳へ沁み入る蝉の声

ちう駄句も思い浮かぶが・・

煩悩を集めて速し流星群

も、また芭蕉のプラットホームの形式を借りた剽窃なるも、この「沁み入る」とか「集めて速し」とかは、言葉のもてる力であって、それを展開すれば、色々な事がまた別の味わいをもって現成してくるのであるからして、昨今の類想・類相・類争を離れ見れば、それもよし

古人の至った境涯に於いて我もまた遊ぶの風

この遊びを抹殺して、俺がoregano「オレガノには多くの効能があり、抗ウイルス、抗菌、抗酸化、抗炎症などの効能があることから「天然の抗生物質」と呼ばれています」。

俺が俺がの兜太「現代俳句」的アイデンティー自己主張は類想の風雅や季語への固着黴菌への抗生物質ではありえても、一方また生そのものへの副作用もある

> のめぬすそANNEX−Ω   訪問者数:12241790(今日:326/昨日:2003)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 10:35 友引(甲子) 旧暦 12/15 小寒 月齢 13.7 呑めぬ裾
>
> 上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8より幾許かを拾って、選りがやや甘くも、よかんべさ、ちうのんは、句作におけるいわゆる類想や季重というものがややあるからであるが、このこともものごとをよく考えてみる契機になりさうである
>
> 現今の句作でよく忌諱される類想や季重は、ふんまに忌諱されるべきもんであらうか?
>
> これも、あるいは傍観者風の弊害ともども、現代は句の劣化のもとではないか?
>
> ちう問いをたててみる、以下考えつつ・・
>
> 詩歌俳句の世界はもとより、宗教、哲学、思想、科学の世界でも類想は多々あって、その類想の中での差異において独創性、ひいては特許、知的所有権さへ云々されるのではないか?
>
> 西田幾多郎の「哲学」でも、西欧、あるいは、仏教からの類想に道々、満ち満ちている
>
> その道々、満ち満ちから、俺はプラトンとは、カント、ヘーゲル、ベルグソンなどなどとは、ここが違うんだということをしっつこく粘り強く低徊的にいっておって、その低徊軌道から励起されるところに、ちょこんと仏教や禅が出てきて、そのちょこんの励起を、だうも、西欧小理屈の延長では「説明」しきれていない憾みもあるが、まあ、そういう類想的哲学でも独奏的ではある

この「独奏」は独創の書き間違えではない

井筒の「交響」的に比して、幾多郎は「独奏」的なのである

西田はあくまで類想的でありながら、そこでの「俺が俺が」の差異を言い募る

この自己主張の強さがいわば「でなければならない」とう口吻に現れる

この口吻を味わってみれば反吐を催さしめる毒我であるが、そこには西田の自己不安、自己矛盾が逆説的に現れいる

自己を徹底的の押し込める、押し込めな「ければならない」、自他ともにね

その西田哲学、論文にはまことにギスギスした風があって、まあ、遊びがないのね

ゆえに「難解」だとかなんとか言われ、それを上田らの「京都学派」が蛸壺的展開で蛸の脚を拡げて世の中を絡め捕ろうとしている風もなきにしもあらぬが、難解というのは、いかにもの西田の論を讃仰しての蛸壺三業地における芸者ごっことも見える

これは上田ばかりではなく、昨今の現役「京都学派」の

藤田正勝著「日本哲学史」昭和堂 2018年、20年に喃々とした労作にしても、同じことで西田への批判論文への言及は少なく、西田の概念への解説が500頁の大部を占める

嗚呼、ニコチンに活性化された脳へ沁み込んだ蝉は何を云おうとしてるのか?

まあ、三業地で贔屓の芸者への讃仰を言い募るのもまた、また京都的な、祇園、先斗町や上七軒、はたまた島原の風でもあらうし、寺々の坊主も出入りして、坊主と学者の街の風情としては、さもありなんではある

さきに引用した幾多郎の句

19 塀尽きて小さき橋あり夏柳

25 廻廊に昼寝の笠や知恩院

まことにこれば、江戸にすれば吉原、京都にすれば島原の景であって、知恩院は痴恩院かもしれぬが、人間なればさういうこともあらう

幾多郎の「場所」その他の「難解」さについて云々する上田閑照は西田の考え方を総括して一つの秀逸なまとめを提示している

上田閑照編「西田幾多郎哲学論集T」1987年 岩波文庫 青124-4 解説363頁に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

展開された純粋経験の全関連の動脈は次のようにえがき出される。

主もなく客もない原始の純粋経験がそこだけ直示される場合は「無」。

主客への分開を含んで自展した具体的な純粋経験において主客相対するところでいえば主のほうは「精神」。客のほうは「自然」。

そのように展開した純粋経験の全体、主客を包んだ全体が主側から尽くされる「自己」、同じ全体が客側から尽くされると「宇宙」。

そして最後に、

そのように展開した純粋経験の全体が全体として、しかも、主もなく客もない原始にこめられていた未分の統一力が無限の統一力として現勢化したその統一に統べられた生ける全体としての全体が「神」

というように展げられてゆく。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

まあ、こどものころに思った「自分」とか「世界」とか「宇宙」とか「神」とかと大差がない、大差があるのは、そこのところに西欧的ロゴスの小理屈で「存在」とか「個別化」をはかっているところだけであらうがね

その西田の「神」が問題であって、この西欧的ともいいうる神を天皇、皇室という日本の枢軸にもってくることが問題なのだが、

それにしてもそういう考えのでてくるもとのものとして西田の時間・空間のとらえかた、「西田講演集」など読んでいると、

二次元座標軸で西田は

時間を縦軸、空間を横軸

としてプロットし、最終的には空間の円環と、時間の現在する過去と未来をもって時空の一致におよぶののだが・・

結論は一緒でも、某甲の頭の中では、時間は横軸、空間は縦軸

これはなべて昨今の科学においても経済の図式においても、時間は横軸、空間は縦軸であらわされるものであれば、そういうプロットに慣れ親しんだものにとっては、違和感もある

かつて人間の遺伝子と、神の遺伝子をホモげない図、ホモジェナイズして、その活性化を計ろうとしたときでも、さうであったか、神の、人間の活性化が横の時間軸でどう変化してきたのか?


西田は、日本、東洋の国々社会を縦と観、西欧の国々社会を横と観る

平たくいえば、横軸は「物質」の世界で、個はあっても「形相」のない個、それに「個性」「形相」を与えるのは歴史、時間であって、縦軸となすのであって

その縦軸において「形相」が「神」として出現し、それを時空の統一として「存在」となすところに、現在からみれば、ということは、原罪からみれば、某甲からみれば、大いなる問題が発生する

畢竟するに、この問題こそは、なぬも東洋の国々社会を縦と観、西欧の国々社会を横と観るのはなく、一神教たる神の生ける西欧世界こそが、縦なんだらうとおもうのだが・・

西田でも誰でも西欧ロゴス一神教思想に毒されたものは「超越」ということを頻繁に云い、かつ「叡智」だの「光」だのと云うのが常である

この発想こそが、縦軸の天上に神を讃仰する縦思想の最たるものであらう

この天上の神への「存在」へ讃仰し自己同一化しようとする「意志」「行為」が禍をもたらす

一体、脳の中で鳴く蝉はなにをいわんとしているのであらうか?

やっぱ、寝ちゃったはうがよかんべさ、かな?

寝れば、また、四肢が強張り、脳が強張る

> 科学にしたって同じことで、追試をしてみているうちに、あれ〜!という事態が発見につながり、そこの差異への思考の試行を重ねていくうちに独創的なもんへ発展することもある
>
> だからして類想は、現今の俳句の世界やその他でいわれるほどに忌諱すべきものではなく
>
> とくに、一個の人間や人類や世界の「救済」や「解脱」や「平和」を「目的」にするのであれば、尊ばれこそすれ、忌諱されるべきもんでもなからう
>
> なぜ、忌諱されるのか?
>
> 金子兜太などをみればわかる
>
> これらの現代俳人はいたずらに、己が独創性を追求し、アイデンティティーの希求に奔る

これもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

> だから、あんな救いもない、ヘンテコリンな句、「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」、とか、「女陰あらわ」な句がでてきて、それを誇り、また大衆もそれを賛美することになり果てる
>
> この独創性とかアイデンティティーちうもんは、まあ、いってみれば、目下の悪化した資本主義の権化の知的所有権、商標登録めいたもんであって、本来の文学、詩歌俳句からみれば、価値的にはゴミに等しい

これもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば

> 偉大な思想が、文学が、科学技術が、だうやって生まれてきたか、類想を母として生まれてきたのではないか?
>
> 季語にしたところで、おなじやうなものだ
>
> 先人の季感・風雅の集積の季語が重なったところで、まあ、多少しっつこくはなるが、風雅が減殺されなければよいのであって、季重なんぞことさらに忌諱されるべきもんでもなからう
>
> 季重を忌諱すれば、古来の名歌、名句もみんな駄歌、駄句になり果てる
>
> 連歌、連句時代には、そこに連なる連衆をともにするところの風雅の世界がって、そこからのちょっとしたひねり差異のおもしろみをつらねたのであって、そこから俳句が発句として独立してきて、いまや独創性、アイデンティティー、知的所有権、商標登録、宣伝にうつつをぬかす「現代俳句」ちうのんは、やはりこれもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば

さて、寝るよりはやや気温もあがってよい妖気なれば、自転車にでものってかっ飛ばすか

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54990] 類想・類相・類争 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 11:26  

のめぬすそANNEX−Ω   訪問者数:12241790(今日:326/昨日:2003)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 10:35 友引(甲子) 旧暦 12/15 小寒 月齢 13.7 呑めぬ裾

上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8より幾許かを拾って、選りがやや甘くも、よかんべさ、ちうのんは、句作におけるいわゆる類想や季重というものがややあるからであるが、このこともものごとをよく考えてみる契機になりさうである

現今の句作でよく忌諱される類想や季重は、ふんまに忌諱されるべきもんであらうか?

これも、あるいは傍観者風の弊害ともども、現代は句の劣化のもとではないか?

ちう問いをたててみる、以下考えつつ・・

詩歌俳句の世界はもとより、宗教、哲学、思想、科学の世界でも類想は多々あって、その類想の中での差異において独創性、ひいては特許、知的所有権さへ云々されるのではないか?

西田幾多郎の「哲学」でも、西欧、あるいは、仏教からの類想に道々、満ち満ちている

その道々、満ち満ちから、俺はプラトンとは、カント、ヘーゲル、ベルグソンなどなどとは、ここが違うんだということをしっつこく粘り強く低徊的にいっておって、その低徊軌道から励起されるところに、ちょこんと仏教や禅が出てきて、そのちょこんの励起を、だうも、西欧小理屈の延長では「説明」しきれていない憾みもあるが、まあ、そういう類想的哲学でも独奏的ではある

科学にしたって同じことで、追試をしてみているうちに、あれ〜!という事態が発見につながり、そこの差異への思考の試行を重ねていくうちに独創的なもんへ発展することもある

だからして類想は、現今の俳句の世界やその他でいわれるほどに忌諱すべきものではなく

とくに、一個の人間や人類や世界の「救済」や「解脱」や「平和」を「目的」にするのであれば、尊ばれこそすれ、忌諱されるべきもんでもなからう

なぜ、忌諱されるのか?

金子兜太などをみればわかる

これらの現代俳人はいたずらに、己が独創性を追求し、アイデンティティーの希求に奔る

だから、あんな救いもない、ヘンテコリンな句、「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」、とか、「女陰あらわ」な句がでてきて、それを誇り、また大衆もそれを賛美することになり果てる

この独創性とかアイデンティティーちうもんは、まあ、いってみれば、目下の悪化した資本主義の権化の知的所有権、商標登録めいたもんであって、本来の文学、詩歌俳句からみれば、価値的にはゴミに等しい

偉大な思想が、文学が、科学技術が、だうやって生まれてきたか、類想を母として生まれてきたのではないか?

季語にしたところで、おなじやうなものだ

先人の季感・風雅の集積の季語が重なったところで、まあ、多少しっつこくはなるが、風雅が減殺されなければよいのであって、季重なんぞことさらに忌諱されるべきもんでもなからう

季重を忌諱すれば、古来の名歌、名句もみんな駄歌、駄句になり果てる

連歌、連句時代には、そこに連なる連衆をともにするところの風雅の世界がって、そこからのちょっとしたひねり差異のおもしろみをつらねたのであって、そこから俳句が発句として独立してきて、いまや独創性、アイデンティティー、知的所有権、商標登録、宣伝にうつつをぬかす「現代俳句」ちうのんは、やはりこれもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54989] 幾多郎の俳論もなきにしもあらずも、おのずから小理屈の頸の飛んだ風情も味わえる 果たして、俳句というものは世代ごとに劣化してきたやうにおもえなくもない(傍観者化が顕著)Re:[54988] 2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Tue) 21:05  

んそゆやよANNEX−Ω   訪問者数:12238389(今日:416/昨日:1897)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Mon) 16:43 大安(辛酉) 旧暦 12/12 月齢 10.7

暮れなずむ三日の空や鴉飛ぶ

> 初夢や達磨落としの頸が飛ぶ

木槌を横殴りに振って頸が飛んだ

誰かが叫ぶ、そこぢゃない、もっと下、もっと下

ふむ

積みあがった、ああ、罪あがった、達磨落とし、積み木達磨の段々

赤肉団上一無位真人

赤肉段々、いやさ、着膨れの段々から、すっとばせと

天空の氷柱もろとも慧可斬首

慧可断臂にして達磨へ乞う慧可

本来の面目を乞う問僧

一無位真人を乞う問僧

そこで、一無位真人をすらすっとばす

すっとばして拈華微笑ならぬ拈糞微笑は臨済か

乾屎橛は箆ではない、乾いたうんこそのものである、とは入矢の指摘

さうであらう、さうであらう

下から順々に着膨れの段々を飛ばし、赤肉の団々を飛ばし、最後に残った達磨の頭が地に落ちるか

それがそもそもの頭の計らいであるからして、まずは頭を頸から飛ばして仕舞へ

慧可にしてもしかり、叱り

まずは頭を飛ばして仕舞へ

まあ、さういうことであらう


> けさ3日なれば初夢とはいわぬかもしれぬ
>
> 大晦日はかのバカ騒ぎの紅白は忌諱して放送大学の231オーディトリアム「霧の波止場」20:15「我等の障害の最良の年」を経て即寝
>
> 寒暁の底の昏さや一二服
>
> してPCを開くとgreeting from Switzerland2023/01/01 日 05:22毎度のことなれど日本語と英語あるいはドイツ語瑞西語?
>
> なぬ!70歳をゆうに超えて富士登頂とや!
>
> 小生小学生のときの富士登頂を思い出して返答を書いていれば寒暁の朝焼けも闌(たけなわ)
>
> 二日の寒暁は、もったいなくも、室内の明かりを全部を消して、戸越しの寒暁
>
> だうもいけぬ、防火硝子の金網、ガラスの汚れ、果てまた桟へ付着した珈琲の飛沫
>
> アルコールモイスチャーティッシュでふき取り、寒暁の縁取り
>
> 日の出未満がよろしいが、いかにせん、地平線にもろもろの障害物、人工の塵劫物が満ち溢れ、そのなかに埋もれた寒暁

後頭に曙光 前頭にミュシャの薔薇娘

> かう、かう、かう
>
> こう、こう、こう
>
> と「死者の書」で折口信夫
>
> どこかで死者が目覚めへ、かう、かう、かう、と魂を招く、招魂、よばう、夜這ふ、呼ばう
>
> こう、こう、こう
>
> 五木寛之の「風の王国」では、かの百舌、百舌鳥古墳であったが、釈迢空の死者の書では二上山
>
> 死者の四肢の強張り、首の強張り、これはもっかの生者たる自分の身体の強張りにも似て、かう、かう、かう、とよばわれてゐる気
>
> 筆者、読者が磐座に閉じ込められている屍の主人公へトランス
>
> その死者の魂への呼び声、おう、おう、おう、と死者
>
> かういうものも珍しい
>
> 「空海の風景」、なぬゆえに風景か、司馬遼太郎曰く、時の彼方の、遠方の一景にしかずと
>
> その一景をとらえるにそれを取り巻く世界からはじめる、自然にして歴史的世界から
>
> 真逆のこと、真逆の叙述、が「死者の書」の大津の皇子、折口信夫でおこる
>
> これはある意味、宗教、哲学を考えるうえで、とくにかの、七転八倒、自我の格闘の西田幾多郎のもろもろの言説を解く機でもありうる

