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[55013] 「勤労感謝」?いやな言葉だ!Re:[55012] 凍臥凍眠 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/24(Fri) 10:30  

てたほくやANNEX−Ω   訪問者数:12603034(今日:491/昨日:1929)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/24(Fri) 10:05 先負(丙戌) 旧暦 10/12 月齢 10.7

Mendelssohn - A Midsummer Night's Dream: Overture (Abbado)
http://www.youtube.com/watch?v=m0gHTNJVFtA

●●●●●凍臥凍眠復活す

> いつふせりANNEX−Ω   訪問者数:12601462(今日:848/昨日:343)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/23(Thu) 08:40 友引(乙酉)勤労感謝の日 旧暦 10/11 月齢 9.7 凍つ臥せり
>
> 老深し花鳥風月皆混沌

老闌けて花鳥風月皆混沌

老闌や花鳥風月皆混沌

それしすても「勤労感謝」?いやな言葉だ!

一神教、プロテスタント、ウェーバー、ナチス、通俗マルクス主義、プーチン習近平独裁統治の悪臭がぷんぷんする

さすれば・・●●●●●凍臥凍眠復活す・・腐らずに凍臥凍眠復活してほしいもんんぢゃわの

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55012] 凍臥凍眠 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/23(Thu) 09:27  

いつふせりANNEX−Ω   訪問者数:12601462(今日:848/昨日:343)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/23(Thu) 08:40 友引(乙酉)勤労感謝の日 旧暦 10/11 月齢 9.7 凍つ臥せり

老深し花鳥風月皆混沌

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55011] わがのちに残るはゴミの山のみなれば忸怩たるものがある 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/18(Sat) 09:36  

ふひすせよANNEX−Ω   訪問者数:12597275(今日:63/昨日:1438)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/18(Sat) 09:57 先負(庚辰) 旧暦 10/6 月齢 4.7

けふは母の13回忌、いきていれば100歳

父は独眼で100歳、母は片肺で87歳で往生

淡々と生きて天寿全う、いまやわが内なる大いなる星として輝いている

われは両眼、両肺をもって無為徒食の日々

哲学なんかやるもんじゃない、あれはひとをきちがいにする、と母

その哲学だか形而上学だかの妄想にのめりこんで無為徒食

顧みれば小学校の低学年でセンセイに、君たちは世界でかけがえのないただ一人なんですよ、と教わり、さうだ、俺は世界にかけがえないのないただ一人なんだ、とスキップをして帰宅して

そういうかけがえのないただ一人の感慨も、時間がたつ、空間が広がるたびに頽落して、いつも生徒のひとりでOne of themに成り下がり成績をきにして競争して、そしてたとえTop of themになったところでone of themにかわりはないと苦悶が始まり、いよいよ受験戦争の年齢に突入し

高校生で、さういう世の中は夢ではないか、実在しない幻想でではないかと煩悶の時節にデカルトにであい、我あり、と世界が一皮むけて、己が軌道が一段励起して、数学はできても物理ができない現象が突如変化して、数学と物理が結びつき、また一段と軌道が励起

然しながら、そのわれありがまた組織や社会のなかで頽落しはじめ、いったいわれとは何ぞや?組織とは何ぞや、社会とは何ぞや、世界とは何ぞや?

まあ、そんな妄想を重ねたところで憂いにして有為の奥山を超えられるわけもなく不惑のころより無為にして無用人に成り下がり今日に至った

父母はたんたんと有為の日々を100年も送ってそれなりの時局時局場面場面で決断をして生き残り、かつ世間では感謝こそはされこそすれ、軋轢も生まず、幾許かを子孫に残したが、それに比してわがのちに残るはゴミの山のみなれば忸怩たるものがある

もって喪服を着し母の、ひいては父の冥福への供養にそなえよう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55010] 人と人との間にある衣、衣冠装束、地位、職業、ようは関係のみに規定されている己なしの人間のありよう、媒介、言葉もまた間の媒介、西田の「場所」もまた媒介Re:[55009] 意味の転回、音の転回、文字の転回 アラビヤのjin、アラジンのジンね、魔法、もの憑き、憑依するジン、人、神、ジンジンジン などなど妄想連想を逞しくすれば学問ならずもの面白さも真面目もある 神を偏と旁に分解すれば、示して申す 仏を偏と旁に分解すれば、人がおぼろ、まぼろし 語幹のボロは襤褸に通じるか まことにボロボロの、ぼろい、もろい、さういうものを意味の時空で展開してソンザイとなすゾンザイなニンゲンのアリヨウがモンダイなのである アベノミクス、安倍晴明 アブノーマル、アブナイ、アベコベ、アビダルマ、アブク、アブレモノ・・・ 接頭辞のab-は、ラテン語のab-(off, away from) に由来し、「離れて、反対」などを意味する単語を作ります … だうも印欧語のab-は日本語にもきているらしい 考えてみれば当たり前だのクラッカー 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/15(Wed) 11:05  

はきさんうANNEX−Ω   訪問者数:12594406(今日:43/昨日:1221)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/15(Wed) 08:12 赤口(丁丑) 旧暦 10/3 月齢 1.7

Scott Hamilton, Stella by Starlight Track2
http://www.youtube.com/watch?v=x0yCx1MIF4Y

ここ数週間Stella by Starlightがなんだか自然に口杜撰ででてくるのが、ネットでさがすとシナトラにしても間延びがしていてどうも適当なのがない

地中海をクルージングしたステラソラリスと目下の歓心事の形而上底の試行の結果であらう

さういえばゆんべは寝ていても一晩中インティファーダの言葉がでてきたが、夢のなかではインティファーダの意味が不明であってモガイタ

テロリズムとジハード

侵略と防衛

ことばではなんとでもいえるのね

戦争と平和

搾取と還元

甘言にだまされてはいけない

ウクライナとパレスチナの問題には心身が痛むが、岸田の支持率急落には快哉

そてにしても、世論調査の問題意識、調査する側の問題意識が偏頗なのはまことに問題だ

どこか、内政にしろ外政にせい、動きがあれば、それに対して意見を徴する

そういう、動きのもとにある基のところはまず問題提起されない

まことイベントで糊口を潤すマスコミ的、いやさ、皮相の仮言のいい加減さが丸見えで苦笑

世論調査をするのであれば、パペット繰人形の政治屋なんぞ支持率以前にそれらの妄言答弁書、ならびに己肥やしの政策を策定している官僚機構への支持率調査をしたらどうか


国税庁・財務省・・ペケ、最低支持率、国税・財務官僚機構はとっくのとうに解体危機未満であらうがな、あの逆止弁てきな金の流れ、それを取り巻く奸僚役人OBの弁護士税理士どもの有象無象の利権の渦、而して連中は制度の寄生虫にして、ちっとも社会の幸福度や生産性の向上に寄与いていない、畢竟、己が懐こやし、これは己が懐ではのうて、国家の国民の懐ですと妄言甘言を弄するやからが、国税財務官僚機構を軸として群れを成して国税を浪費し、庶民の膏血を食らいまくっておるか!が、その化けの皮が剥がされればみえようというものだが、皮のうえに化粧をほどこして問題を糊塗している

その他の官僚機構もみな似たり寄ったりでいいだせば限がないので、さきにいこう


> よつあろやANNEX−Ω   訪問者数:12591712(今日:25/昨日:1022)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/12(Sun) 06:12 先勝(甲戌) 旧暦 9/29 月齢 28.4


> 言葉のみならず行為もまた表現にして狂言、あるいは狂行でもありうる
>
> 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
>
> さる引の猿と世を経る秋の月 芭蕉
>
> 猿曳の背にねる猿や戻りみち 寸心(西田幾多郎)

この3句はサンクスギビングだね

猿と猿曳の関係

竹斎と芭蕉の関係

キリストとパウロの関係

まあ、よのもろもろの関係をおもわしめられて、いい加減なジャーゴン奇怪な「哲学」よりもよほど世の深層にして真相を穿っている

人は誰でも人間であって、人間こそは人であって、人間なればこそ倫理もある

まあ、これは和辻倫理学の骨法(唐木順三の解釈)であるが、そんなもんはなあ〜んも和辻のみならず、世の古今東西にすてるほどある、仮言仮装にして妄言甘言だね

人は人と人の間に人としてあるから人間というのだと、まさに仮言仮装にして妄言甘言だね

近いところではかの清水哲男の増殖する歳時記の板で歌会を主宰する上智の田中浩と一休の風狂について某甲と論争となったが、その論の素になる引用が某甲は世の通俗本で、田中君のは上智の哲学学術蔵書うんぬんで・・まことに阿呆らしい

このあほらしいのんが晩年だか、岩波文庫の西田幾多郎講演集のあとがきをかいて、はたまたユーチューブにもほとんど眠そうな瞼が閉じる風情で「お説」を垂れていたが、あれぢゃ学生もたまったもんぢゃねえわの、寝たほうがましだ

要は・・

赤肉団上一無位真人

という機鋒も気概もなんもあらせんで、ぬくぬくと衣にくるまり蔵書にうもれた人間のあほらしらのありようね

赤肉団上一無衣真人

位は衣でもある

人と人との間にある衣、衣冠装束、地位、職業、ようは関係のみに規定されている己なしの人間のありよう、媒介、言葉もまた間の媒介、西田の「場所」もまた媒介

そういう西田のいわゆる「無の場所」の自己限定としての個、という概念もまた、また実に悪寒、遺憾装束であると思うが如何

いかんわの、言葉を飾る、衣装を飾る、地位、職業、思想を飾る

畢竟、一無位にして一無衣にして一無畏真人はもとより赤肉団上にも立てない着膨れた雛壇の面々

独坐大雄峰

風狂

天上天下唯我独尊

お釈迦さまはうまれながらにして風狂だったのか

臨済の四料揀(しりょうけん)

「奪境不奪人」(だっきょうふだつにん)の境地ね

勿論これも人と境がわかれた二元論ではのうて「人境倶奪」(にんきょうぐだつ)すなわち空にして無の一環

人(にん)を人(にん)において観ずして人(にん)の間の関係にしかみれぬところの境位の低さ

かつて国際関係論をやると人間が劣悪になると論じたことがあったが、国と国との利害得失ばかりが眼目になって論じておれば人間もそうなる

人間の間にある衣は剥いても剥いてもラッキョウ楽狂の衣

すなわち言葉であり文化であり、親族、民族、教会、信徒、会社、社員、国民、役人、奸僚、国家でもある

畢竟、そういう衣装において人を人間とみる目はそれこそ古代インドでいうマーヤ―、幻、被われてものが見えない盲人、不覚人、不確認

天上天下唯我独尊、赤肉団上一無衣真人、独坐大雄峰、山また山の連なり炳現、千峰万峰を足下に見はるかす人炳現

Stella by Starlight

星また星の連なり炳現

炳現が炳睨になると猊下にして独裁者になるかもしれない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55009] 意味の転回、音の転回、文字の転回 アラビヤのjin、アラジンのジンね、魔法、もの憑き、憑依するジン、人、神、ジンジンジン などなど妄想連想を逞しくすれば学問ならずもの面白さも真面目もある 神を偏と旁に分解すれば、示して申す 仏を偏と旁に分解すれば、人がおぼろ、まぼろし 語幹のボロは襤褸に通じるか まことにボロボロの、ぼろい、もろい、さういうものを意味の時空で展開してソンザイとなすゾンザイなニンゲンのアリヨウがモンダイなのである アベノミクス、安倍晴明 アブノーマル、アブナイ、アベコベ、アビダルマ、アブク、アブレモノ・・・ 接頭辞のab-は、ラテン語のab-(off, away from) に由来し、「離れて、反対」などを意味する単語を作ります … だうも印欧語のab-は日本語にもきているらしい 考えてみれば当たり前だのクラッカー 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/12(Sun) 07:17  

よつあろやANNEX−Ω   訪問者数:12591712(今日:25/昨日:1022)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/12(Sun) 06:12 先勝(甲戌) 旧暦 9/29 月齢 28.4

ひとつの言葉を云おうとすると三つの言葉がそれを打ち消す

打ち消す言葉を云おうとするとそれをまた打ち消すことばが現れる

無限ループ

創造と破壊の永劫回帰

といってしまうとこれもなんだか陳腐で、違う

創造も破壊も言葉であるからには表現にして、はたまた狂言

言葉のみならず行為もまた表現にして狂言、あるいは狂行でもありうる

狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉

さる引の猿と世を経る秋の月 芭蕉

猿曳の背にねる猿や戻りみち 寸心(西田幾多郎)

アベノミクス、安倍晴明 アブノーマル、アブナイ、アベコベ、アビダルマ、アブク、アブレモノ・・・

接頭辞のab-は、ラテン語のab-(off, away from) に由来し、「離れて、反対」などを意味する単語を作ります …

だうも印欧語のab-は日本語にもきているらしい

考えてみれば当たり前だのクラッカー

インド由来の言葉、ひいては考え方や概念は四方八方に拡散した

日本には漢字を通して象形文字の音写で入ってきたものも多かろうが、印度から漢訳するについては漢字の採択は音とともに象形の意味をも慎重に吟味されたと思われる

意味の転回、音の転回、文字の転回

アラビヤのjin、アラジンのジンね、魔法、もの憑き、憑依するジン、人、神、ジンジンジン

などなど妄想連想を逞しくすれば学問ならずもの面白さも真面目もある

神を偏と旁に分解すれば、示して申す

仏を偏と旁に分解すれば、人がおぼろ、まぼろし

語幹のボロは襤褸に通じるか

まことにボロボロの、ぼろい、もろい、さういうものを意味の時空で展開してソンザイとなすゾンザイなニンゲンのアリヨウがモンダイなのである






やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55008] みんな腑抜けさ あの山々を観ろ、人間の原罪という幻をもって洗脳し、はては鞭打って、拷問し、むしり取って、人間を食いつくして、いまだにのうのうと、手を挙げ、人間の、世間の歓声に応えて恥ずかしげもなく、世界中を漫歩している、幻の山がそこここに現成している ありもせぬ存在を存在としてあらしめるまやかしRe:[55007] この世の千教万説の念々の正念誤念無念生念を一歩一歩「ねばならぬ」と呻吟しながら「どうしようもないわたしが歩いてゐる」西田幾多郎、「分け入っても分け入っても青い山」の西田哲学 世の生念正念誤念無念してまた生念正念誤念無念を繰り返すむきにはたまらない魅力なんであらう 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/06(Mon) 10:44  

らさつんそANNEX−Ω   訪問者数:12586170(今日:59/昨日:666)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/06(Mon) 10:05 先勝(戊辰) 旧暦 9/23 月齢 22.4

I Remember Clifford
http://www.youtube.com/watch?v=fKlSBXjqJpM

黄金の面が罅割れた十一面観音が施無畏印と与願印をもって夢に立っていた

> にうんらねANNEX−Ω   訪問者数:12583283(今日:30/昨日:563)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/03(Fri) 08:28 仏滅(乙丑)文化の日 旧暦 9/20 月齢 19.4
>
> Stan Getz and Chet Baker 1983.flv
> http://www.youtube.com/watch?v=0p72L4bMdPA
>
> たっぷりとねて天上大風かもめとぶ
>
> これこれ四半世紀前の句で、ここに挙げておったかと検索したがでてこぬ
>
> でてこぬものをでてこいとあれこれの〜みそをほじくりかえしてみると・・
>
> 念々正念誤念無念生念
>
> 刻々の有時現在而今
>
> 刹那刹那の生死、生老病死
>
> 山また山の連なり炳現
>
> 炳現で検索するもよろし
>
> もろもろの塵埃綺語妄語の連なり、いわば念々正念誤念無念生念の一峰に
>
> [54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41
>
> という記事を挙げて、思へらく・・
>
> 井筒の「意識と本質」「共時的構造」「意識の形而上学」などなとの著作集を一言で云えば・・炳現、にしてかつ、炳睨
>
> 而してその空間的炳現炳睨を時に映して観れば交響曲
>
> 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人は井筒そのひとであり、かつまた、読者ひとりひとりのその人でもある

確かに世界は広がった、だけれども世間は狭くなった

なにしろ死者の残した文字ばかりだからね

生きた人間はどこにいるのだ!

どこにもいやしねえさ


> 千峰万峰の一々は世の千教万説であってそのいちいちの念々にして正念誤念無念生念である

生れて老いて病になり死にいたる

そのまえに狂になるだろ

まあね、病は狂か

狂が病か

狂院と病院と監獄

一望監視塔か

道元の我有時か

井筒の形而上「学」的共時構造か

だれもいないね

> この世の千教万説の念々の正念誤念無念生念を一歩一歩「ねばならぬ」と呻吟しながら「どうしようもないわたしが歩いてゐる」西田幾多郎、「分け入っても分け入っても青い山」の西田哲学

みんな死んだ連中ばかりだ
> そして幾多郎の西田哲学の「歩歩到着」の「山頂」は1937年の「浄土真宗」「皇道」への帰依にして本願寺の猊下殿の「皇道仏教」宣下の1937年と一致している

みんな死には寺場、うむ、詩にはてれば、死に果てれば浄土か

浄土化、そうそう、みんな殺さないかん

生きた人間なんぞいねえわの

> ま、その「歩歩到着」の到着点は念々の誤念無念として無視しても西田幾多郎「分け入っても分け入っても青い山」の山中行脚における西田哲学は念々の生念正念誤念無念にしてまた生念正念誤念無念を繰り返す、まあ、そこが世の生念正念誤念無念してまた生念正念誤念無念を繰り返すむきにはたまらない魅力なんであらう

みんな腑抜けさ

あの山々を観ろ、人間の原罪という幻をもって洗脳し、はては鞭打って、拷問し、むしり取って、人間を食いつくして、いまだにのうのうと、手を挙げ、人間の、世間の歓声に応えて恥ずかしげもなく、世界中を漫歩している、幻の山がそこここに現成している

ありもせぬ存在を存在としてあらしめるまやかし

まやかしはマーヤより来た

マーヤにまよう

MY子音語幹の千変万化

生きた人間なんぞいやしねえ

せめて死んだふりして生きてみようぢゃねえか

生きたふりして死んでみようぢゃねえか

みようも名も見ようも妙にして冥なもんだね

ああ様々なクりフォードを思い出すなあ

繰りフォードは、繰りフォワード、一歩一歩歩歩到着せぬ一歩一歩

時々刻々の生死

不思議なもんだな、わが身体の進退も

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55007] この世の千教万説の念々の正念誤念無念生念を一歩一歩「ねばならぬ」と呻吟しながら「どうしようもないわたしが歩いてゐる」西田幾多郎、「分け入っても分け入っても青い山」の西田哲学 世の生念正念誤念無念してまた生念正念誤念無念を繰り返すむきにはたまらない魅力なんであらう 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/03(Fri) 09:19  

にうんらねANNEX−Ω   訪問者数:12583283(今日:30/昨日:563)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/11/03(Fri) 08:28 仏滅(乙丑)文化の日 旧暦 9/20 月齢 19.4

Stan Getz and Chet Baker 1983.flv
http://www.youtube.com/watch?v=0p72L4bMdPA

たっぷりとねて天上大風かもめとぶ

これこれ四半世紀前の句で、ここに挙げておったかと検索したがでてこぬ

でてこぬものをでてこいとあれこれの〜みそをほじくりかえしてみると・・

念々正念誤念無念生念

刻々の有時現在而今

刹那刹那の生死、生老病死

山また山の連なり炳現

炳現で検索するもよろし

もろもろの塵埃綺語妄語の連なり、いわば念々正念誤念無念生念の一峰に

[54851] 高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人。Re:[54846] いくら日常言語的な経歴があろうが経歴(きょうりゃく)の貧弱なもんは美味しくもないし栄養にもならぬ 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/03/12(Sat) 21:41

という記事を挙げて、思へらく・・

井筒の「意識と本質」「共時的構造」「意識の形而上学」などなとの著作集を一言で云えば・・炳現、にしてかつ、炳睨

而してその空間的炳現炳睨を時に映して観れば交響曲

高々たる山頂に立って、千峰万峰を足下に見はるかす人は井筒そのひとであり、かつまた、読者ひとりひとりのその人でもある

千峰万峰の一々は世の千教万説であってそのいちいちの念々にして正念誤念無念生念である

この世の千教万説の念々の正念誤念無念生念を一歩一歩「ねばならぬ」と呻吟しながら「どうしようもないわたしが歩いてゐる」西田幾多郎、「分け入っても分け入っても青い山」の西田哲学

そして幾多郎の西田哲学の「歩歩到着」の「山頂」は1937年の「浄土真宗」「皇道」への帰依にして本願寺の猊下殿の「皇道仏教」宣下の1937年と一致している

ま、その「歩歩到着」の到着点は念々の誤念無念として無視しても西田幾多郎「分け入っても分け入っても青い山」の山中行脚における西田哲学は念々の生念正念誤念無念にしてまた生念正念誤念無念を繰り返す、まあ、そこが世の生念正念誤念無念してまた生念正念誤念無念を繰り返すむきにはたまらない魅力なんであらう





やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55006] 自らの醜悪を隠す隠れ蓑でしょ、ジャニーズ報道!ビッグモータ報道もおなじですね、みんな醜悪ですね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/10/29(Sun) 09:33  

ぬけろてろANNEX−Ω   訪問者数:12578789(今日:360/昨日:551)大安(庚申)
投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/10/29(Sat) 08:27 旧暦 9/15 月齢 14.4 満月(5時) 望 抜けろテロ

最近もテロリズムという言葉がマスコミをにぎわしているが、テロとはそもそもがテロスであって、終末の意味、かの天地創造に対するアポカリプス、観ようによってはビッグバンと涅槃

1週間ほどまえ、雨もよいの予報をC40カーボンフレーム+セラミックリムで雨対策をしつつ夕暮れのなかをいつものコースを走って観音様にお参りをして、さてその先へと坂を上り始めたら、ガタガタ、後輪パンク、土手の壁に車体を架けてチューブ交換を始めたら突然驟雨、周りにいた散歩者も各々頭に手をかざして去っていくなか、手早くチューブ交換を終えてそのまま踵を返して帰路につき、10kmほど走って暮れなずむ古甲州街道の貝殻橋への下り坂で違和感、橋上でまたガタガタ、渡り終えて止まってみれば、またパンク、ベンチにいた見知らぬ爺さんへ、なんてこったぁ、アサヒさま、アサヒさま、と唱えて・・

パンク修理のコツは、やすり掛けと乗りの乾き具合につきます、あれ、これはタイヤの外傷が裏側まで、これでは、チューブを新しくしようが修理しようが、またパンクしますよ、ほれ、このガムテープ、タイヤの裏にはって、あと8km?ならたぶんガムテープで大丈夫でしょう

ここの店長に晴海君とうのんがいて、えろう性格のいいやつで、こいつぁえらくなる、とおもったら、やっぱし、役員になったねぇ

役員ぢゃありませんよ、監査役

なぬ、監査役だってやくいんだらうが・・

もうでも、それは15年以上前のことでしょ

さうさう、ここの店前の幹線道路でさ、オートバイが車にぶつけられて転倒し、救急車とパトカー、オートバイのけが人は救急車で、クルマは赤切符をきれていなくなって、さて後には事故の破片が散乱、晴海君が店員をみんな呼び集めて、箒と塵取りをもって道路の飛び出し、散乱した事故の後日付、白バイの阿呆警官はタバコをふかして見守るだけ

おめえ、こそ掃除せいやぁ、なぬも事故をで小遣いを稼ぎおわったからとタバコを吹かしてみているバカがどこにおる!といってあげたらは、バカは白バイにのって消えてしまった

ミヤタのランドナー、前後の荷台取り付け、ロードバイクや長谷川や、ツバサの専門店なら、万単位のところ、ママチャリ屋では、ママチャリ荷台取り付け工賃のタリフしかないので、数千円しかとれません、かててくわて、ブレーキの千鳥は前後が逆ですね、この泥除けフェンダーもだから余分な穴をあけてある、曲がっている、みんな直しておきました

ま、さいう店長が薫陶をのこした店では15年後でも店員が親切なんでせうね

さういや、君、年食ってますます、顔が冴えてきた、人相がよくなってきたね

ありがたうございます

おらあ、人間には二種類あると思う、年食って人相によくなるやつと悪くなる奴

そりゃあ、もとの若い時の人相が悪ければ、年食ってよくなるしかありませんから・・

こらほが子供のころ近所いちの醜悪な人相のおばさんがおって、おばさんの子供は青洟たらしておっての

わたしは青洟はたらしておりませんでしたが・・

そのおばさんが太鼓叩いて近所へ折伏、ますますいやだ

ありましたの

そのうち折伏も止んで人がどこからともなく集まりだしてバラックが民間道場へ

民間道場になれば道場お手当もでるですかね、家運が盛り返した?