西田幾多郎のあの「世界」や「場所」やはり子供のころの「世界」や「場所」が老けただけであって、「世界」や「場所」から見た「自己」が客観的なるものとは、まことに噴飯ものであるが、深刻なカルトへの第一歩でもある

その第二歩、大散歩は「日本文化の問題」岩波新書 R60 1940年3月30日第1刷 2018年第7刷 に明らかである

1940年11月第二回文化勲章受章

まさにカルト的大日本帝国軍部狂相のよってたつ皇室への帰依を説く思想「哲学」は「文化勲章」にあたいしたのあらうね

そこにいたるまでの軌跡をいかに自我の格闘、「自己」と「世界」「場所」との闘争とみようが、徹頭徹尾、自我も場所も世界も、いかに「つつみ」「つつまれ」といおうとも、対象化し、他化してしか、ものを考えられぬ、覚りえぬ、不覚の頭なれば、「西田哲学」が禅の哲学化を果たしたというような世間の評(西田自身が云っている)は、まったく噴飯ものとしか、言いようがない

その証拠は禅語の幾許かを引用するに、まるで的外れの解釈めいたものが、其処此処ででてくる「西田哲学」

とはいえ、井筒のキーワードが「溶ける」としたら、西田幾多郎のキーワードは「包む」であり、そのかぎりにおいては、味わうべきところも多々ある

しかしながら・・

「西田哲学」のその動態においては自我のサーカスにして自己矛盾の格闘と闘争であり、存在に悪魔で(あくまで)コダワルのも、存在をいくら言葉の上で否定しやうとも、存在を前提としたカルト主義へ沈潜して、それから脱却し得ぬ、そこのところが西欧からも歓迎され、はたまた大日本帝国天皇神権主義からも評価された所以であらう

西田幾多郎の頭もまた斬って捨てたはうがよさそうだ

小理屈の頭を斬って捨てたうえで味わえば、また別の趣きも学びもあらうというもの

> かくして、2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で・・

ところで、孫娘の上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8 より小理屈の頭を斬って捨てた(とおもえる)句を幾許かを

1890年(西田19歳)

   新年
1 百八の鐘に打ち出す玉の春 

から始まり・・

1903年(西田33歳)

4 出代(でがわり)や手拭三筋下駄二足

10 大寺の屋根葺いてゐる日永哉

11 砂浜に小貝を撰む長閑(のどか)さよ

12 七島は霞みて海の入日かな

15 雉子(きじ)なくや渓を隔つる五戸の村

17 馬にして虻(あぶ)うち払ふ山路哉

18 石磴の苔滑らかや落椿

19 塀尽きて小さき橋あり夏柳

25 廻廊に昼寝の笠や知恩院

28 五月雨や崖崩れたる水車小屋

30 蟷螂が覗く障子の破れ哉

32 賢や愚や蛇竹林の孔に入る

33 磯臭き橋下に憩ふ残暑哉

34 敗兵の野道に病むや秋の風

35 謎々に子供集まる囲炉裏哉

36 鉢叩(はちたたき)六波羅殿の門を過ぐ


1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

40 弾初(ひきぞめ)やぷつと切れたる一の糸

42 型を切る染屋の縁や暮遅き(エンは糸偏ではなく木偏)

51 摘草や木の根にはたく下駄の土

54 芝能や片袖くらき捨篝(すてかがり)

55 十郎の袖に燃たつ薪(たきぎ)哉

56 壺焼や津々浦々の夕霞

59 篳篥に蝶の舞ひくる社殿哉

61 春の野や黛(まゆずみ)青き少納言

65 炉開や低うつりたる自在鍵

68 熊炙る梁山泊の軍師哉

69 夕霧や麓の家のちょろちょろ火

70 燈遠く寂光院の秋の暮

73 野鼠のつと走り行く芒(すすき)哉


1905年(西田35歳)

74 豁然と岩を割つたる清水かな

75 神曲や三界の夢明け易き(ダンテ)

76 浜料理刺身のつまに風薫る

77 雨となる狼谷の火串かな

79 石の下に魔を封じけり木下闇(こしたやみ)(テンペスト)

81 甘酒の釜に沈みぬ金柄杓


この間、27年間の句作の掲載なく・・


1932年(西田62歳)

84 猫とわれ暖炉をかこむ夜寒かな


1937年(西田67歳)

88 土蔵ずまひ何しに来たと一茶云ふ

89 秋ひよりけふは一茶も留守の様

(完)

ああ、疲れた

ま、西田幾多郎の供養としては、選りがやや甘くも、よかんべさ

とくに、絶句の88.89番「何しに来たと一茶云ふ」「けふは一茶も留守の様」は味わい深い

それにしても幾多郎の句の風情は蕪村に近く、芭蕉に遠い

加之

いまどきの金子兜太や中村和弘らの句とは如何ばかりちがうか

はたまた、かの当時の

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規 1900年

正岡子規や高浜虚子、それらの後継者らの俳句とも如何ばかりちがうか

幾多郎の俳論もなきにしもあらずも、おのずから小理屈の頸の飛んだ風情も味わえる

果たして、俳句というものは世代ごとに劣化してきたやうにおもえなくもない(傍観者化が顕著)

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54988] 2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Tue) 14:57  

むはんやくANNEX−Ω   訪問者数:12238389(今日:383/昨日:1897)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Mon) 13:35 大安(辛酉) 旧暦 12/12 月齢 10.7

初夢や達磨落としの頸が飛ぶ

けさ3日なれば初夢とはいわぬかもしれぬ

大晦日はかのバカ騒ぎの紅白は忌諱して放送大学の231オーディトリアム「霧の波止場」20:15「我等の障害の最良の年」を経て即寝

寒暁の底の昏さや一二服

してPCを開くとスイスの友人より賀状来てgreeting from Switzerland2023/01/01 日 05:22毎度のことなれど日本語と英語あるいはドイツ語瑞西語?

なぬ!70歳をゆうに超えて富士登頂とや!

小生小学生のときの富士登頂を思い出して返答を書いていれば寒暁の朝焼けも闌(たけなわ)

二日の寒暁は、もったいなくも、室内の明かりを全部を消して、戸越しの寒暁

だうもいけぬ、防火硝子の金網、ガラスの汚れ、果てまた桟へ付着した珈琲の飛沫

アルコールモイスチャーティッシュでふき取り、寒暁の縁取り

日の出未満がよろしいが、いかにせん、地平線にもろもろの障害物、人工の塵劫物が満ち溢れ、そのなかに埋もれた寒暁

かう、かう、かう

こう、こう、こう

と死者の書で折口信夫

どこかで死者が目覚めへ、かう、かう、かう、と魂を招く、招魂、よばう、夜這ふ、呼ばう

こう、こう、こう

五木寛之の風の王国では、かの百舌、百舌鳥古墳であったが、釈迢空の死者の書では二上山

死者の四肢の強張り、首の強張り、これはもっかの生者たる自分の身体の強張りにも似て、かう、かう、かう、とよばわれてゐる気

筆者、読者が磐座に閉じ込められている屍の主人公へトランス

その死者の魂への呼び声、おう、おう、おう、と死者

かういうものも珍しい

空海の風景、なぬゆえに風景か、司馬遼太郎曰く、時の彼方の、遠方の一景にしかずと

その一景をとえるにそれを取り巻く世界からはじめる、自然にして歴史的世界から

真逆のこと、真逆の叙述、が死者の書の大津の皇子、折口信夫でおこる

これはある意味、宗教、哲学を考えるうえで、とくにかの、七転八倒、自我の格闘の西田幾多郎のもろもろの言説を解く機でもありうる

かくして、2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54987] 寒暁とわたくしといふ現象 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/29(Thu) 08:00  

されわみきANNEX−Ω   訪問者数:12231969(今日:177/昨日:389)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/29(Thu) 06:55 赤口(丙辰) 旧暦 12/7 月齢 5.7

寒暁はまことに美しい

老いてこその賜物であらう

若い時はいぎたなく眠り続ける

ウィリアム・ジェームス「純粋経験の哲学」1904^5年 2004年 岩波文庫 青640-6

これらの論文はだうもあくまでも存在を前提にしている議論で、ゆえに「『意識』は存在するのか」というような問題設定をするのであって、さういう前提のない文化に育まれたものとして違和感を覚えざるをえない

寒暁に、ふと「わたくしといふ現象」を思い出す

宮沢賢治の「「春と修羅」の序において曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

こういう世界から存在をあらゆることの前提にし、それを疑い、やれ現象学だなんだかのというこうるさい議論、「現象の裏になにが『ある』か」などに巻きまれる喧噪に比して、なんと静謐にして美しい寒暁であらうか

どうも、その存在論の余波をくらって、日本語の「である」も存在をあらわす言葉としてかの喧噪においては云々されるが、さういうもんなのであらうか

だうも、論理も存在とごちゃまぜにされてしまっている気配が濃厚である

寒暁のなかに己が溶け込む

これは、貴重な瞬間だ

真言密教の月輪観でもおなじこと

坐禅で畳や床が溶け己も溶けてしまうこと

みんな溶けて解けてしまう

だからといって、空海のやうに宇宙の盟主の大日如来を想定することもなく、はたまた己が盟主になることもない

そこを間違っちゃいけない

そこを存在という観念からぬけきれぬものは間違い、迷い、カルトに墜ちる

言葉には虚実がある

虚にして実、実にして虚

ただそれだけである

虚があって、実がある、のでもない

実があって、虚がある、のでもない

存在という観念からぬけきれぬもの「絶対矛盾的自己同一」は「絶対同一的自己矛盾」にして、信心脱落も心身脱落もでけていないといわざるをえない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54986] 絶対同一的自己矛盾 が露わであらうがね、そこではどこまでもいくら言葉の表層で否定しようが他化してしかものがみれぬ遍計所執性的自己がサーカス曲芸でしかない ということは、畢竟西田幾多郎君らは「純粋経験」さえにも「自覚」さえにも至っていないということ もっとも、小理屈の頭の体操としては、西田幾多郎君の絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾もおもしろい、おもしろが、せぜい、そこまでであるRe:[54985] 井筒の(円成実性)と上田幾多郎の(依他起性→遍計所執性)Re:[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/27(Tue) 08:00  

ねてすりけANNEX−Ω   訪問者数:12229681(今日:289/昨日:1004)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/27(Tue) 16:42 仏滅(甲寅) 旧暦 12/5 月齢 3.7

本年は年初より2001/10/07(Sun)Jonathan以来21年ぶりに井筒の「意識と本質」を再読しはじめ、四肢の筋力、体幹の骨力、腑力の鍛錬を犠牲にしつつ、井筒からもろもろに拡がってエリアーデ、オットー、バルト、その他その他詩歌俳句、上田幾多郎まで漁ってみて、すっかり・・

着膨れの心身脱落して眠る

ここのところ昼も夜もねてばかりおり・・

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉(笈日記)

になってしまい、うむ、体力は落ちた、体重と体脂肪は増えた、ゆんべは78.1kg/18.2%で日々100km走っていたころに比し走行距離が突然1/10以下に墜ちた本年の体重は10kg増、命を縮めていのちのありようの反省と精神的鍛錬か

> うけむくりANNEX−Ω   訪問者数:12228866(今日:478/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 11:17 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7
>
> 巖上に盲ひし虎や涛の華
>
> 水無月の雛(ひいな)うそぶく高笑ひ
>
> 2002/06/12 11:50 とある、宝蔵院流の巻が終わって異種試合の不動明王のあたりの欄外の落書き、いったい何をみていたのであらうか、どうも、文面のなりゆきとは雰囲気が違う

これはどうも、その後の落書きによれば、当日、真鶴にでむいたようなので、そのときの景色であらう


> かの大拙の机ガタガタで、粘着積木京都学派は崩れずして上田、うむ、西田幾多郎の大便ばっかすてるから、上田幾多郎とでも呼ぼうか、一瞬ぐらついたかもしれぬが、ガタガタ以降も淡々と上田幾多郎「絶対矛盾底自己同一」を押し通して京都学派形而上学を堅守してるが、あのガタガタで某甲の頭の中の井筒の形而上学も崩れるかとおもったが、意外と井筒も強い
>
> 京都の粘着的唾べとべと形而上学に比して、井筒の形而上学は透明度が高く水晶宮の風を体しているが、なにしろ東洋哲学の共時的「構造」であるからして、耐震構造がなくんば、簡単に崩壊しそうなもんであるが、そこは、運命の機縁というか、井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25 でリジッドな構造体の崩壊を免れている、覚不覚の円環によってね(円成実性)
>
> 上田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」「我は、我なくして、我なり」というドグマチック・テーゼは、だうも、かのニーチェのツァラトストラの綱渡り、サーカスを思わしめる
>
> 上田幾多郎の自己がどこまでも粘着的にへばりついた世界のあちこちにサーカス曲芸ね(依他起性→遍計所執性)
>
> 聖夜のクリスマス、このサーカスにつきまとわれてえらいめをみたが、それもまたよし。
>
> 哲学のドグマ、テーゼも俳句の一句も脱骨換胎でけるとが、まことによろしい。

して、この一年のいのちのありようの反省と精神的鍛錬のゆきつくさきは・・

むっかし、森有正だったか、体験と経験は違うと、体験は経験に高められねばならぬ、というような言説にふれた記憶があるが・・これも生の体験は反省によって経験にならなければならぬ、とのことであったのであらう

して、西田幾多郎君は「純粋経験」から始める、まさにいくら主客の分裂を否定しても経験は反省によるわけで、その反省はあくまでも、自己が自己を反省するわけで、その反省される自己という凝点を反省する自己をいかに場所や世界に展開しようが、そこにはしっつこく纏綿として自己が付着している、自己のサーカスである、ああ、また、おなじことをいっているね

一言でいえば、わが体験に基づけば、口先で「絶対無」だとか「主客なくして」云々といったところで、所詮は自己サーカスの西田幾多郎よりは、井筒の無分別の分別、分節の溶解、無礙、とりたい

実際、自己が溶ける、対象が溶ける、心身脱落、こういう「体験」を西田幾多郎らはしていないのであらう

だから、どこまでも自己や神が純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一のどのフェーズでも遍計所執性的自己が纏綿している、頭の小手先で考えている、小理屈を弄している

純粋経験はジェームスから、自覚はフィヒテから、場所はプラトンから、そして最後のドグマ・テーゼ絶対矛盾的自己同一の、この己が尻尾を噛む蛇的表現

絶対同一的自己矛盾

が露わであらうがね、そこではどこまでもいくら言葉の表層で否定しようが他化してしかものがみれぬ遍計所執性的自己がサーカス曲芸でしかない

ということは、畢竟西田幾多郎君らは「純粋経験」さえにも「自覚」さえにも至っていないということ

もっとも、小理屈の頭の体操としては、西田幾多郎君の絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾もおもしろい、おもしろが、せぜい、そこまでである

四肢筋力骨力腑力鍛錬を犠牲にした本年の結論である

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54985] 井筒の(円成実性)と上田幾多郎の(依他起性→遍計所執性)Re:[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 16:42  

うけむくりANNEX−Ω   訪問者数:12228866(今日:478/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 11:17 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7

巖上に盲ひし虎や涛の華

水無月の雛(ひいな)うそぶく高笑ひ

2002/06/12 11:50 とある、宝蔵院流の巻が終わって異種試合の不動明王のあたりの欄外の落書き、いったい何をみていたのであらうか、どうも、文面のなりゆきとは雰囲気が違う

司馬遼太郎著「宮本武蔵」朝日文庫し-49 1999/11/01 1刷 2002/01/30 5刷

2022/06/03 20:12 赤坂Tully'sCoffeeで読み始め

こんころのことだから、たぶんドルチェから抜け出してきて・・

2002/06/12 21:58 去来庵桧の間8+5畳かけいの音、昨日梅雨入、で読了

まあ、蔵書の落書きを読むのもまた楽しみで当時のことが彷彿としてくる

以来この本は震災の散乱の中に埋もれていたのを過日、あまりに遼太郎を腐したから拾い出して雪隠蔵書にしていたが、今朝の午前中開いてみたら、なんとお、書き出しが、かの枯木鳴鵙図で、おもわず再読の憂き目も楽し

三橋敏雄(2001/12/01没)の訃報を受けたのもこの去来庵であったから、再三お世話になっていて、人生の終末、亡くなるまでここに居つくといった湯治客もいて、一緒に食卓を囲んで、ある日突然、ここも廃業するという話がでたか、2002/06/10 21:05に宝蔵院流巻末のメモに、杉風荘廃、とある

元林野庁の寮で、林野庁はまことに方々にお宝をもっておったのは、遼太郎の「土地と日本人」でカラクリが暴露されればあたりまえであるが、惜しい寮を失ったものだ

> れりもらぬANNEX−Ω   訪問者数:12228837(今日:449/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 08:45 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7
>
> 豚を食ふ文殊の国ぞ満州里野

これはだう表記したものか、頭の中にのこっておった満州里野であるが、英語表記のManchuriaだったのね(遼太郎「韃靼疾風録」)

昨日、映画の「ラストエンペラー」で愛新覚羅 溥儀の数奇な運命をやっていた

> > らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7
>
> > ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・
> >
> > > けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
> > >
> > > 無事是貴人
> > >
> > > 龍潜む天の天涯地の地涯
> > >
> > > 地龍湧き昇り天龍となる
> > >
> > > 天龍下り来て地龍となる
> > >
> > > 扨て、佞社サイトをもう一度
> > > http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
>
> > 画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない
>
> とはいえ、巍々突兀の雪舟の風ばかりが画でもなく、平山郁夫の風のあの後光をさしたる如きの人物風景もまた画であらう
>
> > >  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
> > >
> > >  馬の背に朝鮮半島灼けており
> >
> > これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?
>
> とはいえ、この句は画として、わが家の壁に飾ってもよい
>
> というか、すでに飾ってあるのである、かつてホテルオークラの地下道にあった版画を気に入ってギャラリーで購入したものが金の額縁の中で、阿弥陀の画は色あせても、この朝焼けか夕焼けの画は色やけもせずに生き生きとキッチン入口に鎮座まします
>
> 馬の背に朝鮮半島灼けており  和弘
>
> ひるがえって
>
> 豚の背に日本列島灼けており
>
> という景色もあるいはあるかもしれぬが、これでは句にも画にもならぬ
>
> やはり、この日本列島に騎馬民族が到来したその馬の背でなければ画にならぬ
>
> さういう歴史の時間の含みも一服の空間に現わしたところが見所ではある

豚の背はともかくとして愛新覚羅溥儀の目からみれば・・

龍の背に日本列島灼けており

も、真っ当かもしれぬ


> さて、このシリーズでは、もうひとつの犀の一句の画も飾ってもよろしい、どこだ?
>
> > >  むらさきに犀は烟りて大暑なり
> >
> > この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい
>
> おしまいとはいえ、あの動物の不思議さにはえもいわれぬ魅力がたしかにある
>
> これも画にしてもよいが、やはり版画にして「むらさき」がよいかもしれぬ
>
>
> この二句はとれるが、とれぬ句が多々あるなかで、とれぬまでも是一言
>
> > >  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ
> >
> > なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩
>
> 「なにもいっていない」のではなくて、蹄鉄の形、いわばΩのなりに罠のなりをみたのであらうし、この罠なるものが蹄鉄にひるがえって、さきの軍馬と砂鉄のように、一見、便利な文明を起こす蹄鉄が悲惨にもなるという歴史的洞察も込められているのであらうが、いかにせん、「にも似たり」の直喩の乱発には辟易もし、詠者も老いたのかもしれぬと同情を禁じ得ぬ

かの大拙の机ガタガタで、粘着積木京都学派は崩れずして上田、うむ、西田幾多郎の大便ばっかすてるから、上田幾多郎とでも呼ぼうか、一瞬ぐらついたかもしれぬが、ガタガタ以降も淡々と上田幾多郎「絶対矛盾底自己同一」を押し通して京都学派形而上学を堅守してるが、あのガタガタで某甲の頭の中の井筒の形而上学も崩れるかとおもったが、意外と井筒も強い

京都の粘着的唾べとべと形而上学に比して、井筒の形而上学は透明度が高く水晶宮の風を体しているが、なにしろ東洋哲学の共時的「構造」であるからして、耐震構造がなくんば、簡単に崩壊しそうなもんであるが、そこは、運命の機縁というか、井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25 でリジッドな構造体の崩壊を免れている、覚不覚の円環によってね(円成実性)

上田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」「我は、我なくして、我なり」というドグマチック・テーゼは、だうも、かのニーチェのツァラトストラの綱渡り、サーカスを思わしめる

上田幾多郎の自己がどこまでも粘着的にへばりついた世界のあちこちにサーカス曲芸ね(依他起性→遍計所執性)

聖夜のクリスマス、このサーカスにつきまとわれてえらいめをみたが、それもまたよし。


哲学のドグマ、テーゼも俳句の一句も脱骨換胎でけるとが、まことによろしい。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 09:27  

れりもらぬANNEX−Ω   訪問者数:12228837(今日:449/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 08:45 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7

豚を食ふ文殊の国ぞ満州里野

> らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

> ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・
>
> > けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
> >
> > 無事是貴人
> >
> > 龍潜む天の天涯地の地涯
> >
> > 地龍湧き昇り天龍となる
> >
> > 天龍下り来て地龍となる
> >
> > 扨て、佞社サイトをもう一度
> > http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★


> 画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない

とはいえ、巍々突兀の雪舟の風ばかりが画でもなく、平山郁夫の風のあの後光をさしたる如きの人物風景もまた画であらう

> >  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
> >
> >  馬の背に朝鮮半島灼けており
>
> これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?

とはいえ、この句は画として、わが家の壁に飾ってもよい

というか、すでに飾ってあるのである、かつてホテルオークラの地下道にあった版画を気に入ってギャラリーで購入したものが金の額縁の中で、阿弥陀の画は色あせても、この朝焼けか夕焼けの画は色やけもせずに生き生きとキッチン入口に鎮座まします

馬の背に朝鮮半島灼けており  和弘

ひるがえって

豚の背に日本列島灼けており

という景色もあるいはあるかもしれぬが、これでは句にも画にもならぬ

やはり、この日本列島に騎馬民族が到来したその馬の背でなければ画にならぬ

さういう歴史の時間の含みも一服の空間に現わしたところが見所ではある


さて、このシリーズでは、もうひとつの犀の一句の画も飾ってもよろしい、どこだ?

> >  むらさきに犀は烟りて大暑なり
>
> この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい

おしまいとはいえ、あの動物の不思議さにはえもいわれぬ魅力がたしかにある

これも画にしてもよいが、やはり版画にして「むらさき」がよいかもしれぬ


この二句はとれるが、とれぬ句が多々あるなかで、とれぬまでも是一言

> >  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ
>
> なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩

「なにもいっていない」のではなくて、蹄鉄の形、いわばΩのなりに罠のなりをみたのであらうし、この罠なるものが蹄鉄にひるがえって、さきの軍馬と砂鉄のように、一見、便利な文明を起こす蹄鉄が悲惨にもなるという歴史的洞察も込められているのであらうが、いかにせん、「にも似たり」の直喩の乱発には辟易もし、詠者も老いたのかもしれぬと同情を禁じ得ず

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54983] 浄穢なし、土は土Re:[54982] 南無愚城八幡大明神Re:[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 07:10  

すえへんくANNEX−Ω   訪問者数:12228504(今日:116/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 04:00 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7 饐片句

着膨れの心身脱落して眠る

ここのところ昼も夜もねてばかりおり・・

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉(笈日記)

の感もあるが、「何で」といって、そりゃあ年食ったからでしょ、とならばトートロジー

人間なべてトートロジーで「我は我なり」であって、「我は、我なくして、我なり」となればトートロジーの間に「我は我なく」の撞着がわりこむわけで・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

撞着語法の効果

撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまうおそれがあるため、注意が必要である。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

とはいえ、言葉とはさういうものであって、虚実のあいだをいったりきたりする

その虚実の実をみるか、虚をみるか、はたまた虚実もろともをみるか

ゆんべは一晩中、夢のなかで、いやさ、ゆめうつつの中で・・

閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)

の「蝉の声」と「閑さや」に苛まれた


> へはおんけANNEX−Ω   訪問者数:12226430(今日:813/昨日:1147)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 10:31 先勝(辛亥) 旧暦 12/2 月齢 0.7 屁は音気
>
> ねんぶつやひがなひぐらしひなたぼこ
>
>
> ゆんべはよく寝た、20時から08時、途中2度ほど放尿

ともかく寝すぎである

小人閑居して不善をなす

起きていればタバコを喫い四肢と脳がしびれる、ならば寝てしまおう

大人忙居して善をなす

こともなからう


> 重箱の隅を突っつくお節かな

「重箱」の「お節」ではこれもトートロジーもどきであって

重箱の隅を突っつく寒鴉

「寒鴉は我なり」の撞着か

> まあ、数千年来のご馳走宝物の重箱の隅ばかり突かぬで、そのど真ん中のご馳走へ箸を伸ばすのも、手であらう

「聖書」を腐し、「聖なるもの」「預言者」「啓示」擬人化一神教を腐し、それもどきの真言密教、浄土宗、浄土真宗に疑団を抱き、南無大師遍照金剛にも南無阿弥陀仏をも声明称名せず、大日如来も阿弥陀如来も拝せず、とはいえ、西来の来迎阿弥陀まんだら画は色あせて室内にいまだに飾ってあるが・・

わが心のうちにおいては廃しても、わがこころの外の世間では拝している

> > のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔
> >
> > 昼日中師走朔朔月輪観

> > 閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)
> >
> > なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか
>
> 閑さは、閑さならずして、閑さである
>
> 声は、声ならずして、声である
>
> この閑さに神々しささえ感じられる
>
> 神々しさは、神々しさならずして、神々しさである

虚実の言葉

ここにおいては実の「蝉の声」が実の「岩」に「沁み入る」ことによって、虚の「閑さ」へ転じて、その虚にして夢幻無限の「閑さ」が「や」によって切り開かれて、その虚にして夢幻に於いて「神々しさ」さへ感じる

畢竟、「神」「神々しさ」[聖」「聖なるもの」は「虚」において感得される

その「虚」を「実」と妄想するところに下手をすると「カルト」が発生する


とはいえ「カルト」も「カルチャー」の親類なれば・・

「カルチャー」とは耕す、固着した土を掘り起こして耕すわけで、ここにも即非あるいは「矛盾的自己同一」の撞着があってこそのカルチャーにしてカルトであらう・・戦争と平和

年来「聖書」「聖なるもの」「預言者」「啓示」擬人化一神教を腐してきたところが、今年露西亜のウクライナ侵攻を機に、はたまた安倍狙撃を機に統一教会、そのやり口と人格神一神教のまやかしへの、疑団と腐し一段と嵩じてきた



> 人は、人ならざるものをもって、人である
>
> 神は、神ならざるものをもって、神である


> 覚は、覚ならざるものをもって、覚となす
>
> そのならざる多の一をとれば
>
> 覚は、不覚をもって、覚となす
>
> まさに大乗起信論
>
> 善は、悪をもって、善となす
>
> まさに悪人正機


> > なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 娑婆は、娑婆ならざるものをもって、娑婆となす
>
> 浄土は、浄土ならざるものをもって、浄土となす

娑婆も浄土もありゃせんがな

みんな言葉の綾である

ありゃせんもんを、あるとなす


> > この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる
> >
> > いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。
>
> 狂相は、狂相ならざるものをもって、狂相となす
>
> 而して、浄土真宗の犯した罪の数々、親鸞はともかくも、蓮如の時代、ああ、時代は歴史
>
> 歴史は、歴史ならざるものをもって、歴史となす
>
> 一向一揆
>
> あれだけの石山寺、大阪城、京都の東西本願寺の広大な伽藍、京都火葬場の専用火葬炉、買官行為を重ねて、皇族に連なる、あくどさ
>
> 官位を買う金、城伽藍の構築費用、専用特別火葬炉を設置する着膨れた気位とあぶく銭

官位は冠位

> 而して、そういう財源はどこから来たか?
>
> 京都五山、鎌倉五山の費用は、天皇家あるは将軍家から来た
>
> 浄土真宗の費用は、民の膏血から来た
>
> 鹿児島ほかの「隠し念仏」「カヤカベ」島津ほかが藩内の金を藩外に流出させる浄土真宗を禁宗となした

「隠し念仏」「隠れ念仏」

> いまは、安倍も岸田も国内の金が国外に流出させる統一教会を禁宗としない
>
> かつて、原罪という洗脳をもって教皇は、贖罪として膏血を集めまくって贅の限り尽くした
>
> 西田は、煩悩を原罪とするが、そんなもんでもなからう
>
> うまれながらに原罪にして煩悩がある、だから、金を払え
>
> これは、まるで、教皇のやりかたにして文鮮明のやりかた、であらうがな
>
> 創価学会、立正佼成会、真如苑、だうして、あの立派にして不必要ともみえる豪奢華麗な施設を構築しえたのであらうか?
>
> 宗教団体の特権に胡坐をかき、免税のうえに、庶民の膏血を貪った挙句の果ての愚城であらう
>
> 南無愚城八幡大明神

浄土は、穢土をもって、浄土となす

穢土は、浄土をもって、穢土となす

浄穢なし、土は土

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54982] 南無愚城八幡大明神Re:[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 12:19  

へはおんけANNEX−Ω   訪問者数:12226430(今日:813/昨日:1147)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 10:31 先勝(辛亥) 旧暦 12/2 月齢 0.7 屁は音気

ねんぶつやひがなひぐらしひなたぼこ


ゆんべはよく寝た、20時から08時、途中2度ほど放尿

重箱の隅を突っつくお節かな

まあ、数千年来のご馳走宝物の重箱の隅ばかり突かぬで、そのど真ん中のご馳走へ箸を伸ばすのも、手であらう

> のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔
>
> 昼日中師走朔朔月輪観

よく寝て今朝の日向ぼこでふと浮かんできたご馳走を食う、毒もろともにご馳走

> 果たして何が観えるか、色々
>
> かの西田幾多郎の「哲学」の変遷、而してその手の哲学がもてはやされる所以は如何?