立派なプレハブに建て替えて、ますます人の出入りがはげしくなって、おばさんは教団の相当な幹部へなったやうな

仏壇を100万円で売りつけた?

ま、さういうことはどこにでもあるでしょうよ、ところでそのおばさん、折伏のころはいざしらず、晩年には乳母車を押して道であっても、人をほめるばかりで、悪口をいっさいいわない、なんか人相が格段によなってきて、あるときぽっくり死んでしまった

この顔をみやってくださまし、こんな美しいかぁちゃんは見たことがありません

連れ合いの爺さんが枕元でいうのですね、確かに綺麗だ、死に化粧以上のものが遺体からただよっていた

人間お化粧ぢゃないのですね、内面は外面にあらわれる?

あらわれんで、だうしようぞ!

最近、三井のすゞちゃんてのがよくでてきますが、あれは女陰顔ですね

西行の女院ぢゃなうて女陰か?

西行なら西行庵でしょ、でもすゞちゃんは三井不動産

ま、女陰貌の女なんちゅもんもそっこらぢゅうにおるわの

男根貌の男も?

そら、あたりまえでんがな

さういう人たちはと年食ってどんな顔になるんでせう?

女陰も男根も萎びる

テレビを観てても、世間をみててもよくわかります

なぬが、ジャーニーズぢゃ!

さうぢゃ、さうぢゃ、少年への性犯罪をわめきたてるマスコミが、少女への性犯罪へはだんまり

だうなってんでせう?

自らの醜悪を隠す隠れ蓑でしょ、ジャニーズ報道!

ビッグモータ報道もおなじですね、みんな醜悪ですね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55005] 西田の「哲学」がジャーゴンで奇怪なる言葉の羅列にして、井筒の「形而上学」がまことに華麗なる詩にしてイマージュ、交響曲にしても 井筒の「形而上学」は西田のジャーゴンにして奇怪なる言葉、さらにはその酔って、由ってきたる元のコトバを華麗なる詩にしてイマージュ化、交響曲化した その片鱗は「絶対無」などのそこここの共通術語概念にまことに露わである 而して、西田の「哲学」の「場」にしても、井筒の「形而上学」の東洋思想の「共時的構造化」の「フィールド」や「構造」にしても、ともにまことに空間的であるRe:[55004] 西田カルチャー西武線Re:[55003] 解るということもまた妄想であるRe:[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/10/17(Tue) 10:56  

あはすんおANNEX−Ω   訪問者数:12568991(今日:776/昨日:1130)大安(戊申)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/10/17(Tue) 09:25 旧暦 9/3 月齢 2.4

最近老人は蝋人ではないか、と日々感じる

昨日は寝て寝て寝てまた寝て、寝苦しい、老にして蝋が身に纏わり付く

風呂にへえって蝋も老も洗い流せばさっぱりするもんの、風呂にへえる気力もなく

馬鹿馬鹿しいTVなんども見るに反吐を催し

罪あがった、ああ、積みあがった本、ひっさしぶりに書斎に上がってみれば、鉄骨の本棚が無残に歪み、いまにも傾いで倒れそう、集成材の本棚の棚はたわんで二重にいれこんだ書列がずり落ちかかり、頭上の水墨画の額縁は外れて入口に墜ちかかり、いつ死んでも可笑しくない

> あゆえかもANNEX−Ω   訪問者数:12553193(今日:893/昨日:1825) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/09/29(Fri) 18:30 仏滅(庚寅) 旧暦 8/15 月齢 14.1 満月(17時)・十五夜 望 阿(字観=時間)ゆえかも

空海を思い出すね、月輪観、阿字観

世界は己の外にあるのか、内にあるのか

己の外の世界を、己の内に・・というか、世界を呑み込む己

大日如来にして即身成仏

胎を割って観れば胎蔵界曼陀羅、吐き出して観れば金剛界曼荼羅

> だうも西武鉄道ちうのんは、西田哲学めいて頭が混乱する

中央線東京行きに乗って西国分寺で武蔵野線に乗り換えるとこれがまた東京行き

だうなってんや?と路線図によって目を凝らせば、なるほどと武蔵野線が京葉線に乗り入れて終点東京とや

まあ、どこもかしこも似たようなもんで、おのぼりさんには混乱の極み
>
> 過日顔が変形するほどに歯根が痛んで、もともと金歯の中身が割れていたものを抜歯に背中に西田「善の研究」をつっこんで、それというのんも、文庫本で厚さがちょうどよい、「自覚について」では厚すぎる、数年ぶりに読み返して所沢
>
> 同じ方向の都心、池袋・新宿方面が所沢で乗り換えると逆方向にすすむ
>
> だうも、ボケてきたのか、方向感覚が掴めぬ
>
> 西武線も悪いが西田も悪い
>
> あの今は引退した傲慢ワンマンの堤義明のやりかたか、全然高架化もすすまず、危ない踏切ちんちん電車で限もなく乗り換えが多い、なんか西田哲学に似ている
>
> 久しぶりに乗って読んでやっぱし、こりゃあ、カルト思想に通底するところが顕著ぢゃわい、と

原理主義ね

> 西田カルチャー西武線
>
> なにしろ「考究の出発点」が「真の実在」で「唯一実在」「実在としての神」なんだから、ね

西田原理主義

「衝突」と「統一」、いかにも空間的だ

> 堤義明くんだりが後宮の出発点を所沢にするんとはわけがちゃうわ、の

統一教会

> くだりだか、のぼりだか、わけのわからんたわごとと電車が行き交う

なにも文鮮明の統一教会ばかりでのうて、古来の宗派宗教、ユダヤ基督イスラームの一神教は、「衝突」と「統一」の繰り返し


> あ〜んして一時間
>
> 腐った歯根の半分の根っこの先端だけが白くて、あとはくだけた腐った血の色
>
> 頭のところでやたらに風が吹き
>
> ハイ、はめてみてください、普通はここまでやらんのですけど、ね
>
> あらま、嵌めていた古い入歯に新しい歯が一本短時間に生えていて、それをつつむ歯茎もスムースで、まことめでたくも歯抜けの穴をちゃんと覆ってくれている、エクセレント♪
>
> それにすても一本の歯の「存在」を廃棄処分にすると、その金歯が何グラムで、金買いますグラム9480円とか、買取看板が西武線沿線にあったが、ここはエクセレント♪に免じて時間、空間、さらには金歯の「存在」も撥撫しよう
>
> すっかす、歯が一本なくなればそれだけ死に近づくね
>
> そりゃ、そうです、生老病死、一本死んで失ったのですから・・お口は命の出入り口
>
> これはの、まあ、空間と時間のパラダイムがあるからこその抜歯である
>
> そしてその間において歯間が生じた
>
> せいぜい歯磨きは粉抜きの歯ブラシ歯間ブラシにしておいてね
>
> 虚空の穴をガラガラしてはいけませんよ

穴を塞いでいるのは血餅、これががらがらでとんでしまっては、穴が塞がらない

抜歯の抜糸

大穴が一週間で小穴に、穴不思議

ダイアナがオケツに、こんだあよくガラガラしてください

> > 空間と時間のパラダイムの拘束を撥撫することはよいぢゃあねえわの
>
> 照見五蘊皆空
>
> そして、その抜死と共に時間も空間も消失した

大死一番も体肢一番も大師一番もどこにでもころがっている

> > 空間は排他的である
> >
> > 時間は包摂的である
> >
> > 空間は目であり、時間は耳である
> >
> > 目ができたから空間ができ、耳ができたから時間ができた

耳が先か、目が先か

そりゃあ、耳でしょう

なんせ、振動を感じる、触感から音感へなんだから

光も振動でしょ

そんなことは、ずっとあとに脳みそが考えたことだ!

> > 言葉はもと時間である
> >
> > その音声が空間化して文字となった
> >
> > 空間化した文字となって時間を超えた
> >
> > 空間は排他的である
> >
> > 文明は空間的である
> >
> > 宗教は時間的である
>
> 音と光に発し
>
> > 時間が空間化し、宗教でさえ空間化した
>
> 大伽藍化偶像化した
>
> > 宗教の空間化が哲学である
>
> 体系化偶像化した
>
> > 時間の空間化が「存在」を生んだ

存在被拘束性

存在飛光速性

存在を拘束するものは存在である

空間の排他性、排除性

衝突と統一の陶酔にして統帥

> 西田カルチャー西武線
>
> > 西田のそもそもの発想、なんでもわかろうとするその発想がそのものが時間・空間にとらわれた煩悩の塊そのものであらう
>
> とても無字の公案に取り組んだとも思われぬ
>
> 狗子に仏性ありやなしや
>
> 無
>
> これを西田に課した老師が、寸心の号を授けたことも肯ける
>
> 狗子にも仏性にも拘束されつづけた西田にして西田哲学がその結果ね
>
> > 現代宇宙物理でわかっていることはせいぜい5%であって、95%はブラックマターとブラックエナジーだと

これは放送大学、現代宇宙物理のアーカイブ

> > 人体の宇宙でわかっていることはせいぜい10%であって、90%はわからないと

これはNHKスペシャルの人体の宇宙、再生医療ノーベル賞学者の謂いにタモリが頷く

> > 5%や10%というパーセンテージですらいい加減な謂いである

あきれちゃうね

> 要は全体がわからんでも、わかっていることの%を云々できるの〜てんきな脳味噌

宇宙、世界を呑み込んで分かったつもりの空海はどこにでもいるのね

> > 曰く、不可解
> >
> > 不可解なれば自殺をするのも愚の骨頂
> >
> > 不可解なればこそ生きる楽しみもあらうというものである
> >
> > 解るということもまた妄想である

ネアンデルタール人はホモサピエンスより体躯も脳も大きかった

そのネアンデルタール人は滅び、矮小なるホモサピエンスが生き残った

その決定的な差は、空間認識能力にホモサピエンスが秀でたからという、これもまた最近だかアーカイブだかのNHK

して、その遺伝子解析をした結果、ネアンデルタールの一個の遺伝子AがホモサピエンスではTに変わっていたと

なんで、AがTに変わると空間認識にすぐれるのか?

わからないことだらけだ、ぜんぜんわかっていない

> すべて不可解を解ろうとする涙ぐましい煩悩の方便にして仮構である

西田の「哲学」がジャーゴンで奇怪なる言葉の羅列にして、井筒の「形而上学」がまことに華麗なる詩にしてイマージュ、交響曲にしても

井筒の「形而上学」は西田のジャーゴンにして奇怪なる言葉、さらにはその酔って、由ってきたる元のコトバを華麗なる詩にしてイマージュ化、交響曲化した

その片鱗は「絶対無」などのそこここの共通術語概念にまことに露わである

而して、西田の「哲学」の「場」にしても、井筒の「形而上学」の東洋思想の「共時的構造化」の「フィールド」や「構造」にしても、ともにまことに空間的である


> > > 妄想はつづく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55004] 西田カルチャー西武線Re:[55003] 解るということもまた妄想であるRe:[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/09/29(Fri) 21:15  

あゆえかもANNEX−Ω   訪問者数:12553193(今日:893/昨日:1825) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/09/29(Fri) 18:30 仏滅(庚寅) 旧暦 8/15 月齢 14.1 満月(17時)・十五夜 望 阿(字観=時間)ゆえかも

だうも西武鉄道ちうのんは、西田哲学めいて頭が混乱する

過日顔が変形するほどに歯根が痛んで、もともと金歯の中身が割れていたものを抜歯に背中に西田「善の研究」をつっこんで、それというのんも、文庫本で厚さがちょうどよい、「自覚について」では厚すぎる、数年ぶりに読み返して所沢

同じ方向の都心、池袋・新宿方面が所沢で乗り換えると逆方向にすすむ

だうも、ボケてきたのか、方向感覚が掴めぬ

西武線も悪いが西田も悪い

あの今は引退した傲慢ワンマンの堤義明のやりかたか、全然高架化もすすまず、危ない踏切ちんちん電車で限もなく乗り換えが多い、なんか西田哲学に似ている

久しぶりに乗って読んでやっぱし、こりゃあ、カルト思想に通底するところが顕著ぢゃわい、と

西田カルチャー西武線

なにしろ「考究の出発点」が「真の実在」で「唯一実在」「実在としての神」なんだから、ね

堤義明くんだりが後宮の出発点を所沢にするんとはわけがちゃうわ、の

くだりだか、のぼりだか、わけのわからんたわごとと電車が行き交う

あ〜んして一時間

腐った歯根の半分の根っこの先端だけが白くて、あとはくだけた腐った血の色

頭のところでやたらに風が吹き

ハイ、はめてみてください、普通はここまでやらんのですけど、ね

あらま、嵌めていた古い入歯に新しい歯が一本短時間に生えていて、それをつつむ歯茎もスムースで、まことめでたくも歯抜けの穴をちゃんと覆ってくれている、エクセレント♪

それにすても一本の歯の「存在」を廃棄処分にすると、その金歯が何グラムで、金買いますグラム9480円とか、買取看板が西武線沿線にあったが、ここはエクセレント♪に免じて時間、空間、さらには金歯の「存在」も撥撫しよう

すっかす、歯が一本なくなればそれだけ死に近づくね

そりゃ、そうです、生老病死、一本死んで失ったのですから・・お口は命の出入り口

これはの、まあ、空間と時間のパラダイムがあるからこその抜歯である

そしてその間において歯間が生じた

せいぜい歯磨きは粉抜きの歯ブラシ歯間ブラシにしておいてね

虚空の穴をガラガラしてはいけませんよ

> 空間と時間のパラダイムの拘束を撥撫することはよいぢゃあねえわの

照見五蘊皆空

そして、その抜死と共に時間も空間も消失した

> 空間は排他的である
>
> 時間は包摂的である
>
> 空間は目であり、時間は耳である
>
> 目ができたから空間ができ、耳ができたから時間ができた
>
> 言葉はもと時間である
>
> その音声が空間化して文字となった
>
> 空間化した文字となって時間を超えた
>
> 空間は排他的である
>
> 文明は空間的である
>
> 宗教は時間的である

音と光に発し

> 時間が空間化し、宗教でさえ空間化した

大伽藍化偶像化した

> 宗教の空間化が哲学である

体系化偶像化した

> 時間の空間化が「存在」を生んだ

西田カルチャー西武線

> 西田のそもそもの発想、なんでもわかろうとするその発想がそのものが時間・空間にとらわれた煩悩の塊そのものであらう

とても無字の公案に取り組んだとも思われぬ

狗子に仏性ありやなしや



これを西田に課した老師が、寸心の号を授けたことも肯ける

狗子にも仏性にも拘束されつづけた西田にして西田哲学がその結果ね

> 現代宇宙物理でわかっていることはせいぜい5%であって、95%はブラックマターとブラックエナジーだと
>
> 人体の宇宙でわかっていることはせいぜい10%であって、90%はわからないと
>
> 5%や10%というパーセンテージですらいい加減な謂いである

要は全体がわからんでも、わかっていることの%を云々できるの〜てんきな脳味噌

> 曰く、不可解
>
> 不可解なれば自殺をするのも愚の骨頂
>
> 不可解なればこそ生きる楽しみもあらうというものである
>
> 解るということもまた妄想である

すべて不可解を解ろうとする涙ぐましい煩悩の方便にして仮構である

> > 妄想はつづく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55003] 解るということもまた妄想であるRe:[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/09/24(Sun) 12:14  

ちふくいうfANNEX−Ω   訪問者数:12541913(今日:423/昨日:497)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/09/24(Sun) 11:12 大安(乙酉) 旧暦 8/10 月齢 9.1

なにかをつかみかかってはきえてしまう。秋天の青に赤とんぼのつがいがつらなって飛んでいく、久しぶりに爽やかな朝タバコ5,6本をチェーン喫いして、つかめぬもの、きえゆくものでも、その破片の一片を記しておくことも、まあ、よかれ、と・・

> ろねやりゆANNEX−Ω   訪問者数:12370916(今日:174/昨日:449)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/16(Sun) 10:45 先負(甲辰) 旧暦 ※閏2/26 月齢 25.4
>
> 妄想をひとつ申そう
>
> 無からビッグバンによって空間と時間が生じた

これはの、まあ、空間と時間のパラダイムがあるからこそのビッグバンである

> そしてその間において人間が生じた

空間と時間のパラダイムの拘束を撥撫することはよいぢゃあねえわの

> そして、その人間の死と共に時間も空間も消失した

その時空人の「間」、一体「間」とは?

> 無
>
> 無は時空ともどもの無であって、無というものがあるのではない

「存在」という概念、「がある」と「である」の「ある」「なし」

「事実存」と「本質存在」、いづれにしても「存在」だ

「存在」は存在しないが、「存在者」は存在するとか

「存在」を撥撫した哲学にはまずはお目にかかれない

「存在」を撥撫しようとする思想にはあちこちでお目にかかれる

すべて断片で破片で一片にすぎぬ

空間は排他的である

時間は包摂的である

空間は目であり、時間は耳である

目ができたから空間ができ、耳ができたから時間ができた

言葉はもと時間である

その音声が空間化して文字となった

空間化した文字となって時間を超えた

空間は排他的である

文明は空間的である

宗教は時間的である

時間が空間化し、宗教でさえ空間化した

宗教の空間化が哲学である

時間の空間化が「存在」を生んだ

> 一方、自我というものは、空間、時間に縁る(縁起)、依る(依他起性)、由る(自由)
>
> そこで間を消失することが苦となる
>
> いやさ間を生じることさえ苦の種となる

「間」とはいったいなんであらうか

時に間はあったのであらうか

時が空間化して時間がうまれた


> むっかし、むっかし、かのもろもろの講演者や論説者どもが、「立場」「立場」を連発するのに苦言を呈した
>
> そんな「立場」に立脚した講演や論説は聞きたくも読みたくもない
>
> 人間すべからく「立場」脱却してものを云え
>
> 存在被拘束性(マンハイム)
>
> これこそ「立場」であらう、「場所」であらう
>
> 而して、その「立場」も「場所」も千変万化とはいわぬも七変化、場合によってはなくなってしまう
>
> 「立場」がない、と苦に落ち込む
>
> 過日、NHKでどっかの哲学坊やが悩める声優の苦への脱却を説いて、具体的他者に対して軸をもちなさい、さすれば苦も悩みも脱却できるとどっかの西欧哲学者の言を引用して得意げに云って、それを聴き受けた悩めるものの声優が、お聴きして悩みが軽くなった、元気がでてきた、と・・
>
> わはは、呵々大笑
>
> なんとまあ、NHKも哲学者のお兄ちゃんも馬鹿なことをやっておるんか
>
> もっともそれが馬鹿なことではのうて、世の常在にして錠剤、浄罪なんだわの
>
> 他者に対する軸の「存在」を多謝して、悩みが軽くなって、元気がでてきた、としても、そんなもんは、すぐにどっかに吹っ飛んでしまう
>
> 千変万化、七変化、「他者」に対する「軸」「立場」「場所」がかわれば、軸もなく、立場もなく、居場所もなくて、また落ち込むのんがせいぜいのところ
>
> 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである
>
> この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である
>
> なれば、だうするか?
>
> 「他者」「軸」「立場」「場所」を撥撫するか?
>
> 永遠不変の「他者」「軸」「立場」「場所」に目覚めればよいか?

ものごとをわかろうとするのは人間の本能か

西田のそもそもの発想、なんでもわかろうとするその発想がそのものが時間・空間にとらわれた煩悩の塊そのものであらう

現代宇宙物理でわかっていることはせいぜい5%であって、95%はブラックマターとブラックエナジーだと

人体の宇宙でわかっていることはせいぜい10%であって、90%はわからないと

5%や10%というパーセンテージですらいい加減な謂いである

曰く、不可解

不可解なれば自殺をするのも愚の骨頂

不可解なればこそ生きる楽しみもあらうというものである

解るということもまた妄想である

> 妄想はつづく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55002] そもそもが、聖徳太子が突厥、あの時代の半島三国からの渡来民、半島の習慣として血族血筋がうるさくいがみ合う古代に半島三国を「超越」した突厥の聖徳太子が「和をもって貴し」となし・・半島三国外だから、太子に終わって天皇のならんなれんかった聖徳太子説など、はたまたその後の坂口安吾の「源・平、新羅・百済」説などまことに興味深く感じる某甲なれば、べつに安倍が朝鮮人だからといって差別感情などはだうもかうもないが、ことのなりゆきに関してはあれこれとの整合性にはガッテンがいくRe:[55001] 根っこは同じRe:[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/07/31(Mon) 19:20  

> > 妄想はつづく

炎天下妄想つづく昼の月

たわかんでANNEX−Ω   訪問者数:12491051(今日:1637/昨日:617) 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/07/31(Mon) 12:06 先勝(庚寅) 旧暦 6/14 月齢 13.4

午後6時の透ける白月が午前2時には倦んだ卵のごとく富士の雲へ落ちた

> ろんぬらしANNEX−Ω   訪問者数:12478337(今日:285/昨日:263)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/07/18(Tue) 08:16 赤口(丁丑) 旧暦 6/1 月齢 0.4 新月 朔 論濡らし

蟻散れり蝉の骸を蹴飛ばせば

バラバラ事件蝉の肢体と蟻の群

> ここのところ報道でなりをひそめていた統一教会問題が安倍暗殺1周年であらためてぞろまた思い出したやうにでてきている。

仰向けの蝉に末期の水を遣る

一周忌を過ぎればもう安倍統一教会問題は棚上げされて目下は札幌精神科医娘父母の首伐り事件とBIGMOTOR事件がもっぱらで残念無念

継続こそ力なりで一過性の野次馬報道では報道の報道たる基に悖るわいの

ことBIGMOTOR問題はBIGMOTORだけのトカゲの尻尾切で終わらせてはいけない

ここには、行政官僚機構とそれにひっ絡んだ損保、車検業界の癒着問題があるわけで、その膿を抉らねばならぬが、果たしてマスコミはマズゴミ報道を脱却でけるか

そもそもこのBIGMOTORですらルーツは山口県岩国市で、こういう専制的なマヤカシは、政治にせいビジネスにせい安倍君、いやさ、もとをたどれば岸、佐藤兄弟を含めてあのあたりの得意技ぢゃわいの

> 思えばプーチン露西亜問題、オーム真理教問題、原爆問題、ナチス問題、天皇神権問題、バチカン法王問題、西田幾多郎思想問題、みんなおなじ深層の要素をもっているのだが、だうも思い出したようにあぶくのごとく浮かんできては皮相な議論で終わってしまうからいつまでたっても同じことの繰り返しだ

かつて田中角栄の研究を立花隆がやったが、金権どころの沙汰ではない専制の岸・安倍
政治の研究をやるほどの読経、うむ、度胸のあるジャーナリスト、思想家、哲学者、政治学者はおらんもんか?