まず「我は我なり」を上田閑照は、そこに「切れ」目をいれて「我は・我ならずして・我なり」という、低徊的にしっつこくどこでもどこまでも言い募るのは、上田も幾多郎も似たようなもんで、辟易として食傷気味なるも、適当に見繕って、もう一度食ってみやう

上田閑照著「経験と場所」哲学コレクションU岩波現代文庫G180 2007年 初出1991−1998年 に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

純粋経験/自覚/場所という動的な連関としての自覚は、「我は、我なくして、我」と言い、その際、「我なくして」において具体的な実質が原与されるとともに限りない開けに通じています。
・・・・このことは。裏側から言えば、「我は」と言いだしたときに「我なくして」を閉ざす強くて暗い我性を照らしだすことになります。「我」というあり方における「我性」と「我なし」との葛藤について「我々の心は、本来、神と悪魔との戦場である」と言い、それと結びついてまた世界の深く暗い矛盾が西田において次第に大きく正面に出てくるようになります。「われ」、すなわち、「我は我なり」というとき開かれた自覚か自意識かになる両義性の極限的現実性が現れてきます。最後の論文「宗教論」(1945)では「苦悩の世界」「業の世界」「絶対悪の世界」「悪魔的世界」という言葉さえ出てきます。自覚のうちでそこまで照らしだされてくることになります。p177

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一

この「我は、我なくして、我」であることは「絶対矛盾的自己同一」のもっとも原型的な変奏であらう。

而してこの「絶対矛盾的自己同一」はさまざまに変奏される

> よくみれば薺花さく垣ねかな 芭蕉(続虚栗)
>
> これを上田閑照は、西田幾多郎の「純粋経験」のありようとして引いている、大拙もとったと・・某甲の記憶では西谷もとっているね、この駄句を
>
> これは「純粋経験」でもなんでもない、よくみれば、ね
>
> よくみれば、主客分裂の最たるもんであって、それが如実に上五の小理屈にあらわれている
>
> 師系の誰それがとっているからと師承相伝でその愚を繰り返すのは、如何に師を尊ぶにしてもいかがなものか

などといえば、大拙、西谷、上田ともどもからお叱りの呵々大笑くるかもしれない

「よくみれば」の「みる」ことさえも、「絶対矛盾的自己同一」にみれば「みることは、みることにあらずして、みる」んだ、とね

このバリエーションはどこまでつづく、たとえば先に引用した

> 「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370

でも同じ構造であって、世の中のどこにでも「絶対矛盾的自己同一」てき観方は適用できる、日向ぼこしながら、様々に想念を巡らして、あれもこれもと万様に応用してみれば、ひなたひぐらし老残の身も退屈しない

言葉はである、而して、言葉は言葉ならざるして言葉である

> この上田閑照にも、さんざん某甲も世話になっている、世に流布する大拙その他の京都学派の著作の編者としてね。2019年に逝去のよし、祈冥福。
>
> しかし、おかしいところはおかしいのね。おかしいと疑うところから、また上田閑照が繰り返すハイデッガー由来の「開け」の術語よりして、気づくことは・・
>
> 俳句には、芭蕉の「この一筋」の雪舟のように、「開け」がある、すなわち、短詩の一句に夢幻にして無限への「開け」が拡がり、その閉塞の「開け」が無明の[明け」でもあらうがね、芭蕉の「奥の細道」さえ、の細道の上下左右にひろやかに[開け」がある
>
> 閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)
>
> なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか

閑さは、閑さならずして、閑さである

声は、声ならずして、声である

この閑さに神々しささえ感じられる

神々しさは、神々しさならずして、神々しさである

>
> 「や」の切れ字がこれほどまでに効いている句は・・
>
> 古池や蛙飛びこむ水のをと 芭蕉(春の日)

古池は、古池ならずして、古池である

ここにエリア―デ的世界樹、その更新を、かつてみたが、そこの「古池」たる「世界」が更新される、蛙の画く波紋の拡がりの「場所」の更新であらうが、その機も音から画になってくる

時間的な音、と、空間的な画の交わり

間をとれば時空の交わり

これも、西田・上田ならずもの、ああ、ならず者、そこここで論じられている

画は、画にあらずして、画である

形相は、形相にあらずして、形相である

而して、これら「あらずして」あららぬものを空とすれば

色即是空・空即是色

であるが、空ならざるものをもってくれば

一即多・多即一

であって、このを一を多とする、多を展開すれば、あらゆる二元論的対立物を即となすわけであって

花といえば、花ならざるものがあって(裏打ちされて)、花である

あるがごとく

万物は、万物ならざるものをもって、万物である

人は、人ならざるものをもって、人である

神は、神ならざるものをもって、神である

> 「や」を「切れ」字というのも、むべなるかな、一句一章的な窮屈さ、閉塞を限りない風光、無限の世界に解放する

開けは、開けなざるものもって、開けとなす

明けは、明けなざるものもって、明けとなす

覚は、覚ならざるものをもって、覚となす

そのならざる多の一をとれば

覚は、不覚をもって、覚となす

まさに大乗起信論

善は、悪をもって、善となす

まさに悪人正機

> 而して、先に見た、金子兜太にせい、中村和弘にせい、どうも切れ字のないのっぺり、べっとりした句がほとんど
>
> 開けのない閉塞のなかで言葉遊びに興じる、ちうか、狂じる風景

狂は、狂ならざるものもって、狂となす

> 風光ではなく、造作された風景の味わいの味気無さ、かの兜太寿司、和弘寿司で、くえぬ、くえぬ、は、やはりやむをえない、なんぼ幾許かの交誼があったにしても・・

風景は、風景ならざるものをもって、風景となす

交誼は、交誼ならざるものをもって、交誼となす

> おなじ風が、西田幾多郎にも、ある。その上田閑照ハイデッガー的「開け」を加味した「場所」「世界」に於てね。

場所は、場所ならざるものをもって、場所となす

> 空海の真言密教、これへは上田閑照は特に親しんだはずで、幾多郎君においてはさしたる言及もなけれども・・
>
> 「空海の風景」司馬遼太郎 昭和53年 中公文庫A2-7 に曰く
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。・・・仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という「三密」をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> なにか、幾多郎君や上田閑照の描く「場所」「世界」に似ている

世界は、世界ならざるものをもって、世界となす

>
> 而して、幾多郎君は、いってもれば、空海ではのうて、覚鑁的であるのね
>
> なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

娑婆は、娑婆ならざるものをもって、娑婆となす

浄土は、浄土ならざるものをもって、浄土となす

> 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以
>
> それしても、いいたいことは多々ある某甲の頭が混乱してるが、ただ一言だけいっておけば・・
>
> この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる
>
> いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。

狂相は、狂相ならざるものをもって、狂相となす

而して、浄土真宗の犯した罪の数々、親鸞はtこまくも、蓮如の時代、ああ、時代は歴史

歴史は、歴史ならざるものをもって、歴史となす

一向一揆

あれだけの石山寺、大阪城、京都の東西本覚寺の広大な伽藍、京都火葬場の専用火葬炉、買官行為を重ねて、皇族に連なる、あくどさ

官位を買う金、城伽藍の構築費用、専用特別火葬炉を設置する着膨れた気位とあぶく銭

而して、そういう財源はどこから来たか?

京都五山、鎌倉五山の費用は、天皇家あるは将軍家から来た

浄土真宗の費用は、民の膏血から来た

鹿児島ほかの「隠し念仏」「カヤカベ」島津ほかが藩内の金を藩外に流出させる浄土真宗を禁宗となした

いまは、安倍も岸田も国内の金が国外に流出させる統一教会を禁宗としない

かつて、原罪という洗脳をもって教皇は、贖罪として膏血を集めまくって贅の限り尽くした

西田は、煩悩を原罪とするが、そんなもんでもなからう

うまれながらに原罪にして煩悩がある、だから、金を払え

これは、まるで、教皇のやりかたにして文鮮明のやりかた、であらうがな

創価学会、立正佼成会、真如苑、だうして、あの立派にして不必要ともみえる豪奢華麗な施設を構築しえたのであらうか?

宗教団体の特権に胡坐をかき、免税のうえに、庶民の膏血を貪った挙句の果ての愚城であらう

南無愚城八幡大明神

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 14:17  

のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔

昼日中師走朔朔月輪観

果たして何が観えるか、色々

かの西田幾多郎の「哲学」の変遷、而してその手の哲学がもてはやされる所以は如何?

純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一

よくみれば薺花さく垣ねかな 芭蕉(続虚栗)

これを上田閑照は、西田幾多郎の「純粋経験」のありようとして引いている、大拙もとったと・・某甲の記憶では西谷もとっているね、この駄句を

これは「純粋経験」でもなんでもない、よくみれば、ね

よくみれば、主客分裂の最たるもんであって、それが如実に上五の小理屈にあらわれている

師系の誰それがとっているからと師承相伝でその愚を繰り返すのは、如何に師を尊ぶにしてもいかがなものか

この上田閑照にも、さんざん某甲も世話になっている、世に流布する大拙その他の京都学派の著作の編者としてね。2019年に逝去のよし、祈冥福。

しかし、おかしいところはおかしいのね。おかしいと疑うところから、また上田閑照が繰り返すハイデッガー由来の「開け」の術語よりして、気づくことは・・

俳句には、芭蕉の「この一筋」の雪舟のように、「開け」がある、すなわち、短詩の一句に夢幻にして無限への「開け」が拡がり、その閉塞の「開け」が無明の[明け」でもあらうがね、芭蕉の「奥の細道」さえ、の細道の上下左右にひろやかに[開け」がある

閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)

なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか

「や」の切れ字がこれほどまでに効いているくは・・

古池や蛙飛びこむ水のをと 芭蕉(春の日)

「や」を「切れ」字というのも、むべなるかな、一句一章的な窮屈さ、閉塞を限りない風光、無限の世界に解放する

而して、先に見た、金子兜太にせい、中村和弘にせい、どうも切れ字のないのっぺり、べっとりした句がほとんど

開けのない閉塞のなかで言葉遊びに興じる、ちうか、狂じる風景

風光ではなく、造作された風景の味わいの味気無さ、かの兜太寿司、和弘寿司で、くえぬ、くえぬ、は、やはりやむをえない、なんぼ幾許かの交誼があったにしても・・

おなじ風が、西田幾多郎にも、ある。その上田閑照ハイデッガー的「開け」を加味した「場所」「世界」に於てね。

空海の真言密教、これへは上田閑照は特に親しんだはずで、幾多郎君においてはさしたる言及もなけれども・・

「空海の風景」司馬遼太郎 昭和53年 中公文庫A2-7 に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。・・・仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という「三密」をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

なにか、幾多郎君や上田閑照の描く「場所」「世界」に似ている

而して、幾多郎君は、いってもれば、空海ではのうて、覚鑁的であるのね

なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以

それしても、いいたいことは多々ある某甲の頭が混乱してるが、ただ一言だけいっておけば・・

この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる

いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54980] 人間の器量が期せずして暴露されているRe:[54979] なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?ガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか? 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/22(Thu) 23:40  

めしもへなANNEX−Ω   訪問者数:12224356(今日:316/昨日:2491)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/22(Thu) 22:54 先負(己酉) 旧暦 11/29 冬至

生者死者浮かぶまなうら冬至風呂

亡き母の田舎より来し柚子三個

> 西田幾多郎「自覚について」他四編 西田幾多郎哲学論集V 上田閑照編
>
> 2004/06/23 00:45 古遠部温泉 毒蛇来襲
>
> 最初からp267「自覚について」までで読み止し終わっている、毒蛇と格闘したのであらうか?

この毒蛇は西田幾多郎かもしれぬ

> ぱらぱら「デカルト哲学について」は飛ばして西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」
>
> もう、滅茶苦茶でんの、支離滅裂、そんでも幾許か同感するところもなくもないが・・あいかわらず「ねばならぬ」「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の連発
>
> なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?

鈴木大拙著 佐々木閑訳 「大乗仏教概論」2016年 岩波文庫青323-4

けふ偶々読んでいてのだが、この分厚い本は2004年にやっと邦訳されたが、原著は英語で1900年とか、大拙30歳のときの著作というからまことに驚異的大拙であらうが、ともかくも1901年に出版されると大拙はすぐに西田に送っている

そのなかに、だうも後年の西田の「世界」とか「場所」になりそうな箇所があったが、大拙は場所的なものいいはせず、管見にしても最期まで「場所」的な思想は展開していない

この大乗仏教概論執筆前に翻訳出版した大乗起信論にのっとって真如を論じいるあたりであって、夜も更けてきたから、該当箇所を検索して記すのは別途とし、ベッドベッド、眠いね無位


それより注目なのは真っ向から妄想と斬り捨てている人格神的一神教形而上学、これを当時のアメリカで西欧にむけて言い切って出版したのだから、西田がその後人格神的一神教形而上学へ迎合的論を展開したのとは大違いである。

例えば鈴木大拙著 佐々木閑訳 「大乗仏教概論」2016年 岩波文庫青323-4の第四章「知識の分類」妄想(遍計所執性)に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

我々の精神現象の背後に形而上的主体が存在すると信じることは、経験によっても健全な判断によっても確証されないのであるから、それは単に、いまだ覚醒していない主観が産み出したものにすぎない。
この倫理的で哲学的なエゴイズム以外にも、呪術崇拝や偶像崇拝、神人同形論、神人同性論などといった実体のない主観的妄想に基づいて形成されたすべての世界観は妄想を前提とした考えとして、遍計所執性に分類されねばならない。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 思い出すね、某甲の子供のころ
>
> この世は夢か幻か?
>
> あの世はあるのか?
>
> ようは、「場所」とか「世界」のことは子供でも考える
>
> 梅原猛に言わせれば「この世のさかさまがあの世」というのは、いかにも漫画であるが、まあ、それも京都学派的「逆対応」なのかもしれぬ
>
> ようは子供が考えたことを良い都市にして年の大人が幾許かの西欧哲学、東洋哲学、ユダヤキリスト教、仏教、浄土真宗、禅のコトバの幾許かを流用し概念化し、その概念とコトバの積み木で積み木崩しをしている、まあ、賽の河原の石積み崩し、シジフォスの神話、こどもの素朴な疑問が大人化して、概念の唾でねぶられ、べとべとにして、いかにもシャーマン、巫覡化して、喧噪の極みに達して叫び続ける「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」「ねばならぬ」の連続
>
> 躁うつ病の気も顕著に感じる、さうでなくんば、あれだけしっつこく言語矛盾、論理矛盾、を「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の宣教のもと、自他に対して「ねばならぬ」といいつづけることはできまい
>
> 例えばほんの一部をちょっとだけ
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 「真の絶対者は悪魔的なるものにまで自己を否定するものでなければならない、そこに宗教的方便の意義がある。」p367
>
> 「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370
>
> 「意志とは、我々の自己が世界の自己形成点として、世界を自己に表現することによって、世界の自己表現としては、歴史的世界形成の力を有ったものでなければならない。宗教家の「神の言葉」というものは、かかる立場から把握せられなければならない。」p372
>
> 「言葉が神と人間の媒介となるのである。神と人間との関係は、機械的でもない、目的的でもない、否、理性的でもない。神は絶対的自己同一的に、絶対的意志として、我々の自己に臨んで来るので有る、形成的言葉として自己自身を表現してのである。これが啓示で
> ある。」p373
>
> 「絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現によるほかはない、言葉によるほかはない。」p374
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> さてこの後もp378〜からの長い引用をしたいし、戦争の大政翼賛的な種を宿し、それを声高に唱えた京都学派の弟子らが生まれたあたりのものも引用したいが、つかれたので。またとするが、まあ、躁鬱的な哲学に付き合うのも疲れますね。

この躁鬱的叫喚、その口吻はともかくとして、おなじく躁鬱の気がある某甲にして概念要素、思想要素の幾許かには共感せぬところもなきにしもあらずであるが、躁鬱でないとしても、あの「ねばならぬ」連発の口吻については、まことに世間でよく見かける傾向を発見した

西田幾多郎全集 第13巻 岩波書店 昭和41年 小篇を見ていると

明治37年1904年幾多郎34歳「自覚主義」までは「あると思ふ」「かも知れない」「と考えてる」とか、後年にくらべて、つつましやかである

ところが・・

その「自覚主義」につぐ少篇「純粋経験相互の関係及連絡について」明治43年1910年幾多郎40歳になると1911年の「善の研究」と同じく、あの傲慢な「ねばならぬ」の連発になる

この間に幾多郎君に何かが起こったようだと、年表をみると・・

そう、1910年に、それまでのあっちこっち点々していた生活から足を洗って、一転して、京都帝国大学助教授の辞令、その後3年で教授になる

まあ、器が小さければ有頂天にもなるでしょう

某甲の時代でもこういう輩は、あの壇上で絶叫する学生運動家はもとより、教壇にたつアカデミズムの塔でもよくあった風景で、まるで人間が変わったような昂奮と口吻になる

ここらへんに、なんというか、人間の器量が期せずして暴露されている

> この西田の弟子らの前で大拙が、突然目の前の机をガタガタとゆすって、禅とはこういうもんだ、といったと上田は何度も記している
>
> このガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか?