最近「安倍政治の決算という安倍晋三特集を岩波の「世界」が8月号で出したところ早くも『2023年7月18日 · ツイッター、安倍晋三特集をした岩波「世界」のアカウントを凍結してしまう「言論の自由無視? 」出版界に激震 「世界」編集部アカウント凍結 恐ろしい …』

バラバラ事件といい、蝉のなきがらといい、あんまり啼くと消されてしまうのがこわいのでしょうね


西田幾多郎も権力とベッタリ、京都学派の面々が、あの大東亜戦争に幾多郎君が反対していたと幾多郎の私的書簡をもとに指摘言い訳けしているが、よく読んでみれば、負けるから反対しているだけで、まったく哲学者思想家らしからぬ皮相な反対にすぎぬ西田哲学京都学派の諸君ぢゃわの

ところで、なでしこジャパン対西班牙戦4:0で快勝♪

西田に戻れば、当時の首相の近衛家と学習院の縁でべったりで家も世話されれば京大助教授職も文化勲章も・・

この手口はまことに京都に多く、やや毛色の変わった梅原猛も『熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教は一神教より本質的に「寛容であり優れている」と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え[注 1]、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。』の機縁でまたまた文化勲章

こういう手合い、梅原の「日本冒険」異界談にしてスーパー歌舞伎で市川猿之助自殺、異界が身近で「あちらにみんなでいきませう」か

やんなっちゃうねえ

安倍政治の研究で検索してみたら、こんなのがでてきた。むっかしの週刊朝日の記事らしいが一部引用すれば・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

安倍首相自ら「私は朝鮮人だ」!岸&安倍の家政婦「安倍家の起源は渤海(パルヘ)」証言
安倍は朝鮮人
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安倍晋太郎が「私は朝鮮人だ」と言っていた、との重大証言が見つかった。岸と安倍40年の家門家政婦の証言として、安倍家で「安倍家の起源は渤海(パルヘ)」と語られていたという。その内容は雑誌インタビューに掲載され2006年9月話題になっていた。

証言の要約(敬称略)
安倍家に40年務めた家政婦が証言
安倍晋三の父・安倍晋太郎が語っていた衝撃的な内容
安倍晋太郎は自ら「私は朝鮮だ。朝鮮」と家政婦だけに話した
雑誌「週刊朝日」は独自に、安倍家の起源は韓国〜中国にかけて存在した国「渤海」と推察
「週刊朝日」の記事を、統一協会機関紙「世界日報」が引用し報道。事実上、統一教会の公式見解へ。
韓国主要紙「中央日報」も報じた。

云々

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http://www.moong.info/2018/12/21/abe-korean/

そもそもが、聖徳太子が突厥、あの時代の半島三国からの渡来民、半島の習慣として血族血筋がうるさくいがみ合う古代に半島三国を「超越」した突厥の聖徳太子が「和をもって貴し」となし・・半島三国外だから、太子に終わって天皇のならんなれんかった聖徳太子説など、はたまたその後の坂口安吾の「源・平、新羅・百済」説などまことに興味深く感じる某甲なれば、べつに安倍が朝鮮人だからといって差別感情などはだうもかうもないが、ことのなりゆきに関してはあれこれとの整合性にはガッテンがいく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55001] 根っこは同じRe:[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/07/18(Tue) 08:40  

> 妄想はつづく

ろんぬらしANNEX−Ω   訪問者数:12478337(今日:285/昨日:263)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/07/18(Tue) 08:16 赤口(丁丑) 旧暦 6/1 月齢 0.4 新月 朔 論濡らし

ここのところ報道でなりをひそめていた統一教会問題が安倍暗殺1周年であらためてぞろまた思い出したやうにでてきている。

思えばプーチン露西亜問題、オーム真理教問題、原爆問題、ナチス問題、天皇神権問題、バチカン法王問題、西田幾多郎思想問題、みんなおなじ深層の要素をもっているのだが、だうも思い出したようにあぶくのごとく浮かんできては皮相な議論で終わってしまうからいつまでたっても同じことの繰り返しだ

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https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%97%A7%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%91%BD%E4%BB%A4%E8%AB%8B%E6%B1%82%E3%81%AF%E4%BB%8A%E5%A4%8F%E3%81%AB%E3%82%82%E5%87%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B-%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E6%B3%A8%E8%A6%96%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E5%A4%A7%E7%89%A9%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE-%E7%99%BA%E8%A8%80/ar-AA1dWQT6?ocid=msedgntp&cvid=80e0aecaee944c13814c9c46a84cc151&ei=17


旧統一教会に対する解散命令請求は今夏にも出される…その時注視すべき大物政治家たちの「発言」
週刊現代 によるストーリー • 昨日 6:00

人生に追い詰められたうえでの凶行か。それとも、社会を変えることまで緻密に計算していたのか。事件に残された最大の謎である「山上徹也の動機」に、気鋭のジャーナリスト鈴木エイトが徹底取材で迫る。

前編記事『安倍元首相銃撃事件・最大の謎「なぜターゲットは安倍晋三だったのか」…山上徹也が記事の熱心な読者だったジャーナリストが辿り着いた「答え」』より続く。

公判ですべてを語る
今後の注目は、いつ公判が始まり争点がどうなるかだ。公判開始までのポイントについても示しておこう。

公判前整理手続が継続して行われるなかで、争点整理がなされていく。犯罪事実、山上の行為自体に争う点はなく焦点は動機となる。弁護側は山上の主張に関連する証拠を集めて方針を固め、人証採用や公判日程が決まっていくことになる。

公判前整理手続にはまだ相当期間かかると見られており、公判の開始は来年からとなる見込みだ。

この裁判には私も関わることになるだろう。山上を擁護するためではない。彼の動機を正確に裁判員へ提示したうえで、適切な量刑判断が下されるべきだと思うからだ。

山上は、自身が背負わされた”被害”を助長してきたのが、安倍晋三であると認識していたはずだ。教団を規制すべき立場である政治家が、逆にその体制保護に寄与し被害者を見捨ててきた。その憤りが両者の共存・共栄関係の構図の中心にいた安倍に向かった可能性があるのだ。

彼がそう認識するに至った根拠が私の書いてきた記事であるのならば、私にはその根拠を公判で示す責任がある。これまで事実を基に記事を書き、その判断は読者に委ねてきた。同様に判断を委ねるため、裁判員に事実を提示することが私の責任の取り方だと思っている。

事件後変わったこと、変わらないこと
山上は、裁判ですべてを語るという。ここまで間接的ながらやり取りしてきた私は、彼に対して理知的な人物であるという印象を持っている。はたして、山上徹也とは何者だったのか。すべては法廷で明らかになるだろう。

公判が開かれるのにはまだ時間がかかる一方で、山上が起こした事件によってさまざまなものが可視化されたことは間違いない。ここからは事件から1年で変わったこと、そして変わらないことについて記していきたい。

多くの人が衝撃を受けたのは、統一教会の金銭被害が継続しており、2世などのセカンドジェネレーションの問題が放置されていたことに加え、そのような反社会的な教団を規制すべき立場であるはずの政治家が密接な関係を持っていたことだった。


これらは是正されたのか。まず、教団による金銭被害の最たるものである献金問題については、『法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律(不当寄附勧誘防止法)』が昨年12月に国会で成立し、一歩前進したと言える。

一方で教団側の対応は欺瞞的だ。田中富広日本会長は、6月から再開する予定だった韓国への送金を取りやめると共同通信の取材に答えている。だが、実際には6月下旬から順次日本の幹部や公職者を研修名目で渡韓させ現金を運ばせる指示が出たという情報もある。

反発する韓国本部、癒着する政治家
そして、この日本人幹部を含む日本の信者1200人を前に、現在の教団最高権力者である韓鶴子総裁は6月28日、第二次世界大戦を引き合いに日本から高額な献金を収奪することを正当化する「みことば」を発した。

韓鶴子は解散命令請求を視野に入れた質問権行使が続く日本の現状に憤りを見せ、日本の政治家や岸田文雄首相に対し韓国へ来て教育させるよう指示まで出した。

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旧統一教会「解散命令請求」どうなった?
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この韓鶴子の厚顔さが変わらない限り、つまり韓国からの指示ですべてが決まるという命令系統が続く限り、日本の信者は金ヅルとして搾取されるばかりであり、献金問題が無くなることはあり得ない。

また、改善点や道筋がある程度見えている被害者救済とは違い何も検証すらされておらず、まったく手を付けられていないのが、教団と政治家の癒着だ。

昨年の事件後、社会の非難を受けて、各政党が所属国会議員と教団との関係を調べ公表した。だが最も関係性が濃い自民党は、自己申告制の「点検」のみで済ませた。


昨年8月26日に党所属国会議員へ茂木敏充幹事長名で出された「旧統一教会及び関連団体との関係について」と題した書面には、「党として組織的な関係は一切ないことは既に確認済みであります」との記載がある。さらに点検用紙に書かれた8項目は、最も関係が濃いものでも「選挙支援」程度だった。

この「点検」は、本来であれば当然調査するべき事項である「秘書として統一教会信者を登用しているか」「誰の指示、どの政治家からの指示で教団や関連団体のイベントに出席したのか」などが抜けている不十分なものだ。党の組織性を示す回答をさせないよう、あらかじめ8項目以上の関係性については書かないよう枠を決めたものだった。

「密接交際議員」は誰か
さらに「統一教会は安倍さん案件」などと、「死人に口なし」とばかりに亡くなった安倍元首相へすべての責任を被せるような言動をする菅義偉前首相や細田博之衆院議長などの大物議員もいる。保身のためか、事件の検証をさせないようにする動きまで見られた。

教団との密接な関係が明らかになり批判を受けた山本朋広元防衛副大臣や山際大志郎前経済再生相のような中堅議員は、実際には小物だ。発言や対応がユニークなため大きく報じられてきたが、メディアが本来追及すべきは、山本や山際を教団イベントなどに派遣した大物政治家たちである。メディアの追及も現状は個々の中堅政治家の追及で終わってしまっており、追及されるべき大物たちが何の責任も取らずに居座っている。

なぜ安倍元首相が狙われたのか。政界と統一教会との関係の検証をすべき事案にもかかわらず、保身のために問題自体を早く終わらせたい、すでに終わっているとしたい政治家たちの意図が垣間見える。


規制されるべき反社会的組織が政界の有力者の庇護の下で体制保護を受けてきた。そのことによって、被害者の存在が無視され被害が拡大、連鎖してきた。被害の連鎖を食い止めるため、同様の事件を起こさせないため、そして後世に教訓として残すために徹底的な調査と検証が必要だ。

教団と政界の関わり、政界工作の実態、汚染度、目的、背景、経緯、侵食具合、長年にわたる関係が簡単に切れるとは思えない。何より政界と教団の歪な共存関係において、自浄作用が十分に機能しているとは言いがたい。

解散命令請求は出るのか
宗教カルトと政治の関わりにおける本質的な問題点やリスクとして、国益が損なわれる懸念がある。閣僚級の政治家の下へ秘書として統一教会信者が送り込まれているため、信者秘書などから韓国・北朝鮮へ情報が流れる可能性があるのだ。

さらに選挙運動員などの派遣を通じ、民主主義の根幹をなす選挙が歪められる問題もある。一般の国民ではなく、そのような一部の不当な勢力のほうを向く政策がなされることにより、民意が反映されなくなる。政治家が教団の顔色をうかがいながら政治活動を行うことは、すべての国民に不利益をもたらす。

国が教団をどう判断するのか。それが試されているのが、解散命令請求だろう。

文科省(文化庁)の調査開始から7ヵ月が経過、質問権行使は6回に至る。だが、教団の回答が乏しいことなどから、本当に請求がなされるのか疑問の声もあがり始めている。


だが、私の見聞きした限りでは、文化庁は慎重を期して証拠集めをしており、確実に解散命令が通るよう動いている。万が一、裁判でひっくり返されないために綿密に証拠を積み上げ検証している状態だ。決して時間稼ぎなどではない。タイムスケジュールからして今夏には解散命令請求がなされると見ている。

ここからが正念場
ただし、情勢が不利と見た教団が、息のかかった政治家を使って圧力をかけてくる可能性もある。どの政治家がどんな発言をするか注視すべきだ。

そもそもこれだけ長年にわたって多大な被害を日本社会に与えてきた教団が、「公益法人」であること自体がおかしな話である。文字通り、公益性があるからこそ宗教法人には税制上の優遇などが与えられるわけだが、教団信者による霊感商法や偽装勧誘などが社会問題になったことは周知の事実だ。実情との齟齬は、一刻も早く解消されるべきである。

実際に解散命令請求がなされ数年先に宗教法人の解散命令が下った場合、教団側は先んじて様々な動きに出るだろう。法人所有の不動産名義や財産を関連団体などへ移す資産隠し、そして、これまで以上に信者から収奪した多額の献金を海外へ不正に送金されてしまう懸念がある。

前述したとおり、山上の公判は来年から始まるだろう。解散命令請求は今夏にも出され、数年という年月はかかるだろうが、裁判を経て教団には解散命令が下るはずだ。

事件から1年が経ったいまも、統一教会をめぐる問題が解決したわけではない。山上の裁判、教団の動向、そして政治家たちの対応。むしろ今後の動きこそ、注視していかなければならない。

                             (文中一部敬称略)

「週刊現代」2023年7月15・22日合併号より

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[55000] 「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である なれば、だうするか? 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/16(Sun) 10:25  

ろねやりゆANNEX−Ω   訪問者数:12370916(今日:174/昨日:449)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/16(Sun) 10:45 先負(甲辰) 旧暦 ※閏2/26 月齢 25.4

妄想をひとつ申そう

無からビッグバンによって空間と時間が生じた

そしてその間において人間が生じた

そして、その人間の死と共に時間も空間も消失した



無は時空ともどもの無であって、無というものがあるのではない

一方、自我というものは、空間、時間に縁る(縁起)、依る(依他起性)、由る(自由)

そこで間を消失することが苦となる

いやさ間を生じることさえ苦の種となる

むっかし、むっかし、かのもろもろの講演者や論説者どもが、「立場」「立場」を連発するのに苦言を呈した

そんな「立場」に立脚した講演や論説は聞きたくも読みたくもない

人間すべからく「立場」脱却してものを云え

存在被拘束性(マンハイム)

これこそ「立場」であらう、「場所」であらう

而して、その「立場」も「場所」も千変万化とはいわぬも七変化、場合によってはなくなってしまう

「立場」がない、と苦に落ち込む

過日、NHKでどっかの哲学坊やが悩める声優の苦への脱却を説いて、具体的他者に対して軸をもちなさい、さすれば苦も悩みも脱却できるとどっかの西欧哲学者の言を引用して得意げに云って、それを聴き受けた悩めるものの声優が、お聴きして悩みが軽くなった、元気がでてきた、と・・

わはは、呵々大笑

なんとまあ、NHKも哲学者のお兄ちゃんも馬鹿なことをやっておるんか

もっともそれが馬鹿なことではのうて、世の常在にして錠剤、浄罪なんだわの

他者に対する軸の「存在」を多謝して、悩みが軽くなって、元気がでてきた、としても、そんなもんは、すぐにどっかに吹っ飛んでしまう

千変万化、七変化、「他者」に対する「軸」「立場」「場所」がかわれば、軸もなく、立場もなく、居場所もなくて、また落ち込むのんがせいぜいのところ

「他者」も、それに対する「軸」も「立場」も「場所」も千変万化、七変化する、あるいはもろもろが同時出現し「存在」する、ゆえに「他者」「軸」「立場」「場所」それぞれが軋轢を起こし矛盾のなかで呻吟する(西田幾多郎的)憂き目に舞い戻るのは火を見るより明らかである

この憂き目は自我一個の軋轢、矛盾、憂き目ならずして、世界の軋轢、矛盾、憂き目である

なれば、だうするか?

「他者」「軸」「立場」「場所」を撥撫するか?

永遠不変の「他者」「軸」「立場」「場所」に目覚めればよいか?

妄想はつづく

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54999] 明治期の「哲学」先導者は、だうも、浄土系、とくに真宗とクリスチャンが多い まあ、あたりまえであって、「存在」を前提にした「哲学」を解するには、やはち「神」や「阿弥陀」の「存在」を妄信した脳みそでのうては、解し得ずなんだから、さういうもんに浸れば自ずから洗脳されて「存在」に惑溺の憂き目に陥るわけであって・・Re:[36102] 処女出戻り三昧です。Re:[36089] 絶対に私のものならぬこの隠れたる決定の、おのずからなる反射として、その時その処に生起するところの、私自身の自己決定の形に過ぎない。≫Re:[36066] バカ見たでしょうね。文字通り。Re:[36051] この大いなる決定そのもののほかにはない。≫牛の尻っぺたでも食ってくるか。Re:[36046] 一切の人間的・主体的なるものの絶対的な消滅点としての沈黙と、たぬきの『沈黙』の対比について。Re:[35443] [35421] 創造の泉から湧くその語りは尽きることなく、未完のことばは無限の展開の可能性をはらんでいる禁無断転載。Re:[35420] 禁無断転載の私の「主体性」、人間の存在を問い、西田幾多郎、カール・バルトに師事。そして見出した、人間存在の根底に横たわる「原事実」。生涯にわたって人間存在の原点を思考し抜いた禁無断転載。Re:[35419] 滝沢克己who’who 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/14(Fri) 23:58  

れきれへきANNEX−Ω   訪問者数:12370037(今日:1345/昨日:1471)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/14(Fri) 22:23 先勝(壬寅) 旧暦 ※閏2/24 月齢 23.4

桜は散って街路樹のハナミズキが咲き初め、舗道の植栽の躑躅も赤白に・・鴉の類でも過日は尾長の群れが小さな神社の杜から隣のレストランやビルの屋根を飛びまわり、4月の第一日曜この2日には朝から地主神の祠まえにが賑やかに紅白の幕をはってお囃子が始まれば白狐の神楽か、朝の二度寝の夢うつつを現実確認せむと起きだせば、チャンチャンとお仕舞で氏子の一団がビールや酒を飲み始め、ものの見事に速やかに紅白幕を畳んで軽トラック数台に分乗して消えてしまった

> ANNEX−Ω   訪問者数:17884(今日:406/昨日:658)2006/04/11(Tue) 17:00

> > > 目は岩波講座「哲学」第15巻 「宗教と道徳」。

岩波文化、某甲らの世代は大いにお世話になってゾッキ本で岩波本があれば即買いなるも、考えてみればこれも、思想的偏食であったのかもしれない

昨今、清沢満之なども読み直しているが、なにしろ、明治期の「哲学」先導者は、だうも、浄土系、とくに真宗とクリスチャンが多い

まあ、あたりまえであって、「存在」を前提にした「哲学」を解するには、やはち「神」や「阿弥陀」の「存在」を妄信した脳みそでのうては、解し得ずなんだから、さういうもんに浸れば自ずから洗脳されて「存在」に惑溺の憂き目に陥るわけであって・・

岩波の歴史的売りは漱石と西田幾多郎で、あの漱石全集の立派さ、装丁をふくめて、まことに岩波文化の旗艦の風格があるが、西田幾多郎になるとどんなもんか

手元にあるのは岩波全書第一号昭和八年で例のばかばかしい「ねばならぬ」の羅列の「哲学の根本問題」

その後、上の「岩波講座「哲学」」などが何度も出版されているが、どうも、編集陣、執筆陣は西田幾多郎蛸壺派ばかりということに最近気が付いた

気が付いたきっかけは、例の南原繁「国家と宗教」岩波文庫 青167-2

これは戦前戦時中に書かれたものを2014年に文庫化して出版したもので、かの西田幾多郎「日本文化の問題」1940年と真っ向から対立する(といってもまことに田辺元への批判部分は短くほんの少しで西田幾多郎への言及と批判はみあたないが)同時期の稀有な論集であって、その解説2で加藤節曰く・・・

嗚呼、もう零時になんなん、ねむねむねむい

滝沢ともども、明日は雨もよいだから、日を改めましょう

> > > > > > > 滝沢克己 略年譜
> > > > > > > 1909年(明治42年)3月8日 宇都宮に生まれる。小・中学と1年飛び級
> > > > > > > 1924年(15歳) 第一高等学校(現・東大駒場)入学
> > > > > > > 1927年(18歳) 東京帝国大学法学部仏法科入学。進路に悩み、10月退学
> > > > > > > 1928年(19歳) 九州帝国大学法文学部哲学科入学
> > > > > > > 1931年(22歳) 九州帝大卒、卒論はH・コーエン論。5月より副手。
> > > > > > > 1932年(23歳) 小笠原としと結婚。西田哲学に没頭する
> > > > > > > 1933年(24歳) 西田論「一般概念と個物」が「思想」に掲載。西田から激賞される。フンボルト協会給費生として10月にドイツ留学
> > > > > > > 1934年(25歳) 4月からボン大学でカール・バルトに師事
> > > > > >
> > > > > > #日独伊を二年後に留学。ナチからもらった金やな。
> > > > > >
> > > > > > > 1935年(26歳) ブルトマン論がバルトに認められる。8月に帰国
> > > > > >
> > > > > > # そんな立場で来た東洋人に本音で話をするわけはない。そもそも彼は大してドイツ語ができんかった。二年程度では身につかない。外国語は。バルト本人も亡命を狙っていた時期にするもんかね。下手をすれば、自分の身が危ない頃や。
> > > > > >  
> > > > > > > 1936年(27歳) 九州帝大哲学科助手。『西田哲学の根本問題』刊行
> > > > > > > 1937年(28歳) 山口高等商業学校に赴任 翌38年教授に
> > > > > > > 1941年(32歳) 『カール・バルト研究』刊行
> > > > > > > 1943年(34歳) 九州帝大嘱託講師(週1回、西洋哲学)『夏目漱石』刊行
> > > > > > > 1947年(38歳) 九州帝大哲学科哲学専任講師に
> > > > > > > 1948年(39歳) 同大助教授
> > > > > > > 1950年(41歳) 同大教授
> > > > > > > 1958年(49歳) 福岡社家町教会にて洗礼を受け、クリスチャンに
> > > > > >
> > > > > > # いつかその教会を調べてみるか。
> > > > >
> > > > > それで、しらべられましたか?
> > > > >
> > > > > 口先だけぢゃあ、ダメよん。ニコヨン。たぬきヨン。
> > > > >
> > > > >
> > > > > > 滝沢が戦争責任を告白したかどうかを。きっとしていないね。滝沢もまさにバルトを日本にインチキ紹介した張本人。
> >
> > さうなんでしょうかね?
> >
> > バルトはそのまえからニッポンに知られておったからこそ、滝沢もあちゃらへいったんんぢゃあ、ありまへんか?
> >
> > どうでもええけんど。
>
> > > > > > > 1961年(52歳) 九州大学文学部長に(63年まで)
> > > > > > > 1964年(55歳) 『仏教とキリスト教』刊行
> > > > > > > 1965年(56歳) 八木誠一との20年にわたる論争が始まる。
> > >
> > > この論争の幾許かにも、目を通しましたが、所詮、ヤギくんのゴマメの歯軋りが顕著ですね。
> > >
> > > そのうち、ゴマメくんの考え方、まあ、いってもれば、ゴマメの境地丸出しの、おっかけクリスチャニズムもやりませうね。東工大の名誉教授ちうのんが、信じられません。ああ、信じられます。あのテー度なんぢゃちうことで、ナットク。
> > >
> > > > > > > ドイツに招かれ、30年ぶりにバルトに再会。 ゴルヴィッツァー、ハイデガー等と対話
> > > > > >
> > > > > > # ハイデッガーもナチの前で転んだ。転んだわけじゃ。踏み絵を踏んだ。それで生き延びた。遠藤はこれを寓話として描いたわけじゃ。「沈黙」のなかで。
> > > > >
> > > > > ●岩波講座「哲学」第15巻 「宗教と道徳」1971年第2次予約、これはだれでも、古本屋で@105円か、まとめて7冊/500円か、高いところでも、全18巻/9000円くらいですから、ホームレスでも手が届きますから、ぜひお読みいただきたいのんどすが、
> > >
> > > とはいえ、その中に収められた論文の幾つかは、論文ちうもおこがましいもんでありますけん、一冊353ページあっても、内容のあるもんは、せいぜいが、100ページにも満たないと誤覚悟召されい。
> > >
> > > 具体的に申し上げますと、こうなるんですが、インテリムエバリュエーションを含めて目次で顕彰します。
> > >
> > > はしがき
> > >
> > > ○1、現代の事としての宗教   滝沢克己
> > >
> > > X2、現代における宗教理論の展開
> > >
> > > X2−1.宗教哲学       鈴木亨(これはまるでダメ。哲学たぬき界の可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんでしょうね。自己宣伝ばっかで)
> > >
> > > X2−2.宗教の実証的研究   脇本平也(これは、高校の教諭に格下げしたほうがええでしょう。鈴木よりはマシぢゃけんど、ま、知識ちうもんに捕らえれちょって、知恵がねえのんどすの)
> > >
> > > X2−3.最近におけるキリスト教神学  八木誠一(これは、上記ふたりよりはマシぢゃけんど、ゴマメ)
> > >
> > > X2−4・最近における仏教  玉城康四郎(これは、他の著作ではまともなもんもあるんですが、どうも、こういう講座ものの弊害で、与えられたテーマを誤解しちょることに加えて、与えられた割り振りのページ数が25ページほどですから、内容のない、目録の羅列に宗旨してしまうんですね。そんで、その羅列の宗旨をおっかけてそこに題目だけ記載されちょる他の論文を読んでみたところで、まあ、タイムアウトですね。ようは、時間のなかで褪せる、空間のなかで埋もれるやうなもんを羅列しても、糞の役にもたたぬわけですが、玉城ちう一応の学者で、学者の性ゆえに、こういう講座ものゆえに、それそれ玉城くんのそのたぬき性も関与して、こういうツマランもんで、25ページを埋め尽くす破目に陥るんですから、要は、簡潔にして要を得て、いったいなんのために書いておるんかを、常に反省しながら、かかぬと、賢者もたぬきのうんこに陥るちうええ冷笑どすわの)
> > >
> > > 3.現代における道徳の問題  小倉志祥 (これは未読。でも、この巻の編者は、この小倉くんと上記の滝沢くんですから、自ら与えたスペースは他の論文の二倍の50ページあまりですけん、ま、期待しますが、期待せんほうが、よろしい鴨)
> > >
> > > 4.道徳理論の諸類型(まあ、書類系めいたもんで、ぱらぱらやっても知識以上にでるもんはどうもありそうにありませんが・・、一応リストアップしてきます)
> > >
> > > 4−1道徳理論の成立と発展   矢島羊吉 (未読)
> > >
> > > 4−2.現代ヨーロッパの道徳理論  上妻 精 (未読)
> > >
> > > 4−3.日本における道徳理論   相良 亨 (未読)
> > >
> > > すっかす、韓国、北朝鮮、中国における道徳理論ちうのんは、なんで論ぜぬのあらうね?
> > >
> > > おしゃべり〜くん、おしゃべりしちょらんで、やってみてください。
> > >
> > > ○5.宗教と道徳   金子武蔵(これは変じゃ、編者なみの扱いで、40ページほどもらってますから、かなり書いていますが、ま、語り口が、若造のたぬき知識ガクシャほどには稚拙でなく、かつまた、一応、年の功=1905年生まれ、ちうこともあり、それなりの知恵を身につけちょりますわの。前半は、まあ、教養分析とおもろいのんですが、後半はどうもつまらんかった印象があります・・2006年3月23日17:22厠の記)
> > >
> > > 6.宗教・道徳と社会生活
> > >
> > > 6−1.日本人の習俗と宗教・道徳   猪城博之 (未読)
> > >
> > > 6−2.現代社会の道徳的諸問題と宗教  湯浅泰雄 (未読)
> > >
> > > まあ、こういうことですけん、この哲学、宗教、道徳のことは、重要ですから、またやるにしまして、全18巻そろい買っても、この巻のような切実な問題のもんは、ほとんどありませんで、対象化したたんなるおたぬき哲学知識が溢れた講座ですから、まあ、買ったヒトはバカ見たでしょうね。文字通り。
> >
> > それで、これで、いい太古とは、それこそ太古から言い続けおるんですが、知識と知恵は厳密にわけて味わいましょう、ちうことは、ま、ことがらに始めのイロハなんですが、こういう哲学たぬきの駆け出しガクシャくんならずもの中年、あるいは老年に達したもんも、ま、わからん、きがつかんもんは、わからんきがつかんわけであって、知識があたかもすべてで、まあ、ごみためのなかの昼寝みてえな、たわごとで、講座開いて、これが、まあ、あの、実際に、青梅線から中央線、御茶ノ水の乗り換えて、丸の内線で、本郷の東大までえんえん、JRにバカ高い運送費を痴漢満員のうざったい時間をすごして出講しても、いんまは独立行政法人、タイ米の、ああ、大枚の講義料さへ徴収された、あほうなたぬきのバカな知識のごみを食わされて、挙句の果てに、えらそうなごみまきたぬきが、一杯オゴレと、これまったくおのれのヨゴレのゴミぶりは棚に上げて、タクシー拾って、湯島天神裏の怪しい一角に連れ込まれるの図、なんちゅうのんは、目も当てられません。
> >
> > そういう、愚もまた楽しちうむきは、ま、あの、小椋桂くんのやうに、60の手習い、どこちゃらでも、出かけていって、歌うたっちょれば、ええわけどすが、なんも、歌うも飲むも、聴くも読むも、劇場の激情のスカートの下ならぬ舌のたぬきの満場拍手ばっかとはかぎらんわけで、あの天蓋に掛かった、天涯、ああ、天崖どすの、そういうところで豪雨突風で飛ばされそうなお屋敷に猫と棲んで世のタレも解さぬ独言舌鋒で毒を現ずるのバガ趣味めいた、あああ、あの場合は趣味ちうより切羽詰ってさうせざるをえなかった必然なんでしょうが、ま、必然もまた偶然、その未必の意思が選び取った道ですから、大切に吹き飛ばされような借家を仮家ぢゃけん、どうでもよかちん、なんぞとなさずに、これ後生大事に金輪際の方丈と心得、精進ならぬ武将もまた精進にうち、そのいと、世間の誰も認めぬ大成にして大器が現成することを祈るのみどすわの。
> >
> > なぬをいっちょるんか、てめえでもよおわからんようになるってえところが、やらせの大可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんがヤラセでかくもんだば、あらへんで、これ、無限の深みから、ミューズ、バール、ディ鬼祖巣、ぬぬ、おもろいねえ、ディオニソス、はたまた右や左の祖霊祖神、トーザイ、トーザイちうもんですわの。
> >
> >
> > > > > そのなかの、ショッパナの第一論文は、この滝沢くんの「現代の事としての宗教」で、これは、なかなかに書けてちょりますけん、この滝沢ちゅうもんに興味をもって、ちょっくら検索をかけたわけでありますけんど、その滝沢克己が、この第一論文のなかで、こうも言っておるんは、まことに、この滝沢くんの見識ですね。
> > > > >
> > > > > ええと、本文の紹介したいところは、大和あるんですが、山とね、それは、時間があれば、あとでやることにすて、
> > > >
> > > > 時間がないんですが、可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんとはちゃうて、忙しくっても、時間はつければあるんだし、長閑なもんで、嗚呼、春です、雨が降ってきました、丁度ええ、本文の幾許か、下の註がつけられているあたり。これも、躁鬱患者、たぬきの分裂商には、特効薬ですが、なんせ、新約、ああ、新薬ぢゃあ、あらへんで、ゾロメの旧約、嗚呼、旧薬ですから、効き目があるんか、どうか?
> > > >
> > > > ま、聖書ズレ、薬ズレして、ノー味噌と身体と心がバカになっておらんけんば、利くんでしょうが、なぬごともたぬきの体制に、ぬぬ、まあ、そういうことですが、耐性になっておると、利きませんね。たぬきがきたら、免疫的に認識でけるうちはええんどすが、たぬきがきたら、ああ、具体的に云えば、あの沿道周柵、ああ、遠藤周作くんの「沈黙」をよんだら、そのたぬきぶりを歓迎して同化しちゃう、たぬき同化のおしゃべり〜くんほか、とりこもなすびおたんこしゅうらの、この国のたぬき文化ちゅうもんは、ふんまにドウカとおもっちゃいますわの。
> > > >
> > > > 前置きがながくなりましたが・・本文の本の一部です。
> > > >
> > > > ≪宗教において、真に始めにあるのは、私たちの宗教的な問いではない。真に終りを成すものもまた、それがいかなるものであれ、私たちの宗教の答えではありえない。いなそうではなくて、真にそれじたいで始めをなし終わりをなすものは、ただ単純にそこに決まっているあの関係、すなわち、「実在の人は神ではない、真実の神は人ではない、にもかかわらず、いなまさにそのようなものとして神と人とは一つである、人はまず神の人、ゆえに神はただ人の神。人の神として、人がただその一極点に成り立ってくる場所=自然の世界そのものの神である」という、この大いなる決定そのもののほかにはない。≫
> > > >
> > > > どうですか?
> > > >
> > > > まだまだ、一パラグラフのなかの本ちゃんはつづきますが、あんまし、根詰めてやると、指の才知間接、うむ、第一間接が、最近痛みをもって硬くなってしまったのんで、マッサージでほぐしてもらわんといけんのんで、牛の尻っぺたでも食ってくるか。
> > > >
> > > > 雨は病んだか?
> >
> > 本日2006/04/11(Tue) は曇りのち雨、まんだ、雨は顕著ではありません。
> >
> > それで、上記につづけますと・・
> >
> > ≪・・この大いなる決定そのもののほかにはない。この私の宗教的な問いにたいする正しい答えは、私にとってただ、絶対に私のものならぬこの隠れたる決定の、おのずからなる反射として、その時その処に生起するところの、私自身の自己決定の形に過ぎない。≫
> >
> > なかなかに味わい深いですね。ぜひ、味得してください。決定はケッテイとよまずに、ケツヂャウと読むほうが味わいあちますね。なお、この反射、その言葉遣い、これは、まったく、その駆け出し幼稚園の哲学のセンセども、ゴマメの歯軋りとは画然とその境地を隔するものです。
> >
> > そういうところを味わいとらねばなりません。ま、このあともえんえんとつづきますが、その味わいとるべきもんは、随所にあり、その味わいの中に、躁鬱たぬきの病気への治癒の素が溶け込んでいるおるんわけですわね。
> >
> >
> > > > > おしゃべり〜くんケーハク宗教、罪人、ぬぬ、在日怨恨、エピゴーネンルサンチマン、たぬきの尻尾につける薬だけを、ご紹介申し上げます。
> > > > >
> > > > > 滝沢曰く「現代の事としての宗教」第2章「人間存在と真正の宗教」第4節「宗教の根底と宗教問答ー宗教と哲学および道徳」への註2.
> > > > >
> > > > > ≪ここに、真実の宗教がつねに、深い沈黙をともなってくる理由がある。しかし、宗教の一契機としての沈黙と、宗教の根基として人間成立の根底に直属する「沈黙」とを混同してはならない。後者は前の意味の「沈黙」をもふくめて、一切の人間的・主体的なるものの絶対的な消滅点であるのにたいして、真正の宗教の沈黙は、ただその反映の一形態にすぎない。もし筆者の誤解でなければ、遠藤周作の『沈黙』ではどうもこの点が明らかでない。ヴィトゲンシュタインその他のばあい、その点、果たしてじゅうぶんに明らかであるかどうか。≫
> > > > >
> > > > > と、述べておるが、まあ、滝沢くんの「誤解」ではありません、ちうより、まんだ、滝沢の言い方は、たぬきの検挙の仕方が謙虚すぎておるんですね。あの遠藤周作くんの『沈黙』では、まっこと俗悪たぬきの沈黙でベストas TIME goes byセラー、あんら?あはは、ベストセラーちうもんであって、世にたぬきの悟りも、たぬきの詩歌俳句があるやうに、世にはたぬきの小説も、たぬきの思想、言説、果ては大可笑しい狆くん=大岡信くんキンス兜太くんのやうなもんがちんきんちんきんタムシなみのもんもおるんですから、鑑定眼をちゃんとやしなうんには、やっぱ目とノー味噌を甘やかしてはいけませんね。
> > > > >

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54998] そこを誤って「存在」と妄信することにより、人間は容易に「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか「基体」とか「モノ」とか「金」とか「 権威」とか「怖れ」とか「ヌミノーゼ」とか「叡智」とか「栄光」とか「真実」とか「奴隷」とか「救済」とかに「絶対矛盾的自己同一」する陥穽、地獄に落ちるのであ〜る 目下のプーチン、かつての十字軍、ナチス、はてまた西欧列強ならびに弱小我が国の植民地主そ義、帝国主義、人間が人間を虐殺しても、それをしゃあしゃあと正当化するのであ〜る 究極の「神」とか「善」と「自我」の「存在」が「同一」化した妄想に奔った結果である 事態ロゴスを虚実と覚すれば、さういう馬鹿馬鹿しいことはありえないのであって、金の妄者も、権力の妄者も、神聖の妄者も、ありえないのであ〜る 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/01(Sat) 07:37  

そうこはりANNEX−Ω   訪問者数:12355285(今日:188/昨日:483)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/04/01(Sat) 6:21 赤口(己丑) 旧暦 ※閏2/11 月齢 10.4 創膏貼

先週今週の長雨低温で長持ちしたのか、目下のわが家周囲の桜はいまだ絶頂満開がつづいているが、おそれらくは一旦例年以上の高温夏日が来ればあえなく散り腐るであらう

毎日、毎日、タバコを買いにでる玄関前の道に落ちた分厚く重い落椿花まるごとを素手でひろって植え込み内へ放り投げる日々

喫えば左胸の痛み、麻酔医が心臓の周りの血管がぼろぼろで手術が怖いと、すぎし日の胆嚢切除前に云っていたことをおもいだしつつ

破れるものは破れよ、ままよ、と花は目に快、囀りは耳に快

なれど、わが心臓はみえず、見えるのは外した入歯ぐらいで、痛みを感ずるのみ

加之、わが心蔵もみえず、見えるのは圧出した文字ぐらいで、痛みを感ずるのみ

> 思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブル

> 西田哲学を理解するためには、これらの数多のバブルを「存在」として読まねば理解できまい

「存在」として読んで理解できたところで、その「存在」にこそ人類世界、個々の自我の陥穽がある、とは従来繰り返し繰り返し指摘してきたところである

それが例え科学であらうが、唯物論であらうが、観念論、唯心論であらうが、同じことだ

ロゴスはすべて虚実であるやうに、インド以西の名色を実となす絶対一神教哲学のドグマたる「存在」「神」「場所」を前提にした「哲学」もまた虚実である

大思想とは大虚構である、大仮構である、大虚実である

究極の「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか、畢竟「無」である

そのデリバティブ派生概念の「基体」「モノ」「金」「 権威」「怖れ」「ヌミノーゼ」「叡智」「栄光」「真実」とかはなおさら、である

そこを誤って「存在」と妄信することにより、人間は容易に「無限」とか「全」とか「一」とか「神」とか「基体」とか「モノ」とか「金」とか「 権威」とか「怖れ」とか「ヌミノーゼ」とか「叡智」とか「栄光」とか「真実」とか「奴隷」とか「救済」とかに「絶対矛盾的自己同一」する陥穽、地獄に落ちるのであ〜る

目下のプーチン、かつての十字軍、ナチス、はてまた西欧列強ならびに弱小我が国の植民地主そ義、帝国主義、人間が人間を虐殺しても、それをしゃあしゃあと正当化するのであ〜る

究極の「神」とか「善」と「自我」の「存在」が「同一」化した妄想に奔った結果である

事態ロゴスを虚実と覚すれば、さういう馬鹿馬鹿しいことはありえないのであって、金の妄者も、権力の妄者も、神聖の妄者も、ありえないのであ〜る

まことに妄想哲学たる西田哲学の賛同者がばかりが、上田閑照にしても藤田その他にしても目に付く昨今、昨日か、ゆきつけの図書館へ20冊の返本借換のついでに、拾ってきたおまけの6冊中に・・

南原繁「国家と宗教」岩波文庫 青167-2

これは戦前戦時中に書かれたものを2014年に文庫化して出版したもので、かの西田幾多郎「日本文化の問題」1940年と真っ向から対立する同時期の稀有な論集で、夕べ小1時間の管見なるも、なかなかにいけさう、楽しみ

もっとも南原は内村・新渡戸に親炙したようなので、「存在論」の域は出で得ないのは、物足りない

それでも、かの京都学派の安易な「絶対ロゴス」まやかし哲学、代表としてあの食えぬ田辺元のキー概念を手厳しく論じている

さて、さて、絶頂満開の桜の中をすっとばし、思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブルのお祓いにでかけやう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54997] 「世界は中心点なく周辺なき円の自己限定と考えられる、世界の進展は円の中に円を描くと考えられる」窮宴バブルである 加之 この「弁証法的一般者」もまたバブルである バブルの煮え滾る苦娑婆地獄の画である 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/27(Mon) 16:05  

なたわをへANNEX−Ω   訪問者数:12351223(今日:318/昨日:1890)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/27(Mon) 13:51 先勝(甲申) 旧暦 ※閏2/6 月齢 5.4

思想のバブル、言葉のバブル、ロゴスのバブル

西田哲学を理解するためには、これらの数多のバブルを「存在」として読まねば理解できまい

ということは、徹頭徹尾、なべてインド以西の名色を実となす絶対一神教哲学のドグマたる「存在」「神」「場所」を前提にした「哲学」思想になりきって読まねば読めぬわけであって、印度以東の名色・ロゴス・存在への疑義と虚妄性を覚した自覚において読めば、計名字相・業繋苦相の妄想(遍計所執性)としかうつらぬわけである

まさに「存在」「神」「場所」に執取して計名字・起業・業繋苦の浄土ならぬ バブルの煮え滾る苦娑婆地獄の画である

たとえば

西田のよくつかう手の「パスカルのいわゆる周辺なくして到る所が中心となる無限大の球」p57からとったか「世界は中心点なく周辺なき円の自己限定と考えられる、世界の進展は円の中に円を描くと考えられる」p42西田幾多郎哲学論集U「論理と生命」弁証法的一般者としての世界、岩波文庫 1988年 青124-5

まさに球にして円の窮宴バブルである

加之

この「弁証法的一般者」もまたバブルである

まことに執拗に幾多郎は「弁証法」に色々な形容あるいは尻尾をつけて場ぶって、ああ、バブっているが、そもそもが弁証法ちう謂いロゴスそのものが、洗剤、うむ、洗剤バブルであって、「存在」「超越」バブルを前提としたロジックロゴスであって、それが田辺元(まことに食えぬ)の正反合にしたところで、正も反もともどもにあって(存在して)こそ、それを「超」え「越」したところにまた「合」がある(存在)、徹底した名色の有の存在論である

「一般者」の謂いもまた叱りにして然りである、その元がプロティノスであらうが・・

無限とか全とか一とか、幾多郎君は徹底した名色の有の存在論であるところのヘブライギリシャ西欧のロゴスをまことによくこ豆にもってきて、而してそのいちいちがみようによってはみんなバブルにしてポップコーン、鬼は内福は外であるのだが、そのロゴスのバブルを沸騰させてまことに得意げである

そして「ねばならぬ」と叫びまくって恬として恥じぬ

速い話が、うむ、遅い話も、無限とか全とか一とか、よ〜く考えてみなさい

全て無だ

余す所なき全、これはもはや全ともいえぬ、全と限定するものも無く、無である

それが「場所」だ「無の場所」だ「絶対無の場所」だ、と言っても、それは詭弁である

なんとならば全は場所さえ含んで無であるからして全とは別に場所があるはずもなく、無が自己限定するはずもない

だから、「絶対無」という「根源語」を西田、田辺、西谷に創出したのだ、と上田閑照遊撃手が、まことにちょろちょこと諸先輩のロゴスの間を走りまくりながら、云うのだが、まあ、なべて屁理屈だね、西欧「存在論」名色有思想への色目でしかない

古人、古仏の「無」で十分ではないか

加之

西田にして上田にしても、ああ、上田幾多郎君、どこだかわすれたが・・

絶対即仏

なんぞと妄言を吐いておる

これは仏にかの名色有の一神教の絶対神を投影して仏を曲解して恬として恥じぬ

仏は絶対でもなんでもない、覚、仏陀は覚者、が原意

それを絶対者だか、絶対とかいうのは、まことに前提として名色有の一神教めいた仏教の一派の浄土教、浄土真宗的思い込みの阿弥陀仏の賜物であらうがな。仏教思想も多士済々

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54996] 計名字相哲学としての西田哲学、業繋苦相としての西田幾多郎 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/24(Fri) 19:40  

よこをわねANNEX−Ω   訪問者数:12348562(今日:585/昨日:1996)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/03/24(Fri) 15:51 仏滅(辛巳) 旧暦 ※閏2/3 彼岸明(春) 月齢 2.4

この彼岸明けの仏滅を逃す手はなからう、と心中の靄々を記す

名色ナーマル―パ(名色(みょうしき)とは、パーリ語およびサンスクリット語のNāmarūpa(ナーマルーパ)に由来し、名前(nāma,ナーマ, 名)+姿(rūpa,ルーパ,色)による熟語である。)

サンスクリット語のナーマが、日本語の名前

アラビア語のアンタが、日本語のあんた

偶然か必然か、古代インドや近東の同じ人類としての言葉と思想の流れが我が国にもやってきたのかもしれぬ

名色ナーマル―パ、名により色がある、つまり「言葉」に酔って万物が「存在
する、その名色そのものをどう考えるか

なべてインド以西では名色を実となし絶対一神教哲学になり、以東では名色へ疑義をもってその虚妄性を覚した

かくなる構図において西田哲学なるものも、その名色へ疑義をもってその虚妄性を覚さ「ねばならぬ」ところ、あたかも惑乱の極み、言葉のバブルの沸騰の体を呈している

そのことは卑しくも禅だ仏教だを論じるのであれば西田自身が自覚すべきであらうが、それがまったくてきていない

さきに「知識の分類」妄想(遍計所執性)を云々したが、ソレに即していえば、西田哲学は妄想哲学である

加之(しかのみならず)

大乗起信論に曰くの

1.無明業相
2.能見相
3.境界相
4.智相
5.相続相
6.執取相
7.計名字相
8.起業相
9.業繋苦相

が累々とまことに顕著である

これらの諸相が沸騰してバブルの様相を呈する幾許かを井筒俊彦の叙述より引用すれば(井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25)

㈤ 相続相・・「智相」的「妄念」は、ひとたび生起するや、果てしなく、念々に起って絶えることがない。

㈥ 執取相・・「智相」の連続の結果、虚妄の事物を真実在と思う心がますます強まり、それらに対する執着が深まっていく。

㈦ 計名字相・・未だどこにも、これといって特別の「名」が現れていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、それを様々に区劃し、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のありかたを「計名字相」という。(疲れるからすっ飛ばして)・・「名」によって固定されて、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存意識にたいして強烈な呪縛力を行使しはじめる・・情念のこのような言語的凝固体群を、伝統的仏教用語では「煩悩」という。執拗な「煩悩」群の支配する狂乱の世界ーそのような内的世界としての実存意識の成立に『起信論』は「不覚」への道の至りつくところを見る。(まるで西田哲学とその叙述者たる西田幾多郎をそのものを叙述しいるようだ)

㈧  起業相・・十重二十重に「煩悩」に巻きつかれた(蛇を連想するね・・かの西田哲学の毒蛇)人間主体は、生存するかぎり絶えまなく、「身・口・意」三様の「業」を重ねていく。その暗澹たる事態生起の発端

㈨  業繋苦相・・数かぎりない「業」の重なりの果報を受けて、人は実存的「苦」に曳きずる込まれ、遁れがたくそれに繋縛される。(まさに藤田などが西田哲学を「悲哀」の哲学などと喧伝する所以であらう、もっとも喧伝者たる藤田などは起信論的意味あいではなく、西田書簡にしるされた心情や家庭や時代の事情を加味しての「悲哀」ではあらうが・・)

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54995] わかった、わかった、自在鉤の鑰に魂を吊って、滑車の別の綱を、こうやって下へ肉体、質量でもって引っ張れば、魂は天上へ上昇していくのね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/22(Sun) 11:34  

とるみほへANNEX−Ω   訪問者数:12259555(今日:286/昨日:367)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/22(Sun) 09:00 先勝(庚辰) 旧暦 1/1 旧正月 月齢 0.3 新月 朔

1903年(西田33歳)

35 謎々に子供集まる囲炉裏哉

西田幾多郎の謎々に集まる子供ら、弟子もおれば孫、曾孫もおるであらう

解けた、爺ちゃんの謎が解けた

なにが謎って、なぞってみると、西田爺ちゃんの「場所」は「難解」だと上田は云う

その「難解」なる「場所」は自己を包み、自己を置きつつ、何重にもして、無限にもしてあるのである

場所は、世界は、いろいろある囲炉裏端

家庭、講壇、学会、宗教界、世間、遊廓、闇市、戦争、はたまた、時代を違えば、ユダヤの捕囚、ギリシャローマのクセノファネス、プラトン、アリストテレス、プロティノス、パウロ、アウグスティヌス、西欧のエックハルト、クザーヌス、ベーメ、スピノザ、ライプニッツ、はてはボーア、やれ我が国の親鸞、皇道、その場所や世界はかぎりない

いったいどこの「場所」なのか?西田の論旨にあわせて変幻自裁の夢幻か?