これは、幾多郎君が亡くなってのずっとあとで、大拙も久松も、某甲の管見では、禅は哲学でも宗教でもない、と言い切っている

> 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54979] なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?ガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもっわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか? 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/20(Tue) 22:54  

こちくせせANNEX−Ω   訪問者数:12221491(今日:1200/昨日:644)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/20(Tue) 20:37 先勝(丁未) 旧暦 11/27 月齢 26.2

りんりん、インフルエンザワクチン接種お願いします

在庫が切れました

いつ?

今月の始めだったかしら・・

みんなどこも在庫切れ?

さあ、うちはうちですから

嗚呼、オタクは駅前だからね、さいなら

と、コロナワクチン5回目以来3週間以上経ったし、そろそろインフルエンザ予防、さいわい65歳以上は無料自治体ゆえ、さて、どこにすんべえか、と指定医療機関をながめると、うむ、10歳ほど若い幼馴染のかわゆいが頭は?の子がやっているレディースクリニック!駅からも離れているし・・男はこないし・・

彼女の両親は夫妻ともども医博で、産婦人科をやっていて、某甲が亡父と多摩川に釣りに行って堰下の苔生した玉石を跳んで走って足を滑らせ、しこたま頭を打って、人差し指が頭にずぶりと入る大怪我をしたのが、日曜日で、近所の外科も休業、亡父が隣の誼で産婦人科も外科系だから、頭の傷の修理もでけんべ、と当時の目玉のダットサンピックアップのエンジンクランクをぶんまわして急行してもれば、院長の旦那さんが、こりゃひどい、だいぶ縫わねばならんが、頭蓋骨はどうも割れていないようだから、と今でも顕著な傷に残る大傷を、幸いにぱっくり横一文字を10針ほどぬって、いらいショックで勉強の成績が鰻登りの御恩に恵まれた縁起の良い夫妻の娘にして、親御ご夫妻の産婦人科は看護婦住み着き寮化し、少子化で患者が減るとともに博士の相場取引で、入院施設付き医院まるごと処分して、住み込み看護婦なし入院患者なしの小規模診療所を開設しなおし、娘二人を聖マリアンナへおくって医者にして、その妹が駅前クリニックから、駅から離れた大通り沿いの斎場の向い側に瀟洒なレディースクリニックを開設

男でもいいですか?

どうぞ、本日でもけっこうですが・・

(穴場だね)院長は○○子さん?

いえ、▽▽子さんです

さうか、近所の幼馴染、お会いできるかどうかしりませんが、じゃあ、16時でお願いします

本日は日銀の政策転換で市場が暴落、ドル円5円暴騰の後片付けは後回しにして、徒歩で1000歩

居心地のよいソファと淡いピンクベージュのインテリアの待合室で問診票を書く

既往症→腎臓結石、35年前

担当医からインフルエンザ予防接種の了解をととったか?→いいえ

受付に問診票を戻すと・・

これ問題ですね〜、御了解をとられていないんですか?

もう主治医の名医長久保さんはお亡くなりになったかもしれませんし、なにしろ35年前だし・・

お薬は?

35年前だし、よくおぼえていません、今は牛乳以外何も飲んでいませんよ

ほかのお医者さんにはかかっていないんですか?

35年前だし整体、いやいや、今はどこにもかかっていません

やれやれ、極上ソファにもたれて、背中から取り出した岩波文庫一冊青124-6

西田幾多郎「自覚について」他四編 西田幾多郎哲学論集V 上田閑照編

2004/06/23 00:45 古遠部温泉 毒蛇来襲、

最初からp267「自覚について」までで読み止し終わっている、毒蛇と格闘したのであらうか?

ぱらぱら「デカルト哲学について」は飛ばして西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」

もう、滅茶苦茶でんの、支離滅裂、そんでも幾許か同感するところもなくもないが・・あいかわらず「ねばならぬ」「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の連発

なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?

思い出すね、某甲の子供のころ

この世は夢か幻か?

あの世はあるのか?

ようは、「場所」とか「世界」のことは子供でも考える

梅原猛に言わせれば「この世のさかさまがあの世」というのは、いかにも漫画であるが、まあ、それも京都学派的「逆対応」なのかもしれぬ

ようは子供が考えたことを良い都市にして年の大人が幾許かの西欧哲学、東洋哲学、ユダヤキリスト教、仏教、浄土真宗、禅のコトバの幾許かを流用し概念化し、その概念とコトバの積み木で積み木崩しをしている、まあ、賽の河原の石積み崩し、シジフォスの神話、こどもの素朴な疑問が大人化して、概念の唾でねぶられ、べとべとにして、いかにもシャーマン、巫覡化して、喧噪の極みに達して叫び続ける「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」「ねばならぬ」の連続

躁うつ病の気も顕著に感じる、さうでなくんば、あれだけしっつこく言語矛盾、論理矛盾、を「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の宣教のもと、自他に対して「ねばならぬ」といいつづけることはできまい

例えばほんの一部をちょっとだけ

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「真の絶対者は悪魔的なるものにまで自己を否定するものでなければならない、そこに宗教的方便の意義がある。」p367

「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370

「意志とは、我々の自己が世界の自己形成点として、世界を自己に表現することによって、世界の自己表現としては、歴史的世界形成の力を有ったものでなければならない。宗教家の「神の言葉」というものは、かかる立場から把握せられなければならない。」p372

「言葉が神と人間の媒介となるのである。神と人間との関係は、機械的でもない、目的的でもない、否、理性的でもない。神は絶対的自己同一的に、絶対的意志として、我々の自己に臨んで来るので有る、形成的言葉として自己自身を表現してのである。これが啓示で
ある。」p373

「絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現によるほかはない、言葉によるほかはない。」p374

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さてこの後もp378〜からの長い引用をしたいし、戦争の大政翼賛的な種を宿し、それを声高に唱えた京都学派の弟子らが生まれたあたりのものも引用したいが、つかれたので。またとするが、まあ、躁鬱的な哲学に付き合うのも疲れますね。

この西田の弟子らの前で大拙が、突然目の前の机をガタガタとゆすって、禅とはこういうもんだ、といったと上田は何度も記している

このガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもっわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか?

気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54978] 背教者 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/19(Mon) 14:00  

れむいおまANNEX−Ω   訪問者数:12219963(今日:316/昨日:2297)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/19(Mon) 13:47 赤口(丙午) 旧暦 11/26 月齢 25.2

中空や朽たれしままの花椿

糞溜をねぶる輩や鳥雲に

是何ぞ何ぞ何ぞや乾屎橛

天罰もあたらばあたればちあたり

ほんもののかみにしあれば是沈黙

にせもののかみにしあれば是喧噪

喧噪の神にしあれば是啓示

啓示とは啓いて示す神の糞

糞舐めて酔ゑる輩へ除夜の鐘

赤肉の臭ほのかや鮪食う

水墨やあけひろやかに梅蕾む

山眠るあけひろやかや桃源郷

一墨の巍々突兀や冬夢幻

枯草のうらより拝す地主神

秋深む足裏の砂も消えゆけり

厳冬の夢幻の中へ背教者

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54977] もしも神が光あれといって、光が現れたとすれば、の神のコトバも光も騒音にしてストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね このストリップ劇場のケバケバシイ光線にして激情的な妄言「哲学」の家元の西田の随筆集、書簡集、講演集を本日背負って8700歩、ふらつきふらつき電信柱へ腕を伸ばしてかろうじて顚倒防止、かえりついて、愚底の口吻ならぬ謙虚な口吻の西田の幾許も味わってみて、はたして現今の愚底直観がいったい翻るであらうか、楽しみですね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/17(Sat) 21:21  

えもへふりANNEX−Ω   訪問者数:12216694(今日:804/昨日:490) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/17(Sat) 15:52 仏滅(甲辰) 旧暦 11/24 月齢 23.2

先週の土曜日は本年3度目の蒲田トンカツ屋詣でで到着即顚倒で2歳年下のとんかつ屋老婆、店先の並んだ客の整理にあたっていたところ眼前で顚倒、ああ、おじさんか、と、大丈夫?大丈夫?と介抱してくれて、それが聞こえても、一瞬口もきけず、なにがおこったのかもわからず、ややあって、立ち上がって店内に案内されて、指定席、左右に誰もいないように計らってもらうも、押し寄せる客波の中年男が左側に座り込めば、だうもテーブル上にリュックを外しヘルメットを脱ぐ、それが営業上の邪魔になるから、テーブルから後ろの棚に移動せんとすれば、左の中年男にぶつかりもせんも、かすめれば、忌ッと睨みつける、一体なにが起こったのだらうか、右腕のフリース灰水色のジャージに黄緑の点々の染み、ああ、さうか、走行中にヘルメットの何か当たった、ああ、鳥の糞か、その糞が飛び散って、ヘルメットのみならずジャージやリュックに沁みついたもんが、一瞬の顚倒で顚倒の傷かとおもってしまったのだが、だうも左の中年男はイライラと右側の脚を貧乏ゆすりつづけ、横目でにらみつづけ、ついに別の離れた席に移動してしまった。

臭かったのか?たすかに灰水色のジャージも1週間以上も寝間着代わりに身に着け放しであったし、くんくん、と嗅いでみても、特に異臭はなし

もっとも自分の臭いは自分ではわからぬものなれば、鳥の糞の臭いはいかが?

やはりさすて臭いもんでもない

にもかかわらず、金属コップの生ビールを飲みつつ、中年男君は、この臭い卑しい老人め!とばかりにイライラ貧乏ゆすりをしながら、横目でにらみつづけ、にらみつづけられて極上ロースかつ定食2000円也の食もやや停滞もてあまし気味

ここで一旦現在風呂にへえって、思えらく

神の騒音、神に騒音を発せさたのは誰か?かの預言者、神学者、哲学者どもに他ならぬ

神の沈黙

千円札2枚を振って取りに来た婆さん曰く、忙しくてお相手できないで御免ね

忙しくて御慶と、そろりそろりと転ばぬように43km/An23.6をとってかえし、太田区役所公園でますは一服、鳩がよりくる、なんにもない、御免ね

10kmごとに休もう、無理は禁物、い→さ、無理でのうても、強制的に休まねば、またいつなんどきひっくりかえるかもしれぬ

二子玉公園、ベンチの前の道路を隔てたベンチに若い女性二人がギターを抱えてすわる、一人はポニーテール、もう一人は二股のお下げ髪、二股お下げがこちらを振りかえり、振り返り、へんなおじさんか爺さんが聞き耳たてているよ、と云ったかどうか、聞こえてこぬ

爪弾きが始まったが、道路を走る欅落ち葉で爪弾きがよく聞こえぬ、いやさ、耳が遠くなったからか

お引越し、情勢変化の女性二人の近くのテーブルへコンコルドレコード10速ともども移動して、お嬢様方のギターが止まる

テーブルの上に這い上がって大の字に寝て、天空を見上げる

ギターが始まる

天空の冬の底抜けの青の一郭へ傍の欅の枝々が突き出し枯れ葉が風に舞う

頭上枕元を乳母車を押して若い外人女性が連れの男性と喋りながら通りすぎる

神の沈黙

人間の騒音

吸い込まれはせんも、そこぬけの青空

西田の「純粋経験」、あれは純粋経験で云おうとしているものとそもそもからして矛盾している

だから、「善の研究」が禅の研究と重ね合わせても、やはり境位が低いとしか言いようがない、いくら最後に「絶対矛盾的自己同一」と弁解すても・・

その境位の低いものを20年前の2002/10/15Tue栗駒は須川温泉#815で隣の#814は2間窓ありと記しながら・・

山深くアイベックスの角の音

と詠んでいるのは、山頂の部屋でTVでもみていたのであらうか

天空の恋のバトルよカモシカよ

ともある

ボルネオの天狗ザル

象アザラシ

北海道山女→桜鱒

などなど

翻って「2002/11/16土曜日04:05☆VeryGood全部を通して」とあるが、20年後の今日ではXXX合点がいかぬ

ゆえに・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

・・・・・・・

間違ってもいい。自分が今現在此処でこう思う、あるいはかくあるべしと念じるところのものを吐露する

その吐露は他者を折伏するようなものでなくして、嗚呼、折伏は天国地獄を言い募る天主教、救世主教に特有のものとは、ブルックハルトにあったが、さういう傍観者狂信的な天地獄ではなくて、みずから取っ組み合いを演じる、それが宗教であらうが、思想であらうが、詩歌俳句文学であらうが、そういうものにはミドコロもあり、また栄養もある

ニーチェの語り口、キルケゴールにしてもゲーテにしても、西欧でもそういうもんがある

而して、W.ジェームスあたりになると回心の観察眼ばかりが濃厚で、そこででてきた「純粋経験」なるもんも、とてもにっちもさっちもいかないとっくみあいの産物とはいわれない知的成果であって

その知的成果、いわば知的技巧のこねくり回しの述語、それを大拙が見つけて、幾多郎へ、その幾多郎が鵜呑みにし、もちろん幾許かの禅的体験も加味しながらまた概念的にこねくり回して京都学派の宗祖となる、わけであって、そこには、やはり、異教の真っただ中に晒されて呻吟発句する大拙、井筒的な取っ組み合いがないのね

まあ、思想の骨格においては似ている大拙・幾多郎で、大いなる境位の落差を感じさせる所以

おなじ所以が、俳句でもある。他人事、傍観者、頭でこねくりまわした、兜太や中村和弘

西行が取っ組み合い、芭蕉がとっくみあい、そういう境位から、まことに隔絶した落差がある

これはなべて現代のやはり言葉の広告、魂を失った形骸、外皮、被殻の殻だけで一句を装飾する弊風であらうね

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腐したね、大いに腐した

而してこの否定、否定のゆえによく反省する、否定の効用

つまり直観的に否定して、その否定の直観、20年前には肯定であったものが、今は否定、それを吟味する、いったいどうなってんのや、と吟味もしだせば限もない

馬鹿馬鹿しい愚底の口吻を晒す西田幾多郎の「哲学」の吟味

上田閑照などによれば、西田も格闘の末に云々とあり、上田の哲学コレクション、はたまた小坂、藤田ほかの西田論もみてみれば、愚底の口吻も「平常底」か

「ねばならぬ」のオンパレード、パレードの原意には説教者もあったと記憶するが、検索しても出てこない、それはともかくも、「ねばならぬ」のオンパレードを「当為」として、それを他者に向け、自己に向け、そもそもが、「善の研究」の初っ端の「説明したい」、いったいなにゆえに西田は「説明したい」のか?