その「場所」が「自己否定」をして場所の「自己意識」として自己になるとはなにごとか?

場所の擬人化か?

なぞなぞ?難解?体験?

「難解」ちうよりロジック、言葉の「トリック」だ

あの「場所」というのは西田自身が云っておるように「意識の場」なのだ

だから、「場所」をどう展開しやうとも、そこには纏綿として西田の「自我」、「意識」がつきまとっている

自意識が場意識に飛躍

それを「自己否定」して「無・意識」にして「無の場所」となす秘鑰

とはいえ、この西田哲学の「無の場所」は畢竟「無の場所」たりえない

この西田哲学の飛躍にして秘鑰には最初から、トリックロジックの自己が纏綿している

南無阿弥陀仏、親鸞の他力本願、悪人正機

救いを希求する南無阿弥陀仏を唱える自我

それでは、自我の「はからい」である

自我の「はからい」を、自己を撥撫せよ

それでこれを180度反転して、自我は南無阿弥陀仏と唱えしめられている、弥陀の「はからい」であるとなす

これは、なあんも撥撫でもなんでもない

ただのトリックロジックであって、それを廻心となす、回心、会心の演技

このトリックロジックは世の古今東西にまことによくみうけられる

自己による自己の救済ではなく、弥陀・基督・神に救済されるのだ

自己の「はからい」がそのまま弥陀・基督・神の「はからい」へ180度転回され、自己に纏綿としている欲求、願望、贖罪が、そのまま自己から弥陀・基督・神へ転嫁され、反転、翻躍する

つまり、それは自己の意識・欲望が、自己とそれをつつむ場・神とへ飛びまわる自己意識のサーカスロジック現象である

而して、その自己の脱自的外在的超越を自己の内在的超越へまた翻転しなおす

内外宇宙的動的ダイナミックス、エクスタシー

トートロジーにして撞着

絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾

1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

役者は役者にあらずして役者である


65 炉開や低うつりたる自在鍵

ねえ、お爺ちゃん、あの自在鉤の吊ってある天上のあれはなに?

あれはね、滑車

あ、そうなの、わかった、わかった、自在鉤の鑰に魂を吊って、滑車の別の綱を、こうやって下へ肉体、質量でもって引っ張れば、魂は天上へ上昇していくのね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54994] この猿のサーカスを繰り返し繰り返し味わうのも、一狂にして一驚、一興 「神」の「叡智」の養生には栄養でもあらうRe:[54993] 猿曳の背にねる猿や戻りみち 西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/16(Mon) 15:27  

らつくさあANNEX−Ω   訪問者数:12252967(今日:201/昨日:545)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/16(Mon) 08:36 赤口(甲戌) 旧暦 12/25 月齢 23.7

言葉とは不思議なものである

言葉の殻と中身、殻が割れて中身がぱっと現れれば、多分に言葉を語る主体の意図しないことまでが現れる

また、言葉の殻にも中身にも深浅がある、どこのレベルで言葉の殻をあるいは中身を解するかによって、言葉から言葉への連なりの全体の相貌がまるで違って来る

> ひしさぬめANNEX−Ω   訪問者数:12252429(今日:208/昨日:1977)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 04:30 大安(癸酉) 旧暦 12/24 月齢 22.7 下弦
>
> 酒やけのかむろふりふり雪もよひ
>
> 一体に自我の七転八倒格闘の西田哲学とうのんは酩酊してかかれたのであらうか?

西田哲学における言葉遣いについては、殊更に言葉の殻と中身、深浅の激しいブレ、震度を感じる

これは酩酊ともいえ、これは、かのスーフィーの「酔言」をも背景にした酩酊であるが、読まされるほうもまた眩暈を感じざるをえない

一方またシャーマン的な憑依の言、あるいは預言者の啓示をも感じさせる

いずれにしても尋常な言葉遣いではない

これはなにも「でなければならぬ」という預言者めいた命令基調のことばかりではなく

主客、主観・客観というような極めて一般的な概念語でさえもつかいかたが特殊である

加えて西田哲学特有の語彙に至っては一般に理解される意味とはまるで逆の意味ですらつかっているようにも見受けらる

その意味の特殊性を西田自身がくどくどと言い募ることもあれば、また全然きにせずに西田本意で使っていることもあるから、まことに要注意であって、目が離せないサーカスと感じる所以でもある

しかし西田哲学をはなれた一方の詩歌随筆談話では、西田哲学にみられる特殊な状況は起こっていない、平坦にして常識的である。

一体、この差異はなんなであらうか?

というような、問題意識をもつことは、いいことだ

問題意識が誹謗で始まっても、いいことだ

> 三つ子の魂百までも

某甲にたいしては、曾祖父のそのまた先のような西田の三つ子の魂を云々するのも僭越ではある

個体発生は系統発生を繰り返すやうに、人間だれしもこどものころに考えたこと、教え込まれたことは、後々まで尾を引く

かの西田哲学の構造、すなわち自己、場所、世界、宇宙、神、などというものは、まさにさういう発想の展開である

而して、その自己、場所、世界、宇宙、神、などの言葉が、さきのようにその殻と中身、その深浅、ブレ、酩酊、酔言、預言化してくると、こどもの手には負えなくなる

ましてや、そこに西欧ロゴスの特殊な使い方ロジックが加味されて、やれ神だの、一者、絶対者、超越だの、弁証法だの、とくればなおさらに、ウォッカ、アブサン、テキーラ、ウヰスキー、ブランデーの類のエチルならまだしも、果てはメチルアルコールを呑まされているような気さえする、毒蛇

気宇壮大にして自己から場所から世界から宇宙から神からなにからなにまでなどなどを「説明」し尽くそうとするその野望と苦悩と時代との格闘をなして七転八倒する西田哲学は喋り出したらまったくその独自の言葉とロジックが止まらない

ある一節を提示して、それを説明する結論にいたるまでに、ある一節そのものとは無関係な西田哲学独自の言葉とロジックの説明を延々と2、30ページも低徊的に繰り返して、やっと、先の一節に即した結論の開示に至ることもままあり、一体なにが問題なんだっけ?と何度も読み返さねばコンテクストも意味も掴み兼ねるこも一再でない

突っ走って突っ走って、その結論が浄土真宗と皇道では、目も当てられぬ大事故である

この大事故にいたる突っ走りの過程に、どっかおかしなところがあるのではないか?

そっこらぢゅうにある

そっこらぢゅうにあるにはあるのだが、このそっこらぢゅうのおかしいところも、普通の言葉とロジックではおかしくもかんじるものが、西田哲学の特殊な言葉とロジックにおいて「よくみれば」、さしておかしくもないこともある

それにしても、やっぱり言葉」の皮がやぶれて中身の汁が噴出するような味わいもあれば、一転して食えぬ毒にもなることもある

その毒の所以はなにか?

> 果たして、それは「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」ではないのか?

依他起性 遍计所执性 圆成实性

だれでもものをかんがえる、あるいは自覚するには依他起性からはじまる

ところが西田哲学はそのどころどころで「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」への遍计所执性が顕著である

西田本人は「幻」でも 遍计所执性ともおもわず「存在」「実在」となしている

それで西田哲学の結局の圆成实性は「浄土真宗」と「皇道」への帰依、「信仰」になってしまう

さうならぬように、この猿のサーカスを繰り返し繰り返し味わうのも、一狂にして一驚、一興

言葉のサーカス、ロジックのサーカスとしては見所も多く、人間としての知恵にとってはともかくも、「神」の「叡智」の養生には栄養でもあらう

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54993] 西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う猿曳の背にねる猿や戻りみち「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 05:48  

ひしさぬめANNEX−Ω   訪問者数:12252429(今日:208/昨日:1977)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/15(Sun) 04:30 大安(癸酉) 旧暦 12/24 月齢 22.7 下弦

酒やけのかむろふりふり雪もよひ

一体に自我の七転八倒格闘の西田哲学とうのんは酩酊してかかれたのであらうか?

三つ子の魂百までも

ああ、三つ子とはいわんで、母胎内の「汝と我」未分の零の魂百までも、がよろし

色即是空空即是色は、そのまま色即是空空即是色である

廓然無聖である

これに対して、西田哲学においては、西田幾多郎においては、これがまるで体得されていない。徹頭徹尾「絶対」「超越」者を前提にした哲学であり、西田幾多郎である

此処において西田哲学と西田幾多郎はその最期において「浄土真宗」「皇道」を奉斎するに至る

まるで西欧あるいはアラブの一神教が形而上も形而下も「聖別」して、「戦争」に邁進してきた、そしていままた、邁進しているように

西田哲学と西田幾多郎が結果論として「浄土真宗」「皇道」を奉斎したことの萌芽は、そもそもの始め「善の研究」からあったし、もっとさかのぼれば、西田幾多郎の生まれと生い立ちにあったのであって、西田哲学と西田幾多郎も悪魔で、あくまで、歴史的所産であった

西欧一神教のもとをペルシャのゾロアスターにまで帰せぬも、ユダヤ教の捕囚時代にその因を訪ねれば、その時代の辛苦に発し、西田の帰依するところの親鸞の浄土真宗も我が国13世紀、末法の世の乱れの辛苦のなかに生まれ、1870年生まれの西田幾多郎は明治の文明開化、和魂洋才、日清日露戦争、第1次世界大戦、関東大震災、世界大恐慌、満州事変、第2次大戦と大変な世界と時代を生き抜いてきたわけであって

平和ボケした某甲なんぞが云々しえぬ、大変な体験のなかで七転八倒した西田幾多郎が叙述した西田哲学は、西田哲学が西田幾多郎を叙述したともいえるだろう

すなわち、あの西田哲学は、西田幾多郎が「つくった」とうよりも世界/時代によって「つくられた」ものであらう

すなわち一個の西田の「つくった」ものではのうて、古今東西といっても、ほとんど西の概念であって東の色即是空空即是色ちうような知恵は死体(しにてい)ではあるが、西欧近東的「絶対」的「超越」者の古今のイデオロギーの合体が明治大正昭和初期の時代状況の苦難のなかで集合的時代的呻き声を発した西田哲学

西田個人に期すれば、それこそ浄土真宗的風土の三つ子の魂が百まで長い生きせんも75歳か、ぞろ晩年になれば、浄土真宗、皇道へ回帰したんもんであらうがね 門徒衆

だうせ回帰するんであれば、それこそ「汝と我」未生以前の「本来の面目」へ回帰すれば、その無の混沌においては「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」は絶対ありえないし、はたまた「絶対矛盾的自己同一」も絶対同一的自己矛盾もありえなく、そこで七転八倒し自己と世界とで格闘することもありなかったのにね、可愛そうなことをした

1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

この西欧的ロゴスのイデオロギーの先端で舞う「猿」たる西田哲学、その「猿曳」たる西田幾多郎、そういうものをなにか象徴している

1937年(西田67歳)

88 土蔵ずまひ何しに来たと一茶云ふ

89 秋ひよりけふは一茶も留守の様

この一茶は一茶にして一茶ではない

誰なんだろう?

果たして、それは「猿」たる「絶対」的「超越」的「一者」的「一神」ではないのか?

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54992] そして、だれも解説をかかない。そして、だれも解説をかかない。日本文化の問題。萎縮と憂鬱の西田「哲学」 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/10(Tue) 05:29  

はきさあうANNEX−Ω   訪問者数:12245872(今日:52/昨日:722)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/10(Tue) 03:55 赤口(戊辰) 旧暦 12/19 月齢 17.7

Ray Charles - Good Love Gone Bad
http://www.youtube.com/watch?v=ly6ch4Q0JCQ

小人閑居して不善をなす

西田幾多郎「善の研究」なんぞを20年ぶりに手に取って、だうも、とんでもない不善をなしたのかもしれない

それにしても、西田哲学ちうのんは、癒されない

ギスギスして小理屈がならべてあって、自己にしろ世界観にしろ、それらの励起にはならない

小理屈の頭の体操にはなっても、身体にせい霊にせいその励起にはならない、むしろ委縮し憂鬱が増殖する

「つくられたものから、つくるものへ」というやうなテーゼにしても、それがみようによっては、とんでもない方向にいく、すなわち天皇制のため、お国のために、平和のための戦争へ自己犠牲を強いる「なばらなぬ」強制の論理小理屈であって、これは、我が国でいえば天皇制でであり国体なのかもしれぬが、その含みのよってきたるところは、西田幾多郎が西欧ロゴスを借り来たって述べるところの源点にさかのぼってみれば西欧的一神教的小理屈に依って・・

神によって「つくられたものから」それが個々の個人にして我であって、その個人それぞれの我は神を「つくるものへ」と「ならなければならない」、さういう認識をし「なければならない」、それが自覚で「なければならない」

つまり神に帰依して奉仕せよ、あるいは神において殉死せよ、はたまた絶対他者を神としてたててたてまつらなければならない、あるいは絶対自己を神としてたててたてまつらなけらばならない

というような事態になる、というか、なら「なければならない」、という圧力にみちみちている

なんという救いのない思想にして哲学なんだろう

そこに「無」とか「愛」とかいっても、それらはみんな浮き上がってしまっている

もっかのプーチンがウクライナ戦争の犠牲者になった兵士の母親にむかって、国家のために死んだなら名誉だというようなことをいっておったが、おなじことを西田の薫陶をうけた高坂などが云っている、そして公職追放になったんだが、また、1980代ごろから「京都学派」が世間で復活してきて、

日本会議、統一教会の活躍、安倍政権になって、岩波書店も世間に迎合したのか、あるいは世間への警告なのであらうか、1940年3月第1刷発行の西田幾多郎「日本文化の問題」が岩波新書で2018年第7刷で発行される、だれも解説をかかない。

西田幾多郎は絶叫するp141「我々の歴史的精神の底から(我々の心の底から)、世界的原理が生み出されなければならない。皇道は世界的とならなければならない」

やや遡ってp119「我々は此世界から生れ此世界へ死し行くのである。此世界に於いて生死するのである。理性とは此世界の自己形成作用に外ならない。私は自己を世界の中に置くといったが、自己は固世界の中にあるのである。・・・宗教的体験の立場からは、我々の道徳的行為は義務の為の義務と云うふよりも、むしろ知本報恩となるのである。親鸞の自然法爾と云ふのは、深く此意に徹したものでなければならない。矛盾的自己同一として皇道と相戻らないものでなければならない。我々の自己が歴史的世界の個物として個物的なればなる程、右の如き自覚に達せなければならない。そこには絶対の受動が即絶対の能動であるのである。」

そして、だれも解説をかかない。

この岩波新書、2018年発行の新しいものであっても図書館では開架ではなく閉架にしまいこまれ、リクエストしないとでてこない。

そして、だれも解説をかかない。この岩波新書でもだれも解説をかかないが、あれだけ西田幾多郎の解説をしてやまぬ上田閑照でも藤田正勝でも、だれも解説をかかない、管見ではあるが。

ただ本書の最後には「(本書は・・教学局の許可を得て転載せるものなり)」とある

教学局、文部省のね。目下も統一教会でゆれている。宗教も思想も勲章も管轄しているのね、おぞましいことだ。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54991] 妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば・・天上の神への「存在」へ讃仰し自己同一化しようとする「意志」「行為」が禍をもたらす Re:[54990] 類想・類相・類争 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/08(Sun) 11:21  

らふほろねANNEX−Ω   訪問者数:12243655(今日:385/昨日:1327)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 11:26仏滅(丙寅) 旧暦 12/17 月齢 15.7

初七日ならぬ松の内か、昨日は先負(乙丑) 旧暦 12/16 月齢 14.7 満月(8時)望だったのね

8時の望月へ月輪観

この自己の身体霊魂を膨らましに膨らまして月も太陽も銀河星雲も宇宙も呑み込んでしまう

空海の手法

一転して、七草粥に餅三つ食って最後のタバコを一服して寝てしまった、タバコを喫わぬためには寝るのが一番と・・

ニコチンや脳へ沁み入る蝉の声

ちう駄句も思い浮かぶが・・

煩悩を集めて速し流星群

も、また芭蕉のプラットホームの形式を借りた剽窃なるも、この「沁み入る」とか「集めて速し」とかは、言葉のもてる力であって、それを展開すれば、色々な事がまた別の味わいをもって現成してくるのであるからして、昨今の類想・類相・類争を離れ見れば、それもよし

古人の至った境涯に於いて我もまた遊ぶの風

この遊びを抹殺して、俺がoregano「オレガノには多くの効能があり、抗ウイルス、抗菌、抗酸化、抗炎症などの効能があることから「天然の抗生物質」と呼ばれています」。

俺が俺がの兜太「現代俳句」的アイデンティー自己主張は類想の風雅や季語への固着黴菌への抗生物質ではありえても、一方また生そのものへの副作用もある

> のめぬすそANNEX−Ω   訪問者数:12241790(今日:326/昨日:2003)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 10:35 友引(甲子) 旧暦 12/15 小寒 月齢 13.7 呑めぬ裾
>
> 上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8より幾許かを拾って、選りがやや甘くも、よかんべさ、ちうのんは、句作におけるいわゆる類想や季重というものがややあるからであるが、このこともものごとをよく考えてみる契機になりさうである
>
> 現今の句作でよく忌諱される類想や季重は、ふんまに忌諱されるべきもんであらうか?
>
> これも、あるいは傍観者風の弊害ともども、現代は句の劣化のもとではないか?
>
> ちう問いをたててみる、以下考えつつ・・
>
> 詩歌俳句の世界はもとより、宗教、哲学、思想、科学の世界でも類想は多々あって、その類想の中での差異において独創性、ひいては特許、知的所有権さへ云々されるのではないか?
>
> 西田幾多郎の「哲学」でも、西欧、あるいは、仏教からの類想に道々、満ち満ちている
>
> その道々、満ち満ちから、俺はプラトンとは、カント、ヘーゲル、ベルグソンなどなどとは、ここが違うんだということをしっつこく粘り強く低徊的にいっておって、その低徊軌道から励起されるところに、ちょこんと仏教や禅が出てきて、そのちょこんの励起を、だうも、西欧小理屈の延長では「説明」しきれていない憾みもあるが、まあ、そういう類想的哲学でも独奏的ではある

この「独奏」は独創の書き間違えではない

井筒の「交響」的に比して、幾多郎は「独奏」的なのである

西田はあくまで類想的でありながら、そこでの「俺が俺が」の差異を言い募る

この自己主張の強さがいわば「でなければならない」とう口吻に現れる

この口吻を味わってみれば反吐を催さしめる毒我であるが、そこには西田の自己不安、自己矛盾が逆説的に現れいる

自己を徹底的の押し込める、押し込めな「ければならない」、自他ともにね

その西田哲学、論文にはまことにギスギスした風があって、まあ、遊びがないのね

ゆえに「難解」だとかなんとか言われ、それを上田らの「京都学派」が蛸壺的展開で蛸の脚を拡げて世の中を絡め捕ろうとしている風もなきにしもあらぬが、難解というのは、いかにもの西田の論を讃仰しての蛸壺三業地における芸者ごっことも見える

これは上田ばかりではなく、昨今の現役「京都学派」の

藤田正勝著「日本哲学史」昭和堂 2018年、20年に喃々とした労作にしても、同じことで西田への批判論文への言及は少なく、西田の概念への解説が500頁の大部を占める

嗚呼、ニコチンに活性化された脳へ沁み込んだ蝉は何を云おうとしてるのか?