そもそも哲学とか神学とかは「説明」をこととするんだからショーも暗迷

騒音

神の沈黙

もしも神を仮構として想定したら、そういうことであらう

そもそもが「純粋経験」からすべての物事を「説明したい」という出だしからして、矛盾だらけであって、純粋であらうが不純であらうが、経験とならば、いくら口先で「主もなく客もなく」と云いまくったところで、経験するものとされるものがあるのは、その言葉そのものの本源であって、さう云う言葉をもってそこを否定し、最後には「絶対矛盾的自己同一」と来る、ほとんどッ狂って来るんぢゃないかと・・

西田の論の変遷は、純粋経験→自覚→場→絶対無→絶対矛盾的自己同一と変遷してきて、そのどこにおいても矛盾が矛盾として格闘「反省」されて最後に「絶対矛盾的自己同一」となる、その一々に「自己」が裏打ちされている、自己が纏綿、自己がねっとりとへばり付いて、上田にしろ西田にしろ、その唾でべとべとの自己への粘着と固着が顕著である、いくら言葉面でしうぢゃないと言い募ろうとも

上田の議論でもその他の議論でも、西田はどうもヘーゲル、フィヒテ、ハイデッガー、ジェームスらの擬人化一神教西欧神学哲学の述語を借り来て、それを捏ねくり廻し、世界の万象を「説明」する、わが国初の「哲学」を樹立したと云うのだが・・
 
そこには、「経験」はもとより、「一者」「神」とかの西欧由来の概念が亡霊のごとく付きまとっておって、自己にせい何にせい、それを他化する根本姿勢から脱却しえておらぬ

そこが至らぬところであって、その至らぬところが、師承相伝的な上田などの「説明」を承れば、愚底も平常底にはなるが、いかにも騒音である

上田にしても殺佛殺祖の切れがなく、だらだらと京都哲学の蛸壺的養護掛かりの風潮

まあ、上田の研究対象がエックハルト、宗教、哲学であればやむをえぬ歴史的個人的事情もあらうが、いやしくも禅を論じ、宗教を論じ、哲学を論じるのであれば、教えられるところもろともに違和感を感じるところもママある

赤肉団上一無位真人

を踏まえて、上田・西田は一旦「絶対無の自己」「絶対無の一者」「絶対無の場所」なるものを想定し、それと自己を同定、同一化していて、そこから翻ってまた矛盾的に自己を世界を見る

それが端的に現れているのが、上田の哲学コレクションW非神秘主義、禅とエックハルト(岩波現代文庫G182)のp234で曰く・・

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裸の肉体もすでに、不透明な分厚い衣装である。肉体をも脱ぎ、骨をも砕いてーーーまして思想上、主義上、考え方上の一切の衣装を脱ぎ捨てて現じた本来の人(にん)が、自由に虚空中に骨格を立て赤肉団をまとい着衣するのである。

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やうやは上田のいわんとしてことは、一旦「一無位真人」これはジンではなくニン(老荘のニン人)に「突破」(エックハルト的コンセプト)して「虚空中に骨格を立て赤肉団をまと」うのね

あれ〜!ってなもんだね、読んでいて、やっぱだめだね、イマイチわかっておらん


赤肉団上一無位真人

赤肉団上はあくまで形而下の赤肉団であって、その上にそのまま形而上の一無位真人が現成している

とこの臨済の名言を解しておったが、上田(上記の「日常工夫」は1967年すなわち上田41歳時の言)は全然違うのね、もっとも41歳時なんだから若詠みであって、その後の老の熟成で180度かわったかもしれぬが・・・

たぶん変わっておらんわね、なんとならば、この上田の哲学コレクションW非神秘主義、禅とエックハルト(岩波現代文庫G182)が2008年発行であとがきも2008年、つまり82歳の上田がエンドースしているのだから

そもそもが「非神秘主義」というコンセプト、エックハルト的「神秘主義」を「突破」して「非神秘主義」と上田は云うのだが、そもそもこのコンセプト自体が、上田にしろ西田にしろ論じている禅とは真っ向から衝突している

「神秘主義」も「非神秘主義」もいらんのです

にもかかわらず、そういうもんがでてくるところからして「神」にして「一者」にして「神秘」なんだから

それこそ、純粋に眼前に露わになった

赤肉団上一無位真人

を味わえば、赤肉団上そのまんま一無位真人である

ことさらに、「外在」ではなく「内在」だと西田も上田も強調し、言い訳するが、「外在」にせい「内在」にせい、そういうものが在るとするところからして、人格神的一神教の毒を解毒でけておらんのんね

これではまるでエックハルト的にしてジェームス的にして、かのオットー的な妄言の域を脱しておらん

だから、あの戦争でも、もっかの戦争でも、そういうもんを口先では否定しても、肯定せざるをえぬような、思想がでてくる

ストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね説明、説教、そもそも神というものがあるとして説明や説教をするであらうか?

もしも神が光あれといって、光が現れたとすれば、の神のコトバも光も騒音にしてストリップ劇場のあのケバケバシイ光線にして激情的な妄言であらうね

このストリップ劇場のケバケバシイ光線にして激情的な妄言「哲学」の家元の西田の随筆集、書簡集、講演集を本日背負って8700歩、ふらつきふらつき電信柱へ腕を伸ばしてかろうじて顚倒防止、かえりついて、愚底の口吻ならぬ謙虚な口吻の西田の幾許も味わってみて、はたして現今の愚底直観がいったい翻るであらうか、楽しみですね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54976] Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/03(Sat) 12:44  

えほそてれ ANNEX−Ω   訪問者数:12199189(今日:254/昨日:2964)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/03(Sat) 12:12友引(庚寅) 旧暦 11/10 月齢 9.2

往還の無底無穹や鮭を裂く

> > 無事是貴人

ブジコレキニン

コトナケバコレニンヲタットブ

有事是賤人

ウジコレセンニン

コトアレバコレニンヲイヤシム


> > 龍潜む天の天涯地の地涯
> >
> > 地龍湧き昇り天龍となる
> >
> > 天龍下り来て地龍となる


> 乾鮭も空也の痩も寒の中  芭蕉
>
> 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉
>
> 高橋由一 鮭
> http://gemeinwohl.jp/2019/09/04/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%EF%BD%9E%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%81%AA%E3%81%A9/#:~:text=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%20%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%20%E3%80%82%20%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AB%E9%89%9B%E7%AD%86%E7%94%BB%E3%82%84%E6%B0%B4%E5%BD%A9%E7%94%BB%E3%80%81%E6%B2%B9%E7%B5%B5%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%82%92%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%A0%B9%E4%BB%98%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%88%E9%A7%86%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%20%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E4%BD%9C%E3%81%AF%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AB,%E3%80%8E%E8%8A%B1%E9%AD%81%E3%80%8F%E3%82%84%E3%80%8E%E8%B1%86%E8%85%90%E3%80%8F%E3%81%AA%E3%81%A9%20%E3%80%82%20%E3%81%93%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AF%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93101%E9%91%91%E8%B3%9E%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8F%20%28%E7%A5%9E%E6%9E%97%E6%81%92%E9%81%93%20%E6%96%B0%E9%96%A2%E4%BC%B8%E4%B9%9F%E7%B7%A8%29%E3%82%92%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54975] Expression/表現とInpression/印象について 「ヒッカケ」と作為 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/12(Sat) 08:45  

ひるうけかANNEX−Ω   訪問者数:12172834(今日:100/昨日:1126)梵@天地獄 投稿日:2022/11/12(Sat) 07:35 仏滅(己巳) 旧暦 10/19 月齢 17.7

今朝の寝覚めの夢に曰く・・

くず、ぐずともに供頭と書くと、覚と

さてさて覚めて辞書を引くと

くずは屑、屑、国栖、九頭、ぐずは愚図などであって、決して供頭や供図、供事ではありえない

ここに表現の問題があって、たまたま昨今表現について幾許かの人の幾許かの意見を異見を味得して

大岡信曰く、ヒッカケ

小林秀雄曰く、Expressionすなわち圧力をかけて内容を絞り出すのだから「表現」とう訳は不適当だと・・

「表現」は「表に現れる」のか「表の現れ」か、後者ならば皮相ということであらう

Expression即圧出、とすれば、Inpression即圧入、か、

Export輸出、Inport輸入のやうに

而してこの圧はどこからかけられる、あるいは、くるのであらうか、圧の由来

外圧か、内圧か

Export輸出、Inport輸入でも

港の内の意志において輸出入する場合と港の外の意志において輸出入する場合とがらう

内圧自由貿易と外圧非自由貿易、いわば宗主国の意志により搾取される植民地貿易

表現においても、内圧表現と外圧表現、表現者の自由意志の内圧による表現か、あるいは、表現者にかけられた外圧による表現か

拷問による白状表現とはいわんも、かの基教の告白でも、だうも、外圧的な感じがする

そこへいくってえと、大岡信の「ヒッカケ」はどうか?

これは表現者主体の圧がどこに由来するのかを考えさせらる

意志がやはり已むに已まれぬ己自身のものではのうて、だうの世間の圧力、あるいは世間に媚びざるを得ない外圧的な側面が感じられる

とくに大岡信などのジャーナリズム文化人は、つねに世間を意識し、その歓心を買うことに意識がいって、意志の己があるがままが歪曲されている

ここからして、Impressionの問題も起こってくる

ことさらにImpression印象、象を印しるす、印さんがための表現という「ヒッカケ」

「ヒッカケ」そのものが表現であり印象の刻印である

そこに作為がある

唐木順三が「こしらえる」と「つくる」ということを鄙人の言から引用して論じている

「こしらえる」とはある「こと」を為すための下準備であって、「つくる」ことは直截に「もの」を「つくる」ことであると

なあるほど、こしらえることは供物を供える、たとえば神さまのご機嫌をとる供犠とか・・

「こしらえられた」表現はそれ自体に意味があるのではなく、大岡信の「ヒッカケ」のごとく、そのあとにくるご利益にむけた「表現」であって、表現者の内実の圧出ではないのね

いやさ、かういう表現者の内実は外からくるご利益に向けられているのであるからそう圧出にならざるをえない

ゆえにかういう表現は、たとえ詩歌俳句であらうとも、餌、似非詩歌俳句であらうね、評も評論も哲学も宗教も政論もまた似非がなんと多いことであらうかな





 






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54974] 販売?Re:[54973] FENDI コピー 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/09(Wed) 12:16  

れみまもりANNEX−Ω   訪問者数:12169671(今日:192/昨日:1039)先勝(丙寅)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/09(Wed) 12:11 先勝(丙寅) 旧暦 10/16 月齢 14.7

北風よわが玄関前を吹き給え

かういういやがらせをするのは誰なんでせう?

いやがらせではのうて、単なる広告か?444

広告にしては効果がないのね・・コピー バッグ 販売される。

> フェンディ(FENDI)とヴェルサーチェ(VERSACE)が互いの役割を“スワップ”した「フェンダーチェ(FENDACE)」が登場。2022年5月12日(木)から、伊勢丹新宿店、阪急うめだ本店、阪急メンズ大阪にて開催の期間限定イベントにて、https://vogcopy.net/brand-68-c0.html FENDI コピー バッグ 販売される。
>
> イタリアを拠点に、長きに渡って歴史を紡いできたフェンディとヴェルサーチェ。互いの役割を“スワップ”することで生まれた「フェンダーチェ」では、2つのアイコニックなファッションハウスであり、協力なチームが、新たな旋風を巻き起こすべくタッグを組む。フェンディの“F”とヴェルサーチェの“V”をもとに“自由(Freedom)”、“楽しさ(Fun)”、https://vogcopy.net/ ブランドコピー “芸術性(Virtuosity)”を表現するコレクションとなる。
> https://pradaguilty.exblog.jp/

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54973] FENDI コピー 投稿者:VOGCOPY.NET 投稿日:2022/11/07(Mon) 18:46  

フェンディ(FENDI)とヴェルサーチェ(VERSACE)が互いの役割を“スワップ”した「フェンダーチェ(FENDACE)」が登場。2022年5月12日(木)から、伊勢丹新宿店、阪急うめだ本店、阪急メンズ大阪にて開催の期間限定イベントにて、https://vogcopy.net/brand-68-c0.html FENDI コピー バッグ 販売される。

イタリアを拠点に、長きに渡って歴史を紡いできたフェンディとヴェルサーチェ。互いの役割を“スワップ”することで生まれた「フェンダーチェ」では、2つのアイコニックなファッションハウスであり、協力なチームが、新たな旋風を巻き起こすべくタッグを組む。フェンディの“F”とヴェルサーチェの“V”をもとに“自由(Freedom)”、“楽しさ(Fun)”、https://vogcopy.net/ ブランドコピー “芸術性(Virtuosity)”を表現するコレクションとなる。
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[54972] 枯木鳴鵙図 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 19:56  

さはねいりANNEX−Ω   訪問者数:12160350(今日:2078/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 19:52 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

枯枝に鵙たる武蔵ゐて止まる

枯木鳴鵙図
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010141000.html

この一図画すら遼太郎の武蔵では出現のしようがない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54971] さもあれば、その弟子たちもさもあればあれ、まさに俳句結社の主宰へ佞者のごとく阿るお「弟子」各位のごとくして、己自身がにっちもさっちもいかぬまんまに取っ組み合った言葉ではのうて、安易に与えられ、いまだ未消化の概念へ眉唾もんの消化液をまぶして世に訓を垂れようとしてる、その悪習にして悪臭、そのまんま凡俗極まる主宰結社の風でもある 世に訓を垂れようとする毒、垂毒の風は、ヒトラー、文鮮明、教皇、創価学会の池田大作、みんなおなじだわね。言葉の技巧、己を祀り上げる偽装だけが巧緻で言葉の中身がない。Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 16:08  

こすとはふANNEX−Ω   訪問者数:12160233(今日:1961/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 14:45 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

これを書いていて」ふッとした」気づきがあった

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

惰性のごとく言葉、それも広告語をならべまくる中村和弘、兜太を「盤石」となす「草魂」にして「蝋涙」の空疎な言葉の被殻をならべまくる中村和弘、それ的なもんも現俳協ほかに群がれば増殖し、いつしかは群衆雪崩か、兜太が海程崩壊の蟻地獄の二の舞か、さうもならんで、ますますご盛況、おん創価学会、おん家庭平和連合か、おん民主主義か、おん権威主義か

いつになったら解脱できるのか

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

まあ、一句一語で解脱できるわけでもなく、はたまた俳句詠者が哲学の学徒諸君が解脱を目指しているとも限らぬ

而して・・ふっと思えらくの、大拙と幾多郎の境位の曲線の差のよってきたる所以は・・・やはりその人の自分とのとっくみあいの態度の差ではなからうか?

大拙は若くして異国の環境、宗教、思想に晒され呻吟しつつ、自分と環境のなかでもがきつづけにっちもさっちもいかぬとっくみあいの中でバカもやりつつ、齟齬も誤訳もあってそこから這い上がってきた風情が彼処に滲み出ている

井筒についても同じことがいえるのではないか

間違ってもいい。自分が今現在此処でこう思う、あるいはかくあるべしと念じるところのものを吐露する

その吐露は他者を折伏するようなものでなくして、嗚呼、折伏は天国地獄を言い募る天主教、救世主教に特有のものとは、ブルックハルトにあったが、さういう傍観者狂信的な天地獄ではなくて、みずから取っ組み合いを演じる、それが宗教であらうが、思想であらうが、詩歌俳句文学であらうが、そういうものにはミドコロもあり、また栄養もある

ニーチェの語り口、キルケゴールにしてもゲーテにしても、西欧でもそういうもんがある

而して、W.ジェームスあたりになると回心の観察眼ばかりが濃厚で、そこででてきた「純粋経験」なるもんも、とてもにっちもさっちもいかないとっくみあいの産物とはいわれない知的成果であって

その知的成果、いわば知的技巧のこねくり回しの述語、それを大拙が見つけて、幾多郎へ、その幾多郎が鵜呑みにし、もちろん幾許かの禅的体験も加味しながらまた概念的にこねくり回して京都学派の宗祖となる、わけであって、そこには、やはり、異教の真っただ中に晒されて呻吟発句する大拙、井筒的な取っ組み合いがないのね

まあ、思想の骨格においては似ている大拙・幾多郎で、大いなる境位の落差を感じさせる所以

おなじ所以が、俳句でもある。他人事、傍観者、頭でこねくりまわした、兜太や中村和弘

西行が取っ組み合い、芭蕉がとっくみあい、そういう境位から、まことに隔絶した落差がある

これはなべて現代のやはり言葉の広告、魂を失った形骸、外皮、被殻の殻だけで一句を装飾する弊風であらうね

> > この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である
> >
> > まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々
> >
> > 蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・
> >
> > その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々
> >
> > 社会の一縮図にして臭気芬々
>
> 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・

京都学派蛸壺哲学の宗祖たる幾多郎がさもあれば、その弟子たちもさもあればあれ、まさに俳句結社の主宰へ佞者のごとく阿るお「弟子」各位のごとくして、己自身がにっちもさっちもいかぬまんまに取っ組み合った言葉ではのうて、安易に与えられ、いまだ未消化の概念へ眉唾もんの消化液をまぶして世に訓を垂れようとしてる、その悪習にして悪臭、そのまんま凡俗極まる主宰結社の風でもある

世に訓を垂れようとする毒、垂毒の風は、ヒトラー、文鮮明、教皇、創価学会の池田大作、みんなおなじだわね。言葉の技巧、己を祀り上げる偽装だけが巧緻で言葉の中身がない。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 12:47  

らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

蚯蚓鳴く妄者佞者の鉄面皮

妄者佞者雪崩れて落ちる蟻地獄

星飛んで喜怒哀楽の向こう側

眼前の氷塊崩壊して星青し

椋鳥群れて鷹の一羽も現れず

椋鳥の糞が蝕む鉄格子

寒暁へタバコ一服また一日はじまる

苔生せる五輪の塔や人生の行く末

段々と陳腐になって天高し

扨て、25年前数年間のの袖触れ合うのも他生の縁に鑑みて幾許かの好意的読みもやってみよう

それにしても、ロレンスの「独」、独坐大雄峰、天上天下唯我独尊、赤肉団上一無位真人の味わい



華厳的、縁の網目の燦然と他者万万人を映す珠のありよう



天地創造よりこのかた終末へ一直線の聖書的時



永劫回帰、あるいは、単なる大円壇た○の墨蹟の中心に坐す我のありようの時



有時経歴的な飛去来

いろいろありますな、世界観のとらえかたにしてわれのとらえかた

無我か有我か、独行か共同体か、無事か有時か

まう滅茶苦茶でんの

滅茶苦茶の「茶」の味わい、喫茶虚にして喫茶去か

お点前は如何


それにしても・・妄者とはいわんも佞者にして共通するある種の謂い振りはあるのね

大石雄鬼曰く、兜太のおおかみに対して「この句の裏にある憂いている兜太の根幹の部分を感じたい一句である。」

堀之内長一曰く、中村和弘の「東海」にたいして「中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。」

これらは両評者とも評の韜晦でらうがな。おもわせぶり。詠者へのすりよりにまことに便利な言葉である。

ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・

> けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
>
> 無事是貴人
>
> 龍潜む天の天涯地の地涯
>
> 地龍湧き昇り天龍となる
>
> 天龍下り来て地龍となる
>
> 扨て、佞社サイトをもう一度
> http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 2019年4月18日
> 実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
>  中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
>  唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。農奴と小作人とはまた別物である。農奴という言葉を作者がとらえたとき、それはおそらく何かの暗喩のはずであり、この言葉は、何ごとかを象徴するものかもしれない。
>  ときに農奴のにおいがするもの、それは何だろうか。一句一章として読めば、それは実南天そのものである。実南天を配合として読めば、農奴のにおいがするものはあらゆる多様性のなかで、読み手が恣意的に選択することになる。農業をめぐる最近の社会情勢を背景に置いて読んだとしても、この言葉は浮き上がっている。指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。しかし、である。それにもかかわらず、それらを統べている主体は厳然とそこに存在する不思議。配された実南天のあざやかな赤は、まるで誰彼に発せられた危険信号のようでもある。
>  例えば次のような句。


総じていえば、巷に氾濫する凡句、凡慨よりは大いに目立つしおもしろしい

而して、わが論点はこれらのおもしろさの所以であって、そこからいったいわれとのっぴきならぬものを構築できるか、否か、である

すくなくとも、正直なわたしにおいてはのっぴきならぬものを構築し得ぬ

話は飛ぶが、司馬遼太郎の歴史小説を読む、読んでおもしろいがいまひとつのっぴきならぬものを感じえぬ、むしろ感じ得るのは遼太郎の小説よりも、そのあとがき、あるいは放談である。そこに歴史小説においてアバターたる種々の人物を活躍させたそのもとの操作者の顔が露わになっている。だからときどきボアリングな小説からはなれて「あとがき」を好んで読む

かつて論じたことがらではあるが、五輪の塔といえば、五輪の書か、宮本武蔵、遼太郎の宮本武蔵は矮小である、血沸き肉躍るのは吉川英治の宮本武蔵であって、読んだのかの45年前、アラブへ飛び立つわれへの餞別として亡き親友の浅沼雅樹が羽田で恵んでくれたもの。それを砂漠のクリーク(海辺の塩が干上がって罅割れた干潟)の傍に並んだ、物を収容する鉄箱なみの人を収容する個室で、麻雀の合間合間に読む武蔵、一気呵成の読み終わった吉川英治であったが、遼太郎の武蔵は現代のサラリーマン根性が顕著で読む気が失せる。かの藤沢周平の時代小説のように・・

かといって一作品を書くに遼太郎ほかの作家が払った膨大な努力を無とするものではなく、尋常ならざる資料の収集読み込みにはまことに頭が下がる、頭が下がっても、肯ぜぬところは肯ぜぬのね

この肯ぜぬところに拘りたい


>  初夏の軍馬のごとき砂鉄かな
>
>  軍馬という喩えの唐突さも同じである。それでも作者という主体は静かにそこに立っている。

評者は「指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。」とういのであるが、「しかし、である。」軍馬と砂鉄は十分に指示性もある。実南天の農奴のやうに・・

詠者がここに軍馬と砂鉄を配したその心根が見えないのであらか、評者たる堀之内長一は、ね

だから、「中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。」というゆな韜晦の評になる

現代からやや遡って軍馬がこの列島を駆け巡っていたころを思えばよい

いまどきの高炉の製鉄所があるわけでもなく、たたら蹈鞴の時代、砂鉄から鋼をつくっていたであるからして、高炉の鉄で戦車をつくる時代に比して、軍馬を砂鉄でつくる、生の馬爪で蹄では、山谷河川を跋渉でけるわけもなく、たたらの鉄は武器であるとともに馬の蹄の馬蹄でも活躍しておって、その軍馬の巻き上げる粉塵絶叫、そこに「初夏の」と配した季語の斡旋も秀逸ではある。「初夏の」が闌けて成夏になる阿鼻叫喚の時的推移さえ「初夏の」に秘められている。

「しかし、である。」いったいそれでなんだといういうのだ?

この有時経歴的な一景に、いったいわれと、とうことは詠者自身、読者自身とどういうのっぴきならぬ関係にしてものがあるのであらうか?

一体詠者の感動のポイント、はどこにあるでのであらうか?

どこか、茫洋とした傍観者の風、が顕著である

画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない


乾鮭も空也の痩も寒の中  芭蕉

塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉

こういう句をならべるとかの画、高橋由一 鮭
http://gemeinwohl.jp/2019/09/04/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AC%E6%98%8E%EF%BD%9E%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%81%AA%E3%81%A9/#:~:text=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%20%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%82%92%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%20%E3%80%82%20%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AB%E9%89%9B%E7%AD%86%E7%94%BB%E3%82%84%E6%B0%B4%E5%BD%A9%E7%94%BB%E3%80%81%E6%B2%B9%E7%B5%B5%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%82%92%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%A0%B9%E4%BB%98%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%88%E9%A7%86%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%20%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E4%BD%9C%E3%81%AF%E3%80%8E%E9%AE%AD%E3%80%8F%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AB,%E3%80%8E%E8%8A%B1%E9%AD%81%E3%80%8F%E3%82%84%E3%80%8E%E8%B1%86%E8%85%90%E3%80%8F%E3%81%AA%E3%81%A9%20%E3%80%82%20%E3%81%93%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AF%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93101%E9%91%91%E8%B3%9E%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8F%20%28%E7%A5%9E%E6%9E%97%E6%81%92%E9%81%93%20%E6%96%B0%E9%96%A2%E4%BC%B8%E4%B9%9F%E7%B7%A8%29%E3%82%92%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

を思い浮かべるが、これらの句にせい、画にせい、どこかガツンとくるものがあるのだが、中村和弘にも平山郁夫にもガツンはない

どこか茫洋として傍観者、この風は、さらにすっとんでいえば目下のハロウィンの仮装行列、群衆雪崩の素、仮装に着膨れて面白がっている群衆の風景が重なってくる


>  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
>
>  馬の背に朝鮮半島灼けており

これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?

>  捨缶に光年の秋とどまれり

これも「光年」という非日常の時間単位の刹那を捨缶に観たところは秀逸ではあらうが、その捨缶と光年の秋で、やはり傍観者の感慨をいでていない


>  スケートの刃光れば悲劇的

これにいたっては、「悲劇的」でやらせすぎであるとともに、もっとも傍観者的

この「傍観者的」とうのは、現代のマスコミに毒された大衆の態度のキーワードでもあらうがな


>  松越しの鴨の声なり英(はな)と聴く

ぜんぜん感心せぬ。「英(はな)と聴く」の英が華なのであらうが、英の凭れて、なおかつ「英(はな)と聴く」といういいまわし、「ときに農奴のにおいかな」「蹄鉄は罠にも似たり」という安易を安易ともせぬ直喩法、まるで共感の埒外である


>  むらさきに犀は烟りて大暑なり

この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい

これに関連して思い出すのは詠者は25年前に蛍を「火垂る」だとなぜか力説していた

よほど「火垂るの墓」にのめりこんだのであらう


>  立枯れの巨木の姿(なり)に夏の光(か)げ

これも広告の一語「英」と同じく「姿」を(なり)となし「光」を(かげ)となして「立枯れの巨木」の光陰を演出する技巧に堕して精神性がないうすっぺらさ


>  船虫の熱もつ岩を祀りおり


これも単純にして有機と無機、生と無生、熱と無熱の対比

穿って読めば・・舟虫すなわち大石雄鬼どもが走り回る、岩、すなわち、兜太の如く「盤石」なる中村和弘たる岩が祀られているという自己意識なのであろうか


>  一穴にて大鬼蓮の腐りそむ

これも、蓮ではのうて、中村和弘自らが棲む俳壇現俳協「陸」そのものにして、一穴は大鬼ならぬ雄鬼の棲める穴であって、その穴を提供している中村和弘自身が腐りそむ蓮なんだという自己認識があるのであらうか?


>  鮎釣りの影がもつとも波うてり


似たような句に詠者の障碍者の歩みを「怒涛」と詠んだ句があったわね。兜太の「湾曲」「火傷」ほど酷くはないが、どうも、ヘテロパシーの傍観者、釣り人も障碍者、被爆者も莫迦にした詠みだわの

>  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ

なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩

>  熱血のロボット生みて椿咲く

「椿咲く」も効いていなく、やはり無機、有機の安易な対比にして世の流行に媚びた句


>  神牛に痼疾の多き秋暑かな


ご自分を「神牛」として詠んでいるんであらうか?

それにしては、鉄面皮に徹しているのね

> 評者:堀之内長一
> 2019年4月18日
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 「それでも作者という主体は静かにそこに立っている。」と評者は云うが
>
> 所詮、傍観者である、これらの句の作者、中村和弘は、ね
>
> 句に霊も魂もなく、あるのは言葉だけ、それも被殻、形骸だけである
>
> なんらの生きざまもなく、虚けた言葉の羅列、なんとかならのかい
>
> なんともならん
>
> なんらの作者の当為もなく、惚けっとした傍観趣味者の腑抜けた味わい、ね
>
> それをめでいる大衆もいるんだから・・
>
> この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である
>
> まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々
>
> 蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・
>
> その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々
>
> 社会の一縮図にして臭気芬々

俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 21:09  

けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦

無事是貴人

龍潜む天の天涯地の地涯

地龍湧き昇り天龍となる

天龍下り来て地龍となる

扨て、佞社サイトをもう一度
http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

2019年4月18日
実南天ときに農奴のにおいかな 中村和弘 評者:堀之内長一
 中村和弘句集『東海』(2012年)より。中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。
 唐突である。ぎくりとする。農民や百姓とは訳が違う。農奴なのである。農奴解放という言葉もある。日本に農奴制はなかった。農奴と小作人とはまた別物である。農奴という言葉を作者がとらえたとき、それはおそらく何かの暗喩のはずであり、この言葉は、何ごとかを象徴するものかもしれない。
 ときに農奴のにおいがするもの、それは何だろうか。一句一章として読めば、それは実南天そのものである。実南天を配合として読めば、農奴のにおいがするものはあらゆる多様性のなかで、読み手が恣意的に選択することになる。農業をめぐる最近の社会情勢を背景に置いて読んだとしても、この言葉は浮き上がっている。指示性を失って、まるで念の塊のようにそこに置かれた言葉。しかし、である。それにもかかわらず、それらを統べている主体は厳然とそこに存在する不思議。配された実南天のあざやかな赤は、まるで誰彼に発せられた危険信号のようでもある。
 例えば次のような句。

 初夏の軍馬のごとき砂鉄かな

 軍馬という喩えの唐突さも同じである。それでも作者という主体は静かにそこに立っている。
 句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。

 馬の背に朝鮮半島灼けており

 捨缶に光年の秋とどまれり

 スケートの刃光れば悲劇的

 松越しの鴨の声なり英(はな)と聴く

 むらさきに犀は烟りて大暑なり

 立枯れの巨木の姿(なり)に夏の光(か)げ

 船虫の熱もつ岩を祀りおり

 一穴にて大鬼蓮の腐りそむ

 鮎釣りの影がもつとも波うてり

 蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ

 熱血のロボット生みて椿咲く

 神牛に痼疾の多き秋暑かな

評者:堀之内長一
2019年4月18日

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「それでも作者という主体は静かにそこに立っている。」と評者は云うが

所詮、傍観者である、これらの句の作者、中村和弘は、ね

句に霊も魂もなく、あるのは言葉だけ、それも被殻、形骸だけである

なんらの生きざまもなく、虚けた言葉の羅列、なんとかならのかい

なんともならん

なんらの作者の当為もなく、惚けっとした傍観趣味者の腑抜けた味わい、ね

それをめでいる大衆もいるんだから・・

この「中村和弘氏はいわずもがな、現代俳句協会会長で、田川飛旅子が創刊した『陸』の主宰である。」と反吐を催さしめるほどの広告宣伝にあい努める堀之内長一なる佞者は、兜太がせっかく潰した蟻地獄、海程のあとをうけて佞者地獄を再建したのか、海原の編集人ださうである、まことに佞者好みの兜太の弟子らしい再建である

まんず、会長ありき、あるいは主宰ありき、編集人ありきの風、どこをみても臭気芬々

蟻地獄協会や結社で、その会費、折詰の底の万札を食い漁り(兜太)、あるいは預り金を猫婆(大石雄鬼)して恬として恥じぬ鉄面皮どもにして、佞者を飼う、飼われるほうも買ってもらおうとのさもしい根性まるだしで・・

その根性まるだし佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々

社会の一縮図にして臭気芬々








やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54968] 群衆雪崩 大衆雪崩 下賤雪崩 高貴と下賤 腐った血を売りまくる赤十字 生きの良い尿をうりまくる自衛隊  黙々の舌頭不尽 Re:[54967] 人間は変わる、成長もあれば退化もある、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している。もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることであるRe:[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 15:31  

かよなおよANNEX−Ω   訪問者数:12156313(今日:1477/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 13:59 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦 可よ直よ

無事是貴人

群衆雪崩、ソウルにして200人、メッカにして2000人、ウクライナ露西亜にして何十万人、ナチスにして何百萬人

古くは十字軍にしてかの教皇の強硬にして恐慌のマインドコントロールの犠牲者となる

みな相は異なれども核は一つにして、その魔境の犠牲者

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す

群衆雪崩、大衆雪崩

高貴と下賤、ニーチェならば

貴族と大衆、オルテガならば

悪人正機、親鸞ならば

プラトン的謂いを以てすれば、イデアを包む被殻たるコトバ

このコトバの被殻に圧殺される

ハロウィンで如何なる仮装や、仮装がおもしろいか?