まあ、三業地で贔屓の芸者への讃仰を言い募るのもまた、また京都的な、祇園、先斗町や上七軒、はたまた島原の風でもあらうし、寺々の坊主も出入りして、坊主と学者の街の風情としては、さもありなんではある

さきに引用した幾多郎の句

19 塀尽きて小さき橋あり夏柳

25 廻廊に昼寝の笠や知恩院

まことにこれば、江戸にすれば吉原、京都にすれば島原の景であって、知恩院は痴恩院かもしれぬが、人間なればさういうこともあらう

幾多郎の「場所」その他の「難解」さについて云々する上田閑照は西田の考え方を総括して一つの秀逸なまとめを提示している

上田閑照編「西田幾多郎哲学論集T」1987年 岩波文庫 青124-4 解説363頁に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

展開された純粋経験の全関連の動脈は次のようにえがき出される。

主もなく客もない原始の純粋経験がそこだけ直示される場合は「無」。

主客への分開を含んで自展した具体的な純粋経験において主客相対するところでいえば主のほうは「精神」。客のほうは「自然」。

そのように展開した純粋経験の全体、主客を包んだ全体が主側から尽くされる「自己」、同じ全体が客側から尽くされると「宇宙」。

そして最後に、

そのように展開した純粋経験の全体が全体として、しかも、主もなく客もない原始にこめられていた未分の統一力が無限の統一力として現勢化したその統一に統べられた生ける全体としての全体が「神」

というように展げられてゆく。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

まあ、こどものころに思った「自分」とか「世界」とか「宇宙」とか「神」とかと大差がない、大差があるのは、そこのところに西欧的ロゴスの小理屈で「存在」とか「個別化」をはかっているところだけであらうがね

その西田の「神」が問題であって、この西欧的ともいいうる神を天皇、皇室という日本の枢軸にもってくることが問題なのだが、

それにしてもそういう考えのでてくるもとのものとして西田の時間・空間のとらえかた、「西田講演集」など読んでいると、

二次元座標軸で西田は

時間を縦軸、空間を横軸

としてプロットし、最終的には空間の円環と、時間の現在する過去と未来をもって時空の一致におよぶののだが・・

結論は一緒でも、某甲の頭の中では、時間は横軸、空間は縦軸

これはなべて昨今の科学においても経済の図式においても、時間は横軸、空間は縦軸であらわされるものであれば、そういうプロットに慣れ親しんだものにとっては、違和感もある

かつて人間の遺伝子と、神の遺伝子をホモげない図、ホモジェナイズして、その活性化を計ろうとしたときでも、さうであったか、神の、人間の活性化が横の時間軸でどう変化してきたのか?


西田は、日本、東洋の国々社会を縦と観、西欧の国々社会を横と観る

平たくいえば、横軸は「物質」の世界で、個はあっても「形相」のない個、それに「個性」「形相」を与えるのは歴史、時間であって、縦軸となすのであって

その縦軸において「形相」が「神」として出現し、それを時空の統一として「存在」となすところに、現在からみれば、ということは、原罪からみれば、某甲からみれば、大いなる問題が発生する

畢竟するに、この問題こそは、なぬも東洋の国々社会を縦と観、西欧の国々社会を横と観るのはなく、一神教たる神の生ける西欧世界こそが、縦なんだらうとおもうのだが・・

西田でも誰でも西欧ロゴス一神教思想に毒されたものは「超越」ということを頻繁に云い、かつ「叡智」だの「光」だのと云うのが常である

この発想こそが、縦軸の天上に神を讃仰する縦思想の最たるものであらう

この天上の神への「存在」へ讃仰し自己同一化しようとする「意志」「行為」が禍をもたらす

一体、脳の中で鳴く蝉はなにをいわんとしているのであらうか?

やっぱ、寝ちゃったはうがよかんべさ、かな?

寝れば、また、四肢が強張り、脳が強張る

> 科学にしたって同じことで、追試をしてみているうちに、あれ〜!という事態が発見につながり、そこの差異への思考の試行を重ねていくうちに独創的なもんへ発展することもある
>
> だからして類想は、現今の俳句の世界やその他でいわれるほどに忌諱すべきものではなく
>
> とくに、一個の人間や人類や世界の「救済」や「解脱」や「平和」を「目的」にするのであれば、尊ばれこそすれ、忌諱されるべきもんでもなからう
>
> なぜ、忌諱されるのか?
>
> 金子兜太などをみればわかる
>
> これらの現代俳人はいたずらに、己が独創性を追求し、アイデンティティーの希求に奔る

これもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

> だから、あんな救いもない、ヘンテコリンな句、「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」、とか、「女陰あらわ」な句がでてきて、それを誇り、また大衆もそれを賛美することになり果てる
>
> この独創性とかアイデンティティーちうもんは、まあ、いってみれば、目下の悪化した資本主義の権化の知的所有権、商標登録めいたもんであって、本来の文学、詩歌俳句からみれば、価値的にはゴミに等しい

これもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば

> 偉大な思想が、文学が、科学技術が、だうやって生まれてきたか、類想を母として生まれてきたのではないか?
>
> 季語にしたところで、おなじやうなものだ
>
> 先人の季感・風雅の集積の季語が重なったところで、まあ、多少しっつこくはなるが、風雅が減殺されなければよいのであって、季重なんぞことさらに忌諱されるべきもんでもなからう
>
> 季重を忌諱すれば、古来の名歌、名句もみんな駄歌、駄句になり果てる
>
> 連歌、連句時代には、そこに連なる連衆をともにするところの風雅の世界がって、そこからのちょっとしたひねり差異のおもしろみをつらねたのであって、そこから俳句が発句として独立してきて、いまや独創性、アイデンティティー、知的所有権、商標登録、宣伝にうつつをぬかす「現代俳句」ちうのんは、やはりこれもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

妄言、駄現、まあ、なんでもいいのよ、それが目覚めの契機になれば

さて、寝るよりはやや気温もあがってよい妖気なれば、自転車にでものってかっ飛ばすか

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54990] 類想・類相・類争 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 11:26  

のめぬすそANNEX−Ω   訪問者数:12241790(今日:326/昨日:2003)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/06(Fri) 10:35 友引(甲子) 旧暦 12/15 小寒 月齢 13.7 呑めぬ裾

上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8より幾許かを拾って、選りがやや甘くも、よかんべさ、ちうのんは、句作におけるいわゆる類想や季重というものがややあるからであるが、このこともものごとをよく考えてみる契機になりさうである

現今の句作でよく忌諱される類想や季重は、ふんまに忌諱されるべきもんであらうか?

これも、あるいは傍観者風の弊害ともども、現代は句の劣化のもとではないか?

ちう問いをたててみる、以下考えつつ・・

詩歌俳句の世界はもとより、宗教、哲学、思想、科学の世界でも類想は多々あって、その類想の中での差異において独創性、ひいては特許、知的所有権さへ云々されるのではないか?

西田幾多郎の「哲学」でも、西欧、あるいは、仏教からの類想に道々、満ち満ちている

その道々、満ち満ちから、俺はプラトンとは、カント、ヘーゲル、ベルグソンなどなどとは、ここが違うんだということをしっつこく粘り強く低徊的にいっておって、その低徊軌道から励起されるところに、ちょこんと仏教や禅が出てきて、そのちょこんの励起を、だうも、西欧小理屈の延長では「説明」しきれていない憾みもあるが、まあ、そういう類想的哲学でも独奏的ではある

科学にしたって同じことで、追試をしてみているうちに、あれ〜!という事態が発見につながり、そこの差異への思考の試行を重ねていくうちに独創的なもんへ発展することもある

だからして類想は、現今の俳句の世界やその他でいわれるほどに忌諱すべきものではなく

とくに、一個の人間や人類や世界の「救済」や「解脱」や「平和」を「目的」にするのであれば、尊ばれこそすれ、忌諱されるべきもんでもなからう

なぜ、忌諱されるのか?

金子兜太などをみればわかる

これらの現代俳人はいたずらに、己が独創性を追求し、アイデンティティーの希求に奔る

だから、あんな救いもない、ヘンテコリンな句、「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」、とか、「女陰あらわ」な句がでてきて、それを誇り、また大衆もそれを賛美することになり果てる

この独創性とかアイデンティティーちうもんは、まあ、いってみれば、目下の悪化した資本主義の権化の知的所有権、商標登録めいたもんであって、本来の文学、詩歌俳句からみれば、価値的にはゴミに等しい

偉大な思想が、文学が、科学技術が、だうやって生まれてきたか、類想を母として生まれてきたのではないか?

季語にしたところで、おなじやうなものだ

先人の季感・風雅の集積の季語が重なったところで、まあ、多少しっつこくはなるが、風雅が減殺されなければよいのであって、季重なんぞことさらに忌諱されるべきもんでもなからう

季重を忌諱すれば、古来の名歌、名句もみんな駄歌、駄句になり果てる

連歌、連句時代には、そこに連なる連衆をともにするところの風雅の世界がって、そこからのちょっとしたひねり差異のおもしろみをつらねたのであって、そこから俳句が発句として独立してきて、いまや独創性、アイデンティティー、知的所有権、商標登録、宣伝にうつつをぬかす「現代俳句」ちうのんは、やはりこれもまた「傍観者」「大衆」の劣化した類想・類相・類争でしかない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54989] 幾多郎の俳論もなきにしもあらずも、おのずから小理屈の頸の飛んだ風情も味わえる 果たして、俳句というものは世代ごとに劣化してきたやうにおもえなくもない(傍観者化が顕著)Re:[54988] 2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Tue) 21:05  

んそゆやよANNEX−Ω   訪問者数:12238389(今日:416/昨日:1897)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Mon) 16:43 大安(辛酉) 旧暦 12/12 月齢 10.7

暮れなずむ三日の空や鴉飛ぶ

> 初夢や達磨落としの頸が飛ぶ

木槌を横殴りに振って頸が飛んだ

誰かが叫ぶ、そこぢゃない、もっと下、もっと下

ふむ

積みあがった、ああ、罪あがった、達磨落とし、積み木達磨の段々

赤肉団上一無位真人

赤肉段々、いやさ、着膨れの段々から、すっとばせと

天空の氷柱もろとも慧可斬首

慧可断臂にして達磨へ乞う慧可

本来の面目を乞う問僧

一無位真人を乞う問僧

そこで、一無位真人をすらすっとばす

すっとばして拈華微笑ならぬ拈糞微笑は臨済か

乾屎橛は箆ではない、乾いたうんこそのものである、とは入矢の指摘

さうであらう、さうであらう

下から順々に着膨れの段々を飛ばし、赤肉の団々を飛ばし、最後に残った達磨の頭が地に落ちるか

それがそもそもの頭の計らいであるからして、まずは頭を頸から飛ばして仕舞へ

慧可にしてもしかり、叱り

まずは頭を飛ばして仕舞へ

まあ、さういうことであらう


> けさ3日なれば初夢とはいわぬかもしれぬ
>
> 大晦日はかのバカ騒ぎの紅白は忌諱して放送大学の231オーディトリアム「霧の波止場」20:15「我等の障害の最良の年」を経て即寝
>
> 寒暁の底の昏さや一二服
>
> してPCを開くとgreeting from Switzerland2023/01/01 日 05:22毎度のことなれど日本語と英語あるいはドイツ語瑞西語?
>
> なぬ!70歳をゆうに超えて富士登頂とや!
>
> 小生小学生のときの富士登頂を思い出して返答を書いていれば寒暁の朝焼けも闌(たけなわ)
>
> 二日の寒暁は、もったいなくも、室内の明かりを全部を消して、戸越しの寒暁
>
> だうもいけぬ、防火硝子の金網、ガラスの汚れ、果てまた桟へ付着した珈琲の飛沫
>
> アルコールモイスチャーティッシュでふき取り、寒暁の縁取り
>
> 日の出未満がよろしいが、いかにせん、地平線にもろもろの障害物、人工の塵劫物が満ち溢れ、そのなかに埋もれた寒暁

後頭に曙光 前頭にミュシャの薔薇娘

> かう、かう、かう
>
> こう、こう、こう
>
> と「死者の書」で折口信夫
>
> どこかで死者が目覚めへ、かう、かう、かう、と魂を招く、招魂、よばう、夜這ふ、呼ばう
>
> こう、こう、こう
>
> 五木寛之の「風の王国」では、かの百舌、百舌鳥古墳であったが、釈迢空の死者の書では二上山
>
> 死者の四肢の強張り、首の強張り、これはもっかの生者たる自分の身体の強張りにも似て、かう、かう、かう、とよばわれてゐる気
>
> 筆者、読者が磐座に閉じ込められている屍の主人公へトランス
>
> その死者の魂への呼び声、おう、おう、おう、と死者
>
> かういうものも珍しい
>
> 「空海の風景」、なぬゆえに風景か、司馬遼太郎曰く、時の彼方の、遠方の一景にしかずと
>
> その一景をとらえるにそれを取り巻く世界からはじめる、自然にして歴史的世界から
>
> 真逆のこと、真逆の叙述、が「死者の書」の大津の皇子、折口信夫でおこる
>
> これはある意味、宗教、哲学を考えるうえで、とくにかの、七転八倒、自我の格闘の西田幾多郎のもろもろの言説を解く機でもありうる

西田幾多郎のあの「世界」や「場所」やはり子供のころの「世界」や「場所」が老けただけであって、「世界」や「場所」から見た「自己」が客観的なるものとは、まことに噴飯ものであるが、深刻なカルトへの第一歩でもある

その第二歩、大散歩は「日本文化の問題」岩波新書 R60 1940年3月30日第1刷 2018年第7刷 に明らかである

1940年11月第二回文化勲章受章

まさにカルト的大日本帝国軍部狂相のよってたつ皇室への帰依を説く思想「哲学」は「文化勲章」にあたいしたのあらうね

そこにいたるまでの軌跡をいかに自我の格闘、「自己」と「世界」「場所」との闘争とみようが、徹頭徹尾、自我も場所も世界も、いかに「つつみ」「つつまれ」といおうとも、対象化し、他化してしか、ものを考えられぬ、覚りえぬ、不覚の頭なれば、「西田哲学」が禅の哲学化を果たしたというような世間の評(西田自身が云っている)は、まったく噴飯ものとしか、言いようがない

その証拠は禅語の幾許かを引用するに、まるで的外れの解釈めいたものが、其処此処ででてくる「西田哲学」

とはいえ、井筒のキーワードが「溶ける」としたら、西田幾多郎のキーワードは「包む」であり、そのかぎりにおいては、味わうべきところも多々ある

しかしながら・・

「西田哲学」のその動態においては自我のサーカスにして自己矛盾の格闘と闘争であり、存在に悪魔で(あくまで)コダワルのも、存在をいくら言葉の上で否定しやうとも、存在を前提としたカルト主義へ沈潜して、それから脱却し得ぬ、そこのところが西欧からも歓迎され、はたまた大日本帝国天皇神権主義からも評価された所以であらう

西田幾多郎の頭もまた斬って捨てたはうがよさそうだ

小理屈の頭を斬って捨てたうえで味わえば、また別の趣きも学びもあらうというもの

> かくして、2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で・・

ところで、孫娘の上田薫編「西田幾多郎歌集」岩波文庫 青124-8 より小理屈の頭を斬って捨てた(とおもえる)句を幾許かを

1890年(西田19歳)

   新年
1 百八の鐘に打ち出す玉の春 

から始まり・・

1903年(西田33歳)

4 出代(でがわり)や手拭三筋下駄二足

10 大寺の屋根葺いてゐる日永哉

11 砂浜に小貝を撰む長閑(のどか)さよ

12 七島は霞みて海の入日かな

15 雉子(きじ)なくや渓を隔つる五戸の村

17 馬にして虻(あぶ)うち払ふ山路哉

18 石磴の苔滑らかや落椿

19 塀尽きて小さき橋あり夏柳

25 廻廊に昼寝の笠や知恩院

28 五月雨や崖崩れたる水車小屋

30 蟷螂が覗く障子の破れ哉

32 賢や愚や蛇竹林の孔に入る

33 磯臭き橋下に憩ふ残暑哉

34 敗兵の野道に病むや秋の風

35 謎々に子供集まる囲炉裏哉

36 鉢叩(はちたたき)六波羅殿の門を過ぐ


1904年(西田34歳)

39 猿曳の背にねる猿や戻りみち

40 弾初(ひきぞめ)やぷつと切れたる一の糸

42 型を切る染屋の縁や暮遅き(エンは糸偏ではなく木偏)

51 摘草や木の根にはたく下駄の土

54 芝能や片袖くらき捨篝(すてかがり)

55 十郎の袖に燃たつ薪(たきぎ)哉

56 壺焼や津々浦々の夕霞

59 篳篥に蝶の舞ひくる社殿哉

61 春の野や黛(まゆずみ)青き少納言

65 炉開や低うつりたる自在鍵

68 熊炙る梁山泊の軍師哉

69 夕霧や麓の家のちょろちょろ火

70 燈遠く寂光院の秋の暮

73 野鼠のつと走り行く芒(すすき)哉


1905年(西田35歳)

74 豁然と岩を割つたる清水かな

75 神曲や三界の夢明け易き(ダンテ)

76 浜料理刺身のつまに風薫る

77 雨となる狼谷の火串かな

79 石の下に魔を封じけり木下闇(こしたやみ)(テンペスト)

81 甘酒の釜に沈みぬ金柄杓


この間、27年間の句作の掲載なく・・


1932年(西田62歳)

84 猫とわれ暖炉をかこむ夜寒かな


1937年(西田67歳)

88 土蔵ずまひ何しに来たと一茶云ふ

89 秋ひよりけふは一茶も留守の様

(完)

ああ、疲れた

ま、西田幾多郎の供養としては、選りがやや甘くも、よかんべさ

とくに、絶句の88.89番「何しに来たと一茶云ふ」「けふは一茶も留守の様」は味わい深い

それにしても幾多郎の句の風情は蕪村に近く、芭蕉に遠い

加之

いまどきの金子兜太や中村和弘らの句とは如何ばかりちがうか

はたまた、かの当時の

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規 1900年

正岡子規や高浜虚子、それらの後継者らの俳句とも如何ばかりちがうか

幾多郎の俳論もなきにしもあらずも、おのずから小理屈の頸の飛んだ風情も味わえる

果たして、俳句というものは世代ごとに劣化してきたやうにおもえなくもない(傍観者化が顕著)

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54988] 2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Tue) 14:57  

むはんやくANNEX−Ω   訪問者数:12238389(今日:383/昨日:1897)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2023/01/03(Mon) 13:35 大安(辛酉) 旧暦 12/12 月齢 10.7

初夢や達磨落としの頸が飛ぶ

けさ3日なれば初夢とはいわぬかもしれぬ

大晦日はかのバカ騒ぎの紅白は忌諱して放送大学の231オーディトリアム「霧の波止場」20:15「我等の障害の最良の年」を経て即寝

寒暁の底の昏さや一二服

してPCを開くとスイスの友人より賀状来てgreeting from Switzerland2023/01/01 日 05:22毎度のことなれど日本語と英語あるいはドイツ語瑞西語?

なぬ!70歳をゆうに超えて富士登頂とや!

小生小学生のときの富士登頂を思い出して返答を書いていれば寒暁の朝焼けも闌(たけなわ)

二日の寒暁は、もったいなくも、室内の明かりを全部を消して、戸越しの寒暁

だうもいけぬ、防火硝子の金網、ガラスの汚れ、果てまた桟へ付着した珈琲の飛沫

アルコールモイスチャーティッシュでふき取り、寒暁の縁取り

日の出未満がよろしいが、いかにせん、地平線にもろもろの障害物、人工の塵劫物が満ち溢れ、そのなかに埋もれた寒暁

かう、かう、かう

こう、こう、こう

と死者の書で折口信夫

どこかで死者が目覚めへ、かう、かう、かう、と魂を招く、招魂、よばう、夜這ふ、呼ばう

こう、こう、こう

五木寛之の風の王国では、かの百舌、百舌鳥古墳であったが、釈迢空の死者の書では二上山

死者の四肢の強張り、首の強張り、これはもっかの生者たる自分の身体の強張りにも似て、かう、かう、かう、とよばわれてゐる気

筆者、読者が磐座に閉じ込められている屍の主人公へトランス

その死者の魂への呼び声、おう、おう、おう、と死者

かういうものも珍しい

空海の風景、なぬゆえに風景か、司馬遼太郎曰く、時の彼方の、遠方の一景にしかずと

その一景をとえるにそれを取り巻く世界からはじめる、自然にして歴史的世界から

真逆のこと、真逆の叙述、が死者の書の大津の皇子、折口信夫でおこる

これはある意味、宗教、哲学を考えるうえで、とくにかの、七転八倒、自我の格闘の西田幾多郎のもろもろの言説を解く機でもありうる

かくして、2023年三賀日がすぎゆく午後の日差しの中で・・

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54987] 寒暁とわたくしといふ現象 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/29(Thu) 08:00  

されわみきANNEX−Ω   訪問者数:12231969(今日:177/昨日:389)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/29(Thu) 06:55 赤口(丙辰) 旧暦 12/7 月齢 5.7

寒暁はまことに美しい

老いてこその賜物であらう

若い時はいぎたなく眠り続ける

ウィリアム・ジェームス「純粋経験の哲学」1904^5年 2004年 岩波文庫 青640-6

これらの論文はだうもあくまでも存在を前提にしている議論で、ゆえに「『意識』は存在するのか」というような問題設定をするのであって、さういう前提のない文化に育まれたものとして違和感を覚えざるをえない

寒暁に、ふと「わたくしといふ現象」を思い出す

宮沢賢治の「「春と修羅」の序において曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

こういう世界から存在をあらゆることの前提にし、それを疑い、やれ現象学だなんだかのというこうるさい議論、「現象の裏になにが『ある』か」などに巻きまれる喧噪に比して、なんと静謐にして美しい寒暁であらうか

どうも、その存在論の余波をくらって、日本語の「である」も存在をあらわす言葉としてかの喧噪においては云々されるが、さういうもんなのであらうか

だうも、論理も存在とごちゃまぜにされてしまっている気配が濃厚である

寒暁のなかに己が溶け込む

これは、貴重な瞬間だ

真言密教の月輪観でもおなじこと

坐禅で畳や床が溶け己も溶けてしまうこと

みんな溶けて解けてしまう

だからといって、空海のやうに宇宙の盟主の大日如来を想定することもなく、はたまた己が盟主になることもない

そこを間違っちゃいけない

そこを存在という観念からぬけきれぬものは間違い、迷い、カルトに墜ちる

言葉には虚実がある

虚にして実、実にして虚

ただそれだけである

虚があって、実がある、のでもない

実があって、虚がある、のでもない

存在という観念からぬけきれぬもの「絶対矛盾的自己同一」は「絶対同一的自己矛盾」にして、信心脱落も心身脱落もでけていないといわざるをえない

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54986] 絶対同一的自己矛盾 が露わであらうがね、そこではどこまでもいくら言葉の表層で否定しようが他化してしかものがみれぬ遍計所執性的自己がサーカス曲芸でしかない ということは、畢竟西田幾多郎君らは「純粋経験」さえにも「自覚」さえにも至っていないということ もっとも、小理屈の頭の体操としては、西田幾多郎君の絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾もおもしろい、おもしろが、せぜい、そこまでであるRe:[54985] 井筒の(円成実性)と上田幾多郎の(依他起性→遍計所執性)Re:[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/27(Tue) 08:00  

ねてすりけANNEX−Ω   訪問者数:12229681(今日:289/昨日:1004)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/27(Tue) 16:42 仏滅(甲寅) 旧暦 12/5 月齢 3.7

本年は年初より2001/10/07(Sun)Jonathan以来21年ぶりに井筒の「意識と本質」を再読しはじめ、四肢の筋力、体幹の骨力、腑力の鍛錬を犠牲にしつつ、井筒からもろもろに拡がってエリアーデ、オットー、バルト、その他その他詩歌俳句、上田幾多郎まで漁ってみて、すっかり・・

着膨れの心身脱落して眠る

ここのところ昼も夜もねてばかりおり・・

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉(笈日記)

になってしまい、うむ、体力は落ちた、体重と体脂肪は増えた、ゆんべは78.1kg/18.2%で日々100km走っていたころに比し走行距離が突然1/10以下に墜ちた本年の体重は10kg増、命を縮めていのちのありようの反省と精神的鍛錬か

> うけむくりANNEX−Ω   訪問者数:12228866(今日:478/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 11:17 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7
>
> 巖上に盲ひし虎や涛の華
>
> 水無月の雛(ひいな)うそぶく高笑ひ
>
> 2002/06/12 11:50 とある、宝蔵院流の巻が終わって異種試合の不動明王のあたりの欄外の落書き、いったい何をみていたのであらうか、どうも、文面のなりゆきとは雰囲気が違う

これはどうも、その後の落書きによれば、当日、真鶴にでむいたようなので、そのときの景色であらう


> かの大拙の机ガタガタで、粘着積木京都学派は崩れずして上田、うむ、西田幾多郎の大便ばっかすてるから、上田幾多郎とでも呼ぼうか、一瞬ぐらついたかもしれぬが、ガタガタ以降も淡々と上田幾多郎「絶対矛盾底自己同一」を押し通して京都学派形而上学を堅守してるが、あのガタガタで某甲の頭の中の井筒の形而上学も崩れるかとおもったが、意外と井筒も強い
>
> 京都の粘着的唾べとべと形而上学に比して、井筒の形而上学は透明度が高く水晶宮の風を体しているが、なにしろ東洋哲学の共時的「構造」であるからして、耐震構造がなくんば、簡単に崩壊しそうなもんであるが、そこは、運命の機縁というか、井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25 でリジッドな構造体の崩壊を免れている、覚不覚の円環によってね(円成実性)
>
> 上田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」「我は、我なくして、我なり」というドグマチック・テーゼは、だうも、かのニーチェのツァラトストラの綱渡り、サーカスを思わしめる
>
> 上田幾多郎の自己がどこまでも粘着的にへばりついた世界のあちこちにサーカス曲芸ね(依他起性→遍計所執性)
>
> 聖夜のクリスマス、このサーカスにつきまとわれてえらいめをみたが、それもまたよし。
>
> 哲学のドグマ、テーゼも俳句の一句も脱骨換胎でけるとが、まことによろしい。

して、この一年のいのちのありようの反省と精神的鍛錬のゆきつくさきは・・

むっかし、森有正だったか、体験と経験は違うと、体験は経験に高められねばならぬ、というような言説にふれた記憶があるが・・これも生の体験は反省によって経験にならなければならぬ、とのことであったのであらう

して、西田幾多郎君は「純粋経験」から始める、まさにいくら主客の分裂を否定しても経験は反省によるわけで、その反省はあくまでも、自己が自己を反省するわけで、その反省される自己という凝点を反省する自己をいかに場所や世界に展開しようが、そこにはしっつこく纏綿として自己が付着している、自己のサーカスである、ああ、また、おなじことをいっているね

一言でいえば、わが体験に基づけば、口先で「絶対無」だとか「主客なくして」云々といったところで、所詮は自己サーカスの西田幾多郎よりは、井筒の無分別の分別、分節の溶解、無礙、とりたい

実際、自己が溶ける、対象が溶ける、心身脱落、こういう「体験」を西田幾多郎らはしていないのであらう

だから、どこまでも自己や神が純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一のどのフェーズでも遍計所執性的自己が纏綿している、頭の小手先で考えている、小理屈を弄している

純粋経験はジェームスから、自覚はフィヒテから、場所はプラトンから、そして最後のドグマ・テーゼ絶対矛盾的自己同一の、この己が尻尾を噛む蛇的表現

絶対同一的自己矛盾

が露わであらうがね、そこではどこまでもいくら言葉の表層で否定しようが他化してしかものがみれぬ遍計所執性的自己がサーカス曲芸でしかない

ということは、畢竟西田幾多郎君らは「純粋経験」さえにも「自覚」さえにも至っていないということ

もっとも、小理屈の頭の体操としては、西田幾多郎君の絶対矛盾的自己同一にして絶対同一的自己矛盾もおもしろい、おもしろが、せぜい、そこまでである

四肢筋力骨力腑力鍛錬を犠牲にした本年の結論である

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54985] 井筒の(円成実性)と上田幾多郎の(依他起性→遍計所執性)Re:[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 16:42  

うけむくりANNEX−Ω   訪問者数:12228866(今日:478/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 11:17 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7

巖上に盲ひし虎や涛の華

水無月の雛(ひいな)うそぶく高笑ひ

2002/06/12 11:50 とある、宝蔵院流の巻が終わって異種試合の不動明王のあたりの欄外の落書き、いったい何をみていたのであらうか、どうも、文面のなりゆきとは雰囲気が違う

司馬遼太郎著「宮本武蔵」朝日文庫し-49 1999/11/01 1刷 2002/01/30 5刷

2022/06/03 20:12 赤坂Tully'sCoffeeで読み始め

こんころのことだから、たぶんドルチェから抜け出してきて・・

2002/06/12 21:58 去来庵桧の間8+5畳かけいの音、昨日梅雨入、で読了

まあ、蔵書の落書きを読むのもまた楽しみで当時のことが彷彿としてくる

以来この本は震災の散乱の中に埋もれていたのを過日、あまりに遼太郎を腐したから拾い出して雪隠蔵書にしていたが、今朝の午前中開いてみたら、なんとお、書き出しが、かの枯木鳴鵙図で、おもわず再読の憂き目も楽し

三橋敏雄(2001/12/01没)の訃報を受けたのもこの去来庵であったから、再三お世話になっていて、人生の終末、亡くなるまでここに居つくといった湯治客もいて、一緒に食卓を囲んで、ある日突然、ここも廃業するという話がでたか、2002/06/10 21:05に宝蔵院流巻末のメモに、杉風荘廃、とある

元林野庁の寮で、林野庁はまことに方々にお宝をもっておったのは、遼太郎の「土地と日本人」でカラクリが暴露されればあたりまえであるが、惜しい寮を失ったものだ

> れりもらぬANNEX−Ω   訪問者数:12228837(今日:449/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 08:45 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7
>
> 豚を食ふ文殊の国ぞ満州里野

これはだう表記したものか、頭の中にのこっておった満州里野であるが、英語表記のManchuriaだったのね(遼太郎「韃靼疾風録」)

昨日、映画の「ラストエンペラー」で愛新覚羅 溥儀の数奇な運命をやっていた

> > らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7
>
> > ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・
> >
> > > けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
> > >
> > > 無事是貴人
> > >
> > > 龍潜む天の天涯地の地涯
> > >
> > > 地龍湧き昇り天龍となる
> > >
> > > 天龍下り来て地龍となる
> > >
> > > 扨て、佞社サイトをもう一度
> > > http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
> > >
> > > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
>
> > 画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない
>
> とはいえ、巍々突兀の雪舟の風ばかりが画でもなく、平山郁夫の風のあの後光をさしたる如きの人物風景もまた画であらう
>
> > >  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
> > >
> > >  馬の背に朝鮮半島灼けており
> >
> > これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?
>
> とはいえ、この句は画として、わが家の壁に飾ってもよい
>
> というか、すでに飾ってあるのである、かつてホテルオークラの地下道にあった版画を気に入ってギャラリーで購入したものが金の額縁の中で、阿弥陀の画は色あせても、この朝焼けか夕焼けの画は色やけもせずに生き生きとキッチン入口に鎮座まします
>
> 馬の背に朝鮮半島灼けており  和弘
>
> ひるがえって
>
> 豚の背に日本列島灼けており
>
> という景色もあるいはあるかもしれぬが、これでは句にも画にもならぬ
>
> やはり、この日本列島に騎馬民族が到来したその馬の背でなければ画にならぬ
>
> さういう歴史の時間の含みも一服の空間に現わしたところが見所ではある

豚の背はともかくとして愛新覚羅溥儀の目からみれば・・

龍の背に日本列島灼けており

も、真っ当かもしれぬ


> さて、このシリーズでは、もうひとつの犀の一句の画も飾ってもよろしい、どこだ?
>
> > >  むらさきに犀は烟りて大暑なり
> >
> > この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい
>
> おしまいとはいえ、あの動物の不思議さにはえもいわれぬ魅力がたしかにある
>
> これも画にしてもよいが、やはり版画にして「むらさき」がよいかもしれぬ
>
>
> この二句はとれるが、とれぬ句が多々あるなかで、とれぬまでも是一言
>
> > >  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ
> >
> > なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩
>
> 「なにもいっていない」のではなくて、蹄鉄の形、いわばΩのなりに罠のなりをみたのであらうし、この罠なるものが蹄鉄にひるがえって、さきの軍馬と砂鉄のように、一見、便利な文明を起こす蹄鉄が悲惨にもなるという歴史的洞察も込められているのであらうが、いかにせん、「にも似たり」の直喩の乱発には辟易もし、詠者も老いたのかもしれぬと同情を禁じ得ぬ

かの大拙の机ガタガタで、粘着積木京都学派は崩れずして上田、うむ、西田幾多郎の大便ばっかすてるから、上田幾多郎とでも呼ぼうか、一瞬ぐらついたかもしれぬが、ガタガタ以降も淡々と上田幾多郎「絶対矛盾底自己同一」を押し通して京都学派形而上学を堅守してるが、あのガタガタで某甲の頭の中の井筒の形而上学も崩れるかとおもったが、意外と井筒も強い

京都の粘着的唾べとべと形而上学に比して、井筒の形而上学は透明度が高く水晶宮の風を体しているが、なにしろ東洋哲学の共時的「構造」であるからして、耐震構造がなくんば、簡単に崩壊しそうなもんであるが、そこは、運命の機縁というか、井筒の最後の著作「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー大乗起信論の哲学」ーー存在論から意識論へ 1993年 中央公論 2001年 中公文庫B25 でリジッドな構造体の崩壊を免れている、覚不覚の円環によってね(円成実性)

上田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」「我は、我なくして、我なり」というドグマチック・テーゼは、だうも、かのニーチェのツァラトストラの綱渡り、サーカスを思わしめる

上田幾多郎の自己がどこまでも粘着的にへばりついた世界のあちこちにサーカス曲芸ね(依他起性→遍計所執性)

聖夜のクリスマス、このサーカスにつきまとわれてえらいめをみたが、それもまたよし。


哲学のドグマ、テーゼも俳句の一句も脱骨換胎でけるとが、まことによろしい。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54984] 版画2幅Re:[54970] 俳句も人生の一断面、傍観者的詠みをもっては己自身に跳ね返ってこない、にっちもさっちもいかぬ、とっくみあいのない句は、やはり一抹のおもしろさはあっても、所詮はつまらんのね、京都学派蛸壺哲学のように・・Re:[54969] 佞者の上に胡坐をかいて平然と座主鉄面皮の面々 社会の一縮図にして臭気芬々 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 09:27  

れりもらぬANNEX−Ω   訪問者数:12228837(今日:449/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 08:45 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7

豚を食ふ文殊の国ぞ満州里野

> らそぬのむANNEX−Ω   訪問者数:12159417(今日:1145/昨日:298)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/04(Fri) 10:00 友引(辛酉) 旧暦 10/11 月齢 9.7

> ブラフ、豚であっても、おおかみとなすがごときの・・
>
> > けあゆへみANNEX−Ω   訪問者数:12156583(今日:1747/昨日:410)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/11/01(Tue) 20:15 大安(戊午) 旧暦 10/8 月齢 6.7 上弦
> >
> > 無事是貴人
> >
> > 龍潜む天の天涯地の地涯
> >
> > 地龍湧き昇り天龍となる
> >
> > 天龍下り来て地龍となる
> >
> > 扨て、佞社サイトをもう一度
> > http://gendaihaiku.gr.jp/column/2892/
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★


> 画風でいえ、平山郁夫。雪舟の巍々突兀の風に及ぶべくもない

とはいえ、巍々突兀の雪舟の風ばかりが画でもなく、平山郁夫の風のあの後光をさしたる如きの人物風景もまた画であらう

> >  句集『東海』の帯に記されている自選十二句を紹介してみよう。中村和弘氏が描こうとしている世界の一端が見えてくるはずである。
> >
> >  馬の背に朝鮮半島灼けており
>
> これも、「馬の背」で、かの九州の脊振山を思わしめ、そこから朝鮮半島を望んだ風、その「朝鮮半島灼けて」おるのは38度線も思わしめる夕焼けであらうが、で、いったいなんなんだ?

とはいえ、この句は画として、わが家の壁に飾ってもよい

というか、すでに飾ってあるのである、かつてホテルオークラの地下道にあった版画を気に入ってギャラリーで購入したものが金の額縁の中で、阿弥陀の画は色あせても、この朝焼けか夕焼けの画は色やけもせずに生き生きとキッチン入口に鎮座まします

馬の背に朝鮮半島灼けており  和弘

ひるがえって

豚の背に日本列島灼けており

という景色もあるいはあるかもしれぬが、これでは句にも画にもならぬ

やはり、この日本列島に騎馬民族が到来したその馬の背でなければ画にならぬ

さういう歴史の時間の含みも一服の空間に現わしたところが見所ではある


さて、このシリーズでは、もうひとつの犀の一句の画も飾ってもよろしい、どこだ?

> >  むらさきに犀は烟りて大暑なり
>
> この一連では一番。なれどニーチェの嗜好への嗜好でおしまい

おしまいとはいえ、あの動物の不思議さにはえもいわれぬ魅力がたしかにある

これも画にしてもよいが、やはり版画にして「むらさき」がよいかもしれぬ


この二句はとれるが、とれぬ句が多々あるなかで、とれぬまでも是一言

> >  蹄鉄は罠にも似たり冬ふかむ
>
> なにもいっていない衆目をあつめるだけの安易な直喩

「なにもいっていない」のではなくて、蹄鉄の形、いわばΩのなりに罠のなりをみたのであらうし、この罠なるものが蹄鉄にひるがえって、さきの軍馬と砂鉄のように、一見、便利な文明を起こす蹄鉄が悲惨にもなるという歴史的洞察も込められているのであらうが、いかにせん、「にも似たり」の直喩の乱発には辟易もし、詠者も老いたのかもしれぬと同情を禁じ得ず

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54983] 浄穢なし、土は土Re:[54982] 南無愚城八幡大明神Re:[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 07:10  

すえへんくANNEX−Ω   訪問者数:12228504(今日:116/昨日:470)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/26(Mon) 04:00 先負(癸丑) 旧暦 12/4 月齢 2.7 饐片句

着膨れの心身脱落して眠る

ここのところ昼も夜もねてばかりおり・・

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉(笈日記)

の感もあるが、「何で」といって、そりゃあ年食ったからでしょ、とならばトートロジー

人間なべてトートロジーで「我は我なり」であって、「我は、我なくして、我なり」となればトートロジーの間に「我は我なく」の撞着がわりこむわけで・・

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

撞着語法の効果

撞着語法を用いて、受け手に強い違和感を与えることで、言及している内容への興味を誘引したりすることができる。 また、敢えて矛盾した語を以って対象を説明することにより、対象への皮肉としての効果をもつ場合がある。一方で、一見「深い意味や含蓄のある」ように見えて、内容の伴わない単なる言葉遊びに終始してしまうおそれがあるため、注意が必要である。

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

とはいえ、言葉とはさういうものであって、虚実のあいだをいったりきたりする

その虚実の実をみるか、虚をみるか、はたまた虚実もろともをみるか

ゆんべは一晩中、夢のなかで、いやさ、ゆめうつつの中で・・

閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)

の「蝉の声」と「閑さや」に苛まれた


> へはおんけANNEX−Ω   訪問者数:12226430(今日:813/昨日:1147)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 10:31 先勝(辛亥) 旧暦 12/2 月齢 0.7 屁は音気
>
> ねんぶつやひがなひぐらしひなたぼこ
>
>
> ゆんべはよく寝た、20時から08時、途中2度ほど放尿

ともかく寝すぎである

小人閑居して不善をなす

起きていればタバコを喫い四肢と脳がしびれる、ならば寝てしまおう

大人忙居して善をなす

こともなからう


> 重箱の隅を突っつくお節かな

「重箱」の「お節」ではこれもトートロジーもどきであって

重箱の隅を突っつく寒鴉

「寒鴉は我なり」の撞着か

> まあ、数千年来のご馳走宝物の重箱の隅ばかり突かぬで、そのど真ん中のご馳走へ箸を伸ばすのも、手であらう

「聖書」を腐し、「聖なるもの」「預言者」「啓示」擬人化一神教を腐し、それもどきの真言密教、浄土宗、浄土真宗に疑団を抱き、南無大師遍照金剛にも南無阿弥陀仏をも声明称名せず、大日如来も阿弥陀如来も拝せず、とはいえ、西来の来迎阿弥陀まんだら画は色あせて室内にいまだに飾ってあるが・・

わが心のうちにおいては廃しても、わがこころの外の世間では拝している

> > のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔
> >
> > 昼日中師走朔朔月輪観

> > 閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)
> >
> > なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか
>
> 閑さは、閑さならずして、閑さである
>
> 声は、声ならずして、声である
>
> この閑さに神々しささえ感じられる
>
> 神々しさは、神々しさならずして、神々しさである

虚実の言葉

ここにおいては実の「蝉の声」が実の「岩」に「沁み入る」ことによって、虚の「閑さ」へ転じて、その虚にして夢幻無限の「閑さ」が「や」によって切り開かれて、その虚にして夢幻に於いて「神々しさ」さへ感じる

畢竟、「神」「神々しさ」[聖」「聖なるもの」は「虚」において感得される

その「虚」を「実」と妄想するところに下手をすると「カルト」が発生する


とはいえ「カルト」も「カルチャー」の親類なれば・・

「カルチャー」とは耕す、固着した土を掘り起こして耕すわけで、ここにも即非あるいは「矛盾的自己同一」の撞着があってこそのカルチャーにしてカルトであらう・・戦争と平和

年来「聖書」「聖なるもの」「預言者」「啓示」擬人化一神教を腐してきたところが、今年露西亜のウクライナ侵攻を機に、はたまた安倍狙撃を機に統一教会、そのやり口と人格神一神教のまやかしへの、疑団と腐し一段と嵩じてきた



> 人は、人ならざるものをもって、人である
>
> 神は、神ならざるものをもって、神である


> 覚は、覚ならざるものをもって、覚となす
>
> そのならざる多の一をとれば
>
> 覚は、不覚をもって、覚となす
>
> まさに大乗起信論
>
> 善は、悪をもって、善となす
>
> まさに悪人正機


> > なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
> >
> > 娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)
> >
> > *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 娑婆は、娑婆ならざるものをもって、娑婆となす
>
> 浄土は、浄土ならざるものをもって、浄土となす

娑婆も浄土もありゃせんがな

みんな言葉の綾である

ありゃせんもんを、あるとなす


> > この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる
> >
> > いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。
>
> 狂相は、狂相ならざるものをもって、狂相となす
>
> 而して、浄土真宗の犯した罪の数々、親鸞はともかくも、蓮如の時代、ああ、時代は歴史
>
> 歴史は、歴史ならざるものをもって、歴史となす
>
> 一向一揆
>
> あれだけの石山寺、大阪城、京都の東西本願寺の広大な伽藍、京都火葬場の専用火葬炉、買官行為を重ねて、皇族に連なる、あくどさ
>
> 官位を買う金、城伽藍の構築費用、専用特別火葬炉を設置する着膨れた気位とあぶく銭

官位は冠位

> 而して、そういう財源はどこから来たか?
>
> 京都五山、鎌倉五山の費用は、天皇家あるは将軍家から来た
>
> 浄土真宗の費用は、民の膏血から来た
>
> 鹿児島ほかの「隠し念仏」「カヤカベ」島津ほかが藩内の金を藩外に流出させる浄土真宗を禁宗となした

「隠し念仏」「隠れ念仏」

> いまは、安倍も岸田も国内の金が国外に流出させる統一教会を禁宗としない
>
> かつて、原罪という洗脳をもって教皇は、贖罪として膏血を集めまくって贅の限り尽くした
>
> 西田は、煩悩を原罪とするが、そんなもんでもなからう
>
> うまれながらに原罪にして煩悩がある、だから、金を払え
>
> これは、まるで、教皇のやりかたにして文鮮明のやりかた、であらうがな
>
> 創価学会、立正佼成会、真如苑、だうして、あの立派にして不必要ともみえる豪奢華麗な施設を構築しえたのであらうか?
>
> 宗教団体の特権に胡坐をかき、免税のうえに、庶民の膏血を貪った挙句の果ての愚城であらう
>
> 南無愚城八幡大明神

浄土は、穢土をもって、浄土となす

穢土は、浄土をもって、穢土となす

浄穢なし、土は土

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54982] 南無愚城八幡大明神Re:[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 12:19  

へはおんけANNEX−Ω   訪問者数:12226430(今日:813/昨日:1147)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/24(Sat) 10:31 先勝(辛亥) 旧暦 12/2 月齢 0.7 屁は音気

ねんぶつやひがなひぐらしひなたぼこ


ゆんべはよく寝た、20時から08時、途中2度ほど放尿

重箱の隅を突っつくお節かな

まあ、数千年来のご馳走宝物の重箱の隅ばかり突かぬで、そのど真ん中のご馳走へ箸を伸ばすのも、手であらう

> のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔
>
> 昼日中師走朔朔月輪観

よく寝て今朝の日向ぼこでふと浮かんできたご馳走を食う、毒もろともにご馳走

> 果たして何が観えるか、色々
>
> かの西田幾多郎の「哲学」の変遷、而してその手の哲学がもてはやされる所以は如何?