韓流ドラマが、ビートルズが、アッラーの奇跡たる奇岩へなぜ群がり雪崩れるか

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す

バーチャルなコトバのメタボリズム

概念の新陳代謝

回心、コンバージョン

目がぐるりと回って、メガグリル、マグロの目玉焼きは食えるが、ジェームスの回心は食えぬ

その喰えぬものをもって、蛸壺目玉焼き哲学西田幾多郎を宗祖となすところの京都学派の臭素、コトバの被殻、概念遊戯に堕す

ゆえに八紘一宇であり、日独同盟、ナチス民族主義とさえ共鳴して妄軍部の暴走を促し、我が国を爆心地と化した、下賤にして大衆のおのずからのなりゆきであらう


> ふをへろきANNEX−Ω 訪問者数:12147079(今日:371/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:17 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔
>
> だうもいまいちすっきりしない

畢竟だうもいまいちすっきりしないのが人生なのだ

すっきりしたときは魔境と思へ


> 霊性とか境位などといえば、かのニーチェから苦情も来そうである
>
> 「善悪の彼岸」「道徳の系譜」ニーチェの核心といわれる論においては・・

高貴と下賤

> しかし、わが論においては、善悪の彼岸でもなければ道徳の系譜でもない
>
> 道徳の善悪でもなければ、人格の善悪、詩歌俳句の善悪でもない
>
> それ以前のところを問題にしているのでアール
>
> > だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦
> >
> > とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

どこまでいこうが舌下の黙々でしかないのであるが、黙々と舌頭にのぼせるほかはない

> 地水火風空の地は生命の燃焼、生理的新陳代謝、人格、それが燃え盛ってくれば火となり風となり風格、空ともなりうる

生命の燃焼、生理的新陳代謝は、フモール、体液、ユーモア、ヒューマニティ、体液は燃えて体温も維持すれば、まことにこれ地の、血の、知の新陳代謝でアール、くそうず

> 一句、一語、バーチャルにしてわがアバター、メタバースになりうるとすれば・・
>
> > > わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる
> >
> > 独坐大雄峰
> >
> >
> >
> > 而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ
> >
> > 例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。

湾曲し火傷し爆心地のマラソン  兜太

いまさらながらに言葉の技巧ばかり、いわば被殻の技巧ばかりがあらわであって、その被殻「湾曲」「火傷」「爆心地」「マラソン」のなかの魂は圧殺されてしまう

圧殺の「力」であらうか

群衆雪崩

大衆雪崩

下賤雪崩

この一句にも他の一句にも、その他にも高貴な眼はみられない

華麗な墓原女陰あらわに村眠り  兜太

> > ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ
>
> 詩歌俳句にしろ論文にしろ、そういうもんを読んでみる
>
> その詠者、論者の有時経歴時々刻々のすべてを辿れるわけではなく
>
> > 畢竟、一句の境位を計るにしくはない
>
> そこで見込みのあるもんについては、遡って有時経歴時々刻々の幾許かも観る
>
> > たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も
> >
> > 読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である
>
>
> その狭い宇宙において感じることは・・以前にも書いたが

その狭い宇宙が、一語、一句で拡がることもある

拡がればそれもまた喜びではある

而して、どう拡がるのか?

マインドコントロールや魔境がひろがってはさらに圧殺される

> 人間は変わる、成長もあれば退化もある

成長と退化では、どうも適当な言葉ではない、マイルドではあるが

退化というよりは劣化なのだ

劣化というよりは魔境なのだ

その魔境をえたりやったりと自画自賛する兜太の阿呆ぶりにはまことに辟易とするが、それは兜太ばかりではない

かのヒトラーでもおなじことであらう

文鮮明でもおなじことであらう

十字軍を組織した教皇でもおなじことであらう

基督教統一教会壊滅にむけて、創価学会は真摯にとりくむのか?

取り組むまい、取り組めまい、おなじ穴の貉だから・・

> 同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって
>
> 親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね
>
> 大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう
>
> 大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている
>
> 時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる
>
> 而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか
>
> 若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

口吻の愚底を晒す

ひとによってはその逆も可なり

大拙にしても、井筒にしても、海外での講演、あるいは、英語論文も多ければ、その翻訳本も多々出版されている

さういうもんをよんで、その訳者は、本来の著者ではないのだが、その著者の意を汲んで忠実に訳出しようとしている

にも拘わ和らず、そこから立ち昇る香華はまことに異なるものであって、意は汲み得ても香華は味わい得ぬものが多い

畢竟、それはコトバの被殻において論を論ずる蛸壺京都学派のあんちゃんらとおなじことで、同じ言葉を用い得ても、言葉のコトバたるところの香華、曰く魂、言霊が抜け落ちておって、コトバが生きていない、単なる概念であり、技巧であって、そこを繰る人間の霊覚、霊格が欠如しているからぢゃないのか

> この風は、俳人にも、宗教者にもある

惰性のごとく言葉、それも広告語をならべまくる中村和弘、兜太を「盤石」となす「草魂」にして「蝋涙」の空疎な言葉の被殻をならべまくる中村和弘、それ的なもんも現俳協ほかに群がれば増殖し、いつしかは群衆雪崩か、兜太が海程崩壊の蟻地獄の二の舞か、さうもならんで、ますますご盛況、おん創価学会、おん家庭平和連合か、おん民主主義か、おん権威主義か

いつになったら解脱できるのか

> 金子兜太、中村和弘らがその類、いわば西田幾多郎風といえば、西田幾多郎の世間的評価に照らして持ち上げすぎであらうが、ともかくも、ずっと若造の若松英輔もふくめて、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している
>
> これはなべて大衆的悪臭にして悪習であらうね

大衆的悪臭にして悪習

陥らないようにするにはどうしたええのんか

独りよく魔境の自縄自縛、呪縛を脱す「独」

而して、独逸、ひとりよくすぐれてドイツ逸佛であっても「いけない」ナチス

核あっての、核なき大衆であり

高貴あっての、高貴なき下賤である


> そういうもんが俳句にせい宗教にせい思想にせい指導的位置におれば、そりゃあ、世間は腐る、臭くなる

我が国のヒストリー、ストーリーにはおいても、もっとも下賤なるものがもっとも高貴であった卑弥呼以来

現代でも言論の自由さえない天皇皇族、而していかにしてか自由国家であらうか

腐った血を売りまくる赤十字

生きの良い尿をうりまくる自衛隊

> > 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?
> >
> > いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、霊の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。
> >
> > 自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ
>
> もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることである

黙々の舌頭不尽

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54967] 人間は変わる、成長もあれば退化もある、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している。もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることであるRe:[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:59  

ふをへろきANNEX−Ω 訪問者数:12147079(今日:371/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 15:17 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔

だうもいまいちすっきりしない

霊性とか境位などといえば、かのニーチェから苦情も来そうである

「善悪の彼岸」「道徳の系譜」ニーチェの核心といわれる論においては・・

しかし、わが論においては、善悪の彼岸でもなければ道徳の系譜でもない

道徳の善悪でもなければ、人格の善悪、詩歌俳句の善悪でもない

それ以前のところを問題にしているのアール

> だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦
>
> とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

地水火風空の地は生命の燃焼、生理的新陳代謝、人格、それが燃え盛ってくれば火となり風となり風格、空ともなりうる

一句、一語、バーチャルにしてわがアバター、メタバースになりうるとすれば・・

> > わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる
>
> 独坐大雄峰
>
>
>
> 而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ
>
> 例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。
>
> ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ

詩歌俳句にしろ論文にしろ、そういうもんを読んでみる

その詠者、論者の有時経歴時々刻々のすべてを辿れるわけではなく

> 畢竟、一句の境位を計るにしくはない

そこで見込みのあるもんについては、遡って有時経歴時々刻々の幾許かも観る

> たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も
>
> 読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である


その狭い宇宙において感じることは・・以前にも書いたが

人間は変わる、成長もあれば退化もある

同じ蛸壺の京都学派の哲学にしても、それは明らかであって

親友たる、鈴木大拙と西田幾多郎では全く相反する曲線を描く、境位としてね

大拙は京都学派ではなかろうが、親友の西田を立ててあげるのは友情であらう

大拙の曲線においては若いころのスエーデンボルグを訳していたころの若気の至りから成熟して、さらに老境にむかって、境位が驚異的にぐんぐん上がっている

時々、西田幾多郎の妄言とはいわずも、あの一神教救世主教的哲学に毒された概念語を出すところで、現今のドル円への介入のごとく、曲線が急落するが、ともかくトレンド曲線は上昇し、その語り口、口吻も好もしくなってくる

而して、親友で養護されちょる西田幾多郎の曲線はだうか

若気の「善の研究」以降、下る一方であって、最後のほうの「哲学の根本問題」においては目も当てられぬ語り口、口吻の愚底を晒す

この風は、俳人にも、宗教者にもある

金子兜太、中村和弘らがその類、いわば西田幾多郎風といえば、西田幾多郎の世間的評価に照らして持ち上げすぎであらうが、ともかくも、ずっと若造の若松英輔もふくめて、その世俗的身分の安定、娑婆のおける俗位の向上に比例して、その境位が低下している

これはなべて大衆的悪臭にして悪習であらうね

そういうもんが俳句にせい宗教にせい思想にせい指導的位置におれば、そりゃあ、世間は腐る、臭くなる

> 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?
>
> いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、霊の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。
>
> 自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ

もちろんこれは詩歌俳人ばかりでなく、政治屋にも、奸僚にも、似非学者にも、まずゴミのジャーナリストどもにでも、誰にでもいえることである

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54966] 味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だRe:[54965] 一句の駄句の羅列もまた、人生、有時経歴の効用 Re:[54964] [54963] 無題 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 12:34  

ろけえによANNEX−Ω   訪問者数:12146897(今日:189/昨日:781)梵@天地獄 投稿日:2022/10/25(Tue) 11:41 仏滅(辛亥) 旧暦 10/1 月齢 29.2 新月 朔

だうも言い足らぬ、一度書換えたが途中で飛ばしてしまったので、再度挑戦

とはいえ、所詮は舌下の黙々、その黙々を舌頭でいかに云い遂げるか、遂げられるのか

> やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空
>
> 毎度印璽のごとく貼り付けているこの一句もまた身口意知情意の意の態度の境位であって、かならずしも「である」ことではなくして、「ありたし」「あるべし」との願望にして当為
>
> 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
>
> 世に流布する解説においては、心頭を単に心とのみ解しているが、

心頭を心と頭と解しているむきもなるが・・

味わいとしては、この「心頭」こそがよく効いており、この「心頭」の効きを味わえるか否か、そこが「滅却すれば火もまた涼し」へ通じるんですね

ちろちろと燃える、心、云って見れば、かの阿頼耶識的な心の炎、地水火風空

いわば、地の燃料、くそ水(うず)石油天然ガス、そこが燃えて火となり、神の息たる風が吹き、空たる域に達する、そこの機微

燃える盛る火の炎の先端、心身の神経の先端、単なる頭だけはなくそこにある想念の先端、まさに風に吹かれて消え入る空、そこで周囲の環境、我の我を忘れた感覚感情理性の先端さえもが、「心頭」の一語で露わにされている、だからこそ「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境位が現成する

ところが、涼しいどころでない、あちち、もあれば、身の血は引いてひやっとしても、身体の表皮は脂汗、そういう事態もままあるわけで、そこの感情、喜怒哀楽の飛翔と墜落、その乱高下も、心の先端たる、神経の先端たる心頭を滅却するの一語、一句にて、燃え盛る炎はあらたなる境位に至る。到着。

一句、一語、一期一会、有時経歴の新陳代謝をして、燃え上がった感情の炎を鎮める、鎮火、火宅もまた鎮火される、そういう効用もまた、俳句、詩や禅語の一語にもある

> welldoneのToast喰らう冬の朝
>
> 詠んで読むのはまずは我なれば喜怒哀楽もそこで消化、消火される

> 言葉に昇華されるか、さらに燃え上がるか

> 開けから噴出して眼前にその態を露出させれば、理性感性的、情的に曝け出した自分を自分で見つめているのだ

> だから、だうしても抑えられない憤怒は憤怒としてありつづけても、

> まあ、憤怒をふくめて喜怒哀楽はなべて一時的な炎の先端、心頭なれば、それを滅却することもまた可能とならうというもんだ
>
> さすれば・・
>
> > > ちへそみりANNEX−Ω   訪問者数:12142772(今日:314/昨日:741)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/10/22(Sat) 15:54 大安(戊申) 旧暦 9/27 月齢 26
>
> 高殿の蜘蛛を見上ぐる利休かな
>
> 利休坐す茶室二畳や虎落笛
>
> これはわがアバターたりうるが・・
>
> 利休坐す茶室二畳や虎落笛
>
> 捩じれている
>
> これでは、利休が茶室二畳で坐禅の風
>
> 利休坐す茶席二畳や虎落笛
>
> なれば露坐独峰の風もでてくる
>
> 利休座す茶室二畳や虎落笛
>
> なれば茶室に正座して客に対している

席ではなく、室ね

> 一語でずいぶん風景もかわる
>
> わがアバターなれば自由自在に動かすこともできる

独坐大雄峰



而して、動かしようのないアバター、メタバースはわれを生きる、生かすに足らぬ

例えば、兜太の爆心地、女陰や、和弘の農奴、原罪、煩悩の句の如きものは、ね。

ほとんど瘴気の発する溜池に足を突っ込むやうなもんだ

友人曰く、俳句はその生涯の無数の句を読まねば・・

まあ、さういうこともあらうが、怠惰にして、自己の句も、他者の句も、そのことごとくを読む努力もしなければ、時間もない

畢竟、一句の境位を計るにしくはない

たとえ、芭蕉の句でもとらない、とれない句は多々あるのだから、勿論読んでいない句も

読んでいない句、見ていない画、知らない人、そういうものは、汝我の世界には入って来ない、わが狭い宇宙の外側である



> 俳句の鉄則でもなからうが、よくいわれる規範において、他人事を詠むな、自分事だけを詠めと・・

詠む読むも同じこと、詠読一如

> すっかす、アバター的な詠みをする、また読みをすれば、かならずしも他人事を詠むな、読むな、自分事だけを詠め読めとはいえず、他人事もまた自分事となす、なることこそが、俳句、詩や禅語の一語の効用にもある

汝我一如


> 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉
>
> 野ざらしを心に風の沁む身かな  芭蕉
>
>
> 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
>
>
> 火の粉散る五体投地や二月堂
>
> 身削がれし鰻の骨の泳ぐ板
>
> 懊悩の諸手を挙げて寒昴
>
> 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
>
> 去年今年貫く棒の如きもの  虚子
>
> 大鷲の爪あげて貌かきむしる 加藤楸邨
>
> 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
>
> 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城
>
> 分け入つても分け入つても青い山 山頭火
>
> 咳をしてもひとり  放哉
>
> 死と生の境に洩らす咳一つ 飛旅子

これは実作の情景情報としては飛旅子がその父の臨終まじかにいて、父の咳だそうだ

しかし、この句の味わいとしては、そんな実景はどうでもよろし

一個の人間の死に際の咳、咳をしたくても咳がでない、咳をするんではなく「洩らす」

こういうことは、自ら味わわねば、その表現もでまい

屁を漏らす、尿を洩らすのとはわけが違う

> 春の山のうしろから烟が出だした  大空放哉居士

而して・・

> 舟虫の化石にならぬため走る 大石雄鬼
>
> 象の頭に小石の詰まる天の川 大石雄鬼
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> この舟虫も象の頭もまたアバター
>
> いちおうはオモシロイのであるが、「猫の頭の中の地図」を詠んだ詠者に猫でもないのに「猫の頭の中の地図」がわかるのか?といった三橋敏雄を思い出す
>
> 思い出しはするが・・舟虫も象の頭も、また「猫の頭の中の地図」の句、句の姿はわすれてしまったが、みんなおもしろく思わずとってしまった


とってしまったのではあるが、問題はおもしろいから、佳い句か?

佳い句をおもしろい句となすのは、いまだいまいち

それをとらされてしまうのは、とる側の境位もいまいちなんであらう

> 猫の頭の中の地図は、わが頭の中の地図を対比して思わされ、地図もだんだん朦朧としてくる老境
>
> 老境ならずも、走らなければ化石になってしまう舟虫めいた若年相
>
> 脳みそが固化して大脳、小脳ともに大石小石に化すかのような瞬間
>
> さういうものをわがアバターとして読めば、舟虫も、象の頭も、猫の地図もまた味わえる

味わっても、それがおのが境位へのインスパイア、励軌になるうるか?

いくらおもしろかろうが、それがおのが境位へのインスパイア、詩魂、零の励軌になりえないもんは、所詮おもしろいで終わりである。

自他個々の有時経歴、その味わいにおいて美味しいだけではいけない、燃える炎の先端、焔先において、なにを見解く、味得できるか、to be or not to be それが問題だ

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


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