まず「我は我なり」を上田閑照は、そこに「切れ」目をいれて「我は・我ならずして・我なり」という、低徊的にしっつこくどこでもどこまでも言い募るのは、上田も幾多郎も似たようなもんで、辟易として食傷気味なるも、適当に見繕って、もう一度食ってみやう

上田閑照著「経験と場所」哲学コレクションU岩波現代文庫G180 2007年 初出1991−1998年 に曰く

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

純粋経験/自覚/場所という動的な連関としての自覚は、「我は、我なくして、我」と言い、その際、「我なくして」において具体的な実質が原与されるとともに限りない開けに通じています。
・・・・このことは。裏側から言えば、「我は」と言いだしたときに「我なくして」を閉ざす強くて暗い我性を照らしだすことになります。「我」というあり方における「我性」と「我なし」との葛藤について「我々の心は、本来、神と悪魔との戦場である」と言い、それと結びついてまた世界の深く暗い矛盾が西田において次第に大きく正面に出てくるようになります。「われ」、すなわち、「我は我なり」というとき開かれた自覚か自意識かになる両義性の極限的現実性が現れてきます。最後の論文「宗教論」(1945)では「苦悩の世界」「業の世界」「絶対悪の世界」「悪魔的世界」という言葉さえ出てきます。自覚のうちでそこまで照らしだされてくることになります。p177

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

> 純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一

この「我は、我なくして、我」であることは「絶対矛盾的自己同一」のもっとも原型的な変奏であらう。

而してこの「絶対矛盾的自己同一」はさまざまに変奏される

> よくみれば薺花さく垣ねかな 芭蕉(続虚栗)
>
> これを上田閑照は、西田幾多郎の「純粋経験」のありようとして引いている、大拙もとったと・・某甲の記憶では西谷もとっているね、この駄句を
>
> これは「純粋経験」でもなんでもない、よくみれば、ね
>
> よくみれば、主客分裂の最たるもんであって、それが如実に上五の小理屈にあらわれている
>
> 師系の誰それがとっているからと師承相伝でその愚を繰り返すのは、如何に師を尊ぶにしてもいかがなものか

などといえば、大拙、西谷、上田ともどもからお叱りの呵々大笑くるかもしれない

「よくみれば」の「みる」ことさえも、「絶対矛盾的自己同一」にみれば「みることは、みることにあらずして、みる」んだ、とね

このバリエーションはどこまでつづく、たとえば先に引用した

> 「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370

でも同じ構造であって、世の中のどこにでも「絶対矛盾的自己同一」てき観方は適用できる、日向ぼこしながら、様々に想念を巡らして、あれもこれもと万様に応用してみれば、ひなたひぐらし老残の身も退屈しない

言葉はである、而して、言葉は言葉ならざるして言葉である

> この上田閑照にも、さんざん某甲も世話になっている、世に流布する大拙その他の京都学派の著作の編者としてね。2019年に逝去のよし、祈冥福。
>
> しかし、おかしいところはおかしいのね。おかしいと疑うところから、また上田閑照が繰り返すハイデッガー由来の「開け」の術語よりして、気づくことは・・
>
> 俳句には、芭蕉の「この一筋」の雪舟のように、「開け」がある、すなわち、短詩の一句に夢幻にして無限への「開け」が拡がり、その閉塞の「開け」が無明の[明け」でもあらうがね、芭蕉の「奥の細道」さえ、の細道の上下左右にひろやかに[開け」がある
>
> 閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)
>
> なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか

閑さは、閑さならずして、閑さである

声は、声ならずして、声である

この閑さに神々しささえ感じられる

神々しさは、神々しさならずして、神々しさである

>
> 「や」の切れ字がこれほどまでに効いている句は・・
>
> 古池や蛙飛びこむ水のをと 芭蕉(春の日)

古池は、古池ならずして、古池である

ここにエリア―デ的世界樹、その更新を、かつてみたが、そこの「古池」たる「世界」が更新される、蛙の画く波紋の拡がりの「場所」の更新であらうが、その機も音から画になってくる

時間的な音、と、空間的な画の交わり

間をとれば時空の交わり

これも、西田・上田ならずもの、ああ、ならず者、そこここで論じられている

画は、画にあらずして、画である

形相は、形相にあらずして、形相である

而して、これら「あらずして」あららぬものを空とすれば

色即是空・空即是色

であるが、空ならざるものをもってくれば

一即多・多即一

であって、このを一を多とする、多を展開すれば、あらゆる二元論的対立物を即となすわけであって

花といえば、花ならざるものがあって(裏打ちされて)、花である

あるがごとく

万物は、万物ならざるものをもって、万物である

人は、人ならざるものをもって、人である

神は、神ならざるものをもって、神である

> 「や」を「切れ」字というのも、むべなるかな、一句一章的な窮屈さ、閉塞を限りない風光、無限の世界に解放する

開けは、開けなざるものもって、開けとなす

明けは、明けなざるものもって、明けとなす

覚は、覚ならざるものをもって、覚となす

そのならざる多の一をとれば

覚は、不覚をもって、覚となす

まさに大乗起信論

善は、悪をもって、善となす

まさに悪人正機

> 而して、先に見た、金子兜太にせい、中村和弘にせい、どうも切れ字のないのっぺり、べっとりした句がほとんど
>
> 開けのない閉塞のなかで言葉遊びに興じる、ちうか、狂じる風景

狂は、狂ならざるものもって、狂となす

> 風光ではなく、造作された風景の味わいの味気無さ、かの兜太寿司、和弘寿司で、くえぬ、くえぬ、は、やはりやむをえない、なんぼ幾許かの交誼があったにしても・・

風景は、風景ならざるものをもって、風景となす

交誼は、交誼ならざるものをもって、交誼となす

> おなじ風が、西田幾多郎にも、ある。その上田閑照ハイデッガー的「開け」を加味した「場所」「世界」に於てね。

場所は、場所ならざるものをもって、場所となす

> 空海の真言密教、これへは上田閑照は特に親しんだはずで、幾多郎君においてはさしたる言及もなけれども・・
>
> 「空海の風景」司馬遼太郎 昭和53年 中公文庫A2-7 に曰く
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。・・・仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という「三密」をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> なにか、幾多郎君や上田閑照の描く「場所」「世界」に似ている

世界は、世界ならざるものをもって、世界となす

>
> 而して、幾多郎君は、いってもれば、空海ではのうて、覚鑁的であるのね
>
> なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

娑婆は、娑婆ならざるものをもって、娑婆となす

浄土は、浄土ならざるものをもって、浄土となす

> 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以
>
> それしても、いいたいことは多々ある某甲の頭が混乱してるが、ただ一言だけいっておけば・・
>
> この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる
>
> いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。

狂相は、狂相ならざるものをもって、狂相となす

而して、浄土真宗の犯した罪の数々、親鸞はtこまくも、蓮如の時代、ああ、時代は歴史

歴史は、歴史ならざるものをもって、歴史となす

一向一揆

あれだけの石山寺、大阪城、京都の東西本覚寺の広大な伽藍、京都火葬場の専用火葬炉、買官行為を重ねて、皇族に連なる、あくどさ

官位を買う金、城伽藍の構築費用、専用特別火葬炉を設置する着膨れた気位とあぶく銭

而して、そういう財源はどこから来たか?

京都五山、鎌倉五山の費用は、天皇家あるは将軍家から来た

浄土真宗の費用は、民の膏血から来た

鹿児島ほかの「隠し念仏」「カヤカベ」島津ほかが藩内の金を藩外に流出させる浄土真宗を禁宗となした

いまは、安倍も岸田も国内の金が国外に流出させる統一教会を禁宗としない

かつて、原罪という洗脳をもって教皇は、贖罪として膏血を集めまくって贅の限り尽くした

西田は、煩悩を原罪とするが、そんなもんでもなからう

うまれながらに原罪にして煩悩がある、だから、金を払え

これは、まるで、教皇のやりかたにして文鮮明のやりかた、であらうがな

創価学会、立正佼成会、真如苑、だうして、あの立派にして不必要ともみえる豪奢華麗な施設を構築しえたのであらうか?

宗教団体の特権に胡坐をかき、免税のうえに、庶民の膏血を貪った挙句の果ての愚城であらう

南無愚城八幡大明神

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54981] 宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以、いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 14:17  

のほなちうANNEX−Ω   訪問者数:12225401(今日:931/昨日:430)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/23(Fri) 11:32 赤口(庚戌) 旧暦 12/1 月齢 29.2 新月 朔

昼日中師走朔朔月輪観

果たして何が観えるか、色々

かの西田幾多郎の「哲学」の変遷、而してその手の哲学がもてはやされる所以は如何?

純粋経験→自覚→場所→絶対矛盾的自己同一

よくみれば薺花さく垣ねかな 芭蕉(続虚栗)

これを上田閑照は、西田幾多郎の「純粋経験」のありようとして引いている、大拙もとったと・・某甲の記憶では西谷もとっているね、この駄句を

これは「純粋経験」でもなんでもない、よくみれば、ね

よくみれば、主客分裂の最たるもんであって、それが如実に上五の小理屈にあらわれている

師系の誰それがとっているからと師承相伝でその愚を繰り返すのは、如何に師を尊ぶにしてもいかがなものか

この上田閑照にも、さんざん某甲も世話になっている、世に流布する大拙その他の京都学派の著作の編者としてね。2019年に逝去のよし、祈冥福。

しかし、おかしいところはおかしいのね。おかしいと疑うところから、また上田閑照が繰り返すハイデッガー由来の「開け」の術語よりして、気づくことは・・

俳句には、芭蕉の「この一筋」の雪舟のように、「開け」がある、すなわち、短詩の一句に夢幻にして無限への「開け」が拡がり、その閉塞の「開け」が無明の[明け」でもあらうがね、芭蕉の「奥の細道」さえ、の細道の上下左右にひろやかに[開け」がある

閑さや岩に沁み入蝉の声 芭蕉(おくのほそ道)

なんとひろやかな開けにして沈黙であらうか

「や」の切れ字がこれほどまでに効いているくは・・

古池や蛙飛びこむ水のをと 芭蕉(春の日)

「や」を「切れ」字というのも、むべなるかな、一句一章的な窮屈さ、閉塞を限りない風光、無限の世界に解放する

而して、先に見た、金子兜太にせい、中村和弘にせい、どうも切れ字のないのっぺり、べっとりした句がほとんど

開けのない閉塞のなかで言葉遊びに興じる、ちうか、狂じる風景

風光ではなく、造作された風景の味わいの味気無さ、かの兜太寿司、和弘寿司で、くえぬ、くえぬ、は、やはりやむをえない、なんぼ幾許かの交誼があったにしても・・

おなじ風が、西田幾多郎にも、ある。その上田閑照ハイデッガー的「開け」を加味した「場所」「世界」に於てね。

空海の真言密教、これへは上田閑照は特に親しんだはずで、幾多郎君においてはさしたる言及もなけれども・・

「空海の風景」司馬遼太郎 昭和53年 中公文庫A2-7 に曰く

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真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。・・・仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という「三密」をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた・・

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なにか、幾多郎君や上田閑照の描く「場所」「世界」に似ている

而して、幾多郎君は、いってもれば、空海ではのうて、覚鑁的であるのね

なんとなれば、西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」において、悪魔、戦争、民族を論じ、国家を論じ、その最後の最後において曰く、大拙の浄土思想論を引いて・・

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娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆の聯貫性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著「浄土系思想論」)。私は此から浄土真宗的国家というものを考え得ると思う。国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。(これで「場所的論理と宗教的世界観」了)

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宇宙の気息と一になる真言密教へ浄土教をひきいれてた覚鑁に幾多郎を擬する所以

それしても、いいたいことは多々ある某甲の頭が混乱してるが、ただ一言だけいっておけば・・

この真言宗も浄土宗、真宗も、みな大乗仏教の中ではもっとも擬人化一神教に近い宗派であって、それこそ、空海が入唐の折、ネストリウス派、祆教に触れたか、空海の触れた密教がすでに祆教に触れていて、その思想に薫習されていたことも、考えられる

いづれにしても、この狂相のことはよく考えてみませう。

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54980] 人間の器量が期せずして暴露されているRe:[54979] なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?ガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか? 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/22(Thu) 23:40  

めしもへなANNEX−Ω   訪問者数:12224356(今日:316/昨日:2491)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/22(Thu) 22:54 先負(己酉) 旧暦 11/29 冬至

生者死者浮かぶまなうら冬至風呂

亡き母の田舎より来し柚子三個

> 西田幾多郎「自覚について」他四編 西田幾多郎哲学論集V 上田閑照編
>
> 2004/06/23 00:45 古遠部温泉 毒蛇来襲
>
> 最初からp267「自覚について」までで読み止し終わっている、毒蛇と格闘したのであらうか?

この毒蛇は西田幾多郎かもしれぬ

> ぱらぱら「デカルト哲学について」は飛ばして西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」
>
> もう、滅茶苦茶でんの、支離滅裂、そんでも幾許か同感するところもなくもないが・・あいかわらず「ねばならぬ」「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の連発
>
> なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?

鈴木大拙著 佐々木閑訳 「大乗仏教概論」2016年 岩波文庫青323-4

けふ偶々読んでいてのだが、この分厚い本は2004年にやっと邦訳されたが、原著は英語で1900年とか、大拙30歳のときの著作というからまことに驚異的大拙であらうが、ともかくも1901年に出版されると大拙はすぐに西田に送っている

そのなかに、だうも後年の西田の「世界」とか「場所」になりそうな箇所があったが、大拙は場所的なものいいはせず、管見にしても最期まで「場所」的な思想は展開していない

この大乗仏教概論執筆前に翻訳出版した大乗起信論にのっとって真如を論じいるあたりであって、夜も更けてきたから、該当箇所を検索して記すのは別途とし、ベッドベッド、眠いね無位


それより注目なのは真っ向から妄想と斬り捨てている人格神的一神教形而上学、これを当時のアメリカで西欧にむけて言い切って出版したのだから、西田がその後人格神的一神教形而上学へ迎合的論を展開したのとは大違いである。

例えば鈴木大拙著 佐々木閑訳 「大乗仏教概論」2016年 岩波文庫青323-4の第四章「知識の分類」妄想(遍計所執性)に曰く

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我々の精神現象の背後に形而上的主体が存在すると信じることは、経験によっても健全な判断によっても確証されないのであるから、それは単に、いまだ覚醒していない主観が産み出したものにすぎない。
この倫理的で哲学的なエゴイズム以外にも、呪術崇拝や偶像崇拝、神人同形論、神人同性論などといった実体のない主観的妄想に基づいて形成されたすべての世界観は妄想を前提とした考えとして、遍計所執性に分類されねばならない。

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> 思い出すね、某甲の子供のころ
>
> この世は夢か幻か?
>
> あの世はあるのか?
>
> ようは、「場所」とか「世界」のことは子供でも考える
>
> 梅原猛に言わせれば「この世のさかさまがあの世」というのは、いかにも漫画であるが、まあ、それも京都学派的「逆対応」なのかもしれぬ
>
> ようは子供が考えたことを良い都市にして年の大人が幾許かの西欧哲学、東洋哲学、ユダヤキリスト教、仏教、浄土真宗、禅のコトバの幾許かを流用し概念化し、その概念とコトバの積み木で積み木崩しをしている、まあ、賽の河原の石積み崩し、シジフォスの神話、こどもの素朴な疑問が大人化して、概念の唾でねぶられ、べとべとにして、いかにもシャーマン、巫覡化して、喧噪の極みに達して叫び続ける「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」「ねばならぬ」の連続
>
> 躁うつ病の気も顕著に感じる、さうでなくんば、あれだけしっつこく言語矛盾、論理矛盾、を「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の宣教のもと、自他に対して「ねばならぬ」といいつづけることはできまい
>
> 例えばほんの一部をちょっとだけ
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> 「真の絶対者は悪魔的なるものにまで自己を否定するものでなければならない、そこに宗教的方便の意義がある。」p367
>
> 「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370
>
> 「意志とは、我々の自己が世界の自己形成点として、世界を自己に表現することによって、世界の自己表現としては、歴史的世界形成の力を有ったものでなければならない。宗教家の「神の言葉」というものは、かかる立場から把握せられなければならない。」p372
>
> 「言葉が神と人間の媒介となるのである。神と人間との関係は、機械的でもない、目的的でもない、否、理性的でもない。神は絶対的自己同一的に、絶対的意志として、我々の自己に臨んで来るので有る、形成的言葉として自己自身を表現してのである。これが啓示で
> ある。」p373
>
> 「絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現によるほかはない、言葉によるほかはない。」p374
>
> *:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★
>
> さてこの後もp378〜からの長い引用をしたいし、戦争の大政翼賛的な種を宿し、それを声高に唱えた京都学派の弟子らが生まれたあたりのものも引用したいが、つかれたので。またとするが、まあ、躁鬱的な哲学に付き合うのも疲れますね。

この躁鬱的叫喚、その口吻はともかくとして、おなじく躁鬱の気がある某甲にして概念要素、思想要素の幾許かには共感せぬところもなきにしもあらずであるが、躁鬱でないとしても、あの「ねばならぬ」連発の口吻については、まことに世間でよく見かける傾向を発見した

西田幾多郎全集 第13巻 岩波書店 昭和41年 小篇を見ていると

明治37年1904年幾多郎34歳「自覚主義」までは「あると思ふ」「かも知れない」「と考えてる」とか、後年にくらべて、つつましやかである

ところが・・

その「自覚主義」につぐ少篇「純粋経験相互の関係及連絡について」明治43年1910年幾多郎40歳になると1911年の「善の研究」と同じく、あの傲慢な「ねばならぬ」の連発になる

この間に幾多郎君に何かが起こったようだと、年表をみると・・

そう、1910年に、それまでのあっちこっち点々していた生活から足を洗って、一転して、京都帝国大学助教授の辞令、その後3年で教授になる

まあ、器が小さければ有頂天にもなるでしょう

某甲の時代でもこういう輩は、あの壇上で絶叫する学生運動家はもとより、教壇にたつアカデミズムの塔でもよくあった風景で、まるで人間が変わったような昂奮と口吻になる

ここらへんに、なんというか、人間の器量が期せずして暴露されている

> この西田の弟子らの前で大拙が、突然目の前の机をガタガタとゆすって、禅とはこういうもんだ、といったと上田は何度も記している
>
> このガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか?

これは、幾多郎君が亡くなってのずっとあとで、大拙も久松も、某甲の管見では、禅は哲学でも宗教でもない、と言い切っている

> 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


[54979] なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?ガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもっわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか? 気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね 投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/20(Tue) 22:54  

こちくせせANNEX−Ω   訪問者数:12221491(今日:1200/昨日:644)投稿者:梵@天地獄 投稿日:2022/12/20(Tue) 20:37 先勝(丁未) 旧暦 11/27 月齢 26.2

りんりん、インフルエンザワクチン接種お願いします

在庫が切れました

いつ?

今月の始めだったかしら・・

みんなどこも在庫切れ?

さあ、うちはうちですから

嗚呼、オタクは駅前だからね、さいなら

と、コロナワクチン5回目以来3週間以上経ったし、そろそろインフルエンザ予防、さいわい65歳以上は無料自治体ゆえ、さて、どこにすんべえか、と指定医療機関をながめると、うむ、10歳ほど若い幼馴染のかわゆいが頭は?の子がやっているレディースクリニック!駅からも離れているし・・男はこないし・・

彼女の両親は夫妻ともども医博で、産婦人科をやっていて、某甲が亡父と多摩川に釣りに行って堰下の苔生した玉石を跳んで走って足を滑らせ、しこたま頭を打って、人差し指が頭にずぶりと入る大怪我をしたのが、日曜日で、近所の外科も休業、亡父が隣の誼で産婦人科も外科系だから、頭の傷の修理もでけんべ、と当時の目玉のダットサンピックアップのエンジンクランクをぶんまわして急行してもれば、院長の旦那さんが、こりゃひどい、だいぶ縫わねばならんが、頭蓋骨はどうも割れていないようだから、と今でも顕著な傷に残る大傷を、幸いにぱっくり横一文字を10針ほどぬって、いらいショックで勉強の成績が鰻登りの御恩に恵まれた縁起の良い夫妻の娘にして、親御ご夫妻の産婦人科は看護婦住み着き寮化し、少子化で患者が減るとともに博士の相場取引で、入院施設付き医院まるごと処分して、住み込み看護婦なし入院患者なしの小規模診療所を開設しなおし、娘二人を聖マリアンナへおくって医者にして、その妹が駅前クリニックから、駅から離れた大通り沿いの斎場の向い側に瀟洒なレディースクリニックを開設

男でもいいですか?

どうぞ、本日でもけっこうですが・・

(穴場だね)院長は○○子さん?

いえ、▽▽子さんです

さうか、近所の幼馴染、お会いできるかどうかしりませんが、じゃあ、16時でお願いします

本日は日銀の政策転換で市場が暴落、ドル円5円暴騰の後片付けは後回しにして、徒歩で1000歩

居心地のよいソファと淡いピンクベージュのインテリアの待合室で問診票を書く

既往症→腎臓結石、35年前

担当医からインフルエンザ予防接種の了解をととったか?→いいえ

受付に問診票を戻すと・・

これ問題ですね〜、御了解をとられていないんですか?

もう主治医の名医長久保さんはお亡くなりになったかもしれませんし、なにしろ35年前だし・・

お薬は?

35年前だし、よくおぼえていません、今は牛乳以外何も飲んでいませんよ

ほかのお医者さんにはかかっていないんですか?

35年前だし整体、いやいや、今はどこにもかかっていません

やれやれ、極上ソファにもたれて、背中から取り出した岩波文庫一冊青124-6

西田幾多郎「自覚について」他四編 西田幾多郎哲学論集V 上田閑照編

2004/06/23 00:45 古遠部温泉 毒蛇来襲、

最初からp267「自覚について」までで読み止し終わっている、毒蛇と格闘したのであらうか?

ぱらぱら「デカルト哲学について」は飛ばして西田幾多郎最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」

もう、滅茶苦茶でんの、支離滅裂、そんでも幾許か同感するところもなくもないが・・あいかわらず「ねばならぬ」「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の連発

なべて言語矛盾であって「ねばならぬ」という口吻ですら、それが「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」を正当化するのであれば、まったく「ねばならぬ」ということはないのであって、この西田幾多郎君の頭の中はどうなっているのだらうか?

思い出すね、某甲の子供のころ

この世は夢か幻か?

あの世はあるのか?

ようは、「場所」とか「世界」のことは子供でも考える

梅原猛に言わせれば「この世のさかさまがあの世」というのは、いかにも漫画であるが、まあ、それも京都学派的「逆対応」なのかもしれぬ

ようは子供が考えたことを良い都市にして年の大人が幾許かの西欧哲学、東洋哲学、ユダヤキリスト教、仏教、浄土真宗、禅のコトバの幾許かを流用し概念化し、その概念とコトバの積み木で積み木崩しをしている、まあ、賽の河原の石積み崩し、シジフォスの神話、こどもの素朴な疑問が大人化して、概念の唾でねぶられ、べとべとにして、いかにもシャーマン、巫覡化して、喧噪の極みに達して叫び続ける「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」「ねばならぬ」の連続

躁うつ病の気も顕著に感じる、さうでなくんば、あれだけしっつこく言語矛盾、論理矛盾、を「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の宣教のもと、自他に対して「ねばならぬ」といいつづけることはできまい

例えばほんの一部をちょっとだけ

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

「真の絶対者は悪魔的なるものにまで自己を否定するものでなければならない、そこに宗教的方便の意義がある。」p367

「世界戦争は、世界戦争を否定するための、永遠の平和のための、世界戦争でなければならない。」p370

「意志とは、我々の自己が世界の自己形成点として、世界を自己に表現することによって、世界の自己表現としては、歴史的世界形成の力を有ったものでなければならない。宗教家の「神の言葉」というものは、かかる立場から把握せられなければならない。」p372

「言葉が神と人間の媒介となるのである。神と人間との関係は、機械的でもない、目的的でもない、否、理性的でもない。神は絶対的自己同一的に、絶対的意志として、我々の自己に臨んで来るので有る、形成的言葉として自己自身を表現してのである。これが啓示で
ある。」p373

「絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現によるほかはない、言葉によるほかはない。」p374

*:・'°★。.:*:・'°☆。.:*:・'°★

さてこの後もp378〜からの長い引用をしたいし、戦争の大政翼賛的な種を宿し、それを声高に唱えた京都学派の弟子らが生まれたあたりのものも引用したいが、つかれたので。またとするが、まあ、躁鬱的な哲学に付き合うのも疲れますね。

この西田の弟子らの前で大拙が、突然目の前の机をガタガタとゆすって、禅とはこういうもんだ、といったと上田は何度も記している

このガタガタにおいて大拙は、そんな概念にして言葉の形骸の積み木なんぞ、このガタガタ一発で崩れてしまうぞ、と警告を発しているとおもっわれるが、西田の弟子らはいったいそれに気が付いたのであらうか?

気が付いていれば、ああいう、上田を含めて他化して平然としている概念遊びなんぞに惚けておらんでせうね

やれ涼し翔ぶも堕ちるも天馬空


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